欧米の個人主義者は孤独につよいか?ぎゃくでは?

このQ&Aのポイント
  • 欧米の個人主義なる思想はすでに孤独を言わば織り込んでいて、しかも孤立することなく社会関係の中でふつうにしかるべく孤独であって強い。
  • 欧米の個人主義なる思想において、孤独は自明であり、独りある境遇につよいか?ぎゃくではないか?
  • 欧米の個人主義者は孤独を積極的に受け入れており、社会関係の中で自己を維持しながらも強さを持っている。
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欧米の個人主義者は 孤独につよいか? ぎゃくでは?

  (α) 欧米の個人主義なる思想(生活態度)は       すでに孤独を言わば織り込んでいて      しかも孤立することなく       社会関係の中でふつうにしかるべく孤独であって強い。  なる命題について考えます。果たしてそうか?  (あ) 一本調子では(一筋縄では)行かないように思います。  (い) 理由は かんたんです。《孤独》の中に《人それぞれのおのが固有の時》を見るとは限らない。からです。そういう伝統は ないはずです。薄いはずです。だからです。  (う) つまりあるいは 《孤独であることを許容する精神風土》がすでに出来ていると言いますが それは――ヨーロッパ人とその社会における生活感覚がゼロの人間として推測するだけですが―― 要するにその《許容》の仕方は こうであるのではないか? :   すなわち 《互いに相手との関係をそれぞれおのれの意識の内に捉え すでに初めにおいて互いの対立関係に入り そしてそのあと互いに均衡を図るということ。このように人間関係が成り立っているのではないか》と考えるからです。  (え) つまり早い話が ヨーロッパ人とて《孤独が孤立に成りやすく やはり孤独に耐えられるかと言えば それほどやさしいことではないのではないか》という藪にらみを事由としたものです。  (お) 《固有の時》というのは 《わたしがわたしである》その心の庭にあることです。それになじまないならば    心無き身にも     あはれは知られけり    鴫立つ沢の秋の夕暮れ  なる《独りのとき》を知らないのではないか?  (か) ならば ちょっと言い過ぎになるけれど 目の前の相手と向き合ったとき 多少なりとも《人を見たら 狼と思え( Homo homini lupus. )》なる意識が 互いのあいだに関係を築くことに成らざるを得なくなっているのではないだろうか? むろんその意識の対立について 均衡を図る方法にかんしてはすでに広範な思索を展開し手練手管をも開発して来ているはずだ。  (き) けれども われわれ日本人は わび・さびの時を知らないではない。  たしかにわれわれは いざたたかうと成ったときには思慮を欠かしチカラに任せて突き進むことがあった。だから 心の内に《その時》を悔いおのれを咎め おのれの信じるものに対してわびた。  わびてもわびても 悔いが残った。  相手が とがめて来るときには その声にしたがった。  みんながすべて従って来た。  鴫立つ沢に立っていた。  わびようが無くなるまでわびた。  そしてそれでも ゆるされないときには われらが心は さびしさの極みに錆びついてしまった。  このわび・さびの時を知らないわけではない。  相手を狼だと思っていなかったことが わるいのか?  われらが心が あくまだったのか?  (く) われわれは やはり人間を――意識関係だけとしてでも――狼だとは思っていない。のではないか? すでに鴫立つ沢の孤独には 長い歴史を経てじゅうぶん佇んで来ているのではないか。  (け) われわれは よわいときにこそつよい。のではなかったか。  (こ) 欧米人は その個人主義なる思想において 孤独は自明であり 独りある境遇につよいか? ぎゃくではないか?

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  • kohichiro
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回答No.4

