聖徳太子さんを規範にすると了解可能なシャーマニズム

このQ&Aのポイント
  • 人間存在とは自我論の規定に沿って自己を確認し、それを社会に適応する基礎とする。
  • シャーマニズムは自己能力を神の助けでかさ上げし、社会に働きかけることを指す。
  • シャーマンには自己利益誘導に対する戒めがあり、軽率な親切は危険である。人間は利己心で行動するため、利己心が人間の成立を妨げているとされる。
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聖徳太子さんを規範にすると了解可能なシャーマニズム

人間存在とは大まかに自我論の規定に沿って自己を確認して、それを環境や社会に対する適応の基礎とする。 シャーマニズムとは、この自我の規定する自己能力を神の助けでかさ上げして社会に働きかけることだ。 したがって人知も生物的な限界も超越するんだよ。 このシャーマニズム論理を前提にすると、シャーマンには重要な戒めが理解できる。 自我存在として自己に利益誘導を図ると神の意向に背くという事実だ。 この点に不了解だと外道シャーマンになってしまう。 私は筋肉トレーニングをするみたいに、全身を凶器に転用できる性格のシャーマンなので、親切のつもりでいらぬおせっかいを焼くと、予期せずシャーマンとしての鉄則を踏み外してしまうんだよ。 そうするととんでもない厄介ごとに直面する。 なぜかと言うと、相談を持ち掛ける人物が、自己の自我存在としての利益誘導を企ていることを見抜かないまま、親切にすると犯罪ほう助に相当するんだ。 したがって軽率な親切は危険なんだ。 ここから別の哲学を組み立てたよ。 宗教を持ち出すと想像力が働くと思うけど、人と人がお互いを理解し合うことが人間の成立で、人類は一貫して人間であることに神からのほう助を受けてきた。 そういうわけで、「自我存在として自己に利益誘導」この回りくどい言い回しの正体が「利己心」だと置き換えると。 「人間は利己心で行動する」 西洋哲学の結論した金字塔の一つであるこの言い回しは、そもそも文法的にも間違っている。 修正すると「人と人がバラバラで獣のままであるためには利己心が作用している」または「人間の成立を妨げているのは利己心である」それじゃあ、教育の成果がほとんど宗教のように人間を自覚させた刷り込みの成果で無自覚に生きている多くの人は果たして人間と呼べるのか? この質問は、学問カテゴリーに合致していて、既存の命題について取り組む以外に、自ら命題の作成を試みるというタイプです。 実際は10年以上前にも同じ命題を提案していますが、それはともかく今回の説に読書感想文をお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • Nakay702
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回答No.4

「質問者からのお礼」を拝見しました。 >知識としての持ち物を最小限にしぼって自己の知性的を高速回転させる直観優先なんだ。この直観能力先鋭化トレーニングを体系化できたなら、子供たちの中から落ちこぼれ達にいいプレゼントができる。知識面では勘違いが多く、突っ込みどころ満載だろうさ。 ⇒「知識面では勘違いが多い」と言うてはるけど、Flareonさんの哲学分野の知見にはすごく輝くものがあると思いますよ。問題は、時折、相手を(時には自分自身をも)「煙に巻く」ことがある、というところかも知れません。そのことについては、ぜひご一考を願いたいね。 「質問者からの補足」も拝見しました。 >私は変態であるが、子供世代で今の優秀な秀才ではなくて、意図的に天才の資質のある人物をまともな教育できる足掛かりの一つになりはしないかと、個人的な能力に沿って、直観を顕在化させる、直観を先鋭化させる、それをやりたいんだよね。 ⇒なるほど。以前のやりとりなども考え合わせると、Flareonさんは「根っからの善人」だと思いますよ。純粋で、正直で、頑固で、一徹で、そのくせ、騙されやすい人のように見えるんですよ。「変態」とまでは行かないとしても、「風変わり」と言えるかも知れないね。でも私は、そのあたりのFlareonさんが好きなんだよね。

