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死ぬ自由

生きたいと思っている人を殺したら法律的にも倫理的にも許されないのは解ります。でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、死なせない事は許されるんですか? 法律は人口減少による税額減少など国の都合も反映していると思うので問いません。現憲法では生きる権利は保障されているのに、死ぬ権利が保障されていないことも知っています。また宗教的な説明も必要ありません。日本には宗教選択の自由がありますし、各宗教の教理に興味はありません。 倫理哲学的に納得したいので、誰か教えてください。ちなみに自殺願望などありません。

noname#32404
noname#32404

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
noname#26926
noname#26926
回答No.20

倫理的に見るか、哲学的に見るか、教育学的に見るか、宗教的に見るか。いろんな見方によって、結論や表現が変わってくるだろう。 しかし、質問者様は、今さら言わなくても、それぞれの結論は理解してらっしゃるように見える。 だから、あえて感情論を言う。 ちょっと話しづらいので、あくまで仮の話と思って聞いてもらいたい。 数年前、恋人が交通事故で体の自由がなくなりました。 脳に障害が出たため、意思を伝達することもできない。 でも、生きている。 医者は脳がまったく働いてないというけれども、楽しい話をすれば笑うような表情をするし、悔しい話をすれば涙も流す。 意思を伝えられないだけで、どこか分かってるとしか見えなかった。 まあ、身内だからそう見えるといわれてしまえば何もいえない。 医者は臓器移植の話ばかりするし。(こういう状態の人間をどうこうするよりもその臓器を誰かに入れた方が名前が売れるし、医者としての醍醐味にもなるんだと他の医者から聞いた。) それでも家族と自分は絶対に臓器移植なんかさせないと頑張った。 もちろん、もしかすれば本人は死を望んでるんじゃないかと毎日考えた。 ━━頑張らせるのはむごいことじゃないか? 院内感染でなくなるまでの長い月日、毎日考えた。 ━━生きていてほしいと思うのがエゴなのか? ━━でも、あの時、一度は完全に止まっていた心臓を動かして生き返ったんだ。どうしてだ?本人が生きたかったからじゃないのか? ━━一瞬の判断だっただろうけれど、死ぬだろうギリギリの場面で生きることを選択したんじゃないのか? ━━だから、頑張ろう、生きよう。 ━━でも、もう疲れたろう…長すぎるもんな。 ━━でも、治る人もいるんだ。治るんだよ。頑張ろう… 毎日毎日葛藤。 でもね、 意識がないって言われても実際笑うんだ。楽しい時もあるんだ。 だから、最後まで、治ると信じてみんなで頑張ったんだ。 感情論にしかならないけど、 人間は、生きようとする生き物だと信じてる。 何か、身体的環境的に死にたくなるとしてもそれは思考をはさんでの話。 本能は生きる方向にしか向いてない。 死なせないことを許す許さないではなく、 生きるということがもう前提として人間の細胞の中に入ってる。 生死の境にいる人が家族なら救おうと思うだろう。 恋人なら、やはり救いたい。 赤の他人、病院だからまったく知らない赤の他人の、同じような症状の人もみるが、どうしたって救われてほしかった。 多分、病気でもなんでもない人が死のうとしていても。 根っこは同じ。 たとえば死にたい原因が解決できたら? 例えば、借金で死のうとする人にいきなり宝くじが当たったら? 例えば、尊厳死を選ぼうとする人に、ある日治療法が見つかったら?一発で治る薬が発明されたら?苦しみも死の恐怖もなくなると保障されたら? 例えば、いじめにあって死にたい子供が何かのきっかけでクラスの英雄になったら?転校でいいやつばかりの環境があると知ったら? そんなふうに死にたい原因を解消する方法さえあれば、やはりいきたいと思うだろう? 死以外で救われるなら救われたいんだ。 死に向かおうとする人に関わった人は、たとえ救う方法を持っていなくてもなんとか一緒にその方法を探したいって思うだけなんだよ。 それが他人であっても身内であっても同じだ。 それの善悪は分からない。 世の中には確かに死よりも悪いことがあるから。 でも、やり直してうまくいくこともある。(死んだらあとはもうやり直しはないからね。) それだけでも、生きてみる価値がある場合もある。 権利なんて言われたら、もしかしたら自分もあの時本人の権利を奪ったのかもしれない。 でも、死が本当に望みだったのか、分からない。 言葉を発することができない状態だったからということじゃない。 今まさに自殺しようとしている人でさえ、本当に死が望みかは本人にだって分からないときがあるんじゃないか? 死ぬ権利は生きる権利とはまるで次元が違う。対ではない。 人の考えはいつまでも同じじゃないからだ。 昔はそう考えていたが、今は違うことってたくさんある。 死だってそうだ。 死にたい時があったとしても、それがいつか変わるかもしれない。 時間ってものは環境も変え、人間そのものをも少しずつ変えていく。 死の権利を認めるのはいい。 けれども、それによって、変わったかもしれない未来の自分の考え、体、行動、全部奪うのと同義にならないか? 質問とずれてるように見えると思うけれども、行間を読んでもらえれば質問者様には伝わると思います。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 大切な話を教えていただきizurrさんにはとても感謝しています。例え論理や倫理的に正しい事でも、人には受け入れられない事があると改めて考えさせられました。この質問はもう少し続けますが、締め切るときに再びお礼をさせて頂きます。ありがとうございました。

