• 締切済み

倫理 についてなのですが・・・

科学性について、「『鳥というものは飛べるはずだから、飛べないペンギンは鳥でない』という言明に科学性はあるか」という課題の内容についてカールポパーの思想をふまえて回答をせよ。 1.次はある人の回答であるが、回答としては不十分であり、満点をあげることができず、5点中、1、2点である。どこが不十分か直せ。 「科学性があるとはいえない。そもそも、鳥というのは、卵で生まれ、恒温動物であるという定義のもとで分類されているから、鳥は飛べるから鳥とは言わないから。」 2.課題の結論は、科学性があると言うことになるが、反証事例を挙げよ。 3.(2.)を参考にしつつ課題の言明に科学性があるという理由を述べよ。 4.「絶対に正しいという科学的知識はあり得ない」というのがカールポパーの思想であるが、なぜ科学的知識は絶対には正しいことにはならないのか、説明せよ。 以上の4つについてなのです。カールポパーの思想は、ある事柄に対し、反証事例を挙げることができれば、その事柄は「科学的である」そうでなければ、「科学的でない」と言うことだと思うのです。そういったことは分かっていても、上記のような問題が解けないのです。かなり困っています。よろしくお願いいたします。 それと、倫理という学問の勉強の仕方も教えて頂けると本当に嬉しいです。

