人間とは?

このQ&Aのポイント
  • 人間は動物の一種であり、国境を越えてコミュニティを形成し、異なる思想によって運営される。
  • 人間の言語や学問は限界まで進化しているが、人間は動物の枠を超えることはできない。
  • 人間は戦争を通じて自己表現をするが、その意見は学問的な考察とは言い難い。中卒で学問に興味を持ち始め、同じような視点や意見を持つ本を探している。
回答を見る
  • ベストアンサー

人間ってこういうことですか? 

人間は動物。同じ種の動物が国境というもので自分たちの縄張りはここまでだ、と主張し、各縄張りはそれぞれの考え方で国境を越えて理想の思想の下にコミュニティを作り、コミュニティごとに大きく社会主義、資本主義、共産主義などの思想で国(縄張り)は運営され、その異なる思想は縄張りの資源の限界等の国家存続の危機が近づいたときに縄張りを守るため脅威的な対立を生む。あらゆる言語(音と絵)で学問というものが極限まで思考されているが、人間は所詮、動物の枠にあり如何なる言葉で人間を崇高なものだと言い張ろうがその枠は決して超えることはなく、人以外の動物が弱肉強食で食うか食われるかの命の忙しさのなかで生きているのに対し人間はその代わりに戦争で表現される。 とても胸を張って言い張れるような意見ではないことは直感的にも学のなさからも同時に感じています。中卒で26になってようやくお勉強に興味を持てるようになっていて、そんな中ウクライナのニュースを見ながらこういうことを思っていました。書いたことが意見であるのか思想であるのかよくわかってないのですが似たような視点や意見が書いてある本はないでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • 5555www
  • ベストアンサー率50% (139/276)
回答No.1

