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死ぬ自由

kigurumiの回答

  • kigurumi
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回答No.19

No.11です。 >この価値観と比較して、180度とまではいかなくとも限りなく反対に近い価値観を現在は共有しています。 集団により倫理は異なっており、貧困の家庭では子供を間引いていたし、年老いた両親を山に捨てていた地域もあり、それをやったからといって、集団から非難されることは無かった時代もあった。 今は日本は統一の「殺しはいけない」「自殺はいけない」になっていますが、これは近年の統一した教育の影響により、統一した価値観になっていると思います。 >現在メジャーな価値観だから「正」である。「正」であるから強要できるという訳ではないと思うんです。 確かに「生きる」ということが、ある人にとって「死ぬ」ことが辛いことと同じくらい「辛い」のなら、「駄目よ 死んでは 今は辛いがいつか生きていてよかったと思うことがあるはずだから」と何の保障も無いこの世界を、保障できるかのように言っても、「何の保障も無い」と知っているものからすれば、それは殺されるくらい辛いものだと思います。 その人は苦を終わらせたいのに、それすら許さないとさらに攻撃を加えられるのだから。 生きる自由はあっても死ぬ自由は個人にはないのか? よく聞くのが、「残されたもののことを思え」です。 「残されたものが苦しむから」 ひどいですよね。 他人の幸せのためにもっと苦しめって言っていることと同じですから。 もう背負えないのに、もっと背負えって背負わせて鞭で叩いているのですから。 これでは、何故死ぬべきではないかの理由になっていない。 >そこに躊躇や疑問を抱かないことに、なにか違和感を感じます。 その人が死なずにいき続けた結果、幸せになる可能性もある。 希望を抱いて、「きっと」と言っていることはわかります。 だが、幸せになるという保障は誰にもできない。 クイーンのフレディー・マーキュリーはエイズで亡くなったと思いますが、テレビで「彼は死んだことで幸福にやっとなれた」と誰かが言っていたのを思い出しました。 ある作家は奥さんが亡くなっなって、しばらくして自殺しましたが、誰もそれを責めていなかった。 「彼は一生分を全部生きた」と言った人がいたし、残された知り合いはただ、彼の自殺をそのまま受け止めたので、非難する対象にならず、その生き様を受け止めたのだと思います。 自殺した人を責めない。 だが、自殺しようとする人は責める。 何故なのでしょうね。 >宗教や法律ではない何かでその説明を受けて理解したいと思いました。それが倫理と哲学だった訳です。 私は死にたいという人に対して「そんなこと言わないで」と社交辞令のようなことを言うしかない自分を恥じています。 「死にたい 死にたい 苦しい」と言う人に対し、何もできません。 何もできないのに、「そんなこと言わないで」と言ってしまう。 なんてひどい人間だろうと思います。 「そんなこと言わないで」と言うのは、世間的なモラルから来ていると思います。 「死んでいいよ」とその人が死ぬことに権利を与える立場ではない。 そして「死ぬな」とその人の死のうとする意思を否定する権利も無い。 もちろん、目の前で飛び込みをしようとしたら、必死に止めるでしょう。 「この人は死ぬほど辛いのだから死なせて挙げたほうが幸せになる」と思って見てみぬふりは恐らくできないでしょう。 本能みたいなもので、必死に止めるでしょう。 入水していたら、自信がなかったら、誰か救出する人を呼ぶでしょう。 どうして赤の他人を助けようとするのか。 わかりません。 が、もしかしたら、その人の生死と自分の生死が同一になったかのような現象が私の身に起こるからなのかもしれない。 その赤他の他人と私が同一と錯覚したとき、私が生き続けたいと思っている状態なら、その人の意思は私から消え、私のみになり、私が私を助けるため、その人を救出しようとするのではないか、、、と思います。 違うでしょうか。 そして、私が死にたいと思っていたら、他人が死ぬことをとめないのではないか、、、と思います。 だから、私は今生き続けることを選んで生きているので、「死にたい 死なせて」と苦しみもがく人に「そんなこと言わないで」と言ってしまうのではないか、、、、と思うのです。 日本人の女性がアメリカで、自殺しようとして我が子をまず手にかけ、その後自殺を図りましたが、死に切れず殺人の罪に問われました。 日本には心中というものがありますが、場所はアメリカですので、この心中がアメリカの異文化社会にはわからない。 それで、子供殺しをして自分も死のうとした残酷な母として非難されました。 弁護士は、アメリカの司法に心中の概念を説明するのに苦労しました。 我が子を残して自分だけ死ぬと、残された我が子は死んだほうがマシな世界に取り残されて不憫でならない。 それで、子供を助けるために一緒に死のうとした。 子供と自分を同一してしまったため、子供を殺すことになった。 子供が憎くて殺したのではなく、苦しみから逃れるため自分を殺そうとした結果、自分と同一視した自分の子供も自分なので殺したのだ、と説明するのが難しかったそうです。 >そこに躊躇や疑問を抱かないことに、なにか違和感を感じます。 >宗教や法律ではない何かでその説明を受けて理解したいと思いました。 >それが倫理と哲学だった訳です。 上の私の考察は倫理や哲学とは違うものだと思います。 倫理もモラルも届かない何かに共鳴したとき、他者の世間では非難される行為を理解というものができるような気がします。

noname#32404
質問者

お礼

kigurumiさんの回答を読むと頭の中の整理が少し進みます。 この質問は、そのコミュニティーで受け入れられる思想かどうかという事に帰結するんでしょうか。例えば、現在否定されているような死を受け入れていたコミュニティーで、残された人々に苦しみが無かったとは想像しにくいです。そのコミュニティーで受け入れているので、死ぬ人が負うはずの「残された人々を苦しめる責任」が問われず、逆に回りの人々が苦しみや悲しみを受け入れる責任を負わされた。結局、そのコミュニティーで受け入れられるか受け入れられないかという事なのかもしれないと思えてきました。 >上の私の考察は倫理や哲学とは違うものだと思います。 私にもそれがなんとなく判ってきました。回答ありがとうございました。

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