みんなの回答

回答No.2

  カール・ポパーの科学論というより、わたし個人の考えを述べますので、参考にしてください。まず、ポパーの「科学論」というのは、「科学の理論」についての哲学なのです。理論が「科学的かどうか」が問題なので、「事実」の科学性を問うているのではありません。 科学理論は、現象Aと現象Bのあいだの「関係性」を法則として述べるものです。この場合、現象A、Bとは何かは、この科学理論からは、メタ命題あるいはメタ概念であるとなります。メタ科学概念は、またそれを明らかにする科学理論があるのですが、それは、当面の理論とは階層が異なるものです。少なくとも、或る科学理論の科学性・科学的妥当性を問う場合、メタ概念についての吟味は棚上げされます。 現象AとBのあいだに措定された「関係性」つまり「法則」については、直接的または間接的に、この法則が成立することが、「確認可能」でないとなりません。つまり、観察や実験を通じて、別の結果が出てくる自由度が認められていて、そのような条件において、なお、観察や検証で、「法則」が成立すると確認できている場合、その理論は「科学理論」になります。 つまり、観察や実験や検証で、法則が主張するのと別の結果が出る可能性が保証されていなければならないのです。これが「反証性」の意味です。「金は王水に溶ける」という命題であるなら、これは、条件が隠れているのです。そのような条件は、メタ概念となっています。 「原子は別の原子に変化しない」というのも、一つの科学理論、科学法則であるのです。この場合、「原子とは何か」というのは、メタ概念になります。この法則は、低エネルギー・レベルの粒子の相互作用では成立します。つまり、錬金術師などが扱った温度や、酸とか、その他の化学的化合物の反応エネルギーでは、原子が別の原子に変化するということは起こりません。 しかし、高エネルギーの中性子などの粒子を、原子の原子核に打ち込むと、場合によって、原子が分裂して、別の二つの原子になったり、また、陽子が飛び出して、原子番号が1減り、別の原子になるということが確認されます。従って、「原子は別の原子に変化しない」という法則は、ある条件においては、科学的法則であるのです(その理論を反証する方法があり、現に反証されています)。 ここで、問題の「鳥は飛べるので、飛べないペンギンは鳥でない」という命題を考えれば、これは、「鳥」というメタ概念について、「飛ぶことができる」という関係性=法則を定立しており、ペンギンは鳥と呼ばれているが、この「鳥=飛べる存在」からは、ペンギンは鳥ではない、という結論を出しています。これは、法則の適用であって、科学的な議論です。 従って、「科学性はある」ということになります。それに対し、不十分とされた、反論は、「鳥」について、「卵生で恒温動物」という定義を与えています。しかし、これが「鳥」のメタ定義に合致するのかどうか、吟味や検証がありません。 「鳥」は、「飛べるものが鳥」という理論にとっては、メタ概念で、この定義は、生物分類学の理論を前提にして出てくるもので、「卵生で恒温動物」でかつ鳥でないものもいるかも知れないというのが、科学理論としての反証可能性ですから、この鳥の定義の論法は、「鳥とは飛べる」という理論と同じ次元のもので、このような論法だけで、理論の非科学性を主張するのは、間違いであるということになります。 >2.課題の結論は、科学性があると言うことになるが、反証事例を挙げよ。 「鳥は飛べるのであり、それ故、飛べないペンギンは鳥ではない」という理論は、例えば、「いかなる鳥でも、翼を切ってしまえば、飛べなくなる……しかし、翼を切っても、鳥は鳥である」……それ故、このように反証事例がある。あるいは、ペンギン以外の飛べない鳥を指摘すれば、それが反証例となる。(また、反証できるので、この理論は科学理論なのであり、科学性があるのである)。 3については、上記の話のなかに、説明が入っています。 >4.「絶対に正しいという科学的知識はあり得ない」というのがカールポパーの思想であるが、なぜ科学的知識は絶対には正しいことにはならないのか、説明せよ。 「知識」とは、現象のあいだの関係性を述べるものである。経験的知識は、反証例が存在し得るという自覚がある限り、その限りで、「科学理論」と言える。「カラスは黒い」という経験知識は、茶色のカラスや灰色のカラス、白いカラスなどの存在を、この経験知識に基づく理論が「排除していない」限り、科学的知識である。 カラスとは何か、というのは、その羽根の色で決まっているものではない。これも生物分類理論から出てくるのであり、生物分類の理論は、一旦決めた分類秩序が、新しい知見に基づいて変更され得るし、その余地を残す限りで、科学理論である。 科学理論における「現象の概念」の定義は、メタ科学理論がこれを支えるが、メタ科学理論も科学理論である限り、反証される可能性を持つ。それ故、現象の概念の定義自体からして、定義が覆る可能性があり、確実な知識は、得られない。 「知識」とは、現象と現象のあいだに観察される関係の「法則的命題」であり、科学理論の条件に「反証可能性」を要請するということは、現象の定義を規定する科学理論そのものにも、反証がありえることを認めるので、「関係の法則」に対する反証も保証されているが故、知識は間違いであると判明することもあれば、現象の科学定義が反証されるが故に、知識が崩れる可能性も持つので、「絶対に正しい科学的知識」とは、科学的知識ではないということになる。(もの凄く単純に言えば、「絶対はない」のが科学であり、「絶対に正しい」と言った時、それは、もはや科学知識でなくなっているのです)。 「鳥は飛べる」という科学理論はあってもよく、この理論からして、飛べないペンギンは鳥でないという主張するのは、十分科学的です。しかし、この理論が科学性を持つには、「飛べない鳥の存在」を排除してはならないのです。鳥であって、かつ飛べない鳥が観察されれば、「鳥の科学的定義」が再吟味を求められるのです。 これだけを言うと、「この世に確実はものはない」という話とどこが違うのかということになります。科学の理論は、非常に多数の経験や観察や実験などに支えられて、かつ、複数の関連理論との整合性において、主張され、構成されている理論が、常に「反証の可能性」を上に述べたように、複数の次元で持つことから、その科学性を主張されるのです。 >それと、倫理という学問の勉強の仕方も教えて頂けると本当に嬉しいです。 「倫理学概論」というような本があるでしょうから、それを詠めばよいと思います。二種類あると思います。「倫理学通論」の形と、ある人物の「倫理論」を敷衍して述べているものです。後者の方から入るのが良いのですが、誰の本かが難しいです。 プラトンの『饗宴』『ソクラテスの弁明』『パイドン』などを見てください。これらは、基本的に、「善とは何か」を問題にしています。そうは見えないかも知れませんが、実はそうなのです。 哲学は、「真とは何か」という問題と、「善とは何か」という問題があり、カントだと、前者は、「純粋理性」の働き、後者は「実践理性」の働きということになります。また、「真」に関係することは、知識論・認識論に関係し、「善」に関係することは、「人の為すべきこと(当為)=行為論」に関係し、何が善かは、知識ではなく、「智慧」がこれを人に教えるのです。プラトンはそう述べているのです。  

