• ベストアンサー

感覚の一致について

自分の感覚と、他人の感覚は、一致しないと思うのですが、それはどうやって説明するのでしょうか?それは、「内的な経験」っていうものにも関係があるのですか?実は、「内的な経験」もよく分からないです。未熟者ですみません。哲学には、詳しくないので、何か具体的な例をあげて教えていただけると嬉しいです。お願いします。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • FFMAN
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.6

前回自分の考えを述べたつもりなので、hamachihamaguriさんの私の考えを教えてくれという要望にそってるか今一つ自信がないですが、一応補足してみます。 前回述べた通り私は、自分の感覚と他人の感覚が一致するかしないかと判断する時に他人が感じている感覚そのものを知る必要があるならば、一致するとか一致しないとかという判断をすることはできないと思っています。 しかし、他人の感覚を知るという事が、他人の感覚そのものを知る事ではないという事ならば話は別だと思います。常識的には「このコーヒー甘いね」「富士山は綺麗だ」「太陽が沈んでいく」等の発言を他人がした時、他人の感覚を知ったといえますよね。それは、それぞれの発言に応じた感覚を他人がもっていることを基本的には疑わないからこそ可能なことだと思います。この見解にたてば、自分と他人の感覚を容易に比較することできますし、自分の感覚と他人の感覚は一致しない(ことがある)という結論は妥当だと考えます。 私だってそういう常識を持っているので、自分の感覚と他人の感覚は一致しない(ことがある)と思っています。ただ、デカルトがやったようにあえてその常識を疑うことはできます。それはこんな具合です。ある人が「このコーヒー甘いね」と言っているが、本当は苦いと感じているかもしれない、その人が嘘をいっていないという保証はどこにもないように思える。そもそも、すべての発言に嘘の可能性はあるのだから、他人の発言を聞いたからといって他人の感覚を知ったことにはならないのではないか、と。 このように、他人の感覚を知る証拠(発言や振る舞い等)が信頼できないかもしれないと疑いはじめると、他人の感覚を確実に知る事が不可能なことのように思えてきます。それを避けるためには間接的に知るのではなく、直接他人の感覚そのものを知れば良いように思えますが、それは不可能に見え、その結果たどりついたのは前回のような結論です。 上でだらだら述べていたことで結局何が言いたかったかというと、他人の感覚を知るということをどういうふうに考えるかによって答えが変わる可能性があるということです。それをどう考えるかというだけで論争になって当然のテーマだと思いますが、今回それが主要な疑問になっていないので、便宜的に他人の感覚を知るという事に懐疑的な立場で意見を述べてみました。 これで私の考えを言った事になればいいのですが... ところで、hamachihamaguriさんは大学の講義かなんかで哲学に触れたんでしょうか? 余談ですが私は人生の4分の1年程前に、大学で哲学専攻している、という域には達していない程度の学生でした。そういう人間のボンクラ哲学観ですから聞き流してもらって結構ですが、哲学好きな人が増えると嬉しいのでちょっと語っちゃいます。通常人の意見を尊重するというのは非常に大切な事だと思いますが、こと哲学に関してはそれよりもむしろ、相手の意見の弱いところを常に探すツッコミマシーンになるくらいの姿勢がちょうど良いと思います。相手が教授だろうがなんだろうがボケてんなと思ったら「ナニイッテンダカワカンネーヨ」「ンナ、ワケネーダロ」とツッコミをいれてあげれば、きっと顔を真っ赤にして喜んでもらえると思います(「サイキンノガクセイハオトナシクテツマンナイ」なんてのたまってる人多いから、悪意のない批判って結構受けがいいものです)。経験不足のうちはいくらツッコミいれても軽く返り討ちでしょうが、実力アップの最高の近道じゃないかと思いますし、やってて面白かったです(少なくとも私は)。ここで疑問をぶつけるのも悪くないとは思いますけど、やっぱり直に議論するのは面白いですよ、仲よくなるし。 とりあえず手始めに推定哲学六級のこの私をツッコミ倒して、是非六級の取得を狙って頂ければ幸いです。絶妙のツッコミをいれてもらえれば、私もボケ甲斐があるというものです。

hamachihamaguri
質問者

お礼

たびたびのお返事、恐縮です。私は、哲学には、大学で初めて触れました。しかも、福祉の専門学校に通いながら、通信教育の大学課程を卒業しようというタイプです。だから、いつもは、専門学校に通っていて、そこで、講義(?)を受けるので、ディスカッションというものがなく、先生が、一方通行的にしゃべっているだけなので、倫理を習っていない私には、異次元の世界のようです。でも、クラスには、日常生活の会話からして、哲学っぽいことを話す男子が1人いて、対話すると、ちんぷんかんぷんです。彼は、実力的なツッコミをいれるので、先生は、いつも、たじろいでいます。私も、まだ、哲学の時間があるので、微妙なツッコミを入れられるように頑張ります。また、このサイトに寄ったときは、よろしくお願いします。本当にありがとうございました。

