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倫理って客観的じゃないでしょ?

noname#1423の回答

noname#1423
noname#1423
回答No.6

 最初に、次の三つのことを確認しておきます。 (1)shunchiさんは、「倫理」という言葉を「道徳」という言葉と同じ意味で使っている。 (2)shunchiさんは、ここで、「倫理」=「道徳」の存在そのもののではなく、その内容(道徳規範)の客観性、普遍妥当性を疑っている。 (3)以上の前提に立って、「道徳」の内容の客観性、普遍妥当性を根拠付ける論理があるのなら、聞かせてほしいし、また紹介してほしい。  以上のことが間違いないものとしてお話しさせていただきます。  結論から言うと、shunchiさんを納得させるだけの、「道徳規範」(僕は「倫理」と「道徳」を区別したいし、「道徳」の存在そのものではないという意味で、「道徳規範」と言わせていただきます)の客観性を積極的に根拠付ける論理はないだろうと思いますし、おそらく、shunchiさんも、既にそうお考えなのではないでしょうか。けれども、そこにとどまっていては、一歩も先に進めないでしょう。shunchiさんが「『倫理を論理的に根拠付けようとする』哲学者ではなく、むしろその逆の立場に立ってい」るとおっしゃる永井均氏も、そんなところにとどまってはいません。  以前、shunchiさんが「独在性」についての質問をなさった時に紹介したので、もうお読みになったかもしれませんが、永井氏は「規範の基礎――「べき」の生成論の立場から――」(『〈魂〉に対する態度』所収)の中で、「道徳に関する人間性の発達段階」として、1「快楽主義的段階」、2「自己利益的(目的合理的)段階」、3「道徳主義的段階」の次に4「超脱(賢慮)的段階」を取り出し、「そうすることが自分の利益にならない場合でも、誰でも正しいことをすべきであるのか」という問いに真正面から答えるには、この第4段階を方法的に取り出さなければならないと言っています。詳細は、該当著書に委ねるしかありませんが、少なくとも、永井氏は、ネガティブな形ではあれ、「倫理」そのもの根拠を取り出してみせたのです。  僕の回答も、おそらく、shunchiさんの求めていらっしゃる回答ではないでしょうが、問いの立てられ方に何か不毛な質疑応答を招来するものを感じたので、書き込ませていただきました。お気に障ったら、申しわけなく思います。  ちなみに、shunchiさんのおっしゃる意味での「倫理の論理的基礎付け」を試みていると思える(成功しているかどうかは別として)書物として、もう読んでいらっしゃるかもしれませんが、柄谷行人『倫理21』をご紹介しておきます。  少しでもご参考になれば幸いです。

shunchi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 現代では、哲学にしろ科学にしろ、真理の基礎付けは ほとんど諦められてしまい、相対主義的な考え方に 支配されているように思います。もちろんそれに対する 反抗の試みも沢山ありますが、もはや近代的な素朴実在論を 擁護するのは不可能なようです。 今パトナムの「理性・真理・歴史」を読んでいまして、 価値判断を含む相対主義への批判がそこに出てくるの ですが、相対主義は破壊的な説得力があり(無論、問題点も ありますが)、それを完全に封じることはできていません。 そんなわけで、他の哲学者がどのように真理を、 とりわけ倫理を基礎付けようとするのかに興味を持ち、 質問してみたわけです。 『倫理21』はできれば読んでみたいと思います。 ありがとうございました。 他の方から、他の哲学者についてのご説明があるかもしれませんので、 もう少しこの質問を閉じないでおきます。

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