その他の回答 (26)

回答No.27

ANo.24です。 ANo.24で申し上げた「生命そのものをつくり出すまでの自由」と言う問題は、他の回答者様方の仰っているように「自由」の問題である事は間違いありません。 一方で、人間は「社会的動物である。」と言う定義もあるようです。昔からそれぞれの社会に、それぞれの規範があったと思いますし今もあります。「大多数の人が決める」という民主主義です。これの対極にあるのが、「でも私は・・・」、と言う個人としての尊厳だと思います。社会はそれを規制できるのでしょうか? 凍結受精卵を他の女性に着床させて出産させ、自分の子供として育てる事の出来る社会もあれば、出来ない社会もあります。認めない社会に住んでいる人は、認める社会に言ってでも実行します。このようになってしまうのは、恐らく科学技術が先行しすぎた歪と捕らえる事も出来ると思いますが、「自由」を選べることも出来るということになりませんか?禁止も許可も社会規範の範ちゅうだと思います。 これに従わない少数派は無視されては、「人間としての尊厳」が分からなくなってしまいます。 「死ぬ自由」はギリシャの哲学者の言うように「最終的自由」かも知れません。それなら「生命そのものをつくり出すまでの自由」はどのように考えたらよいのでしょうか。 個人的には、いずれもあまり賛成できかねますが・・・

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 1000827313さんが提起しているように、人間はどこまで自由なんでしょう。自由の境界線はどこなんだろう? とりあえずこの質問は締め切ることにします。本当は1000827313を始め、私に考えるヒントをくれたすべての人にポイントをあげたいんですが出来ないようです。 この質問をした時私は、倫理学に詳しい人や哲学に詳しい人が「倫理的には・・です」とか「ニーチェは・・と言っています」みたいに回答してくれて、すぐに終わると思ってました。でも、質問してみると私が思っていたより多くの回答があり少し、と言うよりかかなり戸惑いました。それに「もし、自殺志願者がこの質問と回答を悲観的に見たら・・」と考えたら怖くなりました。 しかし、izurrさんに回答をもらって、たとえ悲観的にこの質問を見た人でもizurrさんの回答から何か感じる事が出来るはずだと思いました。少なくとも再考はするはずだと思いました。 この質問を締め切るにあたって、izurrさんには改めてお礼を言います。本当にありがとうございました。 他の方々もそれぞれ違った視点からこの質問に回答してくれて、いろいろ考えることができました。ありがとうございました。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.26