その他の回答 (10)

  • jun1038
  • ベストアンサー率49% (138/278)
回答No.11

たびたびすみません。 自分と同じような考えのヒトがいないかなぁ と思って、いろいろ検索しました。 人によって色が違って見えるかも知れない。 http://www.geocities.com/law_shoumona/060.htm 人種によって色が多少でも違って見えるとすればちょっと驚きです。 物体に「本当の色」はないのでは。 http://homepage1.nifty.com/katte-genki/iro6.html この方は色覚異常がある方のようで、そのため一層説得力があります。 やっぱり昔、こんなことを考えた哲学者がいた。 http://www.linkclub.or.jp/~y-kodama/html%83t%83@%83C%83%8B/paper1.html ウィトゲンシュタインという超有名な哲学者だそうです。 やはり同じことを考えるヒトはいるものですね。 ウィトゲンシュタインは、ひょっとすると、hamachihamaguriさんの最初の質問 「自分の感覚と他人の感覚は一致しない」ということをいろいろ考えた人かもしれませんね。 私は哲学には本当に詳しくないので、恥ずかしながら初めて聞いた名前でしたが、哲学の先生は当然ご存じだと思います。彼の哲学を踏まえて質問したのかも。 いろいろ検索して調べて、先生に質問すると、良いツッコミになるのでは。 では。

hamachihamaguri
質問者

お礼

ホームページまでかきこんでいただけるとは・・・。ウィトゲンシュタインさんとは、初めて知りましたが、私の最初の質問をいろいろ考えた人かもしれないということで、覗いてみます。たびたびありがとうございました。

  • jun1038
  • ベストアンサー率49% (138/278)
回答No.10

どうも。管理者からはお叱りを受けそうですが、 現在のこの掲示板は自分にとってたいへんためになっているので しつこくてすみませんが再度投稿します。 周波数の問題ではなくて、色のイメージの問題です。 >ただどんな赤かというふうに感覚の深い部分に入るとひとそれぞれでしょう まさにその通りで、「赤いもの」を見て、「赤いね」「そうだね赤いね」と 一致しても、本当は「どんな赤か」というのはひとそれぞれでしょう。 ですから、極端な話、「自分にとっての赤い物」を、 他の人がどんな色に見ているかは分からないのです。 「深い赤」なのか「青っぽい赤」なのか、それとも実は「緑」なのか・・・ たとえ彼が、その色を私にとっての「緑」に見ていても、それは分かりません。 彼はその波長の光をきちんと区別できます。いわゆる「緑」と混同しません(彼は「緑」もまた別な色に見えているのです)。 そして彼は、その色を「赤」というように教わってきましたから、その色を 「赤」といいます。 「赤いね」「そうだね赤いね」両者の発言は絶望的に一致します。 繰り返しになりますが、この世の中の物体の色に、「本当の色」はありません。 私達はある波長の色を「赤」、別な波長の色をそれぞれ「緑」とか「黄」「青」 というふうに見なしています。 が、「赤い」物体は、別な生物から見たら「別な色」かも知れないのです。 繰り返しになりますが、紫外線しか出さない黒い物体の色は「本当は何色」ですか。 われわれ人間にとって黒でも、ある種の昆虫にとっては「きちんとした別な色」です。 物体に本当の色は無いのです。 わたしたちは、それを、その光の波長の違いを、 自分たちの目と脳で色のイメージとして区別しているのです。 では。

hamachihamaguri
質問者

お礼

「赤いね」「ようだね赤いね」両者の発言は、絶望的に一致します―――感覚は違っても、ちゃんと解釈できる。ってことですよね。多分。自分たちの目と脳で、色をイメージとして区別しているということは、精神と、脳のつながりもあるってことですかねぇ・・・。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.9

