合理的に考える人は強い人?

このQ&Aのポイント
  • 合理的に考える人は強い人なのでしょうか?この質問では、冷たい人と強さの関係、学校や組織の秩序を守ること、病気や災害に対する考え方について考えます。
  • 例えば、学校や塾、職場で任務を全うすることは当然ですが、一部の人は寄り添わず他人との交流を拒否します。このような人は一見強い印象を与えますが、本当に強いのでしょうか?
  • また、合理的に考える人は一流大学に入り、大企業に勤め、高収入を得ることで他人に頼らずに生きていくことができるでしょうか?本文ではこのような生き方に対しても考えを巡らせます。
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合理的に考える人は強い人?

「冷たい人は強いのでしょうか?2」https://okwave.jp/qa/q10003855.html でも質問させて戴きましたが、 寄り添わないと云うか、此方との交流 (と云っても大した事でも無いのですが) を一切拒否する人が居られます。 例えば、学校や塾 職場でその一員として任務(職場)を 全うする事は当然の事です。 唯、その上で塾講師だったA先生は 授業は上手く、合格させる実績はありましたが、 その時の結果のみで最後にも「貴方がこの先どう頑張ろうが知らない」と 云う様な事を云っていたと思います。 学校や組織の秩序を守る、これは当然ですが、 この様な人は、「守らなければ罰則」「守ると良い」 唯、「お元気ですか?」「お世話に成りました」 この様な言葉で此方も救われる事もあるのですが、 この様な人はその様な事が「無意味」と思っている様です。 阪神大震災があったり、その塾の近くで火災があって安否を心配し連絡しましたが、「連絡して何になる?」と云われました。 つまり、病気は医者で、災害は行政で、私は今成績を伸ばすことに賭けている、それ以外は関係ないし、知らないと云う極めてシンプルな生き方なのでしょうか? 又、少し違うのですが、老健施設に入っている人で、親族を呼ばず 職員立ち合いの元で火葬された方が居られました。(私はそれに関わる仕事をしております)親族(子ども)は連絡をしておりましたが、 本人(死亡者)は「元気か?と云われて、お前に治せるのか?お前は医者か看護師か?」と云う様な事を云ったり、子との面会も拒否していた人が居りました。 合理的に考えると、一流大学に入り大企業に勤め、それで高額の収入を得る。それで他人に頼らず生きて行くと云う事がこの様な生き方を象徴しているのでしょうか?

noname#252998
noname#252998

質問者が選んだベストアンサー

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  • Granpa1969
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回答No.8

質問者さまの仰っている方は、「合理的な人」ではありません。 「固定観念の権化」です。常識に囚われているだけ。 生き方としては状況判断が不要になるのでシンプルです。 合理的な人は、その場だけでなく何手か先を見通して最も効率的な道を迷わず進む人であって、「敵味方」とか「餅は餅屋」に固執なんぞしません。 なので、高額の収入を得るために一流大学以外の選択肢以外も考えるのが合理的な人で、一流大学しか選択肢の無い人が頭のカタい人です。 >「元気か?と云われて、お前に治せるのか?お前は医者か看護師か?」 医者だって治せない事もあるし、看護師はお手伝いしてくれるだけです。 「病気やけがに万能」という妄信をしている証拠だと思いませんか?

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >質問者さまの仰っている方は、「合理的な人」ではありません。 「固定観念の権化」です。常識に囚われているだけ。 生き方としては状況判断が不要になるのでシンプルです。 時には情(私的)部分も必要かと思いますが、それが出来ない人たちなのかとも思えます。 >合理的な人は、その場だけでなく何手か先を見通して最も効率的な道を迷わず進む人であって、「敵味方」とか「餅は餅屋」に固執なんぞしません。 なので、高額の収入を得るために一流大学以外の選択肢以外も考えるのが合理的な人で、一流大学しか選択肢の無い人が頭のカタい人です。 >「元気か?と云われて、お前に治せるのか?お前は医者か看護師か?」 医者だって治せない事もあるし、看護師はお手伝いしてくれるだけです。 「病気やけがに万能」という妄信をしている証拠だと思いませんか? 多分、医者が万能とも思っていないが、私的な部分では関わりたくない、ほおっていて欲しいと云う事を云われているのかとも思います。(合理的な判断とは違って)

その他の回答 (7)