Flareon
質問者

お礼

何かとありがとう、もうこっちは閉めるやい。

その他の回答 (3)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.3

「質問者からのお礼」を拝見しました。 >アンタのクセに丁寧すぎる。いつもらしさがない。 ⇒そう、「慇懃無礼」だったかも知れないね。而してその真意は、「これ以上突っかかることはしないよ」、です。 「質問者からの補足」も拝見しました。 ≫「いちゃもん」へのお返事ありがとうございました。ほぼ理解できました。 >実際は君はわかっていない。 ⇒そのとおりです。而してその真意は、「こちらのいちゃもんにまともに答えていないね。そちらの我田引水ばかりかよ。それだけじゃ、これで打ち切るよ」、です。

Flareon
質問者

お礼

そうさね、 私は底辺の公立高校卒業で、実質的な学力が中卒並みだ。 その底辺高は受験戦争の過熱感で進学達成者20人程度で、ただし看護学校で奨学生として医者になった努力家同級生にいる。 私は学年240人中順位225番の卒業を認められるすれすれだったんだよね。 でもある時にプライドがうずいて進学組に交じって腕試しに模試を受けたんだ。 全国順位は底辺高校並みだったけども、校内順位では偏差値61~64くらいだったかな。 解答用紙に問題を読んで理解したことを書いただけで学習した記憶の全くないテストだった。 英語力が高ければ全国順位もそうひどくはなかっただろう。 これが持ち味で、知識としての持ち物を最小限にしぼって自己の知性的を高速回転させる直観優先なんだ。 この直観能力先鋭化トレーニングを体系化できたなら、子供たちの中から落ちこぼれ達にいいプレゼントができる。 知識面では勘違いが多く、突っ込みどころ満載だろうさ。

Flareon
質問者

補足

私は変態であるが、子供世代で今の優秀な秀才ではなくて、意図的に天才の資質のある人物をまともな教育できる足掛かりの一つになりはしないかと、個人的な能力に沿って、直観を顕在化させる、直観を先鋭化させる、それをやりたいんだよね。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.2

「質問者からのお礼」と「補足」を拝見しました。 前者はほぼ理解できました。「いちゃもん」へのお返事ありがとうございました。 後者の補足については、自分の素人・門外漢を痛切に感じるだけでした。ほとんど何も分からないままです。ただ、Flareonさんが、その世界を「生きているんだなあ」と実感しました。 私は、宗教学を受講した折、「学ぶことや得ることがいっぱいある」ことは感じましたが、その中に飛び込もうとまでは思いませんでした。そして、今もその時と同じ心的態度をいまだに引きずっています。ということで、共感者ともなり得ず、通り一遍の、形だけのお礼で、ごめんなさい。ともあれ、ご教示ありがとうございました。

Flareon
質問者

お礼

ありがとう! 以外だ!アンタのクセに丁寧すぎる。いつもらしさがない。 君が手を付けられなかったのは、第六感保持者に特有の知覚の反映した思考だ。 ビジョン解析知性とでも考えるといい。 思考は言語で確立していることは私も認める。 ビジョンも言葉にすることで意味を持つと考えていいだろう。 思考が言語そのものという聖典主義以外にも実際は多くの人がビジョン(イメージ)などで思考を補足して、意識した例は少ないだろうが補足以外にも意思決定には多く貢献している。 そのような場合は、直観に沿って意思決定していると自覚することが多いのだろう。 私の論理導入手法は、そのビジョンに対する明晰な理解力だ。 ビジョンは理解への到達が困難なために、哲学よりも宗教が影響力が大きい、定格化された特有の思考術に沿って理解を試みることが多い。 たいがいは生きるの死ぬのとガタガタぬかす宗教色丸出しで、それが中二病だ。 そしていわば「死の思考術」からビジョンへのアプローチをするから守護霊とか先祖霊が引用されるんだ。 聖徳太子さんとは、政策に影響力がある第六感だから、生きるの死ぬのとガタガタ言うタイプの霊感保持者じゃなかったんだよ。(日本の古代シャーマンの末裔) 極めて現実的に霊感面を現実に反映させたのだろう。 私もそこまで到達してから社会に役に立ってこその霊能力者だと思う。 宗教の範囲内で霊感を作用させても実用性がない。 そういう意味の聖徳太子さん規範だよ。