ブラジュロンヌさんおはようございます。 >幾何学の精神と繊細の精神について 拝見しました。仰るとおりだと思います。人間は感性の生き物ですから、真理と感情との矛盾を常に感じながらバランスをとってきたというのは間違いないところでしょう。それを前提にしつつこの課題を考えていく必要があると私も思います。 振り出しに戻って、「孤独に強いとはどういうことか」を考えた場合、やはり社会があって、その社会と矛盾しない安定した孤独、社会も許す孤独というものが「強い孤独」というものであろうと私は思います。西行のように社会から截然と離脱して仏と芸術に捧げる人生を送るというのもひとつの孤立の方法であり、勝海舟のように、激しい社会の矛盾と圧力の中にあって孤立しながらその圧力に負けない強力な独自の思想で周囲を黙らせる、自身の孤立孤高を社会の標準にしてしまうという種類の孤独もあります。 西洋の個人主義とは、高さと強さの差はあっても、おおむね自分の立場は立場として周囲をともかく黙らせる、その立場を納得させるという、海舟系の孤独であり、強い孤独だろうと思います。周囲を黙らせる、納得させるにはやはりそれなりのコミュニケーションが必須です。西行には芸術があり、これも一般に通用する力がなかったとはいえませんが、やはり次元としては社会とは異なったものであるといえないこともないと思います。一般的に芸術魂はやはり市民一般にはそれこそ感性でしか交流できないものでしょう。 同じことをるる繰り返しているような気がしますが、市民の中の個人主義は、確かに狼の論理が含まれます。ここで議論が深まらない場合、決裂した場合は、やはり喧嘩しかないという破滅的な事態もありえるかもしれません。しかし、それはやはり人間関係の失敗であって、お互いにそれを避けねばならないという考え方も論理には含まれると思います。それは必然的に感性の出番かもしれません。 私の今の思いの披露はそこまでにします。 疑問など多いと思いますが。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。土曜の朝は外出の日課がありました。ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  同じことをるる繰り返しているような気がしますが、市民の中の個人主義は、確かに狼の論理が含まれます。ここで議論が深まらない場合、決裂した場合は、やはり喧嘩しかないという破滅的な事態もありえるかもしれません。しかし、それはやはり人間関係の失敗であって、お互いにそれを避けねばならないという考え方も論理には含まれると思います。それは必然的に感性の出番かもしれません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち 《意識の関係におけるややもすると対立とそして そうは言っても均衡をもたらし調和を図ることをも知っている》その論理性に 繊細の精神を加味して 出来るものなら情感の共同性の中に入って《意識における対立と均衡をさらになめらかなものにする》。といったところでしょうか。  わたしは 日本人のあいだでは 情感の共同性がまだまだ生きていて有効である。その土壌の上に 論理の世界が繰り広げられている。というふうに見ています。  でも:   ★ 西洋の個人主義とは、高さと強さの差はあっても、おおむね自分の立場は立場として周囲をともかく黙らせる、その立場を納得させるという、海舟系の孤独であり、強い孤独だろうと思います。周囲を黙らせる、納得させるにはやはりそれなりのコミュニケーションが必須です。  ☆ というふうに 欧米人のあいだに見られる《個人と孤独とそれらの人間関係》が 海舟といった日本人らにも見られるのではないか。こういった観察がありうるようだ。ということですね。  こうやって話をすすめてくると お互いのあいだにそれほどの違いがあるわけでもないようです。東と西とのあいだでは 重心を 理性におくか感性におくかの違いだけであるのかも分かりません。  まぁ 穏当な結論は 《まあまあ主義》に落ち入らないとも限りませんが そうですね いまひとつ 将来へ向けて《波風を立たせ》てみましょうか。  ★ 西行のように社会から截然と離脱して仏と芸術に捧げる人生を送るというのもひとつの孤立の方法であり  ★ 西行には芸術があり、これも一般に通用する力がなかったとはいえませんが、やはり次元としては社会とは異なったものであるといえないこともないと思います。一般的に芸術魂はやはり市民一般にはそれこそ感性でしか交流できないものでしょう。  ☆ この浮世離れした《独り道をゆくわたし》の思想(生活態度)は あんがい日本人のあいだでは ひとつの基礎にさえ成っているのではないか? という問いを添えておきたいと思います。  芭蕉にも見られる《旅》の精神ですね。  うたが優れているとか 俳諧とはすぐれた芸術であるといったことを言おうとするのではなく そうではなく 《罷宴》の思想ですね。  実業人が社会という・経済活動という大きな《宴会》の中にあって――つまり決してそれを避けてとおると言うわけではなく しかも――これらの浮き世(憂き世)から超然とした精神の人物〔の行き方〕を好むといったクセのことですね。  ただし 世はすでに経済の高度成長の時代をとおり過ぎて来ています。あるいは 身分制が固くあって 自由な身動きが出来ないといった世の中でも無くなりつつあります。  そうなると おそらくは 西行や芭蕉の《遊離するヱクトル》も 海舟のつよい精神と相い合わさって 人間の人間のための人間による社会が出来上がって行くのかも分かりません。  言いたいことは 海舟の強さは 旅に出るという精神のことを知っていたからではないか。というふうに思ったものですから。  また お会いしましょう。

その他の回答 (3)

