ghostbuster の回答履歴

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  • カント法論について

    カント法論の特徴についてどなたか教えてください

  • 実践理性について

    前回のアンチノミーの質問から考えてみました。 カントのアンチノミーは反対の内容を持ちながら、悟性概念の使用の仕方として適切ではないため、どちらも真である、或いは、どちらも偽であるという結果におわりますが、これが実践理性が要請される契機となるのでしょうか? なかなか理解できなく困っています。お手数ですが解説してくださると非常に助かります。 どうか宜しくお願いします。

  • 『ファウスト』はハッピーエンドなのに悲劇?

    ゲーテの戯曲『ファウスト』に関する質問です。 『ファウスト』は悲劇と銘打たれていますよね。 ところが、最終的にファウストはグレートヒェンによって魂が救済されることで、ハッピーエンドを迎えますよね。 もちろん、単純にハッピーエンド=喜劇、バッドエンド=悲劇と分類できるものではないと思いますが、なぜこのような分類になるのだろうかと疑問に思いました。

  • N.ルーマンの「意味」概念の意味についての質問です

    N.ルーマンの「意味」概念の意味が、よく分かりません。 ルーマンは「複雑性の縮減」という概念を、「意味の連関による、縮減である」と説明しましたが、 その際の「意味」の意味、すなわち「意味」の役割がよく分かりませんでした。 私の持っているテキストの解説では、 「さまざまな選択可能性(複雑性)に開かれた人々の相互行為は、『意味』の連関によってより確かな状態に近づく。」と説明されており、 「意味」は、「適切orありえない」を区別する基準の役割を果たすとされていました。 この具体例として、 夫婦二者間の朝の挨拶のやりとりがあげられていました。 夫が朝起きてきてから、妻に「おはよう。」と言った後、 妻の答えが「おはよう」、「朝ごはんよ」、無視などの場合は、「ありうる(適切な)」了解可能の答えとされ、 一方で、「両生類」と答えた場合は、「ありえない」了解不可能な答えとされるそうですが、 なぜ「両生類」と答えることが、「ありえない」了解不可能な答えとされるのかが分かりません。 確かに常識的に考えれば、朝の挨拶に「両生類」という言葉が出てくるなど、 余りにもバカバカしくて考えられないことではありますが、 もし、この夫婦が「両生類」という言葉に朝の挨拶代わりとなる何らかの別の意味を付与していた場合、 妻の「両生類」という返答は、「ありうる」了解可能な答えとなるのではないかと考えられます。 このように考えるうちに、「意味」のもつ「適切orありえない」の選別機能の意味がよく分からなくなりました。 相互行為のうちで、ある行為に対する応答の行為の選択肢が縮減される際の基準とされる「意味」の役割とは、 一体どのようなものなのでしょうか? すなわち、「意味」が選択肢を縮減するときの「適切orありえない」を選別する基準とは一体何なのでしょうか? 客観的・普遍的・論理的なご説明が可能な方が、ございましたら お教え下さいますよう、宜しくお願い致します。

  • デリダの「マルクスの亡霊たち」について

    デリダの「マルクスの亡霊たち」について詳しい方、分かりやすく教えて下さい。デリダのマルクス主義に対する態度がよく分かりません。よろしくお願いします。

  • 理念は知覚を統制しますか?

    理念は知覚を統制しますか?

  • ヘーゲルから国際政治の思想を読みとれますか?

    どんな倫理的基準も国家間の関係には適用できないのだというリアリストの見解は、マキャベリからスピノザ、ホッブズを経てヘーゲルへとたどることができるが、 ヘーゲルにおいてその最も完成度の高い、最も徹底した表現をみたのである。ヘーゲルにとって国家は完璧でなおかつ道義的に自己充足的な存在である。つまり国家間の関係は、独立した意思と意思―それらはいかなる相互的義務によっても結ばれてはいない―の間の調和と対立を表現しているものにほかならない。… という文章を国際政治の本で読みましたが、国家間のリアリスト的見解がヘーゲルによって最も完成度高く表現されたとは、もう少し詳しくいうとなぜそう言えるのでしょうか?ヘーゲルの言説のどこが、スピノザやホッブズより徹底しているのでしょうか? ヘーゲルのどの著作に、そのような思想が最もまとまって表現されているのでしょうか? ヘーゲルは確か…倫理的基準の最高形体のようなものを国家が表現している、それを人倫と呼ぶ、というように論じていませんでしたか? そしたら逆に、国家間の関係にも倫理的基準は適用できる、それも紳士的な基準が本来適用できるんじゃないのか?とも思ったのですが…?ここで言っているのはそういうことではないのでしょうか?