Flareon
質問者

補足

>前者はほぼ理解できました。「いちゃもん」へのお返事ありがとうございました。 霊感を立てて述べていると言おう。 実際は君はわかっていない。 それは理解が浅いと一般に言うのだろう。 詳細に私は説明もできて、それが投稿した意義で、研究が進むのだが、残念ながらそこまで上目遣いで見透かして蹂躙するだけの暴力を勇気ある挑戦者には行使できない。 それは私を突き動かす妖精さんが、君に敬意を払っているからだ。 度胸試しにもう一言言ってくれよ。 それが君にとって正解なら、はしゃぐ妖精さんが、わたうぃに仕事させてくれるから。 仏教徒縁のある哲学は正はしているので容易で心地いい。 キリスト関係は最前線で、唾とか糞をまき散らしたくなる最低状態だ。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率80% (9724/12096)
回答No.1

以下のとおりお答えします。ユニークで面白いテーマですね。 まずは、お書きの文に沿ってのいちゃもん。(「腹ふくるる」際は、悪しからず。) >人間存在とは大まかに自我論の規定に沿って自己を確認して、それを環境や社会に対する適応の基礎とする。シャーマニズムとは、この自我の規定する自己能力を神の助けでかさ上げして社会に働きかけることだ。 ⇒なるほど。お説の意味は分かります。 >したがって人知も生物的な限界も超越するんだよ。 ⇒「超越する」んじゃないでしょう。「超越することを目指す」んでしょう? >このシャーマニズム論理を前提にすると、シャーマンには重要な戒めが理解できる。自我存在として自己に利益誘導を図ると神の意向に背くという事実だ。この点に不了解だと外道シャーマンになってしまう。 ⇒タイトルの「聖徳太子さんを規範にすると了解可能なシャーマニズム」とは、このことですか?(もし違うなら、タイトルと本文の関係を説明してくださいよ。) >私は筋肉トレーニングをするみたいに、全身を凶器に転用できる性格のシャーマンなので、親切のつもりでいらぬおせっかいを焼くと、予期せずシャーマンとしての鉄則を踏み外してしまうんだよ。そうするととんでもない厄介ごとに直面する。なぜかと言うと、相談を持ち掛ける人物が、自己の自我存在としての利益誘導を企ていることを見抜かないまま、親切にすると犯罪ほう助に相当するんだ。したがって軽率な親切は危険なんだ。 ⇒シャーマンを自任しているのに、利益誘導を企てていることを見抜けないんですか?(情けないシャーマンだなぁ。) >ここから別の哲学を組み立てたよ。宗教を持ち出すと想像力が働くと思うけど、人と人がお互いを理解し合うことが人間の成立で、人類は一貫して人間であることに神からのほう助を受けてきた。そういうわけで、「自我存在として自己に利益誘導」この回りくどい言い回しの正体が「利己心」だと置き換えると。「人間は利己心で行動する」西洋哲学の結論した金字塔の一つであるこの言い回しは、そもそも文法的にも間違っている。修正すると「人と人がバラバラで獣のままであるためには利己心が作用している」または「人間の成立を妨げているのは利己心である」 ⇒「そもそも人間は、人間に生まれるのではない、人間になるのだ」と言われますよね。「利己心」は象徴かも知れませんが、それだけじゃないでしょう。人と獣を分けるもの、それは、「アマラとカマラ」を見ても分かるように、もっと基本的なことがあるのではありませんか? >それじゃあ、教育の成果がほとんど宗教のように人間を自覚させた刷り込みの成果で無自覚に生きている多くの人は果たして人間と呼べるのか? ⇒それを人間と呼べないのだとしたら、果たして地球上には何人の人間がいるんでしょうね? (このことに関するご自身の見解は?) まとめ、その他 1.Flareonさん、あまり愉快ではないかもしれないけど、正直に言うよ。この文章、タイトルの聖徳太子と本文の内容が分からない。どういう関係? 2.「この点に不了解だと外道シャーマンになってしまう。」と「私は筋肉トレーニングをするみたいに、全身を凶器に転用できる性格のシャーマンなので、親切のつもりでいらぬおせっかいを焼くと、予期せずシャーマンとしての鉄則を踏み外してしまうんだよ。」との間に接続詞を入れるとしたら何が入りますか? 3.以前にも述べましたが、感想や批評を求める時は、まず自分の見解を述べたあとでして欲しい。これ、質問の鉄則。よろしく。