赤と緑について その2 ●赤を緑と感じているかもしれない。  ということは赤の周波数が脳のなかで緑にシフトしていると考えられます。  わかりやすく周波数の低い「音」を例として考えてみましょう。  Cの音(440hz)を聞いて脳のなかで441hzにトランスポーズ  しているとします。そこで倍音のC880hzを聞くと  脳の中では881hzにトランスポーズすることになります。  440と880は心地よい和声ですが 441と881は不協和音になります。  みんな心地よく聞いているということは  脳の中ではトランスポーズされていないということです。 ●このように 知覚情報が脳のなかで何らかの手がくわえられれば  それによる感覚のちがいも発生するわけです。  この設問は脳神経の研究者かバーチャルリアリティの研究者が  詳しいと思います。  哲学することの意味もあるとは思いますが・・・。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.8

赤と緑について ●感覚の集合の中の知覚としての赤と緑を考えてみましょう。  もし赤の波長を知覚できなければその人にとっては赤は黒です。  明度しか知覚できない人にとってはグレーです。  赤を緑と呼ぶのはその人の自由ですが  赤という波長は赤固有のものであって事実です。  したがって赤という知覚の感覚は赤の波長を認識できる人々の間では一致します。  ただどんな赤かというふうに感覚の深い部分に入るとひとそれぞれでしょう。  三角形も三つの頂点を線分で結んだ図形とするなら感覚は一致します。  目のレンズにゆがみがない限りにおいて・・・。  このように脳への入力情報という観点でみれば一致する感覚はあるものです。  もちろん一致しない感覚も多くあります。  個別に考察してみるのもおもしろいかもしれませんね。

  • jun1038
  • ベストアンサー率49% (138/278)
回答No.7

どうも。「赤」と「緑」(別に他の色でも構いませんが)についての私見を。 赤い三角形があったときに、 物が三角形に見えることと、物が赤く見えることは少し次元の違う話です。 三角形は、だいたいそんな形をしたものでしょう。 でも、「赤」はその物体の「本当の色」ではありません。 確かに我々の目(と脳)は、物体から出るさまざまな光の波長の違いを 色(色相)として区別しています。 でも、どうでしょうか。 それは我々がその波長の光を区別するのに、勝手に「色」というラベルを 貼り付けているということではありませんか。 白黒の世界しか見えないある種の動物に、 「本当の色」が見えなくてダメだなあ、と言えますか。 人間の「赤」を別な色に見ている生物がいたら、その生物に 「本当はこの色だぜ」という自信がありますか。 ある種の昆虫には、紫外線が見えます。 その昆虫が、赤でも、橙でも、黄でも、緑でも、青でも、藍でも、紫でも、 あるいはそれらの中間色でもない、 「人間には思いもつかないまったく違った色」に紫外線を感じているとすれば、 その色を体験したいなあとは思いませんか。 紫外線しか出さない物体があれば、その物体は我々にとっては「黒」ですが、 その昆虫にとってみれば「きちんとしたある色」です。 その物体の「本当の色」とは何ですか。 種としての違いがあるとすれば、 同じ種に属する個体間にも多少の(場合によっては大きな)違いがないと 言い切れますか。 では。

  • chihoko
  • ベストアンサー率13% (14/106)
回答No.5

●感覚が合う人もいれば合わないひともいますよね。なぜでしょう?  感覚とは脳の処理であることに着目しましょう。  情報が入ってくる既存の情報と比較してその入力を位置づけしている。  例:夕陽→比較→音楽が連想された  この比較の部分の比較する順番がミソではないでしょうか?  それ以外になにか思い当たりますか?  つまり比較する優先順位が似ている人とは感覚が合うということかな。  無意識で比較は行われてますからしかも超高速ですよね。  でも比較なしで甘いも辛いも感覚できないですよね。  最低でもあるなしの二段階比較はありますから。  このレベルなら感覚は一致するでしょう。あたりまえですよね。  あるなしの感覚は一致しますよね。  複雑な感覚はやっぱり比較の順位のちがいですね。たぶん。  尚赤が緑に見えるという感覚の違いはありません。  色は波長であるので 波長が脳のなかで変わるということはないからです。  もし変わるのなら病気です。医学で証明可能な範囲です。  (色盲は認識できるスペクトルが狭い病気です。)

hamachihamaguri
質問者

お礼

あるなしの比較で考えると、理解しやすかったです。最低レベルで、お話していただけるなんて思ってもいませんでした。ちなみに、赤が緑に見えるという感覚の違いはあるのだと思っていました。医学で証明されるなら、確実ですね。間違った解釈をするところでした。ありがとうございました。