  • citizen_S
  • ベストアンサー率41% (272/648)
回答No.7

HSPという定義や「繊細」全般が注目を浴びるようになって気がついたのですが、海外の「合理性」が重んじられる社会では概してHSPは「弱点」とみなされる傾向にあり、「天からの贈り物」としての特別扱いの日本とは正反対の捉え方であることです。 つまり、そのような社会では合意理性=冷たさ(=悪)ではなくて「当然」で「現実に即したもの=真実」になります。そうなると、「温かさ」は「ナイーブ(無知によるお人好し)」や「おせっかい、偽り、感傷過多」となりかねません。 情緒と人情重視の日本社会から外国に出ると、それまでの対応や考え方、ときには性格をまるごと180度改めて順応しないとやっていけないことがあります(※)。そういう人は日本と外国用に二重人格というのか自分のなかでふたつの相反する人間を使い分けることになるのですが、たまにそれができない人もいます。※もちろん、生まれもった性質が大きいですから自分を変えずにそのままで困らなかったり外国のほうが似合う人もいます。 人は結局は「自分が体験した世界=自分の現実」で一番適切と思う対応を身につけて生きていくのだと思います。 質問者さんの文にある人たちにとってもそうなのでしょう。 そして、同じ日本ではあっても異なる世界間(観)で「使い分け」ができない・そうする必要や意味を感じない人に、質問者さんのような違和感が生じるのではないでしょうか。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >HSPという定義や「繊細」全般が注目を浴びるようになって気がついたのですが、海外の「合理性」が重んじられる社会では概してHSPは「弱点」とみなされる傾向にあり、「天からの贈り物」としての特別扱いの日本とは正反対の捉え方であることです。 確かに、海外のドライな関係を見るとその様な傾向にあるのだと云う事が伺われます。 >つまり、そのような社会では合意理性=冷たさ(=悪)ではなくて「当然」で「現実に即したもの=真実」になります。そうなると、「温かさ」は「ナイーブ(無知によるお人好し)」や「おせっかい、偽り、感傷過多」となりかねません。 多分A先生の実例はその様な事を象徴しているのだと思います。 >情緒と人情重視の日本社会から外国に出ると、それまでの対応や考え方、ときには性格をまるごと180度改めて順応しないとやっていけないことがあります(※)。そういう人は日本と外国用に二重人格というのか自分のなかでふたつの相反する人間を使い分けることになるのですが、たまにそれができない人もいます。※もちろん、生まれもった性質が大きいですから自分を変えずにそのままで困らなかったり外国のほうが似合う人もいます。 人は結局は「自分が体験した世界=自分の現実」で一番適切と思う対応を身につけて生きていくのだと思います。 質問者さんの文にある人たちにとってもそうなのでしょう。 そして、同じ日本ではあっても異なる世界間(観)で「使い分け」ができない・そうする必要や意味を感じない人に、質問者さんのような違和感が生じるのではないでしょうか。 私もその様な人が居ると云う事に目覚めていくべきだと思いました。

  • yaasan
  • ベストアンサー率22% (2714/12238)
回答No.6

人間の行動の究極は自身の感情の振れ方によるのだと思います。それをして、自分の感情が楽しくなる、そういうことを率先してやって、別に楽しくはならないけど、しないと周りから何か言われて嫌な気分になるかも、ということを義務的にやって、それ以外はしないという形になるんだと思います。 あなたが合理的だ、と言ってる人は義務的にやっていることを楽しくならないんだから、やらない。周りから何を言われてもやらない。周りからどう思われるか解らないから、やらない。そういうことだけかと。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >人間の行動の究極は自身の感情の振れ方によるのだと思います。それをして、自分の感情が楽しくなる、そういうことを率先してやって、別に楽しくはならないけど、しないと周りから何か言われて嫌な気分になるかも、ということを義務的にやって、それ以外はしないという形になるんだと思います。 多分私は、声をかけてもらったりした事で「楽しくなった」「勇気づけられた」と云う事がありましたが、そうでない人も居ると云う事かと思います。 >あなたが合理的だ、と言ってる人は義務的にやっていることを楽しくならないんだから、やらない。周りから何を言われてもやらない。周りからどう思われるか解らないから、やらない。そういうことだけかと。 多分、公的には行うが私的な部分は触れないし興味が無いと云う事かと思います。