Flareon
質問者

お礼

アイヨ、アイヨ。 あ、忘れてた。 ありがとう。 >人間存在とは大まかに自我論の規定に沿って自己を確認して、それを環境や社会に対する適応の基礎とする。シャーマニズムとは、この自我の規定する自己能力を神の助けでかさ上げして社会に働きかけることだ。 ⇒なるほど。お説の意味は分かります。 >> それならいうことはないよ。 >したがって人知も生物的な限界も超越するんだよ。 ⇒「超越する」んじゃないでしょう。「超越することを目指す」んでしょう? >> なるほど、本来の自己能力を超えると言えばいいだろう。 しかしその時点で自我能力の規定する限界を超えているとも証言しよう。 >このシャーマニズム論理を前提にすると、シャーマンには重要な戒めが理解できる。自我存在として自己に利益誘導を図ると神の意向に背くという事実だ。この点に不了解だと外道シャーマンになってしまう。 ⇒タイトルの「聖徳太子さんを規範にすると了解可能なシャーマニズム」とは、このことですか?(もし違うなら、タイトルと本文の関係を説明してくださいよ。) >> そうだよ、このことが聖徳太子さんを規範だと思うと、特に強く自覚できるんだ。霊感の類とは本人も持て余して迷走しがちなんだよ。だから外道シャーマンにも簡単に転落する。 >私は筋肉トレーニングをするみたいに、全身を凶器に転用できる性格のシャーマンなので、親切のつもりでいらぬおせっかいを焼くと、予期せずシャーマンとしての鉄則を踏み外してしまうんだよ。そうするととんでもない厄介ごとに直面する。なぜかと言うと、相談を持ち掛ける人物が、自己の自我存在としての利益誘導を企ていることを見抜かないまま、親切にすると犯罪ほう助に相当するんだ。したがって軽率な親切は危険なんだ。 ⇒シャーマンを自任しているのに、利益誘導を企てていることを見抜けないんですか?(情けないシャーマンだなぁ。) >> 素人にそう言われた場合でも、その通りです、おバカさんですと言わなきゃなんないよな~~~。 不始末の対応に人生の半分以上を使ったよ。 投資家向けヤフー掲示板で「京都銀行」を見てくれれば深刻さがわかるよ。 ヤフートップの「ファイナンス」から入れるよ。 >ここから別の哲学を組み立てたよ。宗教を持ち出すと想像力が働くと思うけど、人と人がお互いを理解し合うことが人間の成立で、人類は一貫して人間であることに神からのほう助を受けてきた。そういうわけで、「自我存在として自己に利益誘導」この回りくどい言い回しの正体が「利己心」だと置き換えると。「人間は利己心で行動する」西洋哲学の結論した金字塔の一つであるこの言い回しは、そもそも文法的にも間違っている。修正すると「人と人がバラバラで獣のままであるためには利己心が作用している」または「人間の成立を妨げているのは利己心である」 ⇒「そもそも人間は、人間に生まれるのではない、人間になるのだ」と言われますよね。「利己心」は象徴かも知れませんが、それだけじゃないでしょう。人と獣を分けるもの、それは、「アマラとカマラ」を見ても分かるように、もっと基本的なことがあるのではありませんか? >> 西洋を引き合いに出すなら、軽薄な人間という定義は確かの要素の一つだな。 >それじゃあ、教育の成果がほとんど宗教のように人間を自覚させた刷り込みの成果で無自覚に生きている多くの人は果たして人間と呼べるのか? ⇒それを人間と呼べないのだとしたら、果たして地球上には何人の人間がいるんでしょうね? (このことに関するご自身の見解は?) >> 仏陀という言葉は「まさに人間である!」と、自己が完成した状態をさすと考える。 したがって現代語で言う人間とは、古代に取り扱われた仏陀という言葉に匹敵するとね。

