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国語

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  • 高校の国語で

    人生を考えるヒント―ニーチェの言葉から―「http://www.shinchosha.co.jp/books/html/603524.html 」で 「人間とは、顔を赤らめる唯一の動物である。いや、そうしなければならない唯一の動物である」 とあるんですが、なぜそうしなければいけない唯一の動物なんでしょうか? 皆さんの意見をお願いします。

  • 国語のできる人!

    苛立ちを持ちました。なんて、いい方はしないですよね? なんてゆうんですか?

  • 現代国語の勉強

    現代国この勉強をしたいと持っています。 高校ではなく大学のです。語彙力を高めたいと持っております。 何かいい本はありませんか? (広辞苑を読めというのはなしの方向で)

    • loloka
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  • 国語の宿題です

    次の標語の中からこれは、と思うものを選び、それを選んだ理由を簡潔に述べてください。 「先輩も上司も無視して再確認」 「自分の手から離れる前に確認しよう」 「ついうっかり最後に泣くのはあなたです」 「おかしいと思う心が身を守る」

    • noname#195581
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  • 国語 文章の正誤

    昨日寝ようとしたときに ここ数日大汗をかいたのに枕カバーを変えていなかったことを思い出しました。 そのときの独り言がなんというか違和感がありまして。 「べたついた感じ(べたつき感を)を感じる」 「~を感じる」これは正しい言い方です。 「べたついた感じがする」これも正しいですね。 「べたついた感じを感じる」は・・・ 実際べたついているわけではなく「通気性が悪い」という意味で 「べたついた感じ」と使うのだから、「それ」を「感じる」と書くのは 良いような気もするのですが、どうにも違和感があります。 教育者の端くれとしてこんなことではいけないとは思うものの 考えても答えが出なかったので質問します。 正しいのか、間違っているのか、今時代の中で変化の途中なのか、見当違いなのか。 P.S. 「感じを感じる」で検索したらやはり疑問に思っている人はいるようですね。

  • 暗記 国語 和歌、俳句 

    国語の和歌や俳句が理解できません。 ただただ、訳と技法を覚えるだけでまったく面白くありません。情景をイメージしたりするのですが、つまらないです。勉強している実感がありません。 国語の和歌、俳句、歴史や地理といった暗記科目はどれも考えているという実感がなく、ただただ覚えるだけなので、興味が湧かず、すぐに忘れてしまいます。もともと私は飽きやすい性格で、興味がないとすぐに忘れます。実生活とのつながりを考えたり、連想記憶術、速読をやってみたりしましたが、すぐに忘れます。一体どうやれば理解できるのでしょうか。 また、理解したとき、そこに考える楽しさというのはあるのでしょうか。

    • momouo
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  • 国語の福島メソッド

    福島隆史の福島メソッドは 「言いかえる力」「くらべる力」「たどる力」を言葉の関連付けの技術としています (出口のメソッドも同様) 例えば、下記のような説明文はどの力に当てはまるのでしょう。 「今日は公園に行きました。公園にはたくさんの人がいました。滑り台で達也くんが遊んでいました。」 特に言い換えてもいないし、比べてもいないし、たどってもいません。

  • 国語の質問(難)

