論理学と倫理学について

このQ&Aのポイント
  • 論理学と倫理学についての質問について考えてみました。私は現代の相対主義化やニヒリズム化に対して疑問を持ち、自己を虚無化していることに憤りを感じています。常識や善悪の基準、ルールや法律の信託に疑問を抱きつつも、自身の羅針盤を持つことができずにいます。そこで倫理学と論理学について学ぶことの意義を考え、大学でどちらを学ぶべきか専門家の意見を求めています。
  • 大学で倫理学と論理学のどちらを学ぶべきか迷っています。常識や善悪の基準、自由や幸福、正義といった問いに対して自分なりの答えを見つけるためには、論理的な思考が必要です。倫理学は善や悪について考える学問ですが、論理学は思考のプロセスや推論の方法に注目します。倫理学の講義を受けるという目的ではなく、自分で考えることが目的であるため、論理学を学ぶことがより適切かもしれません。
  • 倫理学と論理学についての質問です。私は現代社会の価値観に疑問を抱き、常識や善悪の基準、自由や幸福、正義といった問いについて考える必要を感じています。大学で倫理学を学ぶことでこれらの問いに対する答えを見つけることができるのではないかと考えました。しかし、論理学を学ぶことで思考力を高め、自分自身で問いに立ち向かう力を身につけることができるとも言われています。どちらを選ぶべきか迷っており、専門家の意見を聞きたいです。
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論理学と倫理学について

さきらから同じような質問をしてすいません どうして私がさっきから倫理学と論理学についてしつこく質問しているのかというと 私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。 私には自身が生きていくために不可欠な羅針盤がありません。 というか作ろうとも思ったことはありませんでした。  いままでそれにまったく、疑問にも思わず日々を送ってきました。 そして私には今問わなければならない課題が山のようにあります ・常識とは何なのか? ・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか? ・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか? ・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか? ・自由や幸福、正義とはなんだろうか? そして私はこれらを追求することができる学部が大学にあると知り、その倫理学という学部にいくことを決めていました。 しかし大学のシラバスをよく見てみると生命や環境や社会などあまり私の疑問に思っていることを深く追求しているような大学はありませんでした。 それによくよく考えてみたらこの問いは自分で考えることができるし、大学の講義を聴いてそれで納得してしまうのであればそれはもはや虚無化してしまっているではないか、と疑問も出てきました。 そう、私が大学にいけばこの問いの答えが見つけられると考えていた時点で根本から間違っていたのです。 大学の講義で知識を手にれても答えは出ません。 自分にあった講義があるかないかではないのです。 講義を聴くのが目的ではなくそれを論理的に自分で思考するのが目的なのです。 自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。 ですから私は倫理学にいくのではなく哲学に言って論理学を学ぶべきだと考え、 そのことについて質問したのが論理学と倫理学についてでした。 そこでここまで踏まえてもらった上でもう一度答えていただきたく質問させていただきました 大学で論理学と倫理学どちらを学ぶべきでしょうか? 質問していいものかとも思いましたが専門家の意見が聞きたく結局質問させていただきました 迷惑かけますが回答のほうよろしくお願いします

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.6

No5です。 >厳密に書くことが一つありました。 論理能力というのは、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」 といったような哲学や議論、日常の物事を深く考える際に使う論理能力のこと(うま く説明できませんが、、、)であり、数学や科学で使う論理能力とは違うということ で  ここでの回答は上記のような論理能力を磨く際に論理学は倫理学より最適である。と いうことだったのでしょうか? すいません説明が足りてなくて。 もしよければもう一度同じ質問を投稿しますのでそこで教えてもらってもよろしいで しょうか? 以上のご質問をいただきましたので、お答えします。 質問者さんのおっしゃる論理能力とは「日常の物事を深く考える際に使う論理能力」ということですが、これを含めて論理学と述べさせていただきました。 哲学では、質問者さんが考えておられる論理能力の基盤として「日常」を捉える能力を問う「認識論」、「日常の物事を深く考える」方法論として「解釈学」や「存在論」、「分析哲学」等があります。つまり、質問者さんが「考えたい論理学」と「一般的な論理学」とは異なっています。 このような意味で、哲学の分野で質問者さんの考え方に一番近いのは他の回答者さんが述べていたように「臨床哲学」だと思います。 臨床哲学は、比較的新しい哲学の分野で、まだ分野としての認知も低く学べる大学は少ないと思われます。臨床哲学では、哲学の理論を日常の物事に当てはめて解釈するのではなく、日常から理論を作っていこうとするものです。 実は私は哲学の専門家ではなく、幼児教育の専門家です。しかし、この新しい哲学の考え方が「ある日常」に対して哲学することを受け入れるようになったので、異なる分野の哲学専攻の博士課程に入学して学ぶことができています。そして、臨床哲学の基盤は、「日常をあるがままに観取する」という現象学の手法(超越論的論理学)が有効的だと考えられています(対極は分析哲学でしょうか)。 先の回答で示しましたように、社会の価値が相対化し、虚無に陥るニヒリズムは、価値(もしくは生命)の破壊と創造という世界のダイナミズムの人間的な受容の仕方なのかもしれません。この「無」に対して、個々人が解消することは困難だとされています。大抵は、「デカダンス(荒廃)」に陥ってしまいます。デカダンスは、快楽主義に進行しますが、世界を自分とって「心地よい」か「悪いか」という二文法で分けてしまうと他者を対象としてしか見れなくなり、それこそ究極の個人主義と排他主義が蔓延することになります。戦前のナチスドイツが典型的な例です。 哲学を日常から出発すること、または、日常から哲学が生まれること、この際の、「思考する際の(正しい)道筋」「誰もが納得できる考え方」は、哲学では「明証性」、「必当然明証性」などと呼ばれています。この明証性をどのように導き出すかには、様々なアプローチの仕方があると思いますので、いろいろお調べになり質問者さんの納得される哲学に出会うことが大切かなと思いました。 陰ながら応援しております、がんばってください!