「人間はどういう動物か」(日高敏隆著)の一節を原文のまま紹介します。動物行動学の視点からの文庫本です。 (人間はなぜ争うのか) 平和でトラブルなしにすごしたいという願いは、人間だれもが抱いているものであるが、現実はなかなかそうはならない。けれどそれは、人間が未熟なためでもなく、人々の修養が足りなくて心がよごれているからでもないらしい。今からすでに45年も前、ローレンツは、『いわゆる悪-攻撃性の自然誌(原題)』という本を書いて、大きな注目を浴びた。ローレンツは、長年にわたる動物行動学の研究から、動物たちがもっている攻撃性というものについて考察している。ここで言う攻撃性とは、肉食獣が獲物を捕らえて食うというようなことではなく、自分と同じ種、つまり同類の仲間に対して攻撃的にふるまう性質のことである。ローレンツによれば、すべての動物のすべての個体は攻撃性をもっている。それは遺伝的に備わっているものであって、同類間での争いは、それぞれの個体のもつこの攻撃性によって起こる。動物のオスたちはなわばりをめぐって、メスをめぐって、また、順位をめぐって、食物をめぐって、ことあるごとに他のオスと争っている。一方、メスたちも、食物や住み場所をめぐって争うことが多く、子どもたちといえども攻撃性を欠いているわけではない。このような争いのもととなる攻撃性は、キリスト教社会においては言うまでもなく「悪」である。しかし、個々の個体にとってのこの「悪」は、種(種族)にとっては「善」となる。すなわち、それぞれの個体の攻撃性によって個体が反発しあうために、なわばりを設けて子どもを安全に育てたり、密集を避けて食物の枯渇や住み場所の汚染、あるいは伝染病の蔓延を防いだりして、結局のところ、種の維持にとって有利になる。ローレンツはまずこのことを指摘した。  続いて彼は、種にとっては善であるこの攻撃性の「悪」の面をなくすために、種がどのような手だてを進化させているかを述べている。たとえばオオカミのような猛獣でも、闘争は試合のように一定のルールにしたがっておこなわれるので、殺しあいには至らない。鳥の場合には、派手な色彩の羽の見せあいという儀式だけで、勝敗が決まることもある。群れの中に順位制を設けることによる不必要な闘争の排除なども、そのひとつだ。これと似たことは、人間の文化にも見られることを強調した。ローレンツが一貫して主張したのは、攻撃性というものがどの個体にも遺伝的に組みこまれたものであって、学習や教育によって消滅させられるものではない、ということである。それは攻撃性が種を維持するために不可欠なものであるからだ。  しかし、その後の動物行動学の研究によって、個体の攻撃性が種族維持のためのものであるというローレンツの見方は、ほぼ完全に否定されてしまった。個々の個体の攻撃性は、それぞれの個体が、種族のではなくて、その個体自身の遺伝子をできるだけたくさん後代に残していくことにとって「善」なのであるという、まったくちがった見方に変わってしまったのである。この見方に立つと、われわれ個人は、それぞれに宿っている遺伝子のロボットにすぎないということになる。そして、ロボットである以上、他人に対して攻撃的であるのもやむを得ないことになる。  しかし、この「利己的遺伝子」説を提唱したイギリスのリチャード・ドーキンスは、こう言っている。「利己的なのは遺伝子であって、個体ではない」。  遺伝子たちは自分たちが生き残ってふえていきたいと利己的に「願って」いる。そこで遺伝子は自分の宿っている個体を操って、他個体を攻撃的に追い払い、すこしでも多く食物を食べて、早く育っていくようにさせる。しかしそれだけではふえていくことはできない。そこで、同種の異性に対しては攻撃的でなく近よっていき、なんとかして生殖して、子孫をつくらせるようにその個体にふるまわせる。つまり、利己的な遺伝子は、個体を攻撃的にふるまわせるだけではないのである。  このようなわけで、動物においては、他個体との協力関係がしばしば見られる。それは生殖にたずさわっている異性個体の間だけでなく、親子の間ではふつうに起こっていることである。また、動物は群れをつくって助けあうことが多い。群れは、個体間の協力関係によって保たれている。群れには両性の個体が含まれることもあるが、草食獣の場合のように同性個体だけからなる場合も多い。いずれにせよ、群れの中では個体の攻撃性は、少なくともあからさまにはあらわれていない。  しかし、今日の動物行動学の見方はきわめて冷めている。そこにいかに協力関係が見られようと、それは遺伝子たちの利益のためなのである。個々の個体に宿る遺伝子は、その個体が群れの他個体と協力してくれるほうが、自分たちにとって得になるから、そうさせているだけのことなのだ。もし、協力的でないほうが遺伝子の目的にとって得になるならば、遺伝子はその個体を攻撃的にふるまわせるだろう。仲よく大きな群れをなして危険な渡りを終えた小鳥たちは、たちまち攻撃的になって、それぞれがなわばりを構え、その中で生活して、ひなを育てあげる。このように、協力的なもののシンボルとも思える群れの中でも、遺伝子にとってのこの得失のあつれきはつねに存在する。群れていれば安全だが、近くの個体と思わずぶつかりあうこともあり、こぜりあいが起こる。群れが大きくなれば、より安全だが、こぜりあいの頻度も高くなる。このバランスが群れの大きさを決めているのだ。  オス・メスの協力なしには実りえない生殖や子育てにおいても、オスとメスはそれぞれがきわめて利己的にふるまっている。オスはメスが受精したら、また次のメスを手に入れようとする。一方、メスは、近よってくるオスの中から、いちばん条件のよいオスを選ぼうとする。メスが子どもを育てるのは、その子が早く孫をつくって自分の遺伝子をふやしてくれることを願うからであって、けっしてその子がかわいいからではない。ここには安易な「愛」などというものは考えられないのである。  ローレンツの「種にとっての善」という見方は否定されたけれども、攻撃性はそれぞれの個体に遺伝的に組みこまれたもので、学習や教育によって消し去ることのできるものではないという彼の指摘は、まったく正しかったのである。われわれは他人からなにか言われてムカッとくるのをおさえることはできない。問題は、そのあとどうするかなのだ。 上の文を読んで、関心が湧いてきたら、読んでみるとよいと思います。上の文で、すべて納得できれば、読む必要もないかも。少し古い本ですので、書店にはないかも知れません(2021.3.10第三刷発行)が、出版社には、在庫がありますので、近くの書店で注文されたら良いと思います。「ちくま学芸文庫」(筑摩書房)で、定価(本体価格840円+税)です。

creatin
質問者

お礼

回答ありがとうございます! Kindleで本を読んでいるのですが、売ってありました!!!!ありがとうございます! 読みまくるっす!

その他の回答 (2)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10469/32923)
回答No.3

我々がイギリスと呼んでいるグレートブリテン島のイギリス人は、ずーっと昔からイギリスに住んでいる人たちではありません。 文字を持たないどこから来たのかよく分からない人々が、かつてそこにいました。ストーンヘンジを作った人々です。その後ケルト人がやってきて、グレートブリテン島をおそらく戦って占領しました。その後フランスからフランク人がやってきました。その後にローマ人がグレートブリテン島を支配して、ローマ帝国が衰退するとデンマークからデーン人がやってきて、ドイツからアングロサクソン人が渡ってきました。それが今のイギリス人かと思いきや、フランスのノルマンディー地方からやってきた人たちが「ノルマンコンクエスト(ノルマン人の征服)」をやって、今のイギリス人の直接のご先祖となります。 かようにグレートブリテン島では「島争奪民族殺し合いの歴史」があるわけで、これが西はグレートブリテン島から東は中国大陸まであまねく「民族による殺し合いトーナメント大会」が行われていました。 日本は幸い、東の端っこの端っこにあったので、このトーナメントの影響はあまり受けませんでした。 戦いに勝った民族だけが、生き残れたのです。