  • kohichiro
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回答No.3

ブラジュロンヌさん、しばらくあいてしまいました。申し訳ありません。 今回は西行を日本人の代表にしたてて西洋の賢人たちと対決させるというお話でしょうか。 お礼にあった「西欧の個人主義にこそ真理がある、のかどうか?」というそちらの解釈は、私の書き方に問題があったのでしょうが、それはちょっと違っていて、西欧人の個人主義は、それこそ人間とは何かというつきつめて真剣に考える姿勢にこそあるので、そこに真理へのまじめなストレートな態度が日本人とは違うのではと思うのです。必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。 西行はある意味実人生を捨てて仏教の修業者になった人間ですから、あるいは西洋では政治的な立場を捨てて芸術一本に入った後のベートーベンのような存在であり、必ずしも普通の市民の代表にはなりえないと思うのですね。はっきりいって彼らには敵も仲間も存在しないわけですから。 一般の人間は敵も味方も作らねば生きてはいけないわけで、それを前提にしての孤独です。 補足のなかでの ひ は、確かにその通りです。そういった複雑な人間関係で孤立する、そのうえでその孤立を自身なりの立場を周囲からアイソレートして守っていくための哲学的信念が真理に通じる態度になっていくのではないでしょうか。 日本人のなあなあ感覚は、そのあたりをごまかして情緒へ流れているという感が私はしてならないのです。 国会質疑などを見ていても、どうも日本人は言葉を大事にしない、というか言葉を信じては居ない。むしろ細かい禁止令をいっぱいつくって守らせるというドイツ式のほうが論理的で、私には人間としてのあるべき一般性に通じるのではないかと思います。どんなものでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 こういちろうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。時間をじゅうぶんに取って ご投稿ください。こちらは だいじょうぶです。  ★ 西欧人の個人主義は、それこそ人間とは何かというつきつめて真剣に考える姿勢にこそあるので、そこに真理へのまじめなストレートな態度が日本人とは違うのではと思うのです。必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。  ☆ 微妙ですね。  そして  ★ 必ずしも彼らが人間の真理をすでに把握したといっているわけではありませんが、そのまじめな姿勢が真理に近いものだということです。  ☆ という事情にあるのだと。    (ま) たぶん《真理を見出した》とか《真理に近づいた》とかというふうに問いを立てると 誰もがもうそこで足踏みをしてしまうと考えます。なかなか 結論は出ません。  (み) だから たとえば《――主観の範囲でよいとするかたちで――おのが固有の時を見つけた》かどうか? といった問い方をわたしならしています。《わたしがわたしである》。《わたし》が数字で一なら 《 1 = 1 》という自己なる心のあり方です。脱線しても つねに我れにもどる。つまりは 1x1 = 1 となって《わたしはわたしでありつづける》。 1^n = 1  これが 《わたし》でありその動態です。  (む) その固有の時にあっても――むしろ固有の時ゆえにこそ――なおわたしは孤独である。のですが しかも同時に その孤独は 誰もがそれぞれの固有の時にあって見出しているものであると知るからには 孤独どうしの関係である。と知ります。独立した我れであると同時に その我れは 我れと我れとの関係であると。この関係は 絶対であると。(一生のあいだ いつ・いかなる所でも つきまといますから 絶対です)。  (め) 西欧人には その《孤独》があるか? どういう孤独観なのか? ――こういう問題ですよね。  (も) 《人間とは何かを真剣に考えるそのまじめな姿勢》が 真理に近いというときには おそらくたとえば《日米決戦は どこまでも避けたいという偽らぬ心で真剣に最後の最後まで考えしかるべき行動を打っていたというまじめな姿勢》は 日本人にもありますよ。  ★ 西行はある意味実人生を捨てて仏教の修業者になった人間ですから、[・・・]必ずしも普通の市民の代表にはなりえないと思うのですね。はっきりいって彼らには敵も仲間も存在しないわけですから。  ☆ (や) ですからその《心無き身》にも もののあはれは知られたというのですから 《心ある身》なら余計そうだという事例になると思うのですが。  (射) 《敵も仲間も存在しない》からこそ そのもののあはれとしての孤独を見出したのであって 敵も仲間もいるふつうの人にとっては 別だということでしょうか? ――でもそういう見方に立つなら 世を捨てていないかぎり 孤独は味わえない。と決めつけたことになるのではありませんか?    ★ 一般の人間は敵も味方も作らねば生きてはいけないわけで、それを前提にしての孤独です。  ☆ (ゆ) では 孤独に違いがあるのでしょうか? 言わば出家した世捨て人の孤独と在家にあるふつうの人びとの孤独との二種類があるのでしょうか。  (江) 海舟は 頭を丸めたわけではなく幕府に仕える境遇にあって みんな敵でいいぢゃないかと言っていましたが。  ★ 補足のなかでの ひ は、確かにその通りです。そういった複雑な人間関係で孤立する、そのうえでその孤立を自身なりの立場を周囲からアイソレートして守っていくための哲学的信念が真理に通じる態度になっていくのではないでしょうか。  ☆☆  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ひ) おそらく《個人》どうしの社会的な関係というコトをも言っているはずだ。その関係とは じつは 《狼として互いの意識において対立するかたちでそれぞれ教養や財産等々で自分を飾り立てている。その飾りの対立関係の中で 狼の戦略として鳩のごとき隣人愛のかたちにおいてもさらに――別様に笑顔によって――飾り立てて対立の均衡を図る。むろん 調和と秩序を知らないのではない》 こういった人間関係なのではないのか?   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (よ) そういう視点に立ってのご見解でしたら それはそれで受け留めます。  (ら) 問題は――この質問では―― 別にあって 人間の真実のあり方(つまりは おのが固有の時を見出したという我れなる存在)は そういった《飾り立て》関係における対立と均衡ではないのではないか? と睨みつけています。 シガラミと栄誉とのいづれも或る種のカザリであるそういう人間関係の狭間から真理に近づくといった姿勢は まだまだあいまいではないか? という物言いです。  (り) 飾りをつけたクリスマスツリーどうしの関係のあわい(間)から覗くという視点は それとしてあって構わないわけですが その孤独と 樅の木本体だけの孤独とは 違って来ているのではないか? です。  (る) われわれ日本人の感覚から行けば 裸の樅の木どうしのおつき合いゆえに 孤独を知りつつ いざという時には 互いに助け合いをもおこなう。《狼や鳩やの互いの意識関係》は 無い。と思うのです。  (れ) その自然な裸の飾らない人間どうしの関係の場合には ややもすると:  ★ 日本人のなあなあ感覚は、そのあたり(=ややもすると誰もが落ち入らざるを得ない孤立関係)をごまかして情緒へ流れているという感が私はしてならないのです。  ☆ と見られる問題が出て来るのでしょう。  (ろ) でもそんなことを(つまり 最悪の場合を取り上げて)言うのなら 欧米にあっても意識の対立関係が生涯解けないまま いがみ合って過ごすことにならないとも限らない。つまり 《まあまあまあ なあなあ よっしゃよっしゃ みんなでシャンシャン大会》に対して 《あちこちにハリネズミ関係》が現われて来るのではありませんか?   (わ) 《情緒へ流れること》も問題ですが 《情緒へ流れることの無さ》も 問題です。  ★ むしろ細かい禁止令をいっぱいつくって守らせるというドイツ式のほうが論理的で、私には人間としてのあるべき一般性に通じるのではないかと思います。どんなものでしょうか。  ☆ (ゐ) ここは わたしの――生活体験の無さの――泣き所です。  ( wu ) 問題は 《幾何学の精神――論理性の追究 また 意識の対立と破綻と均衡――》と《繊細の精神(情感の共同性)》との調和にある。これが 安易に導き出した結論である。となるとは 思います。   cf. 【Q:幾何学の精神と繊細の精神について】     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6780348.html  (ゑ) よろしかったら全体として 議論を継いでください。ゆっくりでかまいません。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.2

