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信長と謙信と「洛中洛外図屏風」

「日本思想史」(末木文美士著)を読んでいますと、 「戦国期から近世初期にかけて、『洛中洛外図屏風』がいくつも描かれている。その中でももっとも有名なものは上杉本と言われ、若き狩野永徳の筆になり、いろいろないきさつの末に信長が上杉謙信に贈ったものと言われる。」 という記述があり、 1. 「贈ったものと言われる。」……本当に信長が謙信に贈ったのか??? 2. 「いろいろないきさつの末」……どんないきさつがあったのか??? の2点が気になりました。 それで年表やネットで調べたのですが、 1については、「贈った。」と断定的に記述しているものもありますが、「贈ったものとされる。」のような伝承・推定的な表現のものもあり、事実関係はよく分かりません。 2については、「第4扇下に描かれている武家行列中、輿に乗っているのは上杉謙信ではないかとする説」とか「越後をおさえる上杉謙信との同盟を重視しようとしていた。」とあるのですが、これが「いろいろないきさつ」なのか???ということでさっぱり分かりません。 「下手の空想休むに等し」ですが、 1. 謙信って、虚栄心の強い人だったのではないか???という気がしています。だから、信長から贈られたものではなく、「自分が描かれた」とされる屏風を、「謙信自ら手に入れたもの」ではないかと。勘定を払ってくれるはずの将軍様がいなくなって、永徳さんも、生活に困っていたのかも???なんて、空想してみました。 2. 信長ってプライドの高い人だったのではないか???という気がしています。だから、信長にとって、謙信は邪魔な存在であったかもしれませんが、「屏風1枚」で何とかしようと考える信長でもないし、また、「屏風1枚」で何とかなるような謙信でもなかったんじゃないか???というようなことを、空想してみました。 この愚問を読んでいただいた方の、私の「下手の空想」についての批判も含めて、私の疑問へのご意見・ご見解をお願いいたします。 「ご意見・ご見解をお願いいたします。」という趣旨ですので、BAは選ばないで締め切ります。

noname#247736
noname#247736
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みんなの回答

  • D-Gabacho
  • ベストアンサー率62% (952/1524)
回答No.3

1. 以前は諸説あったので「贈ったものといわれる」というあいまいな表現になっているのかもしれませんが、Wikipedia「洛中洛外図」上杉本・研究史で説明されているように、黒田日出男『謎解き洛中洛外図』(1996年・岩波書店)によって『謙信公御書集』の 同年三月、尾州織田信長、為使介佐々市兵衛遣于越府、被贈屏風一双、畫工狩野源四郎貞信、入道永徳斎、永禄八年九月三日畫之、花洛盡、被及書札 という記述の存在が紹介されて以降、上杉本「洛中洛外図屏風」が天正2年(1574)3月に信長から謙信に贈られたものであること、作者は狩野永徳で永禄8年(1565)9月3日に完成したことは、ほぼ確定的となっています。 2. 屏風の完成から謙信に贈られるまでにかなりの年月が経っています。屏風の発注者が誰かや、信長の手に渡って謙信に贈られるまでのいきさつに関しては、決め手となるような史料は見つかっておらず、憶測を重ねるしかない状況ですが、現在のところ最も有力とされている黒田氏の説は、Wikipediaによれば、 足利義輝は、上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて贈るため、洛中洛外図を狩野永徳に発注した。しかし、永禄8年5月に義輝が非業の死を遂げた結果、同年9月に完成した絵は永徳の許にとどまった。織田信長が上洛したあとの天正2年、永徳は信長に接近した。洛中洛外図のことを知った信長は、当時同盟を結ぶ必要があった謙信に絵を贈った。 というものです。信長は天正2年2月に武田勝頼の大攻勢を受けて東美濃を攻略されるなど、武田氏との全面対決で余裕のない状況でしたから、たしかに謙信と同盟を結ぶ必要があったとはいえそうです。もちろん同盟の対価が屏風1枚ということではありません。日米首脳会談で安倍首相がトランプ大統領にゴルフグッズを贈ったように、古今東西を問わず外交において贈物は基本中の基本です。 Wikipedia 洛中洛外図 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%9B%E4%B8%AD%E6%B4%9B%E5%A4%96%E5%9B%B3

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。よくわかりました。「贈り物」や「お土産」にも歴史があるし、また歴史がつくられるのかもしれませんね。ご回答のお礼に「洛中洛外図屏風」をというわけにはいきませんが、ありったけのOKチップを贈らせていただきます。何の役にも立ちませんが。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10479/32959)
回答No.2

