無神論者の死生観と動物の本能

このQ&Aのポイント
  • 無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定されていますが、一部の無神論者は動物のような死生観を持つことがあります。
  • 死後の世界や霊魂の存在を否定する科学的な考え方にも関わらず、無神論者の中には動物の本能に近い死生観を持つ人がいます。彼らにとって死は単に生命の終わりであり、何の意味も価値も持たないものと捉えられています。
  • 無神論者は科学に基づく現実主義的な思考を持つことが多いですが、一部の人は知恵や知識がないときに戻るべきであると考えています。死生観もその一つであり、本能的な生存本能から来るものと言えるでしょう。
回答を見る
  • ベストアンサー

無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか?

 人間は知恵や知識が発達し、家族(~家の存続)村社会(共同体)というもの  が出来、皇族や豪族 武士等の当時国を制する立場の者は個人の墓というものは有 りましたが、元来当時の庶民層は共同体の墓地に納めるという形だったそうです  が、明治期にその様な身分が無く成り、~家としての墓が造られたという話を聞い た事があります。  ともあれ、弥生期頃には現在の様に法律や形式はありませんが、共同体で葬り  (土葬する位だったと思いますが)、死者を偲んだとも云われております。  それ以前 知恵 知識が発達する前は「死んだ認識も無く」「死ねば放置」  という事だったといわれております。  絶対的な神を否定する佛教の教え(無神論に近いと私は思いますが)も  「近しい方との別れ」「私も亡く成って行く」という悩みがあり、そこからの  解放が「ありのままに受け入れていく」という事で それが又死者に対する儀礼  (今日本ではこれが中心になり元来の佛教の思想とは離れたものになっていると   の指摘はありますが)へと繋がったとも云われております。  現代は科学が発達し、迷信や霊魂は否定 死後の世界等無い  だから「葬儀 墓無用」という方が増えていると思いますが、  その様な考えを持つ方で「無神論」と言われる方は人間の知恵が発達する前の  動物の死生観を引用されている方が多いと思います。  つまり知恵や知識が無いと「唯生きている」「死んだだけ」という事なのでしょう か?科学等は信奉されても、死生観は原始的なものへ立ち返るべきであるという事  なのでしょうか?  (私は霊魂や死後の世界は否定しております 佛教でも「ただ白骨のみぞのこれ  り」ということは云われております。唯「無に還る」という言葉が良く使われておりますが、無神論者の方にとって「無」は「無意味」「無価値」の「無」なのでしょうか? 事実死者に話しかけても応えてくれないし、死後の世界に行って帰って来た人はおりませんが、私のいのちも遡れば、「無」というところから始まったのではないかと思いますし、色々な方の「お育て」があり、今日の私があると思うので、 その様な事から自己の戒めという意味では儀礼や墓参りも必要なのではと思います 最終的に「心で思えば良い」という事ですが、形があり時には「ああそうかな」と 云う事もあるかと思います) (偏見で申し訳ないのですが、「何もしてくれるな」という方は個人主義の方が  多い様に思います。 事実本当の原始時代は徹底した弱肉強食だったそうですから、「自分は自分で今の地位生活を築いた」「誰の世話にもなっていない」 だから、「親戚や知人の煩わしい付き合いは嫌 行きたくない」 「墓も仏事のみならず 子の結婚等もめんどくさい」 「だから俺もほおっていてほしい」という理屈なのでしょうか?) 本能でみれば 生きている今だけ 世の中は弱肉強食 煩わしい付き合いは嫌 死ねば終わり その様な生き方が一番そのままに生きているといえるのでしょうか? ご回答お願いいたします。

noname#250543
noname#250543

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • go-go-box
  • ベストアンサー率23% (367/1563)
回答No.3

