• 締切済み

神とはなんでしょう?

『自然』や『生命』に『神』を思う人あれば 現象に『運命』や『意志』を感じ『神』を見る人あり 『ラブラスの魔』のごとき『神』を幻想する人もあり 『集合的無意識』の中に『神』を見いだす人もあり 『神』といってもいろいろあります 『神』とはなんでしょう? 有神論の方は『神とは現象に対してどのような存在なのでしょう?』 無神論の方は『人間はなぜ神を幻想してしまうのでしょう?』 という質問として受け取ってください

みんなの回答

noname#132489
noname#132489
回答No.4

神が先か人間が先か、ぶっちゃけわかりません。 進化論が正しいのか、神が創造したのかもわかりません。 進化したのであれば、進化する元の物質はなんでできたのか??疑問ばかりです・・・。 わからないが正しい気がします。

H240S18B73
質問者

補足

無神論側から読めば 不可知なものに対する畏怖にこそ 『神』という幻想の原因がある 有神論側から読めば 神は人に不可知な存在である だからこそ『神』なのである ってとこでしょうか 勝手に深読み失礼

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • hanazi
  • ベストアンサー率38% (164/424)
回答No.3

無神論者です。 人間がわからないことや奇跡を全て神のおかげにしたいから。 何かに頼りらないと人は生きていけないから。

H240S18B73
質問者

補足

わからないことをほったらかしにする怠惰を 正当化するための手段ならば別に 『神』でなくてプラズマでもいいかもしれません(笑) ここがプラズマのせい(笑)じゃなく 『神』のおかげにするのはなぜなのか? 何かに頼るといっても一体全体 実在もしないものになにを頼っているのか? ここが重要なとこだと思います ガンガン掘り下げていきましょう

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • dfksh
  • ベストアンサー率19% (64/323)
回答No.2

無神論 自分より優れている人がうらやましいから。

H240S18B73
質問者

補足

多分ニーチェですかね ちょっと『優秀な人がうらやましいから神を幻想する』 というのがいまいち結びつかないです 目に見えぬ存在によって現実社会では 相応の報いを得なかった者が相応の報いを得る という希望を持ちたくて神を幻想する というような意味ですか?

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • dexi
  • ベストアンサー率14% (318/2128)
回答No.1

どっちか言われれば無神論者かなぁ いろんな存在はあるとは思いますが「神」か?言われると そうかなぁ、と思うほうなので で、質問のこたえですが、 自分(人間)がすべての責任をとれない(とりたくない)から だと思います。

H240S18B73
質問者

補足

そうですね たとえば『自然』に『神』を見いだすのは 他の生き物を殺して食べることについて正当化ができないので 『自然』の『支配』によってそれを強制されている という自己欺瞞の為という部分が すくなからずあるのやもしれません 戦争をする際に神託をもとめたのも そういった自己欺瞞の為という部分があったのかもしれませんね

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • お馴染み神談義:《無い神》も 《有る神》と同じだ。

     神が神であるなら われわれ人間が神は有ると言っても神は無いと言っても神に変化はない。  変化する神なら それは AI としての神でしかない。  だから ひとは有神論か無神論か いづれか自分の好きなほうをえらんでおのれの神を持てばよい。

  •  《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  これを問います。ご教授ください。

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

  • 神について

    神について 専門家の方でもどなたでも構いませんのでご意見お願い致します。 有神論者か無神論者かを明記の上、そのような結論に至った理由や考えを詳しくお教え願います。また、何か参考文献等もありましたら教えて下さい。 ちなみに私は、今は無神論者になりかけています。 少し話はそれますが、うつ状態にありまして、色々な悩みや不安など、多くのことを考えていたら樹形図のようにして悩みが増えていき、ついには神の存在にまでたどり着いてしまいました。 とりあえず、何でも良いので神の存在について結論と考察をお願い致します。

  • ニーチェは死んだと 神は言った?