ブラジュロンヌさんこんばんは。すぐに回答が欲しいということですが、出遅れました。ごめんなさい。 >西欧由来の個人主義は孤独に強いか、どうか? 面白いテーマですね。日本人が韓国の反日主義者に負けそうになっている。日本は国ぐるみ孤独になることでここを踏ん張ろう、とおっしゃるのですか?なかなかいいアイデアですね。でも、養老孟司というひとが「無思想の発見」という新書で「究極では真理が強いのは当然で、だから日本人は明治以来科学者が引っ張ってきた」と仰っています。 欧米人は個人主義というひとつの真理をみつけたので、そこにこもれば絶対強いです。やはり個々人では孤独でも我慢できるのではないでしょうか。もちろん孤独でとことんがんばれるのはやはりそこに真理がなければならないと私は思います。単なるやせ我慢ではながくはもちません。もっとも、戦争をする覚悟なら真理は不用ですが。 個人主義を社会に根付かせるには、やはり真理を大事にする思想、論理的な気風を社会にゆきわたらせる必要があるでしょうが、日本人はその点科学の真理いってんばりで、自我が未完成のひとびとは社会に応用する場合は分かりやすい実利の経済へ、もうかりまっか?という方向へ行ってしまう傾向が強いです。やはり神がいなかったせいで形而上学にうとい民族になってしまいました。 く、け、こ、についてはよく理解できません。申し訳ありません。和歌の世界は虚構の世界であり、仏教は寂莫をたっっとんでいますが、これは何でしょうか、思想ではなく、単なる個人的な詩の世界ではないでしょうか。 単なる私見です。