    現代の都市に暮らす人びとの心は、都市の建物、雑踏、シッソウしたり渋滞したりする自動鮮、ショウ・ウィンドウや街旅 のテレビ・スクリーンに映し出される映像、郊外住宅地の風景、携帯電話の小きなディスプレイ上の文字列、小さなイヤフォン から流れつづけるリズムやビートといったものたちのなかにトウエイされ、表象されている。それだけではない。そこに暮ら す人びとの心的生活が、そうした事物に規定され、それらを通じて現れ、それらなしにはまったく別棟のものになるであろうと いう意味で、それらの事物は、そこに暮らす人びとの心の一部なのだ。 物質が見る夢、物が抱く感情、メディアのなかの記号やイメージとともに明滅する心や感情が、都市や社会のなかで私達 を捉え、私(たち)によって生きられる。私たちが見てきたのは、そのような場としての都市や社会ではなかっただろうか。 物質が夢を見る。あるいは、心が物の中に、あるいはものを通じて現れる。こうした一見すると奇妙な物言いは、ヴアルター・ベンヤミンやマーシャル・マクルハーン、ミシェルフーコーの思考を通過したあとの社会学的思考にとっては、必ずし も奇異なことではない。 、′ たとえば都市をめぐるベンヤミンのテクストでは、商品や室内、パサージユやその内外をイロドるモードといった、十九 世紀から二十世紀はじめの都市空間に見出される端的にモノである存在群は、そこに人びとの意識が表象されるだけでなく、そ れ自体が集合的な心的現象であるかのように取り扱われる。 芸術家が作る建物からエンジニアが作る建物へ。絵画から写真へ。これらは建築やイメージを「精神」から解放していくかの ように見える。だが、実際、そのようなテクノロジーとともに現れたパサージユやプルジョワジーの室内、博能会やパノラマと いった事物が示すのは、それらの事物を生み出した人びとの意識や欲望である。そしてそれらは、単に人びとの意識や欲望を表わしているだけで ではない。そのようなテクノロジーに支えられた事物はまた、積極的に人びとの意識や欲望を駆動し、作り出す ものであり、その意味で入びとの意識や欲望の一部をなしてもいるのである。 マクルーハンは、「メディアはメッセージ」という警句的教現によって、種々のテクノロジーが社会のなかに生み出す行為や 関係のペース、スケール、パターンへの注目をカンキしただけではない。彼はまた、みずからの警句をさらにもじった「メデ ィアはマッサージ」という言葉で、そうしたテクノロジーが生み出すペース、スケール、パターンが人びとの意識や感覚に働き かけ、たとえば「活字人間」や「テレビ人間」のような、特定の思考や感覚の形式を備えた人間類型を生みだすことに注目した。 マクルーハンによれば、メディアとはそもそも「人間の拡張」を可能にするものである。活字人間やテレビ人間にとって、活字 やテレビ、そしてそれらが可能にする意味や表現やイメージの空間は、人間に外在するものでほない。それらは拡張きれた人間 の一部なのである。同じことは、鉄道、高速道路と自動車、高層ビルといった〝メディア〝についても言えるだろう。現代の都 市に暮らす私たちほ、〝鉄道人間″や〝自動車人間〝高速道路人間〝や〝高層ビル人間〝であり、私たちの意識や思考、精神は、そうした〝拡張された身体″と相関した存在でしかありえない。 また、フーコ-が監獄の誕生で示したことの一つは、監獄や教室、兵舎のような物的施設の空間内の配置が特定の運用規 則と組み合わされることで、その内部に位置づけられる人びとのなかに、「不断に自分を監視し、管理する自分」という という特異 心的メカニズムを生み出すと同時に、そのような心的メカニズムに支えられた身体間の相互関連のなかの存在へと、人間を形成 していくということであった。「身体の監獄たる精神」という監獄誕生のなかの言葉は、身体に内在する多様な運動性が精神を蝶番にして規律・訓練されていくことを示しているのだが、その精神は人びとの身体のなかにだけあるのではない。監 獄の建物に、そして教室や兵舎の建物にそうした精神が宿り、身体を攻囲しているのである。 十九芸世紀以降の都市と社会を特徴づけていることの一つは、こうした物質的であると同時に社会的な世界のなかに、高速交通や高速通信を可能にするメディアに媒介された、それまでに存在しない「場」や「地形」が生み出されていったとい うことである。 たとえば、鉄道敷設は、その沿線の空間を線状に結び付けていっただけではない。