No.22です。 >哲学の説明も納得できるものが多いです。できれば結論に至るプロセスをもう少し噛み砕いていただけないでしょうか。4つの定義から結論は結びつくんですが、少し弱いです。特に4つ目が難しいです。 4つの「定義」と書いてありますが、別に定義したわけでもありません。ただ単に言いたいことを書き並べただけのようなものです。 難解とおっしゃる 「・許可や禁止といったものをとっぱらって考えるのが哲学でもある。」 について説明します。 割と簡単です。この背景には、自由とは何か、という問題があります。 よく、「周りに口出しなどで干渉されないで、自由にやりたい」などと考える人がいますが、周りの干渉がないことが自由である、という考え方から、出発しています。 人間同士では干渉があるようですが、世界と人間との関係に立ち入ってみると、そこには一切の干渉がないということに気付きます。 「~してはいけない」とも言わないし「~してよい」とも言わない。禁止も許可もされていないこと、これこそが自由なのです。 多くの人は「禁止も強制もされない」と考えますが、「禁止も許可もされない」というのが論理学的に的確であると思います。 世界は人間を自由なまま放置します。サルトルが言う通り「人間は自由の刑に処せられている」と言えます。 善悪であるとか、是非であるとかは人間の判断であり、その人間の不自然な干渉によって社会は成り立っていると言えます。 しかし、哲学は社会学ではありません。許可も禁止もない自由な自然状態が根底にあり、その上に許可や禁止、善悪の判断があるという社会のある種幻想的な地平が存在しているのですが、哲学は社会という一部分だけを見て納得してはいられません。 >これらが説明されている哲学入門書を教えて頂けないでしょうか。 私の説なので、入門書というのは難しいですね。 哲学史を概観してもらえれば、大体のことがわかると思います。 例えばソクラテスやプラトン、アリストテレスの時代から、よく生きるということは大事にされてきました。 しかし、その流れをニーチェが「善悪の彼岸」という言葉で断ち切り、ウィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と黙殺するようになった19世紀末から20世紀の哲学を見るといいと思います。 人は観察された事実よりも、それを説明する空想の仮説(神話にしても科学的説明にしても)の方を重んじるところがある、という趣旨のことをコントが書いていますが、善悪やら法の正しさやらは、あくまでも空想の仮説にすぎないという面があるのです。こういうことを書くと、倫理や法を信奉している人に非難されるかもしれませんが。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「人間は自由の刑に処せられている」とはすごい言葉ですね。とりあえず哲学入門書を探してみますが、いつかはサルトルを読んで何か感じてみたいです。 >しかし、哲学は社会学ではありません。許可も禁止もない自由な自然状態が根底にあり、その上に許可や禁止、善悪の判断があるという社会のある種幻想的な地平が存在しているのですが、哲学は社会という一部分だけを見て納得してはいられません。 本当は理解できてないかもしれませんが、この文は分かりました。かつて物理学者たちが重力に縛られながら宇宙物理学を発展させたように、哲学は社会の幻想の地平に縛られず自由に考えるものだという事じゃないでしょうか。 とりあえずこの質問は締め切りますが、納得できたというより入り口を見つけたといった感じです。丁寧な解説ありがとうございました。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.25