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ でも、養老孟司というひとが「無思想の発見」という新書で「究極では真理が強いのは当然で、だから日本人は明治以来科学者が引っ張ってきた」と仰っています。  ☆ これは 落ち着いた見解だと思いました。  養老孟司という人の思想は あまり買っていませんが これは よいことを言ったと思います。水の低きに流れるように 事件や問題は 真理・真実に落ち着くものと思います。  ★ 欧米人は個人主義というひとつの真理をみつけたので、そこにこもれば絶対強いです。やはり個々人では孤独でも我慢できるのではないでしょうか。もちろん孤独でとことんがんばれるのはやはりそこに真理がなければならないと私は思います。単なるやせ我慢ではながくはもちません。もっとも、戦争をする覚悟なら真理は不用ですが。  ☆ ここには いろんな主題がふくまれていますね。  (さ) 《個人主義に籠もる》というとき そこに《真理・真実》はあるか? が一番の問題なのでしょうね。  (し) 人工の姿勢や態度であるなら まだまだ改良の余地があることになります。それとも 人造の思想や主義のほうが つよいのでしょうか?  (す) いづれにしても かれらは《単なるやせ我慢》ではない確かな生活態度を築いて来ているのでしょう。  (せ) 容易には崩れないようにも感じられます。  (そ) ひょっとすると 崩れかけるときには 《戦争》をしかけることで長い《伝統》のある個人主義を保持する。・・・というまでのことではないでしょうね。  (た) でも戦争をまだ手段として用意しているのは ひょっとすると《孤独》には耐えられない側面があるから・・・かも知れない。  ★ 個人主義を社会に根付かせるには、やはり真理を大事にする思想、論理的な気風を社会にゆきわたらせる必要があるでしょうが、日本人はその点科学の真理いってんばりで、自我が未完成のひとびとは社会に応用する場合は分かりやすい実利の経済へ、もうかりまっか?という方向へ行ってしまう傾向が強いです。やはり神がいなかったせいで形而上学にうとい民族になってしまいました。  ☆ ここは 最後のパラグラフとともに 論争があるかに わたしからは見られます。  (ち) いまはまだ深く立ち入らないことにします。  (つ) かんたんに言えば 《狼》ではなく 《兎》だと思想がないのだろうか? です。だまっていると 何も考えていないことになるのか? です。  (て) もののあはれを知ると言って世界を観ている態度は 思想に乏しいと見られてしまうのか? です。  わざと あいまいにしてひとまづお礼とします。  

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄で あまりにもあいまいなままにしましたので おぎないます。  (と) (お)のうたは 西行の詠んだものですが この人は武士でしたが 仏門に入りました。それが 《心なき身》です。すなわち 親兄弟はもとより親戚も知人も世の中すべてを捨てた身だという意味です。  (な) そんな親不孝者でバカモノで人で無しであるのに この秋の日の夕暮れ時に或る沢に来て 鴫の立つさまを見ていると いつしか《あはれは知られけり》と言っています。  (に) 世の中の・またそこに住む人びとの血のかよった結びつきが すでにまったく捨てて来たのに 思い出されると。  (ぬ) つまりは 味方も敵も人という人はすべて自分から失くして来たにもかかわらずその孤立した状態は じっさいに話を交わす人がひとりもいないのであるから なお孤独ではあるが じつはその孤独というものは 孤独なる人どうしの関係なのだと知った。と語っていませんか?   (ね) 頭を剃った沙門だからではなく 世の中の人だれもが じつは――おのれの《固有の時》を見出しその中にあるときには―― そういう孤独でありつつしかも孤独関係として存在する。のではないかと。  (の) じつは人は ここにおいて生きている。飾りをすべて取り払ったクリスマス・ツリーの樅の木として生きているし じつは共生している。  (は) ヨーロッパ・アメリカの人たちは 《個人》を発見したというとき その個人とは何か? 《孤独》とどう違うのか?   (ひ) おそらく《個人》どうしの社会的な関係というコトをも言っているはずだ。その関係とは じつは 《狼として互いの意識において対立するかたちでそれぞれ教養や財産等々で自分を飾り立てている。その飾りの対立関係の中で 狼の戦略として鳩のごとき隣人愛のかたちにおいてもさらに――別様に笑顔によって――飾り立てて対立の均衡を図る。むろん 調和と秩序を知らないのではない》 こういった人間関係なのではないのか?   (ふ) もののあはれを知った孤独なる身としての《樅の木》関係ではないのではないか? 個人主義なる生活態度は 言わばヤジロベエのごときもろいチカラの均衡に立っているだけではないか?  (へ) 欧米人は その心の中の世界になかなか入る機会がなく そのおのが固有の時を知らないのではないか?   (ほ) だとすれば その《きづな》はなお弱い。孤独なる身に立たなければ 絆は結べない。だから 日本人を見習って欲しい。――ここまでを思い切って言っています。どうでしょう。