そうでしょうね。 それが本来の自然の姿でしょう。 人間とて生物に過ぎません。 基本は本能で動いてるはずです。 ただ、妙な知能を持ってしまったのでそれに意味を見出そうとしてるだけでしょう。 ミミズは生きる意味や死ぬ意味など考えないと思います。 そこに有るのは単なる「生」と「死」だけです。 そういう極めてシンプルな世界に意味を見出そうとしてるだけだと自分は考えます。 社会の秩序にしろ、道徳観にしろ、宗教にしろ人が生み出したものに過ぎないと自分は考えます。 ただし、そのシステム自体を構築した「自然」という物は存在する。 人とて自然の一部でしかないです。 もし自分が神に近い存在をイメージするならそれは自然を具象化したものであると考えます。 我々はそこから生まれてそこへ還るのです。

その他の回答 (3)

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6235/18578)
回答No.4

21世紀になっても 宗教だとか 占い 超能力 霊魂 などというものを信じている人がいることが信じられないと思います。 実存主義のサルトルが 「なにもない というときに 無が存在する」などという言葉遊びも無意味なこと。 祖父は僧侶 父は僧侶になるのが嫌で家を出た そして孫は 無宗教 無神論者になっています。 私の死後は 葬式も墓もいらないと思っています。 葬儀とか墓は生者のためにあるものです。 決して死者のためにあるものではありません。

  • nekosuke16
  • ベストアンサー率24% (903/3667)
回答No.2

多分、自分も無神論者の一人だと思いますが、死生観については、「人間死んだら骨になる」といった具合で、アフリカのサバンナに晒されている牛の頭蓋骨と何ら変わらないイメージだと思います。 そこにある世界観の中には、人徳や人脈、損得勘定や利害関係もなければ、生前の功績もない。 それは、一神教、多神教、偶像崇拝、仏教など、世界のあらゆる宗教とは、全く別次元の世界観であり、そこには、無神という意識すらない。 人間が学習する中で大脳の著しい発達は、物質面では、あらゆる文明を開花させ、精神面においては、宗教や思想、道徳心や様々な慣習をもたらした。 しかし、私の死生観は、あくまでも、それ以前のままなのでしょうか、サバンナ転がる牛の頭蓋骨のように、この世に生まれたからには、いつかは死ぬ、ただ、それだけのことです。 そこに神も仏も無く、人間もあらゆる生物の一端に過ぎないという考え方だと思います。 仏教的に表現するなら、輪廻転生などということではない、単なる無常ということでしょうかね。 ただ、個人の内面である死生観が、生前の生き様に現れることは、あまり無いと思いますが。

回答No.1

Q、ご回答お願いいたします。 A、朝から喧嘩売ってんじゃねーよ! >無神論者の死生観は動物の本能に近いのでしょうか? 質問文が支離滅裂で何を言わんとしているのかが不明。朝から喧嘩を売るなら、せめて《論点》を明確に。

関連するQ&A

  • 無神論者の死生観とは?

    無神論者の死生観とは? 1 死ねば唯の亡骸、廃棄物であり、意識も消滅する。 危篤状態の時、父母や亡き人が出て来たという事を言われる方も居られるが、 これは自らが空想で作り上げたものに過ぎないという事に成るのでしょうか? 2 元来佛教始め宗教も今をどう生きていくかという事であったが、 亡き人との繋がりや、生きている今の私も絶対ではなく、死も完全な消滅では無い という視点であるが、科学や唯物的に見ると、生きている私が絶対、生きている内に 好きな事をするという事に成るのでしょうか? 3 仏壇 神棚 墓というものは宗教というよりも日本の家制度で家督を継ぐ、 私もこの家を受け継いだのだという事を継承する為のものであり、その様な儒教的要素が受け継がれてきたと思いますし、そこで個人ではなくこの家を背負っていると いう意識が芽生えたのだと思います。  唯、「亡き人を偲ぶ」事を無神論を自覚する人は「心の中で偲べばよい」と云いますが、亡き人の事を語る事も少ない様な気がします。  亡き人に対しても、70才を過ぎると「死ぬの当たり前」という感じで見ている様ですし、「偲びたい奴が偲べば」的な感覚で、「心の中で」というが、「死ねば終わり、偲ぶ事も面倒」的な人が多い様な気がします。  だから、生きている間に高収入を得て、好きな事をして、ある程度の年齢が来ると死ぬ、その様な感覚なのでしょうか?  そして、「今をどう生きるか」も佛教始め宗教の道徳的な部分よりも、 したたかに高収入を得て、好きな事をするという事なのでしょうか? そして、他人の事等構わないと成れば、「勝手に偲めば、俺はご免だ」という事に成るのでしょうか? 4 動物から人類に進化した時に、遺体のそばに花を向けたのが始まりであるとされています。 、日本でも公家や武士階層は別として、庶民は遺体を唯埋めるだけという事だったそうであるが、遺族の悲しみを和らげる為にお供え等の儀礼を行ったとされてます。 が、科学的に究明されたので「その様な事は無駄 無意味」と思って居るのでしょうか? 所詮「生ゴミ処理」だけれども、「悲しみを和らげ 自己の安心の為」に葬儀等の儀式があるが、「自分はそんな必要ない」と覚っておられるのでしょうか? 又、動物の死生観へと還っていった、そこで「生きている間に好きな事をする」と いうある意味覚っておられるのでしょうか? ご回答戴ければと思います。

