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Syo-yaの回答

  • Syo-ya
  • ベストアンサー率31% (558/1780)
回答No.4

生理学的になりますが、例えば、猫がネズミを見つけた時は、一瞬で身構えて攻撃態勢に入ります。それが、もし、ネズミのオモチャでも関係無いんです。この神経の伝達の早さは一秒間に100m位だったと思います(ともかく速いんです) 何故ならば、それくらいの速さで伝達しないと、犬から身を守ることも(自衛)、捕食することも出来ないので、自然界ではスピードが命なんです。これは人間も同じです。 例えば「蛇だ!」と足元を指差されれば、一瞬「えっ?!」っと身構えます。まず、判断よりも身体反応が先で「戦うか? 逃げるか?」の状態に入るんです。これは生き残りの為の順番です。 で、通常は「本当に蛇か?」等々を一瞬で判断して、身体反応も収まるんです。(または本当に逃げるんです) で、議論とかの場合も、まず、身体反応の興奮(緊張)が先に出ると思います。ですからこの身体反応が解けない限り、融通性も生まれてこないんです。 物事の筋道や正邪、理屈ではないんです。 まず感情ありきなんです。 ですから、逆に、ちょっとしたキッカケで笑いが生じて、身体の興奮が覚まされると、急に、穏やかになって、融通性も生まれて、仲良くなったりもするんです。 で、緊張が強いほど、緩和された時の「差」が激しいですから、お笑い芸人というのも「強面」の人が多いんです。強面の人が面白いことをするギャップから、緊張と緩和の落差で、身体反応から解放されて、安心して、その人を好きになってしまうんです。落差による快感なんだと思います。 言い換えれば恐怖と緩和の自転車操業のようなものです。 ・・と、脱線しましたが。 これが致命的な欠陥といえば、そうだと思います。 こういう自分操縦法を体得すると、きっと、賢者と言われるような、沈着冷静な、人格者になれるんだと思います。

sowow
質問者

お礼

お礼欄に反対意見を書き込むのも変ですが・・・。 こういう話の時によく動物を例にして、人間も動物なんだから・・・というのをよく聞くんですが、ちょいと待ってくれと言いたいです。 関係ないとまでは言いませんが、それとこれでは違うんじゃないかな?とおもいます。 Syo-ya様もおっしゃってるように、人間は「ヘビだ!」に感情が反応したあと「本当かな?」とくるはずです。動物とは違います。 これは程度の違いではなく、決定的な違いでは? 「恐怖と緩和の自転車操業」「落差による快感」ってのはナルホドなぁと思いました。大変ですねー芸人も。 たしかに芸人さんの顔って「濃い」ですよねー。 瞑想とは言えないけど、僕は婆ちゃんの仏壇のまえに座ると「まぁ、いっかー」みたいな感じになりますねー(^-^) Syo-ya様 回答していただきありがとうございますm( _ _)m

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