    神は死んだとニーチェは言いましたが 今でも神はキリスト教徒の中に息づいています 人間は神じゃないですが、人間は宇宙の一部です。人間の意識は宇宙の意識でもあるのです 人と人の間 人間の繋がりの中に宗教があり神が性質として在る以上 無神論者の考えが尊重されるように有神論者の考えも尊重すべきではないでしょうか? 宗教と一緒に道徳も荒れています 今こそ哲学は神とは何か、そして神を信じる人達を弁護しなければ 思想信条の自由がおびやかされているのではないでしょうか? 私は無宗教の家に育ち、無神論者でしたが、今 神に興味があります。 人間の意識に神がいるのなら この宇宙に神はいるではないですか? 世界では1万という宗教が有り、それに近い神がいますが(多神教もあります) 仏というのも神と似ています。この宇宙の真理を会得したら 神の子 では?ないですか? この宇宙を変えることが出来るのですから。何かを創造することができるのですから。 どうでしょうか? 神をどう思いますか? 神ってどの様な存在でしょうか?

  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • 無神論者の死に際の名言ってありますか?

    ここでの名言は、「別に死ぬことは恐くない」という種類のモノです。 実際、死に際の名言は数多くありますが、それを残したのは往々にして有神論者の方々です。(ソクラテスなど・・・) 結局は「神が居るから~」という結論に帰結します。 無神論者で(あるいは無神論的に)そのような名言を残した方は居ますか?

  • 有神論者・無神論者

    ラマチャンドラン氏の著書によると、ある部位を刺激すると、神秘体験をするとのことです。 脳卒中により関係部位を損傷した場合にも同様な事が起きるようで、無神論者/有神論者の統計を取ると、有神論者が圧倒的に多いようです。 ここで、『神』という概念は、西欧においては宗教として生活に密着しており、ユングのいう所の深層意識の『元型』となっているように思います。 そこで、「八百万の神」、「困った時の神頼み」的思考の日本人は、どの様に感じるのでしょうか?

  • 聖書の示す神とその信仰は 無条件に成り立つもの

     ・・・でなくてはならない。ということを キリスト・イエスが指し示した。  そこから 《神および信仰ならびに〔信仰の成れの果てたる〕宗教にかんする一般理論》が成った。  世界における神とその信仰は 神の名が違うだけであって みな同じひとつの神であるということ そしてその神とわれとの関係たる信仰も基本としては 同じかたちである。こう成ります。  《すべての神》という言い方もヘンですが そのあらゆる《神は 無根拠であり 信仰は無根拠にて成り立つ》という意味にもなると考えますが その理由を地図のごとき説明にて示します。   ○ (神とは《非知》のことである) ~~~~~~~   経験事象      可知       既知       未知      不可知(知り得ないと人間が知り得た)   非経験の場(因果関係を超えていると想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)  ○ (非経験の場=非知 なる神を受け容れる《非思考の庭》)~~~   信じる:《非思考の庭》:ヒラメキ直観   ----------------------    考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教   感じる:《感性の原野》:知覚;直感  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)(*)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)(*)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   * 無神論と有神論:《非知》を――なぜなら 因果関係を超えているゆえ それが有るとも無いとも人間には規定できないので 好きにどちらかをえらべばよいから――《無い神》としてえらんだ結果の信仰が 無神論である。《有る神》として非知を受け取る有神論と それはまったく対等で同じ信仰である。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 真理は シンプルです。シンプル・イズ・ベスト。  このたたき台を 言わばコミュニティーに対して かさねて問います。

  • 18世紀以後の哲学者の思想の潮流について

    あまり、哲学の本など読んだことは無いのですが、興味があり少し研究してみたいと思っています。 一口に哲学者と言ってもいろんな切り口があり、また東洋西洋あって幅広いですが、私が 興味を持つのは神の存在を肯定するか否定するかの観点からです。 調べてみたところ、無神論ではニーチェ、サルトル、ハイデッガー、有神論では ヤスパース、キルケゴールなどが有名みたいです。 ニーチェは「神は死んだ」と書いたことで知られてますが、晩年発狂してしまいました。 別に神を否定した罰が当たったわけではないでしょうが。 私自身は神の存在を信じてますが、それは別として上記の人も含めて、哲学者(に近い思想家も含む)の範疇で、おおまかでけっこうですので、無神論者、有神論者の分類など教えていただきたいです。さらに、代表的な著作も紹介くださるとうれしいです。 両論を偏らず読んでみて、また考えたいと思います。よろしくお願いします。