信長が謙信公に贈った西洋風のマントというのが残っています。いかにも信長らしい赤いビロードのマントです。めっちゃオシャレです。 伝聞によれば、謙信公はずいぶん喜んだということです。しかもその現代に残るマントは着た形跡があるので、謙信公はそのマントを(どの程度の頻度だったかは分かりませんが)着て喜んでいたと思われるわけです。 信長って、めちゃくちゃ気遣いができる人なんですよ。有名な話ですが、秀吉の妻である寧々に対して秀吉の女遊びを慰める手紙なんかも送っています。伊達に天下取りにリーチをかけたわけではないのです。 ただ、信長というのはその全てを「戦略的に行うことができた」という人でもあります。戦略的に考えてプラスになることだったらなんでもやる。でも非合理的なものはどんなに権威や実績があっても簡単に捨てられる人でもありました。 京都と大阪つまり西に向かって支配権を広げていた信長にとって、信玄公や謙信公とコトを構えるのは「後ろから討たれる」ことになるので絶対に避けなければならないことでした。 もちろん信長はいずれ自分が天下人となろうとするならどこかでコトを構えることは避けられないとは分かっていたでしょう。しかし、その日が来るまでは何もわざわざ今から仲が悪くなる合理性は何ひとつないのです。 戦国時代は身分制度が崩れた自由な時代でしたが、しかして人々の考え方すべてが変わったわけではありません。現代日本でも、昭和末期の頃ほどの学歴至上主義社会ではありません(一流大学を出たからといって生涯安泰ではなくなりました)が、しかしテレビには東大卒の「クイズ王」なる人たちが出ていて、もしクイズ王が高卒だったらたぶんお茶の間は受け入れないと思うのですよ。高卒じゃねえかって。 だから戦国時代当時も身分の概念が失われたわけではありません。鎌倉時代ほどじゃなくなっただけです(鎌倉時代はその人の能力は関係なく、血筋が全てでした。関東武士が源頼朝の下に集まったのは、頼朝の血統が良かったからです)。 武田信玄公は下剋上の戦国大名には珍しく、清和源氏の末裔になります。良血なんですね。 上杉謙信公は元々は守護代の長尾家の血筋ですが、上杉氏の養子となり関東管領になりましたからこちらもまた家の格は高い。 一方の織田家は、守護代の奉行ですから「家臣の家臣の家臣」くらいの家柄です。世が世なら信長は謙信・信玄クラスには会うこともできないくらいの家なのです。 なので、家柄が格上の信玄公、謙信公に気を使うのはこれはとても当たり前のことなのです。むしろそこに「贈ってやった」みたいな態度をしたら当然相手側からも「ちょっと出世したからといって調子に乗りやがって」と思われてしまうわけです。 秩序というものをきちんと理解した上で、それで旧来の秩序を「時代遅れで非合理的」とぶっ壊すことができるのが信長の凄さなのです。 だから私は「信長はいつの時代に生まれても早すぎた人」だと思っています。もし現代に信長が生まれても、我々は信長の合理主義を理解することはできないでしょう。何百年後かに生まれても、その時代の人たちも信長の真意を理解できないと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。よくわかりました。信長や秀吉、大河でも何度もお目にかかったし、小説や参考書にも目を通しましたが、あの時代を築いた二人の「すごさ」というものを理解できていません。というか、基本的に「歴史を理解する能力」というのに欠けているのかも知れません。(>_<) そういえば、予備校の先生なんかも、一流大学出ていますよね。あれも三流大卒だったら、「なんだ三流卒じゃねえかって。」ことになるんじゃないかと。授業が成り立ちませんね。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 下記は、カリフォルニア州のサクラメントの博物館にある絵です。  時は、大陸横断鉄道がユタ州のプロモントリーで繋がった時で、州知事でもあり、西から伸びて行ったサザンパシフィック鉄道のスタンフォードは、なぜか、写真に写っていません。  そこで、絵描きに命じて自分を真ん中に置いた絵を書かせました、これがそれです。洋の東西を問わず、自分の都合のいいように歴史を書き換えるのが普通です。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 ご回答にあるような「高尚な」質問ではありません。 でも、ご回答から、もう半世紀前になりますか???、「ONCE UPON A TIME IN THE WEST」という映画を想い出しました。「鉄道が西部に伸びていく時代」の古いものと新しいものが交錯する映画で、チャールズ・ブロンソンとヘンリー・フォンダがいい演技をしていますし、確かエンリオ・モリコーネの音楽が、私にとっては、「永遠の名曲」ですね。

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