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日本史の詳しい方m(__)m徳川性に対して信長は?

ichikawa2017の回答

回答No.7

信長も家康も最後にはチャンピオンになりますが、初めからチャンピオンになるとお互いに分かっていた訳ではありませんでした。 ボクシングのチャンピオンと同じでやってみなければ分かりません。 チャンピオン戦に参加するには、それなりに強くて何度も勝っている必要があります。 戦国時代の武士のチャンピオン戦は戦争ですから命がけです。 >はぁ?もしかして 次は俺? とか こいつ思ってるって事? 気にくわん!とか…思わなかったのかな…。 けらいが次は俺などと考えたらこのヤローということになりますが、今味方して協力してくれている相手ですから、たとえ思っても喧嘩しては何もなりません。 戦国時代ですからお互い様です、将来のチャンピオンを目指すような強いヤツの方が味方としては心強い味方です。 信長と家康の力関係で信長が上になるのは知り合ってから暫く経ってからです。 初めのうちは、お互いに協力しあって周りの連中をやっつけていました。 家康は秀吉のように信長のけらいだっった訳ではありませんでした 武田氏との戦闘では信長の方から家康に大量の砂金を送って協力を感謝していました。 >信長も 『平家の血をひいてますー。』とアピールしてた(?)のだから、家康が 次の源氏をアピールしているのに気づかないはずはないと思うのだけど。よく 「生意気な!」と 信長に切れられなかったあぁ…。 自分が伸し上がるには、まずは周りの人間を命がけでやっつける必要がありました。 やっつけるにはけらいが多いか、一緒に味方になってくれる人が多いほど有利です。 味方を集めるのにオレのご先祖は平氏だからご先祖が源氏のヤツはダメダなどと暢気なことは言ってられません。 今味方になってくれるかどうかの方が大事です。 味方になってくれるのなら、ご先祖が平氏だろうが源氏だろうが馬の骨だろうが一向に差し支えはありません このことは信長にとっても家康にとっても同じです。 蛇足 信長がいた時代にも、源平交代思想というか政権は源平の2氏が交互に担うという考え方は確かにありました。 これは室町時代ごろから言われ始めたものですが、あくまでも結果論です。 おそらく僧侶など閑な人間がそれまでの武家政権の交代を眺めて考え付いたものでしょう。 これを政権交代の理由として歴史を考えますとお子さんのように混乱してしまいますのでご注意下さい。 お子さんの学校の先生も一つのお話としてされたのかと思います。 信長が打倒した室町幕府は足利氏の幕府で足利氏が源氏だったことから平氏であった信長が打倒したという説明を時々見かけますがこれも結果論です 氏素性がこうだったから打倒したという訳ではありません。 信長も家康も力がついて朝廷に認められて官位をもらうようになってから平朝臣などと署名しています。家康は当初藤原朝臣と名乗っていましたが途中から源朝臣に変更しています。 信長にせよ家康にせよ自称したものを朝廷が認めただけです。 家康が松平から徳川に変える際にはこじつけるのに苦労したようです。 三河に居た得川氏に近いから徳川だと分かったような分からない理屈でした。

tigerdragon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。

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