以前であれば五感によって経験されて いた移動する途中の空間が、そこでは車窓の外を飛び去っていく「風景」という像として経験されると同時に、「移動する車内」と という新たな場と、居眠りや読書、とりとめのないおしゃべりや、車内の中吊り広告をほんやり眺めるといった、新たな行為や経験の様式を作り出す。して、そのような行為や経験を通じて、鉄道路線で結ばれた駅の数珠状の鎖列を軸として国土や地域や都市をイメージする空間了解の形式が共有されていく。と同時に、通勤や通学、業務のための移動などの活動を、鉄道の運行時間にしたがって管理・調整するという、時間的・空間的な行動の管理も、日常生活を送るための必要な技術として浸透 く。それは、社会化された機械装置を軸とするものへと社会的な空間や時間が編成されて、そのような機械装置とそれに媒介さ れた空間・時間のなかで、身体の集合的な活動が編成されていくということ、それを通じて新たな質や構造をもった「場」や「社会の地形」が、社会生活の物質的な基盤であり、かつまた時空間上の広がりをもったイメージとして、成立していったというこ とである。私たちが知っている「都心」や「郊外」という場は、物質性とイメージと、そこでの人びとの行為や問係のスイコ ウを通じて編成された社会の地形のなかに現れるのであり、そのような地形のなかで固有の実定性を与えられるのである。また、映画のうな映像メディアや、電話やテレビのような電気的な通信メディア、グラビア化した雑誌のようなプリント、メディアの普及と浸透は、地理的な場とは異なる言語やイメージの伝達の場を、聴覚や視覚という物理的かつ身体的な位相で存在することを可能にすることで、新しい社会的な環境を形成していくものだった。こうしたメディアは、文字や絵画を媒体とするそれ以前のメディアに媒介された環境とは異なる遠近感、身体感覚、現前性をもつ場を、社会の中に切り開いていく。そこでは、ひとびとにとって有意味な社会の広がりが、みずからの身体の近傍に経験される広がりだけでなく、種種のメディアを通じて拡張され、自己や生活の理想的なイメージメディアもメディアを通じて日々降り注ぐファッショナブルな幻像のなかに求められるようになる。そして「経験」「結びつき」「理想的」といった言葉が意味するものも、かつてそれらの言葉が意味していたものとは異なるものへと変貌する。それはつまり、「世界」や「社会」に対する人々の了解と想像の形式が変わるということ、端的にいって「世界」や「社会」のあり方が変わってしまうということだ。都市の「境界」という伝統的には地理的空間上に見いだされる存在すら、そこではメディア媒介的な現実の位相において思考され、経験されるのである。私たちが生きる世界は、十九世紀以降に出現したこうした諸メディアが切り開く新たな物質性の次元も、その素材として取り込むとこに成立している。 映画スタジオにおいては、器械装置が現実の奥深くまで侵入しており、その程度たるや、現実の純粋な姿、器械装置という異物から解放された姿のように見えるものはある特殊な処理の産物、つまりその目的のために特別にセットされたカメラで撮影したものを、同種の他の撮影フィルムとモンタージュした結果なのである。器械装置から解放された現実の姿は、ここでそのもっとも人工的な姿となった。なまの現実の光景は、技術の国の青い花となった。ここで述べられているのは、映画というテクノロジーのなかでは、器械装置が現実の構成に深く浸透しており、最も自然に見えるものこそが器械的な技術や処理を通じて現れてくるということだ。そして、映画というテクノロジーとその表現が、大衆的な娯楽を通じてひとびとの日常的な環境の一部になっていくとき、映画をつうじて現れてくるさまざまな映像は、ひとびとにとっての現実の一部を構成していくようになることができるだろう。このとき、そうした技術に深く支えられた技術の国では、なまの現実なるものは伝説の青い花のような、決して手の届かないロマン主義的な憧れの対称という位置を、技術化された環境のなかで、夢みられるものとしてあてがわれることになる。 問題1 それらの事物は、そこに暮らす心の一部なのだとあるが、そのように言える理由として、最も適切なものを選べ。 1人々の欲望から生み出された都市の事物は、一方で人々が抱く欲望の多様性を奪う拘束となるから。 2都市の事物は、そこで暮らす人々の心の反映であるとともに、人々の欲望を現出させるものであるから。 どちらが正しいか解説お願いします。

