ghostbuster の回答履歴

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  • 三人称視点(完全客観型)の許される範囲

    登場人物の心理描写や過去など一切語らない完全客観型についての質問です。 見たまま、ありのままを伝えるこの視点ですが、こういった場合はその内に入るのでしょうか? 「いつも暗かった彼女が、紙とペンを持った途端生き生きとしだした。どうやら絵が得意なようだ。」 これは完全客観型ですか? 最後の「~なようだ」は個人的な予想や推測が含まれていませんか? こういうのはダメなんですよね? もうひとつ、 「Aは台所にお湯を沸かしに行った。途中、B子から電話がかかってきて、『お風呂も沸かしといて』と頼まれた。Aは溜め息を吐いた。どうやらまた、あの臭い女が来るようだ。」 "~のようだ。"←これって許されるのでしょうか? B子が家に来るとしても、臭いとは限りませんし、あくまで語り手の予想ですよね。こういった"予想"が許されるのなら、「~に違いない」とか「~だろう」とかもOKになります。 小説を書いているんですが、どこからどこまでOKなのかわからなくなってしまいました。 全部教えてとは言いません。いま例に挙げた"予想"や"推測"がOKなのかNGなのかどうかだけでも知りたいです。 よろしくおねがいします。

  • 三人称視点(完全客観型)の許される範囲

    登場人物の心理描写や過去など一切語らない完全客観型についての質問です。 見たまま、ありのままを伝えるこの視点ですが、こういった場合はその内に入るのでしょうか? 「いつも暗かった彼女が、紙とペンを持った途端生き生きとしだした。どうやら絵が得意なようだ。」 これは完全客観型ですか? 最後の「~なようだ」は個人的な予想や推測が含まれていませんか? こういうのはダメなんですよね? もうひとつ、 「Aは台所にお湯を沸かしに行った。途中、B子から電話がかかってきて、『お風呂も沸かしといて』と頼まれた。Aは溜め息を吐いた。どうやらまた、あの臭い女が来るようだ。」 "~のようだ。"←これって許されるのでしょうか? B子が家に来るとしても、臭いとは限りませんし、あくまで語り手の予想ですよね。こういった"予想"が許されるのなら、「~に違いない」とか「~だろう」とかもOKになります。 小説を書いているんですが、どこからどこまでOKなのかわからなくなってしまいました。 全部教えてとは言いません。いま例に挙げた"予想"や"推測"がOKなのかNGなのかどうかだけでも知りたいです。 よろしくおねがいします。

  • 死をテーマにした童話

    小学1、2年生を対象にした童話のコンクールに応募する予定です。 死をテーマにした作品なのですが低学年に読んでもらうには、まだ早いでしょうか?

  • 中勘助と末子の関係について

    平成に入ってから、中勘助と兄嫁・末子の関係が明らかになったというのは本当でしょうか。 富岡多恵子著『中勘助の恋』のアマゾン・レビューを読んでいたところ、「この本が出たあと、中勘助と兄嫁との関係が明らかにされている」とありました。 しかし、私は寡聞にしてそのような話を聞いたり読んだりしたことがありません。 どなたか、1993年以降に出版された、中勘助と末子の関係について詳しく載っている論文や書籍について心当たりがありませんか?

  • 『死に至る病』の絶望と救済について

    キルケゴール『死に至る病』についてです。 絶望には段階があり、最も高度の絶望は、キリストに躓いてキリスト教を虚偽と攻撃することであると第二編の最期に記されていますね。 一方、第二編Bのb「罪の許しについて絶望する罪(躓き)」において、神に最も肉薄するためには、人間は神から最も遠くなければならないとあります。 ということは、キリスト教を攻撃する躓きの段階に達したとき(つまり神から最も遠いとき)、人間は神に最も肉薄しうるのでしょうか? そして、そのとき救済が訪れるのでしょうか? 『死に至る病』には絶望に関する考察が書かれていますが、ではその絶望から救済にどう転じるのかが書かれていないので私には理解できませんでした。

  • 夏目漱石の『手紙』の重吉について

    その後、重吉と、お静さんはどうなったのでしょうか?