  • 無神論者の方は佛教をどう捉えておられるのでしょうか

     無神論と云われる方は霊魂や死後の世界を否定すると云われております  佛教も釈尊の時代は本尊等無く死後の世界より、私が自己を知る教えを説いておりました。  元来霊魂等は否定するものでした、「いろは歌」にあるように「有無を離れる世界」  を説いております、故にありのままの自己を受け容れよと云う事だと思います。    釈尊も日本の宗祖と云われる方も葬儀無用を説いておりました、が釈尊の教えや  各宗祖の教えを偲び、それを伝えていかんが為に本尊や儀礼が行われる様に成り、  自己を知ると云うよりも儀礼中心となり、江戸時代の寺壇制度の名残が残っているので  すが、それが戦後核家族化や科学技術の進歩で衰退しているのが現状であり、  佛教も本来の教えより、教団の護持の方が優先されている現状です  故に、葬儀も簡素化しても良いと思いますし、時代に合う形に応えていくのが良いと思うのであります。  さて、無神論と云われている方は  (1) 釈尊の自己を知る事や有無を離れる事も無意味無価値と思っているのですか?    「自己」等知る必要は無い、自分の思うがままに生きればよいと云う    思いなんでしょうか?    又「有」に執着されておられるのでしょうか?  (2) 昔、「人は死ねばゴミに成る」と云う癌告知をされた伊藤栄樹氏と云う検事の方が   「霊魂を否定し」「意識は無くなりものとなってしまう」と云う結論を下されましたが、   遺族は「私が貴方を思う気持ちはどうするの」と云うと本人は「死後もこの世の思いを引きずられたら叶わない」と云われました。   科学的に見ればゴミでありますが、遺族の思い過ごして日々と云う処から、墓や儀礼が生まれたのだと思いますが、私の事を決別し、忘れてくれと云う事なんでしょうか?  (3) 唯物論(私も完全に否定しませんが)は金銭が満ち溢れれば、情等の思いと云う処は必要ないのでしょうか?  私も霊魂は否定します が自己を知る 科学的には死ねば物質となる伊藤栄樹氏の指摘には賛同できますが、反面私が今生きているいのちも多くの無数のいのちのより存在し、私も死を迎えますが、宗教儀礼関係無く、その繋がりの中に居ると思います。この辺りの事をご回答戴きたいと思います。