  • ginga2
  • ベストアンサー率12% (576/4564)
回答No.5

合理的に、人の気持ちを考える人も存在します。 例えられた人達が、コミュ障なだけかと思います。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >合理的に、人の気持ちを考える人も存在します。 例えられた人達が、コミュ障なだけかと思います。 確かに公的な部分のみで私的な部分はどう対応して良いか解らない人も居られるのか?又裏切りなどでそういう風に成ったのか解りませんが、居られると云う事かと思います。

回答No.4

社会が複雑すぎて、やることが多すぎて、無駄なことを考えるだけ、疲れるから、省略ってことでしょうか? 答えが分ってるなら、途中で悩むのは無駄。 人間らしくないと言えば、そうだけど、人間の能力には限界があるから、求められる処理能力を発揮して、結果を出すには、それ以外のものを切り捨てないと、出来ない人なのかもしれません。 それが、強さの証明かというと、違うかも?

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >社会が複雑すぎて、やることが多すぎて、無駄なことを考えるだけ、疲れるから、省略ってことでしょうか? 答えが分ってるなら、途中で悩むのは無駄。 人間らしくないと言えば、そうだけど、人間の能力には限界があるから、求められる処理能力を発揮して、結果を出すには、それ以外のものを切り捨てないと、出来ない人なのかもしれません。 たしかにそうかなと思えます、多分A先生は結果を出す。(成績を伸ばす、合格させる)その事のみにこだわり、 (勿論大事ですが)それ以外の私的な処(安否を気遣われること等)は「要らない」「無意味」「此方で何とかする」と思っているのかもしれません。 それが、強さの証明かというと、違うかも? 強いと云うよりも、私的な部分は興味がないし、 「此方も求めないので、向こうも求めてこられると困る」と云う事だと思います。

  • aeromakki
  • ベストアンサー率36% (870/2374)
回答No.3

アスペルガー症候群持ちの発達障害当事者です。 そういう考え方しかできない方の中には、高い割合で高機能アスペルガー症候群の当事者が含まれています。 まあ、そういう考え方をする人もいるんだな〜で、いいのでは?(^_^;) ちなみに、男性のアスペルガー症候群は女性の十倍いるそうなので、時々、当事者会で話しても、 「言ってることが謎だ」という方は結構いました。 私は私で、色々こだわりがあるので(仕事のやり方や、正確さ、モラル云々w)、人のことは、なーんも言えませんがw 仕方ない、そういう人だから、と思うしかないですよ。 もちろん、共感が得られにくいので、今までに色々、排他的な扱われ方で傷つき続けてきた結果でもあるでしょう。 そっとしておいてあげるのも、人の思いやりではないでしょうか。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >まあ、そういう考え方をする人もいるんだな〜で、いいのでは?(^_^;) 確かに、此方は?と思っても、向こうは「自分は自分」「構わないで」と云う感じですので。 >ちなみに、男性のアスペルガー症候群は女性の十倍いるそうなので、時々、当事者会で話しても、 「言ってることが謎だ」という方は結構いました。 私は私で、色々こだわりがあるので(仕事のやり方や、正確さ、モラル云々w)、人のことは、なーんも言えませんがw 仕方ない、そういう人だから、と思うしかないですよ。 もちろん、共感が得られにくいので、今までに色々、排他的な扱われ方で傷つき続けてきた結果でもあるでしょう。 そっとしておいてあげるのも、人の思いやりではないでしょうか。 多分「寄り添わない」とされている人も居るので、それはそれでと思うのが良いのだと思います。

  • nagaineko
  • ベストアンサー率28% (563/1989)
回答No.2

人にはいろんな性格があり、いろんな価値観があります。 そして、それらは、どのような生い立ちを持つかということに 大きな影響を受けるものです。 どういう両親のもとに生まれ育ったか、どのような環境で育ったか、 どういう経験をして、どういうものを目にしてきたか・・・。 それらが人間形成に及ぼす影響力は計り知れません。 出来上がった最終的な結果だけをみて議論してもあまり意味がありません。その人の人生をさかのぼってみてみないことには本当のことはわからないと思います。 物事には、必ず原因と結果があります。 その人がそのような人になったのにも、必ず原因があるはずです。 人は、自分の経験を基に物事を判断し、理解します。 比較的近いものなら、理解が及びますが、 遠いものなら、理解が及びません。 おそらく、あなたにとっては遠いものなのでしょう。 誰しも、望んでそうしているわけではないと思います。 そうならざるを得なかった過去があるってことだと思います。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 >人にはいろんな性格があり、いろんな価値観があります。 そして、それらは、どのような生い立ちを持つかということに 大きな影響を受けるものです。 どういう両親のもとに生まれ育ったか、どのような環境で育ったか、 どういう経験をして、どういうものを目にしてきたか・・・。 それらが人間形成に及ぼす影響力は計り知れません。 出来上がった最終的な結果だけをみて議論してもあまり意味がありません。その人の人生をさかのぼってみてみないことには本当のことはわからないと思います。 物事には、必ず原因と結果があります。 その人がそのような人になったのにも、必ず原因があるはずです。 人は、自分の経験を基に物事を判断し、理解します。 比較的近いものなら、理解が及びますが、 遠いものなら、理解が及びません。 おそらく、あなたにとっては遠いものなのでしょう。 誰しも、望んでそうしているわけではないと思います。 そうならざるを得なかった過去があるってことだと思います 多分、家族間で何かあったと云う事も要因で、「自分の身は自分で守る」と云う風に成ったのだと思います。

