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信じる

jupiter5の回答

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回答No.6

>「信念をサクサク更新するような融通性」には、なんか致命的な欠点があるのでしょうか? とても面白い問いかけですね。 致命的な欠陥があるかどうかはわかりませんが、 逆に、信念を曲げないことがどのような意味を持つのか、 考えてみるのも一つの手ではないでしょうか。 ということで、 「言い張る」ことを、心理学的に考えてみたいと思います。 まず、「言い張る」ことは社会生活上、 適応的なことが多いと考えられます。 ころころと意見を変える人間は、社会的に信用を失います。 逆に、一貫した意見を持つ人は信用されます。 この点について、社会心理学ではいくつかの実験があるのですが、 集団討論において、一貫した意見を自信を持って言い続ける人は、 集団内での信頼を勝ち取り、 その人の意見に同調する人が増えることがわかっています。 「12人の怒れる人々」と言う映画をご覧になったことはありますか? アメリカの陪審員制度を題材にした物語ですが、 この映画では、12人の陪審員のうち、 最初は11人が犯人の有罪を主張していました。 しかし1人だけ、犯人の無罪を主張する男がいます。 陪審制度では集団討論を通じ、 全員一致の評決を下さなければならないのですが、 1人の男だけ、無罪を強硬に主張していたため、 有罪の判決を下せずにいます。 彼がなぜ無罪を主張したのか? それは、彼が無罪であると言う確信を持っていたからです。 他の11人は、あまり強い信念は持たずに有罪を主張していました。 そして、討論を続けるうちに、 一人また一人と、意見が覆って行き、 最終的には全員が無罪を確信します。 この映画はもちろんフィクションですが、 心理学的に見て、非常によく出来た映画です。 集団内においては、自信を持って一貫した意見を述べ続けると、 他者の意見を変化させるだけの力を持ちうるのです。 (その意見が本当に正しいか否かは別問題です。) つまり、意見を「言い張る」事は、 自分の考えを反映させるためには有効なのです。 ただし、質問者さんもご指摘のとおり、 「言い張る」ことは必ずしも得策ではありません。 合理的に考えて、信念に間違いがあれば、 それは正すべきです。 ただ、人間はそんなに合理的な生き物ではありません。 人間には、自分の考えの正しさを否定するような意見に 耳を貸そうとしない傾向があります。 むしろ、他者の意見を曲解し、 自分の考えとって都合のいいように解釈する傾向があります。 このような認知様式については、 社会心理学では「認知的不協和理論」で説明可能ですし、 具体的な行動としては「仮説確証行動」として現れます。 仮説確証を簡単に説明すると、 「人が何かの考えを持ったとき、 それが正しいことを証明する証拠だけを探し、 それが間違っているかどうかを調べることはしない」 という行動パターンです。 このような情報の集め方をしていれば、 当然ですが、自分の考えがますます正しいものに思えてきます。 その結果、自分の考えの「正しさ」への信念を強め、 他の意見にますます耳を貸さなくなるのです。 >人間は「自分を疑うことが出来る唯一の生き物」だろうと思います。 とのことですが、私は考え方がちょっとだけ違います。 「人間は自分を疑う能力は持っているが、  自分を疑うことを好まない生き物」だと考えます。 先ほども書きましたが、 人間は確かに高度な思考能力を持っていますが、 決して完璧ではなく、感情などに容易に流されます。 人間の思考能力は、 合理的に物事を考えうるだけのポテンシャルはあるものの、 常に合理的でいられるほど、合理的ではないようです。 心理学の世界では、 人間が完璧に合理的になりうると言う考え方から、 1960年代ごろには、 人間の行動をコンピュータなどで予測する試みが多くありました。 しかし、これは全て失敗しています。 人間は計算通りには動かないのです。 逆に言えば、そのような不完全さが、 意見の多様性を生みだします。 意見の多様性は争いの元になることもありますが、 新たな知見を生み出す元になることもあります。 このような非合理的なところ、 言い換えれば「いい加減さ」こそが、 人間の面白さだと思うのですが、いかがでしょうか? 興味深い問いかけだったので、 ついつい長文になってしまいました。 ご容赦ください。

sowow
質問者

お礼

jupiter5様ありがとうございますm( _ _)m 最初下までスクロールして、正直「長いな・・」と思いましたが、いざ読み出すとひと息でした! 「12人の優しい日本人」という邦画なら観たことあります。あれも面白かったです。「怒れる~」のパク・・じゃないリメイク物ですかね。 「疑うことを好まない」!! ほんとそう思います。自分を疑ってみることに慣れてないというか、頑なですね。 でもあとで、「ひとりになったとき後悔したりしてる」とか打ち明けられると、そうなんだ安心します。 何かを成し遂げようとかいう気持ちの強いひとは「思い込む」とか「言い張る」ことが重要なんですね。 プロジェクトXですね。 「いい加減さ」!! これはちょうど、僕の今現在の興味の対象です。 個人的には「好い加減」がテーマですが。 いろんな方向からの説明とても楽しめました。 また宜しくお願いします。 ありがとうございますm( _ _)m

sowow
質問者

補足

<<全体的な補足>> 「信念」と大げさに言いましたが、そんな「生き様」みたいな大きな話しではなく、 私たちは、ほんの小さなことも「信じる」ことが基盤となって生活していると思われます。 そういう信念はどんどん更新されてしかるべきでは? と思うのです。 しかし物事につまずく人は大抵、その小さな信念の更新が苦手なようです。 例えば、母親なんかは同じこと(注意とか)を何度も何度もいいますよね(^_^;)。 あれは明らかに逆効果しかないと断言したいですし、何人かのお母さんに話を聞くと、みんな「わかってるんだけど、ついね。ハハハ」と、反省するどころかすこし誇らしげでさえあります(ちょっと誇張)。 ・・で我が子に「うるせぇババア!!」と心から罵倒され、まぢに凹むわけですが次の日また同じことを言う。 これは何故ですか? カテが心理学なきもしますが、お暇なかたおられましたら教えて下さい。

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