  • 無神論と云われる方へ質問です

     別に無神論と云われる方を批判非難するつもりはありません?  キリスト教やイスラム教等の様に神が絶対的な存在であり、それに従属する形で  救われていく教えとは違い佛教は釈尊がありのままに物事を見ていけ、私を知る  と云う事であり、本尊等も釈尊の死後真理の象徴として造られたとも聞きます。  故に、佛教の教えは無神論と似ていると思えます。  唯、世間で云われる無神論者と言われる方とは少し違う様な処があると思います。  佛教は「今権勢を極めていても何時までも続かない(無常)」  「生きている現在も絶対ではなく 死も訪れるがこれは私の計らいのないもの(無我)」  と云う事を説いております。  芥川龍之介氏の『蜘蛛の糸』で主人公犍陀多が蜘蛛の糸で救われる時、  「俺一人が助かればよい」という考えで地獄に戻ったと云う話から、その様な事がうかがわれました。  私的には死後の世界や霊魂は否定しますが、その様ないのちの繋がりやわたしのいのちも  多くのつながりにより生まれ、又私も死に至る身でありますが、そのような思いを大切にする  象徴であると、法や極楽は解釈しております。  さて、世間で無神論者と自称される方へ質問させて戴きます。  1 今現在が良ければよい  2 老病死は無価値で無意味なもの  3 死ねば物質と捉える  4 損得 役に立つか立たないないか 科学的に判断する  5 死ねば最終的には諦めていく  6 仏教では0(ゼロ)無もいのちの根本と見ますが、無は無意味無価値なものと捉える 昨今、不景気や地域社会の崩壊で「葬儀無用」が言われております 仏教も元来葬儀とは関係はありませんでしたが、江戸時代の寺壇制度で各集落ごとに寺社が造ら れたことに由来し、戦後もバブル期までは金銭的にもそう贅沢せずに行っていたのが派手になった これは見直していくべきだと思いますが、この様な事を踏まえ無神論と言われる方は どの様に捉えておらるかご回答いただければと思います。

  • 古来日本の死生観について サイト・書籍

    古来日本の死生観について書かれているサイトか書籍を探しています。 私の記憶ではサイトだったのですが見つけることが出来ず、質問させていただきました。 覚えている限りの内容を書くので見かけたことのある方いましたら教えていただければと思います。 日本の死生観についての内容の文章で、神道や仏教以前の日本古来の考えについて書かれており、死後の世界は山の向こうや海の彼方にあり、お盆?には先祖が村へ帰ってくる。死後の世界はそう遠くない場所だった。それだけ先祖?死者は近い存在だった~~~現在の日本人の考えはこの古来の考え方に仏教や神道が混ざって出来たものかもしれない。 検索に使用したキーワードは  日本 古来|古代 死生観 先祖 "山の向こう" 海 などです。 サイトは掲示板ではなかったと思います。かなり真面目に詳しく長文で書かれていた印象がありました。 似たようなサイトでも構わないので何かあったら教えてください。 よろしくお願いします。

  • 無神論者の方に質問です

    僕の友人には「神はいないし死後の世界もない」という考えの人が多いのですが、そんな人でも葬式に参加し初詣に行きます。 ですが葬式で死者を弔い「冥福を祈る」という行為は死後の世界を想定しているように思いますし、初詣などの神社への参詣は神を想定しているように思います。 では無神論者の方が葬式で数珠をかけて手を合わせるとき、神社で二礼二拍手一礼するとき、頭の中では何を考えているのでしょうか? 葬式や初詣などはあくまで文化的な行事であって、葬式で死者の死後の冥福は祈らないし、神社で頭を垂れて目を閉じても願い事はしないのでしょうか? ぜひ無神論者を自負する方の考えを教えてください。

  • 積極的無神論者の方は強いのでしょうか?

