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和歌を理解するのに仏教知識は必要でしょうか?
夏の今、ちょっと気が早すぎますが、三夕の歌として知られる歌をよんでいました。中でも西行の、 心なき身にもあはれ知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ という歌の解説に、西行は西に西方浄土をみていた。西に沈む夕日にも沈みゆくわびしさと共に西方浄土へと向かう太陽に思い入れがあったのかも知れない。みたいな事が言われていました。 言われてみると、またこの歌に対する思い入れも変わってきました。 和歌を深く理解したいと思えば、仏教もある程度勉強しなければいけないのでしょうか? それとも、たまたま西行のような人もいるけど殆どの歌は必要ないのでしょういか? 西行の歌も、他の歌人の歌も、仏教観を知らなくても十分味わえますので、自分がいままで細部を見落としていたのかすら分かりません。 お詳しい方、教えてくださいませんか? 宜しくお願い致します。
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ご回答ありがとうございます。 >ところで、あちこちで「三部合唱」の観がありますね。 >お互い、周波数が近いからでしょうか。 周波数は近いと思います。詩も和歌も、いいですよね。 >確かに、仏教を考えることなしには、西行の歌や当時の世情・歌集を >(...)、その時々の特有の背景を知ることが求められる、 仰る通りですね、背景の学習がとても大切なのですが、毎回私はさぼってNakayさんのお世話になっております。 いつかNakayさんをビックリさせるくらい背景知識を披露できるようになりたいとは思うのですが、どうにもこうにも苦手分野というのはありますね。 欧州の歴史や、和歌の世界の歴史をと思いつつも苦手分野に苦労しております。 >西行の出家事情は、自然に問うて、瞑想し、自省し、求道し、哲理・理法 >を探訪したいという願望から出たものと思われます。 本当に求道し、探究したのだと思います。最近読みました解説によりますと、「西行は、誰よりも「あはれ」(美的理念)を捨てようと瞑想の静かな世界を求めたものの、それでも「あはれ」の心を消せなかった人。」(引用ではなくなんとなくそのような事が書かれていました。)だそうです。 チラチラみえるチラリズムな「あはれ」がまたいいですね。 >当時、人々は戦乱と災害に打ちひしがれ、末法の感を強くし、「仏教による救いを願い、 >社会全体が仏教帰依を求めていた」、ということを考え合わせれば、「うべなるかな」です 末法と言う概念も中々難しいものがありました。西行の時代が末法なら今は仏教的になんの時代なのだろうと思いましたら、、末法は1万年も続くので現代も末法なのですね!!! (ひどい、、、。) 結局西行が仏教になにか解決策を見出したのか、ちょっと不勉強なので分からないのですが、共産主義に理想を見出したネルーダ、仏教を求めた西行、もしかしたら共産主義も仏教もなんにももたらさなかったのかも知れませんが、どちらとも理想の道を探す途中で素晴らしい詩や歌を残してくれたように思います。 >「さびしさは秋見し空にかはりけり 枯野を照らす有明の月」(山家集) 確かに末法観を感じます。それと同時に「あはれ」のチラリズムも。 >「夜明けの美」(万葉集)や「白日の美」(古今集)に対し、 >「落日・たそがれの美」とされるのがこの新古今集 あんまり分析的に読まない私には大いに助かります。 他にも、「写生的な歌」(万葉集)、から「直喩」(古今和歌集)、そしてさらに奥深い「暗喩」(新古今和歌集)へと進化していったと、分類されいるのも聞いた事があります。 私は和歌すきながらも、そこまで分析できるほど踏み込めるていません。こういった分析もやはり読むときに大いに理解の助けになり助かります。 ありがとうございます。 >このコロナ禍の時代に求められるものは何かといえば、それは、 >「科学+国際協調+共存・共生の哲学=総合人間学」 私もその通りだと思います。 今まで以上に大切になってきますね。 >「願はくば花の下にて春死なむ その如月の望月のころ」。 これかっこよすぎますよね! 西行と言えコレが思い浮かびます。 >「いつまでも君と花野を駆けばやな 君がおぐしに野菊を添えて」。 Nakayさんの文章力に憧れます。 私も自作の和歌をいつか詠めるようになりたいです。 本当に詩といい和歌といい先人は素晴らしいものを残してくれたものだと思います。 今回もありがとうございました。 またよろしくお願いいたします。