>この質問は、そのコミュニティーで受け入れられる思想かどうかという事に帰結するんでしょうか。 結局、そういうことでしょうね。 自然淘汰というものがあります。 生を欲するものと、生を欲しないもの。 当然 生を欲しないものは、時が来る前に消滅しやすいので、子孫を数多く残せません。 生を欲するものが5人子供を産み、親の特徴を受け継ぎやすいので、生を欲する子3人、生を欲しない子2人が出来たとします。 かたや、生を欲しない人も5人子供がいたとして、2人が生を欲する子、3人が生を欲しない子ができたとします。 何代か後に、生を欲するものと、生を欲しない者は どれだけの数 違いが出てくるでしょう。 生を欲しない人は早めに死にやいので、子孫も多く残せない。 なおさら 数に違いが出てきます。 現在の人間社会は、生を欲する人々が支配する社会。 じゃなきゃ とうに死を望む人だらけで、人類は地球上から消えていると思うので。 生を望む人が圧倒的に多い社会で、メジャーであるこの人たちの意見により現在の社会のこうあるべきが決定している。 自由ってなんでしょう。 http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%BC%AB%CD%B3&kind=jn&mode=0&base=1&row=1 【他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。 (ア)哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。】 生きる自由はあるのに、死ぬ自由は奪ってもかわまない? 人口が減るから? 社会が不穏になるから? そのために死ぬ自由は他が奪い生を強要してもかまわない? 不自由な社会で、これじゃあ 生きづらいし死にずらい。 他の強要、支配により成り立っている生。 もちろん生きるためには他から我慢を強いられる。 でも、そのために生きたいという欲望が満たされるのなら、その強制はそれほど苦じゃない。 そして自分の意志にもとづき、その強制を受け入れているわけで、自由による選択です。 ところが、死ぬことを我慢することは強いられる。 社会のため 家族のため 誰かのために生きなければならない。 自分の内なる自由は他人のため抹殺されている。 他人のために自分が存在することを強制されてしまう。 自分の意思による決定ではなく、他人の意思の決定で自分の存在が決まるなんて。 自分の人生じゃないじゃないか。 人生を他者に奪われた。 もう ここで既にその人の生は無い。 さんざん生を奪っておきながら、何故死んだだ? お前らがその人が自殺する前に既に殺しているのに、なに他人がやったかのように言う。 って思うんですね。 もちろん、家族のために今死ぬわけにはいかない というのは自分の意思ですから、家族に生を強いられているわけでもなんでもない。 問題なのは、死のうというその人のうちから発する自由意志を許さないことです。 自由に生きていいし、自由に死んでもいい社会なら、どんなに生き易いし、死にやすいでしょうね。 苦は自分の内なるものに逆らった時 生じると思います。 生きたいと内なるものが求めるにも関わらず死ぬことは苦であると同じように、内なるものが消滅を望んでいるのに、それを社会が許さず、その人に逆を強要してしまうと苦が生じる。 生に執着していてサインを出している人は「死にたい」と他人にもらす。 でも、執着していない人は、本当は生きたけどそれが難しいからどうにか助けてとサインを出さず、黙って死にます。 社会は自殺する人が全部前者だと思ってしまうんですね。 もちろん圧倒的に前者が多いでしょう。 でも、何の理由も無く死ぬ人もいる。 満足な人生で、ここで凍結したいと望む人もいる。 社会はそれを許さず、その人が望まないことを強要するんですね。 社会が自殺を否定する理由はわかります。 社会のため。  でも、集合体の維持のために個人の死ぬ自由が奪われていいと本当に言えるのか。 本当は自由・平等でもなんでもない社会。 まるで北朝鮮みたいです。 いいじゃないですか、圧倒的に死を望まない人で構成されている社会なので、死を望む人がそのうちなる自由に添っても。 生きることが自由なら、死ぬことも自由であるべきはず。 でも、現実は許さない。 マイノリティーの存在は、存在しているのに存在しないと否定される。 存在を無視されている。 それに気づいている人たちがこんな歪んだ社会に絶望する。 これじゃ 自由意思により死を望む人以外にも、死にたくも無い人までこんな社会に絶望して死ぬわけです。 自由を他人の幸福のため奪われ、人生を奪われ、生を奪われる社会。 先進国であるのに自殺者が増えるわけです。

noname#32404
質問者

お礼

この回答に限らず、kigurumiさんの回答からは考えるヒントもらいました。驚くほど博識で敬服します。まだkigurumiさんの回答のすべてを消化出来てませんが、どれも参考になりました。 ありがとうございました。

回答No.24

見方を変えて、「自由」と言う問題として捉えてみると、又違った見方が出来まるような気がします。 「生命そのものをつくり出すまでの自由」は“無制限に”存在するのでしょうか。この中には人工妊娠中絶(十二週以前でも以後でも。)も含みます。そうすると、何か見えてくるような気がします。 決してジェンダーの問題にすり替えようと思ってはいません。個人はどのように考え、行動するか、そこに存在する“自由”とはと考えて見たいのです