回答No.1

私は、8年間の海外勤務の中で、多くの白人と 敵対したり同僚として働いてきた。 基本的に彼らといる時は、緊張感がとけない。 日本のように遠慮・以心伝心の世界とは異なり、 常に自己主張し、争い、妥協点を見出す事が必須 なのだ。 逆に遠慮して何も言わないのは、気持ち悪がられる。 そうした緊張感のある社会生活だからこそ、プライ ベートな時間が貴重なのだ。 彼らは、社会生活とプライベートを完全に使い分ける。 社会生活においては、孤独を恐れない。 他人を、まず敵だと考えるか、味方だと考えるかの 違いだ。 日本人は、謙遜したり自らの弱みをさらして、相手に 甘えようとする。 「やさしい(Tender)」という単語は、日本では良い 印象しかないが、英語だと「虚弱な」という印象が伴う。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  1. 旅行ではなく生活するということは 貴重な経験だと思います。    2. この問題は 大きい主題のもとにあると思うので かんたんにやり取りできるとは思えないところがあります。  3. そこで 二点 もしよろしかったら次の問いにさらにお答えいただければと思います。  (β) 「虚弱な」という印象が伴う英語の《 tender 》は そうしますと 仕事関係の社会生活では あまり使わない。ということでしょうか。オフの生活で使った場合 虚弱のニュアンスがあっても 愛情をもってしかるべき相手には使うのか? それとも それを使う場合は――はっきり《虚弱》の印象をあたえてもよいと思ったときでなければ―― ないと見るべきか?  (γ) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  彼らは、社会生活とプライベートを完全に使い分ける。  社会生活においては、孤独を恐れない。  他人を、まず敵だと考えるか、味方だと考えるかの違いだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この観察は 分かりやすいと思われる反面で かんたんに応用してしまいがちになるかと思います。  そこで いろいろお聞きしたいのですが 一点です。:  その《孤独を恐れない》というとき それは《味方の一人もいない孤立をもおそれない》ということか? あるいはつまり 実際問題として《もともとプライベートでも孤独であるからそれがそのまま 仕事の面にも出ているだけ》なのか?

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    高校生の女です。最近、独りでいることを前よりももっと好むようになりました。高校でも自分から距離を置いてます。 とにかく、誰とも一緒にいたくなくて、関わりたくなくて、会話さえもしたくないんです。同じ空間にいることさえも嫌です。 唯一、家族とだけは一緒にいたいと思えます。でも、家族の前でも、心の底から笑えません。明るく振舞い、本心も悩みも何一つ告げられません。 私は過去に何度も人を酷い言葉で傷つけていました。今までに私と交友関係を持った友人、家族、他人全員を言葉で、行動で、酷く傷つけました。 悪事を働いたこともありますし、動物ですら傷つけました。 夢の中でも誰かを傷つけたり、殴ったり、酷い言葉を吐いたり、泣かせていて、当の自分も何故か泣いている。 自分が孤独で、周りの人間はそんな私とは違い、幸せそうで、私だけが笑ってなくて、孤独な自分を受け入れているという夢も何度も見ます。 その夢を見て思い知らされます。やっぱり私は孤独がお似合いだと。 人を傷つけたりすることは誰にでもあるでしょうけど、私の傷つけ方は酷いものです。とてもここでは書けません。 友人いない歴通算6年、恋人がいない歴は実年齢です。本気で両方共ほしいと思えません。 どうせまた私が私を裏切り、その人達を傷つけることになるから。 傷つけたくないと思っていても、必ず傷つけます。所詮傷つけたくないというのは綺麗事に過ぎなかったのだと実感します。 私は幸せになってはいけないと思い、他人と距離を置き、友人も恋人も作らないようにしてきました。 何も知らない親から友人を作れと言われても、全く耳を貸しませんでした。 親は私の過去のことも今の私の気持ちも何もわかっていません。私が話さず、明るく振舞っているので。 私の考え、行動は間違っていますか?独りでいることは悪いことですか?