  • 武者小路実篤

    武者小路実篤は新しき村を建設したと思いますが、 そこで7年ほどで離れてしまっていますね。 その理由が分かる方がいらしたら教えていただければさいわいです。

  • 余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。

    具体的に谷崎側の主張内容を教えてください。転載して頂けると助かります。 その谷崎の主張が読める書名やサイト名がありましたら紹介も宜しくお願いします。 そもそも芥川はなぜ批判めいた事を口走ったのでしょう(発端は芥川側ですよね)。精神力の低下により谷崎生意気だと発狂し始めたのでしょうか(それこそ中身のない感じの浅い批判文をさらしてまで)。 しかし方や芥川だけに文学史上極めて貴重な論争ではないかと思うのですが、単なる出来事として周知され肝腎の議論の行方についてどうなったか私は全く知りません(芥川賞は知名度があるのに。矛盾を感じます)。 ちなみに当方は読書家ではありません。でもこの二人の文学論争は近代文学(作家)の本性を伝える重要な資料になると思うのです。 宜しくお願い致します。

  • 余りにも芸術的な芥川に対する谷崎の反論内容。

    具体的に谷崎側の主張内容を教えてください。転載して頂けると助かります。 その谷崎の主張が読める書名やサイト名がありましたら紹介も宜しくお願いします。 そもそも芥川はなぜ批判めいた事を口走ったのでしょう(発端は芥川側ですよね)。精神力の低下により谷崎生意気だと発狂し始めたのでしょうか(それこそ中身のない感じの浅い批判文をさらしてまで)。 しかし方や芥川だけに文学史上極めて貴重な論争ではないかと思うのですが、単なる出来事として周知され肝腎の議論の行方についてどうなったか私は全く知りません(芥川賞は知名度があるのに。矛盾を感じます)。 ちなみに当方は読書家ではありません。でもこの二人の文学論争は近代文学(作家)の本性を伝える重要な資料になると思うのです。 宜しくお願い致します。

  • 自己採点

    哲学の分野かわかりませんが質問します。 自分は高校生でセンター試験の模試というものを受けます。 この模試では、試験後に自己採点をします。 選んだ番号が自己採点時にわかるように、試験中問題冊子にも鉛筆で印を付けておきます。 試験終了後、問題冊子を閉じた後、閉じられた答えの冊子をもらいます。 試験終了後は、問題冊子、答えの冊子はいずれも自己採点するときまで開きません。 ここで質問です。 以下のそれぞれの違いで自己採点の結果(点数)が異なる(変化する)か一定(変化しない)か教えてください。 ・自己採点する時間(問題冊子を開く時間) ・自己採点する時間(答えの冊子を開く時間) ・自己採点時の冊子を開く順番(問題冊子が先か、答えの冊子が先か) 自分は、記憶が点数に影響を与えるのではないかと思ってしまい、いくら考えてもわかりません。 このようなことを考える際の注意や、この質問に関する考えでも結構です。

  • フランス文学

    フランス文学、contes cruelsの特にDuke of Portlandの面白みってどこでしょう? Véraの方が割と話し中に私は入って行きやすく読みやすかったのですが、ポートランド伯爵はイマイチ自分の中で 面白いところがわからず読み込めません。 面白いなと思われるポイントがありましたら教えてください。よろしくお願いします!

  • 弁証法について

    --最近、弁証法に関心を持って勉強しようとしているところです。若き頃は、自称マルキスト達から弁証法について聞かされ、煙に巻かれていました。ところが、最近、弁証法について考えるに、これはただの問題解決のための方法にすぎないのではないかと思うようになりました。 問題解決の方法としては古来より試行錯誤法があります。どちらも、有力な方法として意識的に使用されてゆくうちに、試行錯誤法なり弁証法なりの名がつけられたものと推測されます。  試行錯誤法の場合、考えをたくさん思いついて、それらを全部試せば、より有効かつ精度の高いものになるはずです。ところが、それには時間がかかります。それに、直感的に、また経験的にこのやり方はダメだとわかるものまで試してしまうことになります。  弁証法であれば、全部試さなくとも、最初の時点で有効な考えが大体絞り込めるのであまり時間をかけなくてもよいと言えます。ただし、思いこみや偏見が混入する余地があるように思います。  結局、どちらのやり方にもそれぞれにふさわしい局面があるのではないかと思います。弁証法で説明すると結果的にうまくいくような場面においてのみ、弁証法がうまく働くというふうに感じています。逆に結果的にうまくいかないような場面において使うと、粗雑で強引なものになったり、場合によっては詭弁に堕するのではないかと思います。この理解で正しいでしょうか。  もう一つ、問題解決が現実になされるためには、現実の日常生活のレベルや社会生活のレベルの問題でなければ解決はあり得ないと思います。よって、神とかかわることや、人間の持つ不変の理性(ヘーゲル的な意味での)といったものを問題解決の方法とで、つまり弁証法で扱うことに意味がないのではないかと思うのですがいかがでしょうか。  以上の2点についてご教授願えればありがたいです。また、それ以外の論点でおかしな点があればご指摘をお願いします。  それと、問題解決の方法でもっと有力なものがあるようなら、簡単に紹介して頂けるとありがたいです。

  • 哲学の弁証法についておたずねします

     哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。 ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。  ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。  また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。  正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。  弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。  また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。  弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。 正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。