  • kobarero
  • ベストアンサー率29% (106/361)
回答No.23

物質文明を維持するためには精神の最も深いレベルでの自由を封殺する必要があるからだと思います。

  • nabayosh
  • ベストアンサー率23% (256/1092)
回答No.22

倫理とは何か、という問題から入ります。 倫理とは「人がよく生きるためにはどうしたらよいか」ということです。 そして、それゆえご質問のような歪みが生じます。 「よく生きるためには、死んでしまったら生きられないのだから、とにかく生きることが大事であり、死ぬわけにはいかない」 これが倫理の主流の考え方だと思います。 だから「死にたい人を死なせない」ことが望ましいとされます。 しかし、実際に自殺する人は、それとは違う発想をします。 「よく生きることができないなら、死んだ方がましだ」 倫理が「生きる」ことに固執するのに対し、自殺者は「よく」に固執しているのです。 倫理学的なカラクリは、ざっとこんなところです。 哲学的にはどうかというと、諸説ありますが、私家版の説を唱えるならば(もちろん他の哲学者も言っているだろうことです)、 ・「生きる」と「死ぬ」を対比すべきではない。 ・「死」という最終地点に向かうことが「生きる」ことであり、また「死ぬ」ことでもある。それゆえ、「生きる」ことと「死ぬ」ことは観点が異なるだけで同じことを指している。 ・禁じるということは実際有効性を持たない。自殺を禁じたとしても自殺は相変わらず可能である。可能であること自体を変えることができない。 ・許可や禁止といったものをとっぱらって考えるのが哲学でもある。 ・結論:許すも許さないもない。 こういう意見になると思います。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。私が当初、期待していた回答です。おっしゃる通りこの質問は哲学ではないかもしれません。 倫理と自殺者のポジションの違い良くわかりました。倫理の出発点がそういう事だと分かると整理出来そうです。 哲学の説明も納得できるものが多いです。できれば結論に至るプロセスをもう少し噛み砕いていただけないでしょうか。4つの定義から結論は結びつくんですが、少し弱いです。特に4つ目が難しいです。 もしくはこれらが説明されている哲学入門書を教えて頂けないでしょうか。

回答No.21

>でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、死なせない事は許されるんですか? 死なせる事を許している国はあります。 オランダの安楽死法、アメリカのある州などです。勿論法的には調査され、正しく行われていれば訴追されません。筋萎縮性側索硬化症(ALS)で瞬きセンサーでもコミュニケーションが取れなくなり、呼吸筋の麻痺も進行してきたとき「俺の誕生日にやってくれ」との希望は受け入れられます。このことは個人としての尊厳が、多数の人の決め事に優先されると言う、最高の「尊厳死」ではないかと個人的には思っています。 日本では尊厳死協会は安楽死ではなく、尊厳死を求めています。寿命が尽きるまで、“疼痛”の管理を要求しますが、植物状態に三ヶ月以上なったら、尊厳死を求めています。もし植物状態で意識があればどのように考えたら良いのでしょう。個人的にはNo.20の方の仰るのは尤もだと思います。 「諸法無我」、「どのような生命にも意味がある」とのことは、私は個人的によく理解できますし、そのように思いますし、そのようにあって欲しいと思います。しかし一方では、オランダのように自分の「人間としての尊厳」を最大限守るための「自死」も認めても良いような気がします。 桜の季節になりましたが、桜の花のように“潔く美しく散る”のを愛でる文化的背景がわが国にはあります。このような風土の中で“個人主義的基盤”は未だ成熟していないなどと言うのはオコガマシイのでしょうか?

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >死なせる事を許している国はあります。 そうなんですね。オーストラリアにも安楽死に関する法律があると聞いた事があります。 >桜の季節になりましたが、桜の花のように“潔く美しく散る”のを愛でる文化的背景がわが国にはあります。このような風土の中で“個人主義的基盤”は未だ成熟していないなどと言うのはオコガマシイのでしょうか? 成熟しているかしていないか、この質問が個人主義かどうかすら私には判りません。でも例え成熟したからといって考える事を止めることは出来ないと思います。「自殺はNO」「生きる事はYES」と、問いと答えの間にほんの小さな疑問の余地さえ残しておかない事は、それを安直に結び付けられない人々を苦しめます。 日本は欧米を後追いすることを熱心にやってきましたが、失敗が少ないという利点の裏に、文化的背景を反映しにくいという決定的な欠点があります。1000827313さんも言われている通り、日本には日本なりの価値観があるので、単に欧米の安楽死制度を真似る事は避けるべきだと思います。