  • cotiku
  • ベストアンサー率17% (38/216)
回答No.4

坊主にくけりゃ袈裟まで憎い。 袈裟に責任はないけど、坊主に恨みがある人にとっては不快、良い経験のある人にとっては懐かしかったりありがたかったりします。 音楽が流れていて、うるさいと思うときと、リズムに乗りたいときがある。この感覚は人により、また、そのときの状態によって違う。 その曲によって、特に印象的な経験のある人には違った価値を加えて聞いている。

hamachihamaguri
質問者

お礼

分かりやすいです。「内的な経験」についても分かりました。こんなすぐの回答、ありがとうございます。普通に考えればよいのですね。ありがとうございました。

  • hana-furu
  • ベストアンサー率20% (58/281)
回答No.3

哲学はよくわかりません。 高校の時、絵の授業で、みんなで同じモチーフで絵を描いていたら、 美術の先生が、「よく、見てごらん。白いポットの影の部分、 青っぽい色が隠れているように思わないか?」 そー言われると、影の部分が青いような・・緑のような気がしてきました。 レモンも単なる黄色ではなく、影の部分も、黒ではなく・・・。 そうこうするうちに、出来上がった絵は、みんなオリジナリティな色に富んでいて、同じモチーフの絵を描いても、色を感じる感覚の表現が、こーも違うものなのか・・と感心したことがあるのを思いだしました。 いろんな色をつかって、ポットを描いているんだけど、でも、 それは白いポットなんだろーな・・ってわかるし。

hamachihamaguri
質問者

お礼

「白いポットなんだろーな・・・」って、思いますよねぇ。自分は、描いたものが「白い」と思っているのは確かだけど、みんなの、オリジナリティーにあふれる「白い」も、白なんですよね・・・。やっぱり、感覚は違うってことですよね。不得手な哲学なのでしょうけど、答えていただいてありがとうございました。

  • FFMAN
  • ベストアンサー率21% (15/69)
回答No.2

単なる一般人ですが、思い付きを書きます。 「内的な経験」という言葉は何かの本で使われた用語でしょうか? たぶん「太陽が沈んでいる」と発言した時に、その発言を引きだしたような体験そのものの ことだと理解しますが、hamachihamaguriさんが言う自分の感覚と他人の感覚が一致しないと いう時の「感覚」という言葉で表しているものと同じ意味でしょうか? もし、同じ意味でつかっているならば自分の感覚と他人の感覚が一致しないと説明するのは 不可能だと思います。 自分の感覚と他人の感覚が一致しないと言うには、自分の感覚と他人の感覚を比べる必要が あります。しかし常識的にいって自分が他人の感覚を体験することはできないのですから、 そもそも一致しているとか一致していないとか比較ができません。 他人の振る舞いや発言から、自分の感覚と他人の感覚が一致してないのではないかという推測 はできるでしょうが、それはあくまで推測であって、自分の感覚と他人の感覚が一致しない という結論を導き出すことはできないと思います。

hamachihamaguri
質問者

お礼

言われてみて、初めて気が付きました。「自分の感覚と他人の感覚が一致しないという結論を導き出すことはできない」ということを。そうですよねぇ。比較ができませんものね。答えは、いろいろある。ってことですかね・・・。もしよかったら、FFMANさんの考えを教えてください。

  • jun1038
  • ベストアンサー率49% (138/278)
回答No.1

ごめん。私も哲学には全く詳しくないので、普段自分が感じていることを 勝手に書きます。参考になれば参考にして下さい。哲学的に全く的外れなら 無視して下さい。 私は、赤い折り紙の色を見て、「赤」と教育されてきました。 沈む太陽の色も、流れる血も、みな似たような色なので、「赤だ」と言います。 他人もそれを聞いて、特に違和感を感じないでしょう。 でも、例えばA君は実は、「赤い」折り紙の色を見て、 私にとっての「緑」に感じているのかも知れません。 でも、彼はそれまで、その色を、「赤と言うんだよ」と教育されてきました。 だから、彼は折り紙を「実は」「緑」に見えていても「赤だ」と言います。 夕日も血も、「緑」に見えていても、彼にとってのその色の名前は 「赤」ですから、当然「赤」と言います。 結果的に、私の発言と食い違わず、 両者は「共通の感覚」を持っているなあ、と錯覚してしまいます。 自分以外の他人が、いったいどのように感じているのか。 (おそらくは同じように感じているのでしょうが、) 厳密には分からないのではないでしょうか。 では。