  • 色彩論を論じた思想家

    色彩論を勉強したいと思っていますが、 色彩論の歴史的系譜には誰がいるでしょうか。 私が知る限り主な思想家は ・ニュートン『光学』(近代科学的な色彩観) ・ゲーテ『色彩論』 ・シュタイナー『色彩の本質』『色彩の秘密』 ・ヴィトゲンシュタイン『色彩について』 ・ドゥルーズ『感覚の論理』 がいますが、 他に読むとおもしろい色彩論があればどうか教えてください。 よろしくお願いします。

  • 哲学の弁証法についておたずねします

     哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。 ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。  ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。  また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。  正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。  弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。  また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。  弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。 正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。

  • 哲学の弁証法についておたずねします

     哲学の弁証法についておたずねします。哲学に詳しい方、回答をお願いします。 ある考えAと、それに相反する考えBがあるとき、両者を統合して新たな考えCが生まれる、という発想が代表的な弁証法だと思います。  ところが、どう考えても、こうした考え方は意味のないものに思われます。というのは、最初の考えAが正しく成りたつものでなければ、そもそもこうした発想は成立しないはずです。 考えAが成りたつためには、Aが客観的に正しいとされなけれななりません。ところが、客観的な正しさをうんぬんする時、主体の判断と関わりなく、Aが成りたつものでなければなりません。でも、判断主体がいなければAの正しさを言うことはできないので、Aが客観的に正しいとされることはないはずです。経験的に判断できたとしても、その命題が恒久的な正しさを持つものであることを示せないはずです。  また、考えAが成りたつためには、Aが主観的に正しいとされるのであっても構わないはずですが、この場合、判断主体の判断の正しさを根拠づけるものが必要になります。そうしたものは存在しませんから、この考え方も成りたちません。  正しい認識の仕方は、現象学の方法やヴィトゲンシュタインの言語ゲームによって取り出されたように、共同存在という考え方を背景として考えるしかないと思います。この考え方だと、考えAが成りたつ根拠が存在します。  弁証法をキルケゴールの考えたように人間の実存という問題として考える時、主体と世界は彼の想定とは違って、常に他者との共同存在であるわけだから、断絶はあり得ません。よって、この意味でも弁証法は成りたたないと思います。  また、ヘーゲルの唱えるような抽象的な弁証法ももちろん成立しないと思います。抽象的な弁証法は、弁証法の枠組みの全体が客対物なので、どこまで行っても正しい命題として措定されることはあり得ないはずです。  弁証法の内部に立ち至ってその構造や内容を考えることに意味がないと思うのですがいかがでしょうか。 正しいとする判断はどのようにしてなされるのでしょうかか?---どこまでいっても判断は不可能です。なぜなら、判断は判断主体(縄田さん)がいてこそ可能だからです。自分は傍観しているのであって、判断しているのではありません。客観的正しさが存在するという言い方は背理なのです。

  • 色彩論を論じた思想家

    色彩論を勉強したいと思っていますが、 色彩論の歴史的系譜には誰がいるでしょうか。 私が知る限り主な思想家は ・ニュートン『光学』(近代科学的な色彩観) ・ゲーテ『色彩論』 ・シュタイナー『色彩の本質』『色彩の秘密』 ・ヴィトゲンシュタイン『色彩について』 ・ドゥルーズ『感覚の論理』 がいますが、 他に読むとおもしろい色彩論があればどうか教えてください。 よろしくお願いします。

  • 以下のスピノザの言葉の、典拠、意味、使い方について

    お世話になっております。 ジャック・ラカンのセミネール「精神分析の四基本概念」を読んでいたら、 つぎのようなスピノザからの引用文に出会いました。 「cogitatio adaequata semper vital eandem rem」 この一文は、スピノザのどの著作で、どのような文脈で用いられているのか、教えてください。 ラテン語の素養がまったくありませんが、この文の意味を教えてください。 どのような意図をもってラカンが用いているか、なども、もしよろしかったらご回答ください。 ちなみに、該当箇所は、四章の三節、 ページでいうと岩波の翻訳65ページの、後ろから二番目の段落です。

  • 科学と合理

    「科学者は合理的な考え方を行う」などのように、科学者に対して「合理的」という言葉が一般に多用されていると感じます。 質問: i) ここで用いられている「合理」とは一体なにを指しているのでしょうか。 ii) この考え方は科学主義(科学万能主義、科学教;批判的意味)を含んでいると考えて居ます。みなさんはどう思いますか。 大陸合理主義やイギリス経験主義といった対比からすれば、科学は帰納的な経験的手法によっています。にも関わらず「合理」といった言葉を用いているのは「科学が全て」であり、そこに普遍的な真理(理性)があると信じられているからではないでしょうか。 懐疑主義に陥るつもりでもありませんが、現代において科学が絶対視されすぎているこの風潮に漠然とした違和感を覚えます。 みなさんの意見をお聞かせ下さい。 ちなみに私は物理学専攻の修士課程に所属している学生であり、ここのところ特に科学に対する無情(無常)さに退屈を感じてしまっています。以前の情熱を取り戻したいという思いもどこかあり。。。