  • DAMSAREX
  • ベストアンサー率20% (107/521)
回答No.1

彼らが人や社会に期待しないのは、人間の冷酷な面に気付いて既に知っているからでは。 私達が使いこなしている言葉も先祖が作った便利なまやかしであり、歴史や神話のように「後から尾ひれをつけていくらでも取り繕う事ができる(言葉の意味や解釈は時代に合わせていくらでも変えられる)」としたら、全てが疑わしく信用出来なくなります。 彼らは冷たいのではなく、「義務教育では教えない人間のいやらしさおぞましさを、(歴史や書物はたまた現実世界から)嫌というほど学んでしまった」のだと思います。 きちんと勉強したら、(社会が学ばせたがらない)このシステムの本音=集団の暗黒面までしっかりと学んでしまう」のでしょう。 それを学んだら、結局自分も(人間なので)信用できないことになり、自分のいやらしさおぞましさを受け入れるしかない。 それが発揮されぬように集団からはいつも離れて、一人で開き直っているのが彼らの賢い選択になるのでしょう。

noname#252998
質問者

お礼

御回答有難うございました。 }>彼らが人や社会に期待しないのは、人間の冷酷なに気付いて既に知っているからでは。 私達が使いこなしている言葉も先祖が作った便利なまやかしであり、歴史や神話のように「後から尾ひれをつけていくらでも取り繕う事ができる(言葉の意味や解釈は時代に合わせていくらでも変えられる)」としたら、全てが疑わしく信用出来なくなります。 彼らは冷たいのではなく、「義務教育では教えない人間のいやらしさおぞましさを、(歴史や書物はたまた現実世界から)嫌というほど学んでしまった」のだと思います。 きちんと勉強したら、(社会が学ばせたがらない)このシステムの本音=集団の暗黒面までしっかりと学んでしまう」のでしょう。 それを学んだら、結局自分も(人間なので)信用できないことになり、自分のいやらしさおぞましさを受け入れるしかない。 それが発揮されぬように集団からはいつも離れて、一人で開き直っているのが彼らの賢い選択になるのでしょう。 確かにその様な処は人生経験の中で私も頷ける処はあります。が海援隊の『贈る言葉』の中に 「人を信じて傷つく方がいい」と云う言葉が出て来ます。 確かに、騙されっぱなしは良くありませんが、この様な風に私は開き直れませんが、「自分で自分の身を守る」と云う風に成った事も頷ける処はあります。

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     昔農耕をしている時代は、嫌でも用水の使用などで近所の方と  付き合いがあり、それが自治会等へと発展したと思います。  その様な事から冠婚葬祭の文化も生まれたのではないかと考えられます。  とある実例ですが、70代の男性(妻は20年程前に死去)  死後連絡が取れないので近所の方が連絡し、  警察が入り、死亡していた方が居られました。  死後、3か月ほど経っていたそうです。  家の中を探し、子どもに当たる方に連絡が行ったそうですが、  子どもは「母が死んでからあっていないし、此方が来る事を拒み、  本人も私達にあう事を拒んでいた」 という事でした。  遺品整理を行うと、「行政に最低限の火葬をしてもらうだけの費用を置いておく」  「もしか体が悪く成ると老健施設に入る」という遺言状と通帳が出て来たそうで、  火葬し、その通帳から費用は割り当てたそうです。  孤独死の問題が云われておりますが、この様な考えが今多いのでしょうか?  この実例は死因は今まで元気だったが、突然心臓が悪く成ったとされておりますが  もしや老健施設や病院で亡くなった場合も  行政や職員に最低限の火葬をしてもらい、親族が来る事を拒否された方も居られま す。  又今回の実例は子どもが立ち会ったそうですが、  子ども(親族)も「そちらで勝手にしてください」という方が居られますが、  現代では金があれば人に頼らずに生きていけるという事を象徴しているのでしょう か?  ご回答お願いいたします。   