    • luut
    • 回答数3
  • 国語の質問(難)

    飛行横は、鉄道の駅の対応物として空港をもつことになった。空港は飛行横の通過する空間と地表の接点として生じてきた。 しかし都市のさなかに入ってきた駅とちがって、空港は都市と結び付けられながら、たいてい都市からはるかに離れたところに ある。空港の建築はもはや都市建築ではなかった。空港にいると、われわれは砂漠のなかに立ったように、なにもない索漠たる 荒野のなかにいるのである。その名の示している都市を見ることはほとんどない。どちらの方角に都市があるのかきさえ分からな い。異様に孤立した場所なのである。だが現代という時代に顔をあたえている建築があるとすると、それは都市にある劇場でも、 美術館でも、官庁建築でもなく、空港ではなかろうか。そのことは空港があたらしい経験の場であり、同時に都市にあたらしい 変化をもたらすケイキであることを意味する。 空港での経験とはなにか。それは主として主体と他者の関係である。 しかしその前に空港建築について多少触れておいた方がいい。世界の大都市の空港の多くは、都市からさらに速くに移転して 改善が進み、金属とガラスを主たる素材とした、かなり巨大なハイテク建築として横たわっている。そのデザインがどうあろう と、結局は、出入国のチェック、飛行横への搭乗と降機、飛行機自体の離着陸、その整備などを中心とした、徹底的に合理化されたプログラムの現実化という機能では同じである。それだけの機能は満たさねばならないが、それ以上はなにも必要がない。 多くは空問のデザイン、レストラン、免税店などを多数用意して、なんとか居心地をよくしようとしているが、建築物のなかで もっとも機械に近い印象は免れない。われわれは、たとえば荷物が、コンピューターによってどう自動的に仕分けられていくか など、舞台裏を覗くことはないが、それでいてやはり機械のように機能する仕組みのなかを、きわめて厳密に決められた方針に したがって、自動的に行動させられていることには気がついでしまうのである。 空港での経験は、孤独の軽みとも、自由とも、完全に拘束された状態ともいえる。いくつかの経験が重なっているのだ。われ われの出会うのは見知らぬ人びとばかりである。 トランジットの長い待ち時間、たまたま隣に腰掛けた他の国の人びととそ のとき限りではあるが会話を交わす。しかも彼または彼女の旅が彼らの人生のどんな瞬間なのか、どんな目的でどこへ行くのか については詮索もしないし、まったく無関心でいられるのである。彼らは彼らなのである。完全な他者性。こうしてたまたま道 ですれ違う以上の他者、言葉も違う人びとと、双方の知っている言葉で交差してみるのである。多分、二度と会うことはなかろ う。われわれは、自分の慣れ親しんでいる世界とは異質な世界との接触を繰り返し経験する。彼らのことを私は知らない ー だが知らないとはどういうことか。 われわれは二つの経験をしている。ひとつは他者と主体についての経験である。他者はわれわれの日に透明な存在なのか、あ るいは反対にまったく不透明な存在なのかと絶え間なく自分に問いかけながら、こうした他者との接触を反復しているのである。 それは主体の経験にはねかえってくる。というのはわれわれ自身の方も、そのとさ自分がなにものであるかを主張しないばかりか、 自分の職業も、社会で占めている役割も諸関係もまったく無意味になる。ほとんど裸になっているのである。孤独かつ自由にな るとは、だれからも見られないことではなく、社会性をはぎとった裸の人間になってしまうことかもしれない。 第二の大きな経験として、われわれは異様な権力空間を経験しているのである。ここは一体どんな場所なのか。われわれはパ スポートを見せて国外に出ている。もちろんわれわれはパスポートを検査され、普通、国内にいるときには感じない国籍をあら ためて実感している。 パスポート・コントロールを通ったあとの人間の経験は、これまで味わったことのない政治空間の経 験なのである。空港は、どこにも属していないように見えて、その実、こうした自由を無化する権力の空間なのである。そこは どこでもないのに、イゼンとして権力の管理下にあるのを感じないではいられない。国家から解放されてまったくの自由であ るようでいながら、われわれはこのときほど、われわれをカンシする権力の働きのなかに拘束されていることはない。われわ れになにができるのか。ただ持つだけであり、一定の場所以外には踏み込むこともできない。いかなる自由も奪われ、権力に閉 じ込められている存在なのである。だが一体、だれの権力なのか。それは完全に国家に属しているとはいえず、だれのものでもない権力であり、いわばゼロの権力といっていいようなものなのである。