  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.19

No.11です。 >この価値観と比較して、180度とまではいかなくとも限りなく反対に近い価値観を現在は共有しています。 集団により倫理は異なっており、貧困の家庭では子供を間引いていたし、年老いた両親を山に捨てていた地域もあり、それをやったからといって、集団から非難されることは無かった時代もあった。 今は日本は統一の「殺しはいけない」「自殺はいけない」になっていますが、これは近年の統一した教育の影響により、統一した価値観になっていると思います。 >現在メジャーな価値観だから「正」である。「正」であるから強要できるという訳ではないと思うんです。 確かに「生きる」ということが、ある人にとって「死ぬ」ことが辛いことと同じくらい「辛い」のなら、「駄目よ 死んでは 今は辛いがいつか生きていてよかったと思うことがあるはずだから」と何の保障も無いこの世界を、保障できるかのように言っても、「何の保障も無い」と知っているものからすれば、それは殺されるくらい辛いものだと思います。 その人は苦を終わらせたいのに、それすら許さないとさらに攻撃を加えられるのだから。 生きる自由はあっても死ぬ自由は個人にはないのか? よく聞くのが、「残されたもののことを思え」です。 「残されたものが苦しむから」 ひどいですよね。 他人の幸せのためにもっと苦しめって言っていることと同じですから。 もう背負えないのに、もっと背負えって背負わせて鞭で叩いているのですから。 これでは、何故死ぬべきではないかの理由になっていない。 >そこに躊躇や疑問を抱かないことに、なにか違和感を感じます。 その人が死なずにいき続けた結果、幸せになる可能性もある。 希望を抱いて、「きっと」と言っていることはわかります。 だが、幸せになるという保障は誰にもできない。 クイーンのフレディー・マーキュリーはエイズで亡くなったと思いますが、テレビで「彼は死んだことで幸福にやっとなれた」と誰かが言っていたのを思い出しました。 ある作家は奥さんが亡くなっなって、しばらくして自殺しましたが、誰もそれを責めていなかった。 「彼は一生分を全部生きた」と言った人がいたし、残された知り合いはただ、彼の自殺をそのまま受け止めたので、非難する対象にならず、その生き様を受け止めたのだと思います。 自殺した人を責めない。 だが、自殺しようとする人は責める。 何故なのでしょうね。 >宗教や法律ではない何かでその説明を受けて理解したいと思いました。それが倫理と哲学だった訳です。 私は死にたいという人に対して「そんなこと言わないで」と社交辞令のようなことを言うしかない自分を恥じています。 「死にたい 死にたい 苦しい」と言う人に対し、何もできません。 何もできないのに、「そんなこと言わないで」と言ってしまう。 なんてひどい人間だろうと思います。 「そんなこと言わないで」と言うのは、世間的なモラルから来ていると思います。 「死んでいいよ」とその人が死ぬことに権利を与える立場ではない。 そして「死ぬな」とその人の死のうとする意思を否定する権利も無い。 もちろん、目の前で飛び込みをしようとしたら、必死に止めるでしょう。 「この人は死ぬほど辛いのだから死なせて挙げたほうが幸せになる」と思って見てみぬふりは恐らくできないでしょう。 本能みたいなもので、必死に止めるでしょう。 入水していたら、自信がなかったら、誰か救出する人を呼ぶでしょう。 どうして赤の他人を助けようとするのか。 わかりません。 が、もしかしたら、その人の生死と自分の生死が同一になったかのような現象が私の身に起こるからなのかもしれない。 その赤他の他人と私が同一と錯覚したとき、私が生き続けたいと思っている状態なら、その人の意思は私から消え、私のみになり、私が私を助けるため、その人を救出しようとするのではないか、、、と思います。 違うでしょうか。 そして、私が死にたいと思っていたら、他人が死ぬことをとめないのではないか、、、と思います。 だから、私は今生き続けることを選んで生きているので、「死にたい 死なせて」と苦しみもがく人に「そんなこと言わないで」と言ってしまうのではないか、、、、と思うのです。 日本人の女性がアメリカで、自殺しようとして我が子をまず手にかけ、その後自殺を図りましたが、死に切れず殺人の罪に問われました。 日本には心中というものがありますが、場所はアメリカですので、この心中がアメリカの異文化社会にはわからない。 それで、子供殺しをして自分も死のうとした残酷な母として非難されました。 弁護士は、アメリカの司法に心中の概念を説明するのに苦労しました。 我が子を残して自分だけ死ぬと、残された我が子は死んだほうがマシな世界に取り残されて不憫でならない。 それで、子供を助けるために一緒に死のうとした。 子供と自分を同一してしまったため、子供を殺すことになった。 子供が憎くて殺したのではなく、苦しみから逃れるため自分を殺そうとした結果、自分と同一視した自分の子供も自分なので殺したのだ、と説明するのが難しかったそうです。 >そこに躊躇や疑問を抱かないことに、なにか違和感を感じます。 >宗教や法律ではない何かでその説明を受けて理解したいと思いました。 >それが倫理と哲学だった訳です。 上の私の考察は倫理や哲学とは違うものだと思います。 倫理もモラルも届かない何かに共鳴したとき、他者の世間では非難される行為を理解というものができるような気がします。