  • 掴み処の無い人への対応

    冷たいと云うか、掴み処の無い人への対応はどうすれば良いのでしょうか? 例えば、私の親族の人で、 「お元気ですか?」「元気でやってます」 「お変わりありませんか」と云う様な事のやり取りが面倒だそうです。 「お中元やお歳暮等欲しくも無いのにやり取りするのが嫌」 「冠婚葬祭なんて気を使うから嫌」 「自分が好きな事をするのが幸せ」 その人は、「此方は好きにやってるから構わないで欲しい」と云う事なのでしょうか? (天涯孤独と云うのではなく、興味のある事や自分が好きな事で共通の思いを持つ友人は居るが、友人の他の人が結婚式に呼ばれると、 「お祝い勿体ない」と言ってお祝い出さず、出席しない、それで疎遠に成るが、又別のその様な友人は探すという感じだったそうです) (器用で仕事は出来るそうですが、職場の義理も嫌いで、  部署の同僚や後輩の結婚祝いも出さず、その様な事をする位なら  退社した方が良いと云うポリシーだそうです。) この人は親の葬儀も「火葬」のみ、先祖代々の「墓」は放置、 見かねた親族の方が対応を行ったが、 「偲びたいなら俺抜きでやれ」 「俺は孤独死で良い、死ねば生ごみで良い」と云っております。   学生時代の恩師の中に、授業は教える、部活の顧問は行う、 「唯貴方が頑張ろうが知らないし、関係ない」と云う様な態度をする 人が居りました。苛めに関しても、暴力や秩序を乱した事は対応するが、それ以外は「我慢しろ」「世の中そんなもの」と云う感じでした。 私が教わる前に何があったのか知りませんが、卒業の時に各担任の先生が一人ずつ挨拶をしていきましたが、この先生は「終わりました、帰りましょう」で終わりました。 公の部分を守る事は大事ですが、この先生は「貴方が悩もうが私には関係ないし知らない。公の秩序を乱すと厳しく罰する、が、貴方が頑張っても知らないし興味がない」と云う様な態度を取られました。 この先生に卒業後、教員や学校の事務員と成り再会した人が居るそうですが、「昔教わりお世話に成りました」と云う挨拶をされる事にかえって迷惑で、その様な接触を避けられる様に成ったそうです。 別に人それぞれ違う事は解りますし、一人を大切にしたい、 個の部分に踏み込まれたくないと云う事も理解できますが、 「頑張ろうが、どうなろうが知らない」と云う様な態度を取り人にはどう対応すれば良いのでしょうか? ご回答お願い致します。

  • 孤独死の火葬や始末を拒否する事は可能なのでしょうか

    稀に、子や親族に居住地や電話番号を知らせず、永い間音信不通だった人が亡くなり、行政から親族に連絡がある場合があります。 その場合その親族の人が火葬や居住地の始末、行政への届け出を 行いますが、一切拒否する事も可能なのでしょうか? 又孤独死ではありませんが、元大企業の役員だったので、 老健施設に入所、子や親族にあう事も拒否、火葬は施設職員に委ねられた方が居られましたが、これはある意味自身で一つのポリシーを貫かれているのでしょうか?(コロナ渦の前です) 子や親族の人は「最期は会いたかった」「送りたかった」と云っておりましたが、本人は一つの生き方を貫かれていたのでしょうか?

  • 孤独死でも良い人が増えているのでしょうか?