    特に霊魂やオカルト等は信じず、狂信的で無いにせよ、 大半の人は「受け継がれてきたもの」「先祖(近い故人)を偲ぶ場」 と云う事や、「縁あればその人との接点」と云うものはあり、 それが日本の緩い宗教(既成の神道や佛教)と地域と云うもので 融合したのだと思います。(本来佛教の教えもこの様なものではなく、「生き方」を説いていた、葬儀の必要性は説かなかった) 江戸時代に寺壇制度が出来 その集落の葬礼は佛式で 冠婚は神式で 行われる様に成った 所謂役所 自治会の役目を果たしていたと思います。(遡れば保育園幼稚園小学校のルーツもここにあると云われております。 僧侶や神主が農繁期で忙しい時期の乳呑児を預かる 読み書きを教える等) 極稀に 積極的な無神論者の方が居られます。 (墓参りしない 一切の儀礼に参加しない)この様な方は 自分で生き方を覚られておられるのでしょうか? ある意味強い信念を持って居られるのでしょうか? 共産党員でマルクス主義者だった漫画家青木雄二氏 (50代半ばで肺癌で死去) 「死は怖くない」「生きているうちに好きな事をすべき (どう生きるか)」という遺言を残しておられます。 釈尊や初期仏教の教えも「老病死」をありのままに見つめよ 「その視点に立って私をみつめよ」という教えで、 それを伝えていく為に本尊や極楽と云う者が後に考えられたと 云われております。 その様な事から無神論と初期仏教の教えとは似ている様な気がします。 唯釈尊は「今自分が良いと思って居ても、それは続かず それが亡く成った時の苦しみは大きい「(人間の幸せには限界がある)天人の世界」「大宇宙 生まれて来たつながり(この象徴が極楽や本尊として 伝えられたのだとおもいます、所謂寺社もそうだと思います)により 今の自分がある事に目覚めよ」と云う事だと思います。 積極的無神論者(青木雄二氏の例をすると) 「いのちは限界がある どう生きるかと云う事であるが、  自分は漫画で生涯食べて行ける暮らしが出来た、それで贅沢できる  故に少し平均寿命短いがそれで満足だった」という感覚だったのでしょうか?  故に、金銭に恵まれ、経済的に裕福な「天人」を目指す、 それが達成できたのでいつ死んでも良いという考えと云う事になるのでしょうか?  唯(霊魂を信じるとかは別として)無神論を自認する人は、 「全て自分の力でやり遂げた」「自分が良く成れば先祖や周りの人の 事は関係ない」という人が多い様な気がします。故に葬儀墓参り等無意味という結論が出るのでしょうか? それともただのゴミである遺体等に何故手をあわせないといけないのかということになるのでしょうか? ビジネスで金がかかると云うのが弊害な理由もありますが、 遺体を放置してはいけないという法律があるので、未だ人間としての良心は保てていると思います。 が、青木雄二氏の様に(良い漫画家で資本社会の矛盾を描いた点では 評価しております)金を持ち、好きな事が出来、他人の事には構わないという人はこれで満足できたので強い生き方をされたといえるのでしょうか? (私は墓の管理の仕事をしてますが、青木氏の様に稼がなくても、 親や先祖は関係ない そんなものに金かけたくない(本当に困っているのではなく 海外旅行に行きたいから墓の管理料(年2000円)が払えない 処分もめんどくさい(手続きも嫌)という人が 「私は無神論者」だからという一言で片付けられます、自身は親族の葬儀でも 「めんどくさい燃やすだけでいいのに」と云う様な事を云っておりましたが、この様な人は覚っているのでしょうか?)

  • 佛教の「無」と無神論者の「無」は違うのでしょうか?

     佛教は印度の遥か昔は仏像等本尊も無く、  私の心の煩悩からの開放 当たり前であるが苦しき事(老病死)を受け入れていく 事により、覚りの世界へと到達すると云う事が根本にあったと思います。  その象徴として、本尊や浄土や霊山というものが生み出されたと考えられます。  「死ねば唯のカルシウム」と云われる方が居られますが、  「唯のカルシウム」「無に還る」という意見は私も同意できますが、  私の生命も遡れば「無」と云う事から始まり、その繋がりの中にある、  そして、亡き方からご縁があった、そこに「今科学的に観て生命が生きている   「有」ものと成る「無」という世界では解釈できない「有無をはなる」という  世界だと思うのですが?」  説明が悪く申し訳ありません?  1 無神論者の方にとっての「無」は仏教の「無」とは違う「無意味」「無価値」なものであり、死ねば完全な「もの」として捉えていくという事なのでしょうか?  (私自身も死ねば「遺体」「白骨」と解釈しますが、何処かに亡き方とのいのち   の繋がりもあるそれこそが同じく「無に還る」という事なのではないかと思います)  2 無神論者の方は 今が良ければそれで良いのでしょうか?    葬儀の参列 墓参りは科学的に何の根拠もないので無意味 無価値なのでしょ  うか? 遺体は処理し、遺骨は捨てる、それで終わりという感覚なのでしょう   か?

