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豊臣家の助命嘆願

こんにちは。 大坂夏の陣で淀殿・秀頼親子が自害したのは有名なことですが助命嘆願について 私が読んだ小説やドラマなどではいろんな解釈がありました。 ・家臣(大野治長)が千姫返上の代わりに嘆願したが許されなかった ・命は奪わないとの約束で千姫を返上したが家康が破った ・千姫返上で命保証の約束も家康は守るつもりであったが秀頼が自害した ・千姫返上は秀頼の意志で初めから秀頼自身は自害するつもりだった ・千姫が自力脱出 などがありましたが本当のところはどうなのでしょうか? それだけいろんな風に昔の書物に書かれているということなのでしょうか。 それとも、その辺りのことはあまり詳しく載っていず、 作家さんや脚本家さんの考えで書いていらっしゃるということなのでしょうか。 もし、本当のところが書物に残っていず、分からないのならば(ご存知無い場合も) 助命の約束や千姫返上での秀頼の意志などどう思われるかを聞かせて下さい。

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回答No.3

うーーん。大坂城が落城炎上したタイミングでいくら千姫を無事に救出したとこで相手にされないのが妥当でしょう。秀頼の命が助かる最後のギリギリは夏の陣の前で全面降伏でしょう。条件は過酷な物になるでしょう。筆頭家老大野冶長、その弟、名は忘れた。木村重成、浪人大名真田幸村、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登などを秀頼自身の手で手打ちで殺す。大坂方の兵は全て丸腰でさしだす。大坂方の財産、美術品も全てこわれものが無いようにさしだす。また降伏後の処遇も500石程度、妻帯不可、女人禁制、淀殿とその取り巻きも切腹あるいは自害このぐらいの条件だったら助命出来るのではないのでしょうか。それくらい家康と徳川家の面子を丸潰れにしてしまったのですから。このタイミングでは洋の東西にかかわらず助命は無理だと思いますが。

turara
質問者

お礼

回答ありがとうございました! 三者三様の回答を戴きましたがやっぱり助命嘆願は受け入れられなかったというのが有力のようですね。 確かに以前某ドラマでかなり酷い条件を出されたので面目を守るために自害、というものもありましたし、 もし、助命を受け入れていたとしても秀頼には恥辱の条件を突きつけたのかもしれませんね。

その他の回答 (2)

  • ss79
  • ベストアンサー率33% (258/765)
回答No.2

家康に秀頼助命の考えはないことは自明の事ですから このドサクサの場合に助命嘆願などまさにナンセンスといえましょう。 それより秀頼が千姫を逃がしたのが正解とするべきでしょう。 千姫と秀頼の仲はは良かったといいますから。 大阪城の落城伝説の中には大阪人の同情も混じっています。 糒蔵に一斉射撃を行った井伊勢も自決のダメ押しをしたのですから。

turara
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 二人は仲が良かったとありますから彼が逃がしたが正解だろうし、そう思いたいところがあります。 でもやっぱり家康は助命嘆願を受け入れる気は無かったというのが有力のようですね。 孫娘の夫でも助命する気が無いというところが天下を取れた心持といったところなのでしょうか。

  • 6dou_rinne
  • ベストアンサー率25% (1361/5264)
回答No.1

真相はわからない部分もありますが、 大野冶長が千姫を脱出させて家康に秀頼と淀の方の助命嘆願をしたが受け入れられず、鉄砲を撃ちかけられてダメだと悟って自害した。 というのが有力のようです。 まぁ、秀頼は実は脱出して薩摩に逃れたという話もあり、子孫だと名乗っていたりしますが。

turara
質問者

お礼

回答ありがとうございました! なるほど、助命嘆願は受け入れてもらえなかったというのがやっぱり有力なんですね。 秀頼は薩摩へ逃れたという説もあるのですね。 某小説で海賊の棟梁になった、という設定のものはありましたがこれは初耳でした! でも本当のところは分からず、憶測ばかりが飛び交っていると言うのが現状のようですね。

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