     人は自分がこう思うから、他人もこう思うと思うのでしょうか?  やはり、色んな考えはあるが、自分がこうしたいからするというものなのでしょう か?  現在、孤独死の問題があります。  色々な人間関係とのしがらみで、そう成った方、  借金等で家族と疎遠になった方も居られ、一概には云われませんが、  唯、疎遠である子や兄弟や親族が捜し出され、その方達が立ち合い火葬と  いう事になると思いますが、  捜し出されても、本人が遺言などで云っていたり、親族が拒否すれば可能  なのでしょうか?  そうなれば、行政(市等自治体)が無縁佛として、火葬という事になるのでしょう か?  が、今後無縁佛が増えて行くと、病院の倹体も多くなり、無縁佛を火葬するのが  行政でとなると、予算や遺体の引取等の処分で別の問題が出てくると思います。  唯、高額の所得があれば、遺言で施設職員か在宅のヘルパーの方に任せると  いわれてそうされた方が居られました。  唯、この方(80代で死去 女性)は、子どもが「声をかけても」「拒否し」  死後、ヘルパーの方に「遺言通り」 火葬され、子に遺骨の場所も知らせず、  女性の預貯金をこの方にすべて渡し、本人(ヘルパー)の方は  「お母様は全て私にと言われたので」といい、電話番号を変え、住所も変わり  居場所誰にも知らせないという例がありました。  これは、悪質な例ですが、金銭で死後の処理を任せ、親族とは関わらないと  いう形のケースが今後増え、それを望まれる方が多く成るのでしょうか?  

  • 強い人 掴み処の無い人への対応の仕方

    生きていく上で、自立する事は必然的な事ですし、「人に頼らずに生きていく」事は大切な事ですが、 例えば災害(水害や地震等で被災する)にあった事で安否を気遣う、 久しぶりに会うと「お元気ですか」「ご無沙汰しております」的な社交辞令的なものが 迷惑だと云う人が居られます。 特にその先生と何か確執があったわけではありませんが、 小学校6年生の時の担任の先生、「授業は教え」特に体育は得意で 「スポーツ少年団のバレーボール部」を強豪に育てた手腕等はあり、 それは評価できますし、学校生活で「決まりを守る」事等も大事なのですが、通知表の生徒の所見欄は「空白」で 最後の学年集会で学年に所属する先生が一人づつ話をした時も断固として一人話をしませんでしたし、卒業式の後の最後の学級会でも他の組の担任の先生が「贈る言葉」を話していても、この先生は無言を貫き、本当に「何を言って良いか解らない(声を掛ける必要も無い)」と思っている様な感じでした。 1 教師の裁量は大変なので、生徒の内面に立ち入らない様にする様に勤められたのでしょうか?(いじめ問題も道徳的に叱らないで、 学校の秩序を乱した罰則で処置しておりました。(これは頷ける処も有るのですが) 2 卒業後街ででこの先生とあった同級生が居りましたが、 「お世話になりました、お元気で」と挨拶をすると、それ自体が迷惑な感じだった様です。 3 懇談会でも私の保護者に「成績は普通です。別に問題はありません。唯校長先生に怒られました。(廊下を走った事で大した事は無い)それだけは止めてください。」と言われました。 担任になった当初でも「勉強は教えます。唯君達がどう行動しようが誰と仲良くしようが知らないし私には関係がない、唯学校の秩序を乱すと厳しく罰する」と云われ、それに違反すると当時は大らかだったので体罰も行使するので、表向きはまとまっていた感じでしたし、 その「体罰」自体は否定しませんが、この先生、此方が寄り添う事も拒否され、此方が頑張っても関係ないという態度を取られました、 つまり、冷酷な社会に速く目覚めよと教えてくれているのでしょうか? この様な人は向こうが要求した時にのみ応えるだけと云うのが良いのでしょうか? (学校の秩序を乱した事で罰則はありましたが、それ以外はその先生と何も確執は無いのですが、何か掴み処が無く、私がどう振舞っても関係ないし興味が無いという態度を変えませんでした(私だけでなく他の生徒も) (スポーツ少年団のバレーボールでも「勝つ事」に主体を置き、 運動神経のある子は「この先生」を尊敬しておりましたが、当然ついて来れない子もおります、その子が「他で頑張っても」「知らない 関係ない」という態度を露骨に取っており、その様な生徒からは反発はありましたが、未だ体罰寛容の時代なので、腕力で制すると表面上は逆らわないで纏まっていた感じでした。) 1「社会の厳しさ」「冷酷さ」を教える上では、この先生の指導方法が良いのでしょうか? 2 この先生は何処まで行っても「寄り添わないし」「認めない(というか 「秩序を乱さないでいたら良いが」「目標達成できても 知らないし関係ないという態度を取られる」)という感じです。 3 (トータルで見ればそれが幸せとはいえるかどうか解りませんが)そこそこ勉強や運動神経が優れ、能力でやっていける職種の人はこの方法で社会を渡れているのでしょうか? この辺りの事をご回答戴きたいと思います。