  • トマス・バーディのダーバヴィル家のテスについて

    The bedroom which she share with some of the children fored her retreat more continually than ever. この英文の和訳は日本語訳されるとどの辺りの話になるんですか? 出来れば本の中のサブタイトル(ex:第一編 処女 第二編 もはや処女ならず)か、私が持っている本が岩波文庫のバーディ テス (井上宗次 石田英二訳)の本なので何ページ辺りかで教えてほしいです!! よろしくお願いします(>_<)

  • 旧ソ連の崩壊と混乱を描いた現代ロシア文学は?

    旧ソ連の崩壊と混乱に翻弄される庶民を描いたような 現代ロシア文学を読んでみたいのですが おすすめはありますか?

  • 魔女事件(山脇雪子)

    1926年10月にかけて発生したという「魔女事件(山脇雪子)」について教えてください。

    • ベストアンサー
    • noname#252332
    • 文学・古典
    • 回答数1
  • 志賀直哉の『和解』について

    質問その1:冒頭のお墓参りの時、「特別な場合のほかは墓の前でおじぎを しない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じたころの ある理屈から来た習慣だった」と書いてありますが、その「ある理屈」は 何の理屈でしょうか。 質問その2:慧子を青山の墓地に葬ることについて。「自分はTさんに二坪或いは 三坪くらいの墓地を青山に買ってもらうこと、(中略)を頼んだ。」父は「我孫子の お寺へ葬るよう」と命じたが、自分がお金払って青山で墓地を買うというのは慧子が志賀家 の墓地ではなく、青山の別のところに葬ったのですか。でないと、なぜ自分の家の墓地に葬るのに お金を払わなければならないのですか。

  • 志賀直哉の『和解』について

    質問その三:今年8月16日に、順吉が祖母訪問、父と二年ぶりに対面。二人は誰も口をきかなかった。しかし、一週間後の8月23日に、衰弱した祖母を見舞いに行ったとき、父が怒って母に順吉を家から帰らせた。なぜ、父親の気持ちがすぐに変わったのでしょうか。(もちろん、家に出入りを禁止されたのは一昨年の秋のことでした)

  • 志賀直哉の『和解』について

    質問その1:冒頭のお墓参りの時、「特別な場合のほかは墓の前でおじぎを しない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じたころの ある理屈から来た習慣だった」と書いてありますが、その「ある理屈」は 何の理屈でしょうか。 質問その2:慧子を青山の墓地に葬ることについて。「自分はTさんに二坪或いは 三坪くらいの墓地を青山に買ってもらうこと、(中略)を頼んだ。」父は「我孫子の お寺へ葬るよう」と命じたが、自分がお金払って青山で墓地を買うというのは慧子が志賀家 の墓地ではなく、青山の別のところに葬ったのですか。でないと、なぜ自分の家の墓地に葬るのに お金を払わなければならないのですか。

  • 志賀直哉の『和解』について

    質問その三:今年8月16日に、順吉が祖母訪問、父と二年ぶりに対面。二人は誰も口をきかなかった。しかし、一週間後の8月23日に、衰弱した祖母を見舞いに行ったとき、父が怒って母に順吉を家から帰らせた。なぜ、父親の気持ちがすぐに変わったのでしょうか。(もちろん、家に出入りを禁止されたのは一昨年の秋のことでした)

  • 志賀直哉の『和解』について

    質問その1:冒頭のお墓参りの時、「特別な場合のほかは墓の前でおじぎを しない癖が自分にあった。それは十六七年前キリスト教を信じたころの ある理屈から来た習慣だった」と書いてありますが、その「ある理屈」は 何の理屈でしょうか。 質問その2:慧子を青山の墓地に葬ることについて。「自分はTさんに二坪或いは 三坪くらいの墓地を青山に買ってもらうこと、(中略)を頼んだ。」父は「我孫子の お寺へ葬るよう」と命じたが、自分がお金払って青山で墓地を買うというのは慧子が志賀家 の墓地ではなく、青山の別のところに葬ったのですか。でないと、なぜ自分の家の墓地に葬るのに お金を払わなければならないのですか。

