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倫理って客観的じゃないでしょ?

jumeの回答

  • jume
  • ベストアンサー率46% (71/152)
回答No.4

わー、確かに私は、倫理と倫理学をいっしょくたにしてますねぇ(汗)。どうやら「倫理的=問い直す生き方」、「道徳的=問い直さない盲目的な生き方」という私のイメージ(先入観)が混じってしまっているようです。いきなり、「倫理的」でなくてすみません…。 shunchiさんのご質問の意図は、つまり、問い返さない倫理の論理的な根拠付けということですね。う~ん、申し訳ありません。哲学は、既にして問い返してしまうものなのではないでしょうか?従って、哲学による倫理(道徳)の根拠付けは、永井のような「問い返す」倫理学によってしかなされないような気がします。ソクラテスやレヴィナスやロールズといった人たちも倫理を問うた哲学者ですが、みんな既存の倫理を問い返してしまっていますよね。 あえて言うなら宗教者が、それに当たるのではないでしょうか?でもルターは問い返したな…。ん、儒者はどうでしょう?儒者は、過去の偉大な人のように生きることを倫理とした、と聞いたことがあります。…わ~わかりません!ピント外れでしたら、ご指摘ください。ごめんなさい!!

shunchi
質問者

お礼

いや、何もあやまらなくても(笑)。 No.3のお礼で僕が、 >永井均は面白いんですが、彼は僕が質問で書いたような >「倫理を論理的に根拠付けようとする」哲学者ではなく、 >むしろその逆の立場に立っています と書いたのは誤りでした。すみません。 よく考えたら、倫理を根拠付けようとする試みは、 jumeさんの言葉を使えば、「問い返す」倫理に決まってます。 問い返さないなら根拠付ける必要ないですからね。 そういうわけで、レヴィナスにしろロールズにしろ、 そういう人たちが「どのように」倫理の基礎付けを 試みたのか、っていうのが僕の質問だったわけです。

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