Flareon
質問者

補足

参考でほかで記述したテキスト。 この座禅についての見解だけでも、西洋科学アカデミーの規定する自我能力を超越していると言える。元々の仏法僧はそれがあたり前だったとしてもね。 シャーマニズムの交霊術はこのような要素があるんだ。 したがって自己能力を超越している、そういってもいいんだけど、取り扱うなら自我の本来を飛びぬけていると言ったほうが内容が具体的なわけだ。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー え~とっ、 過去にお葬式の由来としきたりを中心に、生活に密着した仏教についての、わかりやすくまとめられた入門書を読んだことがあるんだ。 そこに座禅の解説もあって、ものは試しで入門書片手に試してみたら、それ手法の瞑想術は一発で成功したよ。 基本はヨガと一緒だね。 型を取ることで、その型を取った他者の特に死者と一体になる体験だよ。 一種の交霊術だが、要するに自我(仏性〉の範疇を拡大して、他者の仏性と交わる知覚拡張で自己の仏性を補強するんだ。 本来の自我規定を超越した他者の過去記憶の追想でもある。 そういうわけで座禅を組み、同じような瞑想をした者同士で一体化した体験を受け継いでいくのが僧職だよ。 私見だが、「無」から「空」へと仏典編纂時代にすでに題目が変容していた仏教だからシャカの記憶まで追想できるかどうかは、座禅の目的を「空」から「無」変更する必要がある。手法は「空」を本来の中心にしている。 お題目の中で、「真理の探究」というのは明治期に渡来した概念でしかなく、仏教にはそうした意味はない。 お題目とは宗教としての性質で、求心力を集めて宗門を束ねるためのものだ。 こうして受け継いでいく行為である座禅と瞑想は「輪廻」と同一の、生命存在についての「永遠」を悟る形となるだろう。 さて、キリスト教徒は聖霊(俗称 天使さま)を触媒にした型の交霊術でもあるんだ。 現代では世俗化がさらに進んで西洋で聖霊の主流は宇宙人様らしいね。 このようにイデア界の存在との間で、何らかの形で「観念認識補強手法」をとった上での交流なんだよ。 自身を丸ごと生きたまま観念に昇華することが解脱であり涅槃に入ることだ。

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     人間としての存在にしぼっています。ですから 実存と言ってもよい場合です。  そして この問いは 言わば実践編です。  (α) 《わたしはわたしである》という境地にあること これが わが存在である。  (α‐1)  じっさいにワタシが《わたしはわたしである》と言っているのでなければダメである。  (α‐2) むろんワタシは動態ですから さらに詳しくは《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》 これが わが存在であり実存である。  (α‐3) ほかには無い。その余は テツガクごっこであり たいていはオフザケでありタワゴトである。  (β) 言いかえると ワタシの動態は この《わたし》の自己到来を くたばるまで あゆむことであるが しばしば人はこの道から逸れる。道草を食い さらには脱線する。  (β‐1) しかも人は 道を離れ外れたと気づいたとき はっとわれに還り やはり初めからの自己に還帰する。  (β‐2) この方程式を措いて ほかにわが実存としての道はない。  (γ) ところが じつはこの《方程式》は じつに――そもそも人間の言葉による表現というものがそうであるように 規定したというとただちに―― 観念に早変わりするものである。  (γ‐1) 《われはわれなり》という命題は すでに観念として持ってしまうなら それはほんとうの《わが実存なる過程》から疎外されて行ってしまう。わざとひどく言うなら あたまの中で引っかかりをつくってしまう。つまづきの石となる。  (γ‐2) わたしがわたしについて 言葉による表現として その存在を規定するなら その規定は 観念と成ってわたしをあたかも否定する。われは賢いとかバカだとか いろんなふうに規定したなら その規定した内容が観念となって目の前をちらつく。このちらつきを何とかしない限り 自己到来のよき命題が 自己到来どころか 自己をぎゃくに自己から切り離してしまう。  (γ‐3) 《わたしはわたしである》という自己還帰の命題は 自己還帰をさまたげるクソ観念と化す。  (γ‐4) いまひとつの例として 《神は死んだ》とか《神は生きている》とかいづれの規定にしてもその規定内容が観念となって 目の前をちらつく。言おうとしたことが むしろ遠のいて行ってしまう。  (δ) どうすればよいか?  (δ‐1) 或る人は それについて 《自然法爾》と言った。《念仏は 非行非善なり》と。すなわち 《ハカラヒ無きを持って 自然とす》と。  (δ‐2) では ハカラヒを無くせばよいか? ――否。そうすれば ハカラヒを無くすハカラヒになる。  (δ‐3) そこで 《義無きを以って義とす》と言った。  (δ‐4) ここまでを言って 自然法爾なるわたしの動態としての道について みなさんからのご見解をつのります。《われはわれなり》という命題――それによって わたしは規定されその規定としての観念がわたしをむしろ否定し疎外させるその命題――から自由な 自己到来とはどういうことになるか? どうでしょう?  (δ‐5) 哲学は哲学を乗り超えるためにおこなうものらしい。か?