noname#5377
noname#5377
回答No.1

哲学や倫理を正式に勉強したわけではありませんので事前にご了承ください。 私流の解釈ですが、ポパーといえば、次のことを思い浮かべます。 今空見上げたら(デスクトップではなく、ノートとかのモバイル持参で外でまたは窓際でこれを読んでいることにしましょう。)カラスが一匹飛んで行きました。そうしたらまた一匹、またまた一匹と次々と飛んで行くのを見ました。結果的に100匹見たとします。100匹とも黒色でした。これを見てカラスっていうのは黒色をしているとの結論を出しました。でも、101匹目が白色でないとはだれも保証できません。鳥も飛べる鳥ばかり見ていても、ペンギンのような飛べないのもいます。これからどういう結論が出せるでしょうか。 下記の英文の中に載っていますが、「金は塩酸で溶ける」が科学的なのは、間違っていたら間違いだと断言できるからです。それに対して、「ホモオパシー薬物の中には本当に効くのもある」が非科学的なのは、間違っていても間違いだと言い切れないということです。ある日突然、効かないのが出現するかもしれないからです。 理論って言うのはいつどこで反証されるかわからないところがあるのですね。ポパーの考えでは、多分。 まあ、参考程度に読んでください。 倫理については検索されてはどうでしょうか。たとえば下記のものがありました。

参考URL:
http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/ethics/introduction/ethics-intro.html

関連するQ&A

  • 科学と思想の真理性の違い

    科学と思想の真理性の違いって何なのでしょうか? 言語が介在する思想は、言語自体が恣意的なため、言語によって組み立てられた思想などは真理はない・・・。 そう考えると、私自身、科学は何が思想と違うのかがぼやけてイマチチよくかわらなくなってしまいます。 反証可能性があるかないかが分かれ道なのでしょうか? そもそも科学は真理なのか?も伺いたいです。 専門家のみなさん、また詳しいみなさん、よろしければ回答をお願いします。

  • 科学における説明と日常的にひとが行う説明について

    「科学における説明と日常的にひとが行う説明の相違点を述べよ」という大学のレポート課題について質問しますが、これは客観的な一般命題と、主観的な価値命題による差、ということでよいのでしょうか? 最初にレポートを提出した時は、 科学における説明は数学の定理のように客観的な説明であって説明者によりその内容が異なることは無く、対する日常的な説明は説明する人の背景知識や経験に依存するため説明の内容が異なることがある、と書きました。 結果は不合格で、科学における説明は経験にもとづくことはないのか?また、日常における説明は何でも説明になるわけではありません、といわれました。 以下のように直したいと思います。  科学における説明 → 一般命題、AはBである、といった定義された公理のもとで体系が展開されるもので、主観を排した客観的法則を重んじ、ポパーのいう反証可能性を認めているため定理が改善されることがある。  日常生活における説明 → Aはよい、わるい、といった定義の確立されていない価値命題であり、主観的な世界でしかその真偽を判定できないもの。 としました。 アウトラインはこれでよいでしょうか? ちなみに文系教養科目の哲学ですのでそれほど専門的な内容を求めているわけではなさそうです。 よろしくお願いします。