creatin
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 それについて勉強します。

  • 5555www
  • ベストアンサー率50% (139/276)
回答No.2

もう、ひとつ想い出しました。参考になれば幸いです。記憶は定かではないのですが、約半世紀前に、読んだ本なのですが、コンラート・ローレンツの著書に「文明化した人間の八つの大罪」というのがあります。  作者のいう八つの大罪とは、次のことです。 1.地上の人口過剰 2.環境破壊 3.経済の際限のない競争 4.人間の虚弱化、感性や情熱の萎縮 5.遺伝的衰弱、幼児化現象 6.社会が構築してきた伝統の崩壊 7.マスメディアによる大衆支配と世論創造 8.核兵器の製造 「人間」を知る手掛かりになると思います。すごいと思うのは、半世紀たっても、まったく古くないということです。コンラート・ローレンツ(前の回答にも名前が出てきます。)は、動物行動学者です。動物の行動に関して、「ソロモンの指輪」という無茶苦茶、面白い本があります。時代が変化しているので、理論は否定されているものもあるかも知れませんが、とにかく、半世紀たっても、面白さという観点から「内容が古くならない」のです。 少しでも、お役に立てれば幸いです。

creatin
質問者

お礼

好きっす!あざっす! さっそく書いました! 読みまくるっす!

関連するQ&A

  • なぜ人間が弱肉強食の頂点なのか

    動物の扱いに慣れていない一般人(道具は使わない)と 象やハイエナや熊と戦ったらどちらが勝ちますか? 弱肉強食と言われてる世の中ですが 私は象などに勝てる自信がありません。 それなのになぜ人間が頂点にたっているのでしょうか? 猿の惑星ではないですが、 弱肉強食の原理で言えば、下手をすれば人間より強い動物がいっぱいいると思います。 やはり道具を使える知恵があるから人間が頂上に立っているのでしょうか? もしくは頂上に立っているというのは 人間達(もしくは私個人)の思い込みでしょうか? よろしくお願いします。

  • 人間も動物の内臓を食べれば元気モリモリ・・?

    野生の動物世界では、弱肉強食・・こぞって仕留めた動物の内臓から食べています。拙者もアワビの内臓やイカの腑は生で食べますが、人間も、動物の内臓を生で食べるとさらに元気になるでしょうか?

  • 資本主義が好きですか?

    皆さんは資本主義のことが好きですか? 資本主義ということは、、、 ・貧困は自己責任、福祉も生活保護も無い。スラム街に住んどけ。 ・注目度の高い勝負に勝てば、億万長者。 ・カネ持ってるヤツが一番偉い。 ・君の人生の価値は、評価で決まる。評価は他人のやること。 ・一般人は働け、もっと努力しろ。 資本主義が好きな人が多そうだね。 でも、大多数の人は、弱肉か強食かと言われれば、弱肉でしょ。弱肉側の人は、自分が殺されて肉になるのは嫌で、法の下の平等を望んでいるんじゃね? 下にイラストを貼ったのですが見えますかね?弱肉っていう言い方が分かりにくいのかもしれないけど、要はあなたは、工場作業員側の人間であり、資本家ではないでしょ。 資本主義は弱肉強食であることを理解しているのかな?誤認しているのならばまだしも、資本主義を正確に理解していて、それでも資本主義が好きって何のこっちゃ。 ライオンがシマウマを追いかけると、シマウマは逃げるんだよ。そりゃ、シマウマは弱肉強食も資本主義を嫌がっていて、自分は救済されたいのだから。仮にシマウマが資本主義に賛同しているのならば、自分からライオンに近付いて「私を食べて」って言うよ。そんなシマウマは居ません。 「資本主義」と「法の下の平等」は、相反するよ。だって、資本主義だとカネを持ってるヤツが偉いんだから。 強食側の人間は、そりゃ、資本主義が好都合でしょ。だって、弱い立場の人間を食えるんだもん。でも、あなたは弱肉側の人間でしょ。ならば、素直になって、「オレは殺されて肉になんかなりたくない」「法の下の平等を認めて欲しい」って意思表示したらドーです。 弱肉側の人間が「資本主義が好き」って、カッコつけてるのかな?あるいは、「資本主義に反対してるヤツは、現実から逃げてるだけ」とか、「私は共産主義者みたいなマイノリティーではない」とか言いたいのかな? まー、資本主義は確かな現実で、いやがったところで変えられないのだろうけど。ならば、もっと素直で立場をわきまえた表現があると思うんですよね。本当は、平等な社会がやって来て救済されると良いなと、淡い期待があるんでしょ。ならば、「資本主義が好き」とか嘘を言わず、「資本主義は嫌いだけど、肉になって強食側の人に食われることの覚悟を決めてる」とか、そういう表現にしなよ。