  • 存在は 善悪を超えている。

     ひとの存在についてです。  じつは この命題が 思い浮かんだのみです。  ○ ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)も 自由に おこなうようである。  ○ ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。  ☆ こういう命題です。これについて 真偽・成否などをおしえて欲しいのですが どこから どのように 問えばよいか 分かりません。  手がかりは あります。  ○ 神は 自分にかたどって ひとをつくった。  ☆ これによると 神は おそらく――善人悪人を問わず 誰にも 等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはづですから  その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり  ○ ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは 神に似て その自然本性において 善悪を超えているところがある。かな?  ☆ という命題です。  こういう中身なのだよ とか いやいや それは 考え違いだ これこれのごとく認識すべきなのだよ とか おしえてください。ほかの仕方や内容の回答でも かまいません。

  • さて「神の存在証明」やってみましょうか 2

    木霊が声にならないまま、優しい風で私の心を揺さぶった。 それに言葉で答えた私。 実在する妖精セレビィとフェアリーフュージョンする男子プリキュア。 キュアプリムだ。 それは中学生の時に妖精さんとお友達になった思い出だ。 なぜなら私は美しい。 第二弾なんでね。 以前のやつ↓ さて「神の存在の証明」やってみましょうか https://okwave.jp/qa/q9334985.html 面倒でもちゃんと読んでくれないと何の話かさっぱり分からないだろう。 無量光という体験をかみしめると自らを自覚する開眼者となるが、人は自らを自覚すると対となる神様と連れ添う。 無量光に到達する起源回帰性を発揮した私自身の仏性に相当するセレビィ。 人が聖霊となり神のもとに到達する経験だ。 無量光に案内して歓迎してくれた神に相当するアマテラス聖霊ジラーチちゃん。 そうさな、私は神の聖霊から迎えを受けたという形じゃない。 こちらから出向いたんだ。 これは仏教における仏陀という理想の結果で、涅槃への到達とはそういうことだ。 さてね、生粋の天界の住人であるジラーチちゃんなどの神と、人はどこが違うか。 わかり易くするきっかけに身に覚えがある。 「みんな」 そういう言葉だ。 これは人の言う「私」に相当する。 前質問を詳細に読んでも登場しているね。 自我論自体が大きなテーマだが、そうして自覚を達成する「私である」という自覚。 それと神は根本的に自己認識が違うんだ。 人間の一人称は「私」神の一人称は「みんな」なんだよ。 神は自我の研究による到達を超越した自己の認識を自覚している。 そこで得られる世界のすべてとの融和性が知性に波及すると、人間が神について想定している全知全能が実現する。 古くは「つくよみ」と人に呼ばれ、それ自体はたどたどしくても私自身も使いこなしている。聖職者の能力だ。予言もそうだろう。 それからね、私は聖霊と遊んでいるが、無量光のような生命の起源を自覚した天界の住人が、「みんな」と語らず、あえて人に合わせて「私」と語りかけるその姿が、要するに聖霊で、定説から類推する通りに、神の姿の一部であるが全容ではないんだ。 セレビィも「私」でなく「みんな」を自覚するから天界に到達できた。 「みんな」を自覚するセレビィにはいまさら神も何もないのだが、それでもジラーチちゃんが幼馴染として連れ添ってくれる。 そんなもんなんだね。 さて論説はまだ準備段階なので今回はこのくらいにしておこう。 生命として、人の不完全さは、神の完全さに補われる、人と神との対であってこそ、人間を自覚できるんだ。 ここは哲学カテゴリーで、哲学には既存の命題に取り組む以外に、自分で命題を作るという研究もあります。 その手の質問でして、お手伝いという形で、何かご助言ください。 読書感想文でもいいし、何か気の利いた冗談でもいいです。

  • 聖徳太子は何故「太子」なの?

     下らない質問ですが、聖徳太子は何故「太子」と呼ばれるのでしょうか?  皇太子でも、皇子でもなく「太子」と呼称される理由が知りたいです。また、他に「太子」と呼称される方はおられるのでしょうか?