  • 無神論者の方に質問です

     私も霊魂は否定します。  が、私も先祖から戴いたいのちのつながりの中にあると云う事から  墓参り等は行っております。  (元々佛教も釈尊が説いた教えは無神論に近いものであり、   極楽や霊山 本尊等は教えが伝えられていく過程で生まれたもので、   その教えも私を知る為の象徴でありますが)  さて、無神論と名乗る方に質問です  1 今が楽しければ良いのでしょうか?  2 儀式的なものが面倒なのでしょうか?  3 死ねば唯の廃棄物であると認識しているのでしょうか?  4 生きている間のみが全てと認識しているのでしょうか?  5 いのちの繋がり等は感じないのでしょうか?  6 自己を知る必要もないのでしょうか?   批判はしておりませんが ご回答戴ければ幸かと思います。     

  • 私は無宗教?無神論者?こんにちは。私は無神論者なの

    私は無宗教?無神論者?こんにちは。私は無神論者なのか、ただ単に無宗教だけなのか診断して欲しいです。特徴を長文ですが下に書いていきますので診断してください。 (1)神はいないとおもっている 有神論者を愚かとは感じないが、何を根拠に語っているのかな~と感じる。 (2)心霊、占いも全く信じない。 占いや心霊で儲けてる人を見ると 『汚くて美味しい商売だ。なんの根拠もないアドバイスや予言をするなんて美味しい商売だなぁ。』 と感じる。 小学生の頃友達が盛り上がっていた占い本に自分だけが盛り上がれなかった。 占いについてボロクソ言っているが朝のニュース番組でやっている占いコーナーで上位だと少し嬉しく感じるという矛盾がある。 (3)葬式は亡くなった人の宗教に合わせる派で、例えば亡くなった母親が仏教信者だった場合は仏教の葬式をし、キリスト教の信者だった場合はキリスト教の葬式をする。 ちなみに自分が死んだら、葬式はせずに焼いて骨にしたあとは海に撒いて欲しいと思っている。 (4)初詣は行かないし、ハロウィンとクリスマスは祝わない。 願いが居もしない神が叶えるがないのにお賽銭にお金を入れるくらいだったら、コンビニとかに置いている募金箱にお金を入れる派。 ハロウィンとクリスマスで、はしゃいでる人を見ると 『この人達は人が亡くなったら線香立てるのになんでキリスト教のイベントに参加するのだろうか』 感じる。 ちなみにクリスマスプレゼントは友達が毎年勝手に行っている恒例の交換のために泣く泣く買っている。 (5)死後の世界、生まれ変わり、前世来世の概念はないものだと思っている。 死んだら終わり。眠る時のあの無の感覚がずっと続く感じだと思っています。 以上です。無神論者でもなく、無宗教でもなくただ単にひねくれてるだけかもしれませんがどちらかと言うとどっちなのか教えて欲しいです。

  • 幽霊を見る人の死生観、ってどんなものなのですか

    こんばんは このサイトで心理学とかを色々見ていると、幽霊を見る方や、奇跡的体験をする方や、予知能力をお持ちだったりする方が普通にいらっしゃいます。私自身は無神論者で死んだら終わりという死生観、奇跡とかも信じていないし、占いとかも信じてません。でもそういう方がいるということはある意味アルのだろう、とも思います。 ところで、私のように霊能力も何も無い人間は死んだら終わりでごくシンプルな考えで終わりますが、いわゆる霊能力のある方は死後の世界を信じざる得ないですよね?そこで思ったのですが、そういう方は死後も生き続ける覚悟があるのでしょうか????????? また、これはあまりにも徹底的な差というか、どう割り切ったらいいのでしょうか。怖いので幽霊は見たくないですけど、見たことがある人がいるというのに私は見えない。ゆえに死後の世界があるのかも検討しようがない。見える人と見えない人じゃ世界の捉え方やフィールドが根本から変わってくる気がするのですが、この差は一体なんなの?と思います。能力不足なりの世界を生きろということでしょうか。

専門家に質問してみよう