hamachihamaguri
質問者

お礼

私は、講義で、「一致しない」ことを前提にして学んだので、「わからない」という言葉が、新鮮です。そうですね、何も、「決めなければならない」こともないですよね。十人十色というように、人それぞれちがうんだから、「共通の感覚をもっている」と錯覚してしまっていることもあるかも・・・。多角的な面から見ないといけないですね。とても参考になりました。ありがとうございました。

関連するQ&A

  • よくわからない感覚

    夏の終わりごろからよくわからない症状がたびたび現れるのですが、 感覚的なもので言葉にするのが難しく他人に説明できないでいます。 あえて言葉にすると、 ・一瞬意識が飛びそう、遠くなりそうな感覚 ・しんどさ、対象のわからない不快感、不安感 ・手に力が入らない・震える ・いきなり叫びだしたり取り乱したりしそうな感覚 (わーってなりそうな感覚) ・なんとなくどうにかなりそうな感覚 ・落ち着かない感覚 などです。 疲れている時や寝不足の時などに起こりやすく、 時と場所はあまり関係ないです。 ~なりそう、という感覚は実際なるわけではなく あくまで感覚です。 さほど強く表れるわけでもなく、起こる時間も 短時間なので全く生活に差し支えはないのですが、 このまま放っておいて酷い症状が出たら、と思うと 少し心配です。 似たような経験のある方がいらっしゃれば 原因・対処法などお話お聞かせ下さい。

  • 色感覚に関する文献を探しています。

    色感覚 哲学 科学知識 について 参考になる文献についておしえてください。 大学で 『自分と他人の色感覚は同じだろうか。』 というような課題が出ました。 ゲーテの色彩論という本を読んで参考にしようと思うのですが、 この本以外に参考になりそうな本がありましたら教えていただきたいと思います。 ゲーテのような哲学者の本でもかまいませんし、 もっと科学的(細かい専門的)な内容の本でも構いません。 色認識について知識を深められるような本を教えてください。

  • 車体と体の感覚が一致する現象について

    わかりづらいタイトルですいません 車を運転しているとき、体の感覚が車体と一致することをなんというのでしょうか 車体を把握するというか、車と一体になるというか、車が自分の体の延長線上の感覚として感じられるあれのことです 何か正式名称はありましたでしょうか 教習所か何かで習ったような気がするのですが、曖昧で思い出せません 回答よろしくお願いいたします

  • 辛さ(辛味)の感覚の違い

    甘い・苦い・酸っぱい・塩辛いという感覚は、人により多少の違いはあれど、だいたいの人の感覚は一致していると思います。つまり私が『とても甘い』と感じたものは、他人も同じように『とても甘い』と感じたり、私が『少し苦い』と感じたものは、他人も同じように『少し苦い』と感じることが多いです。  ところが『辛さ』だけは人によって感覚の差が大きく、私が『少し辛い』と感じても、『全然辛くない』と感じる人もいれば、『とても辛い』と感じる人もいます。  このように、辛さ以外の感覚は多少の差はあれど、多くの人で似たような感覚を持つのに、何故『辛さ』だけは人によって感じ方が大きく異なるのでしょうか?