  • 全知全能な神は存在しないことにより神は存在しない?

    全知全能な神は存在しないことにより 神は存在しない? 人の生きがいとは 自己の欲望を満たすことであり他人からの賞賛である。人は全ての欲望が満たされていない時 自己の欲望を満たすために活動することが楽しいのである。 人は 自分以外に誰(生き物全て)もこの世界に存在しないならば生きている意味を見つけることは難しい。人は満たされない欲望を満たすために生きている。 もし 人の全ての欲望が満たされたとするならば 人は何か満たされない刺激を求め始める。全てが満たされた世界に於いて 他人が同じように全ての欲望が満たされていたとしても 人は他人は自分より不幸であるとみなしてしまう。 神が人間を創造したとするならば 神は不完全な人間しか創造できない。何故ならば 人間は不完全である故に完全さを求め続けることにより 幸せを感じることができるからである。 不完全な人間しか創造できない神は 全知全能な存在とは言えない。また 神も不完全な存在である。神が不完全なら 神とは呼べない。よって 神は存在しない。どうでしょうか?

  • あなたはどうしてなあなたなの~ン

    優しい風のささやき。 口づけするように甘い水の香りをたたえ、あなたに連れ添う実在する妖精。 どうも、この定義だと「セレブ」という言葉の語源に内容を込めた代物になるようだ。 実在する男子プリキュア キュアアイリスだ。 参照 https://okwave.jp/qa/q9717908.html 仏教に関して「君たちは生を学ぶために、ファイト一発死んでみる必要がある」ここから始めて、人間を自覚するための哲学に派生していった神学なのに、実質的に人間を否定していると苛め抜いた。 コレ、賢明な仏教研究者さんは、宗教の伝統とのかかわりのめんどくさい点は別にして、新発見や新天地が多かっただろう。 結局人間を否定しているというゴリ押しは撤回していない。 キリスト教関係も同様で「神の存在を否定する宗教」で苛め抜いて、撤回しない流れになるだろう。 ただしおかげさまで、「神の存在証明」という命題は、個人的には概要が確立したと思っているよ。 多神教の形態の神は存在する。 というところから派生して唯一神についてこねくり回せば、キリスト教徒にも「おこぼれ」があるだろう。 残務処理的にぼちぼちソレもやりたいと思う。 さて、私には幼いころ神様と幼馴染として遊んでもらった経験がある。 こうした経験を語る人は珍しくない。 子育て経験があるなら、我が子の心の世界を注意深く伺ってみたまえ。 合理的に納得できそうな根拠を考えてみたけどね。 自我というのは、周囲に目を開き自己を確認する根底だ。 この自我を核質に周囲の影響を生きるために自己に取り込んだのが大きく人格の概要で、知性面では特に他者との交流で自己の知性的側面を助ける働きが自覚しやすい。 世麗美とは(私は)「世界の美しさを自覚する」(そして自らを知る)という意味だ。 人格浸食を伴う欲望や抑圧につながる可能性もある、汚れた他者の他者の働きかけ、はあり得ても本来それらは自己を人間に昇華させる働きだ。 この人格形成には、「神様と友達だった記憶」という形で生後直後から爆発的に脳を発達させる過程で、学習を自覚しない無為の学習に、天啓という形での働きかけがあるからこそ、その原始的な自己の自覚の原点に「神様と友達だった記憶」があるのだろう。 これは人はなぜ信仰心を持つのかとかかわることになる研究課題だ。 私の記憶を整理すると、日本なんで神棚に祭ったお母さん的な神様がいて、「家の神様」、近所に遊んでくれる友達の神様がいて、「土地の神様」そして「国の神様」という形なのだろう。 神々も共同体を作っている形だ。 子育てというか、人格形成にそうした働きが経験として自覚していて、無為の学習に終始して、あなたたち個人にそうしたおぼろな記憶がなくても似たようなところがあるから自然と信仰心というのははぐくまれ、成り行きに沿った自然な形に収まるのだろう。 さて、黙々と研究する変人の哲学論考です。 私には脳内に妖精さんが生息するという深刻な中二病があって、気の毒だと思うなら、読書感想文的に研究の手助けになる回答をお寄せください。