  • 世の中の仕組みは弱肉強食だ。

    私が中学生の時図書室にあった読み物にこんな記述があった。 西洋でいう弱肉強食は、自然界、自然本性などの話だけど、社会を形成する人間は弱肉強食から離れた共存をしている。 従って弱肉強食とは人間には当てはまらないことだ。 これは人間とは何かというテーマの記述です。 ただ、弱肉強食とは社会をさして常用語として頻繁に目にします。 そもそも学者さんが概念を輸入したときに間違ったか、その後の錯誤を修正する仕事をなまけたかだと考えますが、それはともかく弱肉強食という概念と用法についてお考えをお聞かせください。 意見を集めることが目的です。 例えば西洋で生まれた話だから、キリスト教徒だけ共存していて黄色いサルは除外されているとか。 社会で平常弱肉強食じゃなくても、戦争でなくても経済などの争いを実際に弱肉強食と無秩序状態を形容するのは適性とか。 例示しましたがこんな事柄をこねくり回してください。

  • ”泣く”動物ってどれくらいいますか?

    人間はよく泣く動物ですよね?例えばウミガメも産卵のときに泣きます。 それは痛みからか、感動からかはよく知りませんが・・・ ライオンや犬なども泣くことがあるのでしょうか?個人的な考えですが、弱肉強食の世界で生きる動物達には泣いている余裕はなさそうですよね^^;もしご存知の方がいらっしゃいましたら、教えてください☆ よろしくお願いします^^

  • 食べられてしまう動物の痛みに対する感覚

    弱肉強食の中で暮らしている動物たちの弱い動物は肉食動物に食べられてしまいますよね。しかも生きたまま食べられてしまいます。 もし、人間だったら大変なニュースになってしまうでしょう。食べた方の人は残酷な殺人鬼とされると思います。食べられた方はかなり痛いし、泣き叫ぶのではないでしょうか。 しかし、野生動物たちにとっては日常の事です。 そこで質問なんですが、食べられる動物の痛みは人間と同じように感じられるのでしょうか?それとも人間よりは痛みを感じないのでしょうか? 人間の赤ちゃんも大人より痛みを感じないと聞いたことがありますが、動物はどうなんですか?できたら鈍感であってほしいなあと思います。

  • ■弱肉強食を見ておもったこと

    野生の動物と自然のドキュメンタリーを見ていると、人間はちっぽけなものだなぁと感じさせられます。 今なにか獲物をとって食べていた魚が、次の瞬間もう食べられてて、「命」について考えてしまいます。 もし私があの海に行ったら、とりあえず深い海の中で、いろんな魚に食べられてしまうんだろうなぁ。それで私はいなくなってしまう。 どうせいつかいなくなってしまうのに、人間の喜び悲しみなどの感情はなんのためのものだろう? あそこの魚はなんのために弱肉強食をやってるのだろう? そんな風に思いました。 みなさんの意見を聞かせて下さい。

  • 動物の労働と人

    宗教、資本主義、科学、政治。 これらは識字に基づく文化です。 人は動物を操作するので、 そのうち、動物に文字を与えると思います。 文字は思考を操作するので、技術の発達した近い将来 人は動物に人の労働を与えると思います。 つまり変わらない。弱肉強食。 後、何世代で実現するでしょうか。

  • 絶滅しそうな動物たち。

    絶滅しそうな動物たち。 自然の掟は、弱肉強食、適者生存だと思うのですがどうして消えようとする種を保護する必要があるんですか?自然に反しませんか?それとも人間は自然の一部では無いと言う考えによるものなんでしょうか。

  • 社会主義と資本主義

    社会主義と資本主義について考えるのですが、 社会主義って、今だかつて他の国でもあまりうまくいってなくて、 (いいのは、キューバぐらいかな…(^_^;)) やはり人間社会、社会主義というのは 無理があるんでしょうか…? 頑張っても頑張んなくても 平等に報酬がもらえる、というのも やる気がなくなるし、 社会主義になってもやはり、権力を持った者が牛耳るし…、 …となるとやはり、 人間社会もサル山みたいに、あるいは、 けもの社会みたいに、 弱肉強食、資本主義社会でいくしか ないんすかねー。