その他の回答 (5)

回答No.5

現在、大学院でフランス哲学を学んでいる者です。 >私は元々この相対主義化、ニヒシズム化してしまった現代を疑問に思いつつも、虚無化してしまっている自分を憎くも感じていました。 ご指摘の通り、現代社会は、ニヒリズム(虚無)が進行し、相対主義が蔓延しています。このニヒリズムは、個人の思考の中に入ってきます。哲学の歴史では、これを「危機」と呼んでいます。この危機は、「学問」、「人間の生」、「倫理」、「社会」などあらゆる領域の危機として、19世紀初頭に哲学のトピックスとなりました。その集大成は、サルトルの「実存主義」に収れんされていきます。いわゆる「不安の哲学」です。危機に陥った人間の「不安」から既存の価値観が破壊されたり、新しい価値が生まれるというものです。 そこで求められるのが、質問者さんが言われる「自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。」という強い人間像です。ハイデガーはこれを「本来的実存」と呼びました。つまり、ニヒリズムから脱却するには、新たな価値の創造ができる人間への転回が必要だと考えたのです。しかし、現実的には、そんな強い人間は少ないし、ハイデガーはナチスがこの転回を国家・民族レベルで実行してくれると信じて協力したため、この実存主義は衰退していきます。 さて、本題に入りますが、現在、危機の哲学として生き残ったいるのが「現象学」という哲学です。これは、数学者でもあったフッサールが数学がなぜ先験的に成立するのかを解明するために、「確実なこと」を求めて形成されていった学問です。確かに、私たちは、ニヒリズムや相対主義に陥りますが、確実なこともそれ以上に存在します。例えば、1+1=2になるのは、いつどこで誰が計算しても答えは、2です。 フッサールは、どうして「2」になるのかを求めて探求を深めていきます。究極的には、「意識の発生」があるからこそ、認識も生じるのである、という結論にたどり着きます。これは結論的には、デカルトの「我思うゆえにわれあり」の焼き直しであり、本人も自身の哲学を「新デカルト主義」と評していたので、確かなものです。 ここで、質問者さんの「自分で考えてこそ答えは導き出せるのです。」ということとデカルトの「我思うゆえにわれあり」が結びつくと思います。もちろん、このテーゼには問題がありますが、結局、私たちにとって、確実なものとは、「私」と言えるでしょう。 確実なことが私に内在するからこそ、私から答えを導き出すことになるのです。 確実なものから倫理を導き出す手法は、現代思想に属する著名な倫理学者の手法として取り入れられてきた所以と言えるでしょう。

  • manuke22
  • ベストアンサー率54% (19/35)
回答No.4

専門家ではなく先輩として。 「大学で論理学と倫理学どちらを学ぶべきでしょうか?」 どちらも。そして専攻は倫理学。

回答No.3

・常識とは何なのか? ・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか? ・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか? ・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか? ・自由や幸福、正義とはなんだろうか? 倫理と論理で答えが出ると思っているんですか? 間違ってはいけません。 如何に考え抜ぬかれた文字の羅列であっても、その内容に答えなんかありませんよ。 あなたは、五体と知能を使った経験を充分に積まなければならないのですよ。 文字の羅列つまり論理や倫理は大切ですが、それよりも遙かに大切なのがあなたの実体験。 そのベースを無視すると、あなたは図書館の中で死を迎えることになります。 常識、善、悪、法律、自由、幸福、正義 どれをとっても実体験無しに論理構成したのでは、豊かさは生まれません。試験問題は解けるようになるでしょうが、浮き草のような人生になるでしょう。

回答No.2

論理学そのもの(あるいは倫理学そのもの)をやるのが 目的ではなく、一般事象を理解するのが目的だというの であれば、両方ともやるべきです。 世界は論理でも倫理でもありません。 倫理学が幾何学なら、論理学はそこで用いられる数学です。 専攻がどうであれ、両方学ばねばならないので、専攻は どちらでもいいでしょう。

  • kanto-i
  • ベストアンサー率30% (180/596)
回答No.1

>・常識とは何なのか? >・何のために働き、何のためにお金を稼ぐのか? >・私は何を基準に善と悪をより分けているのだろうか? >・自分の意思を問うこともなしに周りに同調し、誰が作ったのかもわからないルールや法律の信託のままに生きる私に価値はあるのだろうか? >・自由や幸福、正義とはなんだろうか? 哲学も必要かと思いますが、心理学が一番近い気がします。

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