  • 島崎藤村著・小説「夜明け前」の記述の不思議。

    島崎藤村著・小説「夜明け前」は1929年4月より中央公論に連載された。彼はその第1部上・序の章・五に「この山の東の方から光ったものが出て、それが西南の方角へ飛んだといいます。」と記述しています。 事実1993年頃、私は恵那山登山の帰りの夕暮れ、猛速で私に向かって真っすぐに飛来するこの光に急襲されました。思わず身をすくめたほどの至近距離でした。ほんの一瞬の事でしたが強烈な不思議体験として記憶され、その後、ある日突然、この小説の記述に気づきました。 島崎藤村著・小説「夜明け前」の中の飛ぶ光の記述はどのようになされたのでしょうか。小説の素材は事実談が取材されたものなのでしょうか。

  • ドス・パソスの「非線形の語り口」について

    ジョン・ドス・パソス(John Roderigo Dos Passos)の「非線形の語り口(Nonlinear narrative)」について質問です。 まず、「非線形の語り口」とは何を意味しているのでしょうか。確かにドス・パソスは独特の文体をもっていますが、どういう理由でそれを「非線形の語り口」と呼ぶのかがわかりません。「非線形」という語が何に由来しているのかがわからないのです。 また、「非線形の語り口」がわかるなら、「非線形の語り口でないもの」はどのようなものなのか、具体例を挙げて説明してもらえると嬉しいです。

  • ドス・パソスの「非線形の語り口」について

    ジョン・ドス・パソス(John Roderigo Dos Passos)の「非線形の語り口(Nonlinear narrative)」について質問です。 まず、「非線形の語り口」とは何を意味しているのでしょうか。確かにドス・パソスは独特の文体をもっていますが、どういう理由でそれを「非線形の語り口」と呼ぶのかがわかりません。「非線形」という語が何に由来しているのかがわからないのです。 また、「非線形の語り口」がわかるなら、「非線形の語り口でないもの」はどのようなものなのか、具体例を挙げて説明してもらえると嬉しいです。

  • 国木田独歩と、その弟について教えて下さい。

    独歩は大分県の佐伯市の鶴谷学館に教頭として赴任する際、弟の収二さんを同行させていますが、その収二さんは独歩が学館から排斥されて退職し、佐伯市を離れるまでの1年足らずの間、ずっと独歩と一緒に佐伯で暮らしていたのですか?それとも郷里の山口県に帰った期間もあったのでしょうか?佐伯市で独歩と共に校長の坂本氏の邸宅に下宿していた間、弟の収二は何をしていたのですか?仕事もせずにぶらぶらしていたのですか?

  • 国木田独歩の自然観または神観について質問です。

    独歩はキリスト教徒でしたが、彼の自然観は「汎神論的自然観」というようなことがよく言われます。つまり、宗教の対象である「神」と、人間も含めた「自然」との区別が曖昧だといった意見です。言うなれば独歩にとっての「神」とはキリスト教の人格神とは違うという見解です。 これはキリスト教徒に限らず一般の批評にも見られる通説的批判ですが、果してそう言い切れるのか、必ずしもそうとは言えないのではないかという疑問があります。 たとえば『欺かざるの記』明治30年3月13日には、「神を知らんと欲して、ただ自然のみを見るは大なる誤謬なり」云々の記事があり、また、彼の祈りのような言葉は明らかに人格神観を表わしているからです。 要は、この文言の補強として、独歩作品の中に、自然界ないしは宇宙が「神」によって造られたもの、あるいは「神」の支配下にあるといった主旨の表現があれば、彼を汎神論者の如く言うのは当たらないということになるのですが、そういった表現が認められる作品はないでしょうか?ジャンルは問いません。お気付きでしたら、よろしくお願い致します。

  • 国木田独歩と、その弟について教えて下さい。

    独歩は大分県の佐伯市の鶴谷学館に教頭として赴任する際、弟の収二さんを同行させていますが、その収二さんは独歩が学館から排斥されて退職し、佐伯市を離れるまでの1年足らずの間、ずっと独歩と一緒に佐伯で暮らしていたのですか?それとも郷里の山口県に帰った期間もあったのでしょうか?佐伯市で独歩と共に校長の坂本氏の邸宅に下宿していた間、弟の収二は何をしていたのですか?仕事もせずにぶらぶらしていたのですか?