noname#32404
質問者

お礼

kigurumiさんの回答を読むと頭の中の整理が少し進みます。 この質問は、そのコミュニティーで受け入れられる思想かどうかという事に帰結するんでしょうか。例えば、現在否定されているような死を受け入れていたコミュニティーで、残された人々に苦しみが無かったとは想像しにくいです。そのコミュニティーで受け入れているので、死ぬ人が負うはずの「残された人々を苦しめる責任」が問われず、逆に回りの人々が苦しみや悲しみを受け入れる責任を負わされた。結局、そのコミュニティーで受け入れられるか受け入れられないかという事なのかもしれないと思えてきました。 >上の私の考察は倫理や哲学とは違うものだと思います。 私にもそれがなんとなく判ってきました。回答ありがとうございました。

noname#58904
noname#58904
回答No.18

え、哲学カテですねよ? 倫理上も哲学上も「死にたい人を死なせないことを禁じてはいない」ので許されます。 ちなみに、倫理上は「死にたい人を死なせることを禁じている」ことになっており、哲学上は「死にたい人を死なせることを禁じてはいない(許してもいない)」ことになっております。 「死にたい人を死なせないことは許せない」とするのは個人的な哲学というよりも思想信条ですね。

noname#32404
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >倫理上も哲学上も「死にたい人を死なせないことを禁じてはいない」ので許されます。 それを知りたくて質問しました。その結論へプロセスも知りたいので、そのことを解説している本をご存知でしたら教えてください。

回答No.17

No.10です。お返事ありがとうございます。 >「生きる」ということに関しては誰もが同じ価値観を持っている  (持つべき)と考えている人がいたとしたら、それには疑問を感じます。 沢山いると思います。死と生が等価値になるような体験がなければ 死の価値を考えることは少ないかもしれません。それはとても幸せな人生です。 私の考える『生きる』は『心臓が動いている』では有りません。 『生=有価値』『死=無価値』と画一的に決め付ける考え方には 賛同できません。 しかし、大切な人の目が、二度と覚めないと知りながら生命維持装置を はずせない方の気持ちも否定しません。私の価値を押し付けることは ohfortyさんの言葉をお借りすれば『傲慢』に当たるからです。 もし、家族が私の意思に反して延命行為を医師に依頼したとしても それを『許せない』とは思いません。その行為によって、心の痛みが 少しでも軽減されるのなら、私は私の死が彼らにやさしく伝わることを 望みます。 >でもなぜ、生きるのが辛くて死ぬことを選択した人(死にたい人)を、 死なせない事は許されるんですか? 大切な人と少しでも長く連れ添いたい気持ちを罰する権限は誰も持って いないからかも知れません。