たしかにそこにはまだ僅かながら ネーション・ス テートが残っている。 またネ-ションは、こうしたゼロとのどんな関係のなかにあるのであろうか。言い換えるなら空港とは、ゼロに限りなく近い空間である。われわれは主体と他者にかんしても、権力にかんしても、ゼロを掠めるように経験しているのである。われわれはこの主体と権力の関係を追求する必要に迫られるのである。一方でかつて ミッシェル・フーコーが論じてみせたように、主体を産出した権力をようやく理解すると同時に、権力の生み出すフーコー 的な主体化の論理をこぼれる主体の可能性をほんやりと感じているのである。フーコーの権力翰が近代社会の形成にかかわると すれば、 いま見ている主体は、近代社会をはみだしている。それがどんな社会かを言うことはできないが、主体がゼロである ことを感じることは、なんらかの兆候であった。飛行機の旅で唯一実感するのは、時差による異常によってほじめて知る身体で ある。われわれは身体を、今や、巨大な地球規模の空間と時間の間際で味わう経験との関係でコウサツしなければならなくなっ たのである。 空港とはこうしてゼロを経験する、これまでは現実にはなかった空間である。ところがこのゼロは、生産力とまでは言わない ものの、ある種の生産力、変容の能力をもっているのである。 飛行機による旅の簡略化によって、多くの人びとの旅が変質していった。都市は直接的でないにしても、きわめて容易に他の 都市と接続するようになっていったのである。こうした世界の都市をあたらしい関係に編成しなおす力の根底にあるものを問い 詰めれば、空港で感じ取っているゼロと同じものではなかろうか。そこになんらかの実体的な力の源泉を想定しても見つからな い。つまりこれまで 普遍空間と呼んできた理念とは、こうした意味でのゼロに近いのではないのか。そしてそのゼロの生み だす余剰に、われわれは身体や主体のありようを見いだそうとしているのではないのか。 あらゆる空港が都市と異様に速いことも、これと関係がある。それは今のところ、都市と航路の接点であり、都市への交通機関を整備する必要があり、直接に都市の構造に割って入らないまでも、都市の付属施放と考えられている。しかし日常の生活か ら離れたエアポートつまりゼロの空間を介してしか、都市がもはや他の都市との関係をもちえなくなったことは、都市が現在の 姿のままでも連合してあたらしい集合をつくることになっていく可能性を示している。したがってこれまでなら、都市と都市のあいだの田舎、農村、地方都市、さらに無人地帯としてあったものも、こうした連合のなかにホウガンされることになる。こ れは都市的なものから想定される都市というより、すでに ポスト・アーバン社会という集合体であって、その意味では都市 はもはや都市ではありえない時代が近づいている。 飛行機の旅では、ある都市から都市への移動において、「領土」の経験が失われてしまった。鉄道がいやでも国境を通過し、 したがって版図を知覚するのにたいして、飛行機の旅にはそれがない。確定した領土こそ国民団家の基盤であり、現在のわれわ れが惰性的にもっている都市の概念の底に、まだネーション・ステートが潜在していることを考えると、空港を経由する旅は、 布かち、いわば政治的、歴史的基盤を取り除く経験ではないか。想像的意識のなかでは、国家よりも上にいくつかの都市が 集合した状態を世界として知覚しはじめる感受性が育ちつつあるのは、こうしたエアポートの経験のせいではないのか。 いまや都市はその自立性以上に、世界化の力に動かされているが、その力が端的に表現できているのはエアポートのゼロの空 にほかならないのである。 この文章をよんだのですが、非常に読みにくく何を言っているのかまったく理解できません。できれば、ようやくと筆者のいいたいことを教えてほしいです。 問題 それは主体の経験に跳ね返ってくるとあるが、その具体的な説明として最も適切なものを選べ。 1空港における未知なる他者がどのような同一性を有しているかを探る反復的な接触は、一過性のゆえに互いの無関心に収束し、主体は自己の同一性の拘泥する必要から解放されるということ。 2空間で出会う人間の同一性は意味を持たないものであり、またその同一性は関心の対象でないため、そのような他者との接触は主体を社会的な役割から離脱した存在に還元してしまうということ。 問題 時差による以上によってはじめる身体とあるが、このことの言い換えになっている表現を本文から十字以内で抜出しで答えよ。 問題 現代という時代に顔を与えているという、筆者の空港についての考え方とは対照的な空港の意味つけが述べられた部分を七字で抜出しで答えよ。 かなりハイレベルな文章です。どなたか問題の解説お願いします