  • 孤独感を感じます。

    私は二十代後半の男です。孤独感を感じる時が多々あります。 平日は忙しない日々を送っており、そのような感情を持つことはあまりありません。強いて言うならば、帰り道ぐらいです。しかし、時間的に多少余裕のある時は孤独感を感じるようになります。 私にはこれまで恋人がいたことがありません。孤独感を感じる時、心を許せる恋人がいればどんなに心が休まることだろうと考えてしまいます。このように極度の孤独感を感じるようになり、数年間経ちました。私の周りを見渡すとだいたいの人には恋人はいます。お互い励ましいながら、歩んでいるのを見ると劣等感さえ芽生え始め、自身に嫌悪感さえ覚えてしまいます。 ただ今年は自身にとって非常に大事な年なので、孤独感などに心が揺れている場合ではありません。しかし、大事な年ということからプレッシャーを感じ、さらに孤独感が助長されているように感じます。つまり、少しでもプレッシャーを軽減するために心を許せる、また心から応援してくれる人が、そばにいてほしいという気持ちに襲われてしまいます。 この数年間、上手くいかないことが多く、多くの悩み抱え込み体を壊した時期がありましたが、何とか目標を達成しようとしてきたつもりです。 今は目標を達成するために戦わなければなりませんが、少しでもこの孤独感を軽減したいと思っております。どのようなことでも良いので、恋人のような心を許せる人がいなくても孤独感を軽減できる方法などがありましたら、アドバイスをよろしくお願いします。