noname#32404
質問者

お礼

>しかし、大切な人の目が、二度と覚めないと知りながら生命維持装置を >はずせない方の気持ちも否定しません。私の価値を押し付けることは >ohfortyさんの言葉をお借りすれば『傲慢』に当たるからです。 確かに傲慢かもしれません。No.2、No.7、No.13の方々も言われていますが、自由の裏側には責任があります。自分の意志で自由に死ぬという行為には、回りの人を悲しませる責任を伴います。それを考えると難しくなります。 生まれてくる赤ん坊には、生まれないという自由はありません。それなのに生まれた途端に生きる責任を負うというのは酷だと思います。誤解の無いように言っておきますがそれを否定するつもりは全くありません。

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    私は高校生の頃に倫理を勉強してからというもの、哲学や宗教に大変興味を持っています。現在24歳・男です。 たまにこちらで哲学的思考にとらわれてしまい、常に悩み苦しんでしまっている方の書き込みを目にします。 哲学を深めれば深めるほど、哲学無しには生きていけなくなってしまうのでしょうか? 私は哲学を"個の宗教的価値観"として捉えているので、他者に押し付けたりしませんし(押し付けた時点でその哲学は宗教へと変化してしまう)、他者の哲学をまるまる信じてしまうこともしません。 しかしやはりニュースなどを見ると、哲学的な観点で見ることが多いです。例えば、殺人事件のニュースを見たときに『加害者はどういう生き方を送り、どういった価値観を持って人を殺してしまったのだろうか』とか、『もし、この○○が××だったならばどうなっていただろうか』などなど、真剣に背景の推測をすることが多々あります。 倫理の資料集などで様々な宗教や哲学者について簡単に学んできましたし、それらが自分の生き方に大なり小なり影響を与えてくれたのも確かなので、哲学的思考は捨てたくありません。・・・もう癖になっているので捨てられるわけもないのですが・・・^^; もしかしたら私の"哲学"という言葉の使い方は間違っているかもしれませんが、哲学の専門家の方がいらっしゃいましたら回答していただけると助かります◎ よろしくお願いいたします。

  • 憲法について分からないことがあります。

    憲法について分からないことがあります。 日本在留の外国人に外国移住の権利は保障されていますか?? 法律家目指して勉強中ですが初っぱなからつまずいてしまいました。 参考文献には保障する派、しない派両方あったのですが…

  • 報道の自由

    報道の自由を法律で制限することは可能ですか。 日本国憲法にも、表現の自由があるだけで、 報道の自由などの言及はないと思います。 マスコミの職員は、国民の選挙で選ばれた 人ではないので、そのような人に権力を 持たせるのは、おかしいと思います。 (どうしても、権力を持ちたいならば 入社試験を選挙でやればいい) おそらく、最高裁の判例で、認められている のだと思いますが、最高裁の判例も おかしいものが多いです。 例えば、企業は、従業員を雇用するか しないかの自由がある(勤労の権利、義務 に違反します)などがあります。

  • 西洋哲学>東洋哲学(東アジア、中国など)ではない?

    私が思うのは、西洋哲学や宗教>東洋(東アジア、中国など)哲学や宗教という式を考えた人をしらなくて、欧米至上主義の人が実際勝手に式を作ったらダメかと思ってます。 東洋(東アジア、中国など)の関係性の社会では、関係を破たんさせる人は遠ざけたり、淘汰したりするかと思います。 まだぴんときたりするものかと思いますけど、こういう感覚は東洋哲学からのものかと思ってます。 個を最大にとか、コネってきたないっていいますけど、現在関係が希薄化していて、つながりなど言葉があったりもしますけど、西洋哲学、宗教>東洋哲学、宗教でもなくて、実際そうとは言えないよう思えます。 実践されないのは大きな人口などだからとかで、哲学宗教など考え出されたもの自体が西洋に負けているとか思えないのですけど、どうなのでしょうか?