  • 世界は私を中心に回っている。

    世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。

  • 「科学」の範疇について

     「波動科学」「創造科学」「幸福の科学」などなど、一般には「科学」とは認められてゐないものを科学と自称する人たちがゐます。言語は共同体に属すると同時に、個人にも属するので、あへて「そんな使用法をするな」とは私は主張しません。しかし、そのやうな「科学」を標榜する人たちは、みづからの信奉物の弱点(つまり説得力がない)を覆い隠すために、「科学」といふ言葉を権威づけの目的で使用してゐるやうに思へます。 (これからが質問です。上記についての回答は御遠慮ください。)  では、自然科学に対する、人文科学、社会科学などといふ用語には、上記と類似の心理が働いてゐるのでせうか。カール・ポパーなどによる科学の定義をもちだすまでもなく、「科学」でないことは明白で、私は、ありがたがつて「科学」を名乗る必要はないと考へます。核物理学と核爆弾の関係などに見られるとほり、哲学のない科学は凶器となりえます。自信をもつて、「科学」といふ言葉から離れるべきではないのでせうか。

  • 動物から赤外線はでているのですか?

    NHKで放送していた、海外の科学番組で 「人間は赤外線を放出している」 「つまり生きているということ」 という趣旨の内容がありました。 下記3点を教えてください。 1人間は赤外線を放出しているのですか? 2生物(人間以外の哺乳類、鳥や爬虫類、虫や植物、菌)であれば赤外線を放出しているのですか? 3変温動物・恒温動物ともに赤外線を放出しているのですか? どうぞよろしくお願いいたします

  • 考古学のレポートについて

    考古学のレポートについて 考古学と自然科学の学際研究について、課題・問題点、どうあるべきか、を3000字程度書くというレポート課題が出されたのですが、これらのことがのっていたり、書かれていたりするサイトなどありませんか? または、考古学と自然科学の学際研究についてや、この課題・問題点について教えていただけたら幸いです。 回答よろしくお願いします。

  • 公理の正しさについて

    数学カテゴリで質問しようかと思ったのですが、数学的な基礎づけを伺いたいわけではないので、哲学カテゴリにしました。 最近、ある宗教家の方とお話ししていると 「科学は、公理の上に定理を積み重ねることはできても、公理がなぜ正しいのかは証明することはできない。 公理がなぜ正しいのか。それは神様から与えられたものだからである」 とおっしゃっていました。 クーンのパラダイム論に近いことかと思っていると、「時代背景」とかではなく、もっと根源的に、「科学とは神によって担保されている」という意味のようでした。 (1)こういう考え方って、現在の哲学や神学では結構ありふれているのでしょうか? また、歴史上に同じような考え方をしていた思想家はいるでしょうか? 「公理」や「定理」という考え方をしていた哲学者というとスピノザが思い浮かびますが、彼は公理の正しさについては何も言及していなかったと思います。 (2)科学には反証可能性があり、宗教にはそれがない点で、両者は全くの別物だと思います。 しかし、上記の主張を受け入れると、「科学は神に従属している → 科学もまた宗教ではないか」とという結論になる気がします。 もし上記の主張が正しければ、本当にそういう結論になるのでしょうか?

  • エックス線検査機の動作原理

    No.1907833とかぶりますが、 「空港などで使われているエックス線検査機の動作原理を、 科学的知識を用いて説明せよ」との課題があります。 何をどう説明していいのかわかりません。 早めに回答お願いします。

  • 科学史について―Part1―

    17世紀の科学革命とはどのような科学上の変革であったか。 「科学の応用」という点に注目し、また具体的な事例を紹介しながら、 この「変革」の特徴を説明しなさい。(150字程度) 例)フランシス・ベーコンとか   という問題です。。。 本当に困っているので至急回答お願いしますっ!!

  • 古代平安時代の対外関係について

    大学の課題なのですが、知識がなくて困ってます。 ネットや資料などを調べたのですが、 「こうゆうこと」という感じのが調べ上げれなくて・・・。 問題は 前期・中期を中心とする古代平安時代の対外関係について 『中華思想』『穢れ』を用いて論述しなさい。 という題です。 回答おねがいいたします。