    • luut
    • 回答数1
  • 国語の質問です!!

    世界の始まりのとき ぼくはそこにいなかった まだ ミジンコやプランクトンさえ なっていなかった 大きなガスの塊りが ぐるぐると回っているうちに いつか地球という星ができ 火と水がぶつかり合って やがてひとつぶの命が生まれ それが ぼくの始まり 今から何十億年か そんな 遠い昔からの約束のように 今 ぼくが ぼくという形になって ここにいる ふしぎだ という文章なのですが、どれが当てはまるのかわかりません! 定型詩、自由詩、散文詩、文語詩、口語詩、叙情詩、叙景詩、叙事詩 もし、よければ、当てはまるもの全部と、意味〔理由〕を教えてください!!

  • 数学と国語で・・・

    僕は中学三年生です。 高校受験まで、後三週間です。 そこで質問です。今、数学の図形の問題をしているのですが、 新しい問題をやればいいのか、復習すればいいのか、わからないです。 どちらがいいのでしょうか? また、国語の作文問題で最初の書き始めはどのようなことを書けばいいのdすか?教えてください

  • 国語の勉強法

    どんな感じに勉強すればいいのでしょうか?今は単元別漢字の漢字を練習しています。やっぱ話を理解しとくというのがいいでしょうか?国語の問題集を3回やりました。教科書みなくてもわかるようになってきました。ここまでできればテスト結構できますかね? 勉強法、教えてください

  • 国語模試 解き直し 

    国語の解き直しに時間がかかりすぎて、困っています。特に古文が苦手でちゃんと解説読んで、プロセスを確認したいんです。でも時間は限られていて、要領よくこなしたいのですが、どうしたらよいでしょうか?特に古文について重要な知識を確認するのと、解答のプロセスを効率よく学習したいです。

    • win123
    • 回答数1
  • 国語の弁論で…

    国語の授業で、弁論大会というものがあるのですが、 何を話せばいいのかが浮かびません><; 先生は「最近の事件や出来事を主題に」と言っていたのですが… 最近の事件などにこれと言った意見や感想は無いのです…。 最近のことで、何か主題にするに 相応しい出来事などはありませんでしょうか?(´・ω;`)

    • noa1096
    • 回答数2
  • 日本語・国語力

    もう少しで子供が生まれます。困った事に私の奥さんはウクライナ人で、母国語はウクライナ語鉛のロシア語。国籍はウクライナ 公用語はウクライナ語。私は日本人で、ロシア語がぺらぺらです。日常会話は全部ロシア語で、日本語は使いません。子供は、日本国籍かウクライナ国籍になるのですが、このままの生活ではロシア語だけで、日本語力が育ちません。かといって、周囲にはウクライナ語を使用する環境が全くないので、ウクライナ国籍をとらせたくはありません。どのように言語教育をすればいいでしょうか?私のような夫婦の場合、たいてい夫の方がロシア語がちんぷんかんぷんで、奥さんとの会話は日本語ですので、子供は日本語を理解できるようになるのですが、私の場合ロシア語が流暢なので困っています。

    • UKR0715
    • 回答数5
  • 国語の勉強法

    高校1年生です。 なかなかテストでよい点を取ることができません。 前回学校であった期末テストも、 ぎりぎり合格でした。 三者面談の時も、国語は特に勉強したほうがいい。と 言われました。 どのように国語を勉強したらよいのでしょうか? ちなみに今、高校で習っている教科書の名前は、 「新国語総合」(教育出版)です。 習っているところは、漢詩と「奥の細道」を勉強しています。 どういうところがテストにでて、どういう風に勉強したらいいのか 詳しく教えてください。 できればこの教科書に適した参考書などがあれば 教えていただくととても嬉しいです。 宜しくお願いします。

  • 中学 国語の詩

    中学の国語で習う詩には、口語詩、定型詩、叙情詩、散文詩、口語自由詩・・・のように、種類や名前がたくさんあったと思うのですが、それを全て知っている方、教えていただけませんか。 よろしくお願いします。

    • myua
    • 回答数1
  • 国語について

    私はよく国語のテストなどで、 「~~について○○文字以内で抜き出しなさい」 「~~について文章中の言葉でまとめなさい」 などという問題でよく間違えることがあります。 どのようにすれば文章中の要点を押さえられ、 自分の言葉で上手く説明することができるようになりますか?

    • nerious
    • 回答数1
  • 東大理系国語で

    東大志望の理系です。 センター、二次で国語が必要ですが、 国語には知識問題がありますよね。 そこで、知識問題は「語彙(漢字、慣用句など)」と「文学史」に区別できると思っているいるのですが、このような知識問題の学習は必要ですか? 将来偏差値が伸び悩みたとき、「最後の手段」として残しておくべきでしょうか。 文学史なんかは、出ても1問なので、捨ててもいいかな、なんて考えてます。 語彙なんかはセンターでは必出なので板野博行さんの「漢字元」や「語句ェ門」で学習しようとおもっています。 このような学習法はどうでしょうか。 詳しい方お答えください。

  • 中学の国語 動詞

    (読む)と可能動詞の(読める)はもうまったく違う動詞なんですか? あと(割る)で自動詞ガラスが(割れる)他動詞ガラスを(割る)は同じ動詞ですか?

    • noname#24187
    • 回答数1