  • ある感覚がわかりません。

     私はある感覚がどうしてもわかりません。意味不明かもしれませんが、書きたいと思います。  人は人生で色々な事柄を自分で選択していきます。例えば、勉強や部活を頑張ろうと決心したり、人との付き合いはこうしていこうと決めたり、自分はこの性格が嫌いで、あのような性格になりたいから努力しようと思ったりする事は、全て自分が選択して行っている事です。 つまり全ては、プラスな事もマイナスな事も、自分がしたいと思うように物事を選択してやっていくんだと思います。 だから自分が自分で大嫌いで、自分の考え方全てが嫌で、他人の性格になりたいと思う人は余りいないと思います。 私は自分で自分のやりたいと思うように物事を選択して、自分の変えたい所は変えていく、という、他人の性格になんかなれない、自分の性格はひとつ、という感覚がないし、わかりません。 常に自分が気持ち悪いし、嫌だし、考える事も全て嫌、そして他人の性格にまるで着せ替えのように瞬時に成り切れるような感覚があり、どうして元の嫌な自分でいなければならないんだ、他人になれるのに、などと思います。 本当に意味不明なのですが、他人になどなれない、これが私の性格、というものがなく、自分の性格を変える、という感覚もわかりません。 そして普通自分の人生ならひとつひとつの物事を丁寧にやろうという感覚もなく、自分が嫌なのでみな雑になったり、他人なれる感覚があるので今の自分の状況をどうにか変えようという気持ちとか、焦りをほぼ感じません。 上手く言えないのですが、昔からずっとわからない感覚で、しかもはっきりとした事が言えないので、ただただ苦しく、また自分の人生をちゃんとできないので、怠けてるだけに思われたり、つらいです。 このような精神病などあるのでしょうか。また、何かアドバイスがありましたら頂けると嬉しいです。 最後まで読んで下さり、ありがとうございました。

  • 他人と感覚が違うって、比較できますか?

    社会で生きていくには適応するって大切ですよね。今更ながら「適応」っていうことの意味を思い知らされました。自分の感覚が他人とズレてることを自覚することのようです。これって、自覚できたらタイシタものだと、最近ようやく悟ったわけで、そのおかげで「もう死んでもいい」とさえ思えるのでした。残念ながら、死ぬことを怖がるっていうとこだけは、感覚っていうより本能というものに支配されちゃうらしくて「それではサヨーナラ」と簡単には死ねないものらしくて、こんな文章書いてます。と、前置きが長くなりました。例えて言えば人が見ている色がみんな同じだとは限らないようなささいなことなんかに気付くことです。十分に重大な事実のようだと思われるかもしれませんが、至ってお気楽なんですよ、実は。一人の人間、生まれてからずっと、自分の目に見える色が正しいと思って疑わない。「色の区別がつかない」んなら障害として認識できるんですが、単純に感じるものの違いなんか、脳を入れ替えて見ないと比べられないって、ちょっとしたパラドックスなんですが、わかりますか? このことをぶんしょうでどう記述したら万人に「何となく解る気がする」と感じてもらえるのかな? っと、これも「感じる」ものなわけだから、人間って結局、共通認識なんてありえいのですね。少なくとも近似値はあるから社会が成り立つわけなんでしょうけど…。ひょっとしたら、金運とか出世運なんか、以外とこんな「ささいな」感覚のギャップが作用して存在してるんじゃないの?なんて思います。哲学専攻か精神医学専攻で、この事に関係した内容をご存知の方、どうか教えてください。

  • 時制の一致について

    先日The man decided to wait at the station until his wife came. という文章で時制の一致を受ける場合は 妻が戻ってくるという前提だから駅で妻が戻ってくるまで待つという「線」の関係で時制の一致を受けると説明されたのですが、(逆に時制の一致を受けない場合は、「点の関係」 未来の一点に向けられているときは時制の一致は受けない) I never expected that she would join us. この文は未来の一点に向けられているのか、線の関係かどちらか判断しにくいのですが、自分は 彼女が参加するのは未来の一点だと思ったのですが、違ったのでなんか混乱してます。 時制の一致が起こるときのわかりやすい説明を教えてください。

  • どの様な感覚だと推測なさいますか

    姑息さイジメ感覚を 恥ずかしいと思わない感覚とは。 雁首揃うて姑息に卑怯に、他人の心を故意に乱し、犠牲にし、心因性なるものを抱えさせても平気かの様な、罪深き権力に他人さん達を長々目の当たりにし、 心に年月を犠牲にされた憎しみ深い経験の摩訶不思議さからアンケートとさせて頂きました。

  • 時制の一致と話法

    抽象的な質問になりますが、時制の一致と話法との関係はどうなっているのでしょうか? 話法のところで時制の一致も出てきます。しかし、時制の一致のところで必ず話法のことが出てくるとは限りません。両者の関係を分かりやすく説明してください。

  • 「一致の定理」って何ですか?

    一致の定理を具体例を交えて詳しくわかりやすく教えて下さい。 関数をテーラー展開で近似するところまで(出だしの部分)は理解できます。そこからの話が教科書を読んでもイメージできず、ギブアップしました>< 数学得意な方、よろしくお願いします。