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千姫再嫁事件について
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坂崎直盛が襲撃したという件ですね。 第一級とされる史料はこれだけです。 ・リチャード・コックスの日記「イギリス商館長日記」 (Diary kept by the Head of the English Factory in Japan: Diary of Richard Cocks, 1615-1622) 原文は無料のところだと、ここで読めます。 https://www.gutenberg.org/files/46803/46803-h/46803-h.htm 「Deo Dono」でページ内検索するとすぐに該当部分に飛べます。Deo Donoは出羽殿、のことらしいです。アーカイブを作った人のミスらしきものが沢山あってかなり判りにくいですが、自動翻訳でもとりあえず襲撃があったってことは判ります。 日本語訳は「東京大学史料編纂所報」の第13-17号にあるらしいので、そちらの方が判りやすいかも。何号掲載かは知らないのですが。 あと、「柳川藩叢書 第2集」立花宗茂の家臣由布壱岐の聞書があって、そこに記載があるようです。国会図書館にあるみたいですから、デジタルコレクションで探してみてはいかがかと。
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- oska2
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>千姫(豊臣秀頼の元妻)が再嫁するのを阻止しようとして起きた事件があったようです 一般に言われている「千姫事件」ですかね。 家康の「千姫を救った者に、千姫を娶らせる」 信じた坂崎(出羽守)直盛は、炎に包まれた大坂城に飛び込み顔にヤケドを負いながらも千姫救出に成功する。 ところが、顔に大火傷をおった出羽守を千姫は拒否。 結果、千姫が嫁ぐ日(輿入れ当日)に「千姫奪還」を坂崎は画策。 これが事前に発覚し、出羽守は捕縛処刑された。 というのが、講談のお話。 史実は・・・。 千姫は、大野治長によって大坂城から脱出。 家康に「秀頼の助命を求めた」のです。 出羽守は、家康から「千姫の婿探し」を依頼され「京都の公家に千姫との婚姻話をつけていた」のです。 ところが、姫は本多忠刻に嫁ぐことが既に決まっていた。 面目を潰された出羽守は、婚礼当日に千姫奪還を画策します。 が、先に書いた通り事前に露見。 自害に追い込まれたのです。 時代とは言え、「母(お江)の姉(淀君)の息子(秀頼)と結婚」とはね?
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