  • 孤独は 互いの孤独関係であって 孤立ではない

     表題の内容を 次の評論にからませて問います。  ボルケナウは その著『封建的世界像から市民的世界像へ』の最終・第八章を パスカルの議論に当てているが その最後に・すなわち書物全体の最後に こう述べている。:   かれ(パスカル)はその時代ではついに孤独の存在におわった。生き  るとは その時代にあっては 見まいとすることであるから。   そして生きると見るとがふたたび統一されるのは 歴史主義が――  哲学の分野でパスカルをのりこえて踏みはだれた(=ママ。《踏み出さ  れた》か)根本的には唯一のこの前進が――弁証法をわがものとし   またその弁証法によって矛盾を脱却しうる道をさししめすときからである。   そしてその道とは 思考によって生活を解釈しなおし ないしは思考に  よって 生活の不満を訴えるかわり 生活そのものを変更するということ  である。    (F.ボルケナウ:『封建的世界像から市民的世界像へ』§8・4     水田洋,花田圭介,矢崎光圀,栗本勤,竹内良知訳  2004 p.673)  あたまは生きている内に使えと言っている。近代の特徴だとも思えないが 民主制の進展につれて そうなって来たというくらいのことなのであろうか。  だから この思考の活用ということが歴史をつうじて例外なくごくふつうに有効であるのと同じように 孤独は おのれの《固有の時》へと到らせることはあっても 社会で独り孤立していることを意味するものではない。これが歴史をつうじて 普遍的な真理である。  パスカルについて ひとつ 言えることは かれは のちにヤンセン派の人びとと立ち場を同じくし かれらからは 自分の思想がアウグスティヌスのと同じであると褒められもしたのであるが パスカルは 哲学から入った すなわち エピクテートスとモンテーニュとを学ぶことをとおして アウグスティヌスのならアウグスティヌスのその思想と同じものを抱くに到った ゆえにパスカルは アウグスティヌスに対しては 自分の独創性を主張することができた この点である。  だから パスカルは たとえばいまの国家観の問題でも アウグスティヌスと同じ考え方をしていても ほとんど そうは言わない。しかも 両者がもし 同じ思想を持つことがあったとした場合 それは 必ずしも ボルケナウの言うように《国家は悪の生活に集団的秩序をもたらすための道具である》という論点に 要約されないであろう。《必要悪》論は 付随的な一帰結にそれがあったとしても それは 問題の中心には来ない。  問題の中心は ボルケナウが次のように批評するところの一観点のほうが 有効ではないか。    パスカルはその時代ではついに孤独の存在に終わった。  しかもこれは うそである。  《その時代では》という条件をつけても うそだと言わなければならない。そして――そして―― 《実定主義国家学説》の徒としてのパスカルならば それは ほんとうであるだろう。そして――さらにそして―― わたしは パスカルは かれの人間学基礎をもってしてならば その自然法主体に――つまり 人が人であることに――孤独はないのだから 《孤独の存在に終わ》りはしなかったと言う。ここでは この限りで 国家論と人間学基礎とが みっせつにかかわりあう。  つまり 時代総体としての出発点ということになる。それは いつの時代においてもである。  わたしは 想像の世界に遊ぼうとは思わないし 抽象的な議論で終わらせたくないので まづは ひるがえるならばただちに 孤独であってもよいと言う。すなわち・そして 人は 社会習慣の領域で 孤立するかも知れない。なぜなら つまり 孤立した(孤立を欲した)人びとが 孤独者をも 孤立していると見るはずだ。――しかも もはや かれは ひとりではない このことを明らかにすることにつとめよう。  わたしは わたしひとりであるゆえに ひとりではない と言ったのだ。  自然法主体の主観動態は 少なくとも論理的に こうであるほかない。そして――まだ論証していないのだが――これが 社会経験の生活領域でも その出発が開始され(そしてこのとき むろん なんらかの法治社会として 人定法が持たれていて いっこうに 構わないわけだが) 社会行為の関係が構造的にゆきわたっていくならば つまりもう一度繰り返すと 自然法主体の主観動態が 社会習慣の領域でも 互いにゆきわたった動きを見せるなら じつは 大地は すこやかである。ひとりであって ひとりではないからである。  わたしは 神話を説く趣味はないから これを これだけで 主要な議論としたい。論理的な証明をおこなおうとすることさえ それが成功しても なんらかの神話をつくり勝ちなのである。  ボルケナウに反を唱えた すなわち かれの到達点としての新しい生活態度(思考の有効活用)はこれを受容し そうではなく他方で その生活態度の観点から言ってボルケナウが パスカルは 《孤独の存在に終わる》と言い そんな一人の人間としてのみ その時代では 実践し生きたと見ること これに反を唱えたい。これだけで まづは じゅうぶんだと考えたい。  わたしは独りであると言うとすれば そのように誰もが同じく言うことになるのだから 孤独はつねに孤独どうしの関係としてある。つまりは 孤立ではない。  そのつてでは こう言おう。孤独の人パスカルの主観動態――おのおのの《固有の時》――がゆきわたった世界は その大地(つまり社会習慣)が すこやかであると。ここを耕す人の手足はじつにうつくしいと。

  • 人の中にいると孤独感が増してゆきます。

    人の中にいると孤独感が増してゆきます。 学生時代には自分は一人で生きていく、寂しいなど甘えだ。 恋人と別れて「死にたい」と言っている奴は大馬鹿野郎だと思っていました。 実際は皆の輪に入りたくても入れなかった子供がヤケを起こして意固地になっただけです。 そんな自分だから今は自分の孤独を受け入れていくしかないと思って生きていますが、 稀に人に優しくされたり、気にかけて貰えると心を許しそうになります。 心を許しそうになればなるほど「自分は独り」だと強く痛感します。 孤独で大丈夫と思う時よりもずっと苦しい気持ちになります。 良いきっかけだと思って自分に鞭を打って外交的な人格を演じてみるも、上手くはいかない。 むしろ、鞭を打って頑張っても上手くいかない=自分は必要ないという事実が重くのしかかります。 中途半端に痛みを感じる感情を覚えたことで生き苦しくなった気がします。 昔のように「お前は一生独りだよ」と自分に言い聞かせても以前のように奮い立つことが出来ません。 かといって他人の中で生きるのには自分はやはり向いていない。 嫌われないように演じている自分が何物なのか分からなくなります。 いっそ工場のライン工になって外界をシャットアウトして機械化してしまいたいとすら思います。 (職業差別的な意図は一切ありません) 人間関係、コミュニケーションが出来て当たり前の世の中で自分がどう生きたらよいのか見失いました。 他人の中で生きるためには孤独とどう向き合えばよいのでしょうか? 個人的な考えでもよいので皆様のお知恵を貸して下さい。