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日本史の詳しい方m(__)m徳川性に対して信長は?

eroero4649の回答

  • eroero4649
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回答No.6

一応武士(貴族や公家も入れてもいいのですが、全体の数はものすごく少なくて京都近辺くらいに集中していると思うので、武士に限定します)は、全て平氏か源氏か藤原氏の末裔ということになります。橘氏とかもあるのですが、もうそうなると家系の専門家じゃないと分からないレベルなので、ざっくりいうと「大半が平氏か源氏。たまに藤原氏」なのです。 元々が武家というのは平氏が台頭して、それに次いで源氏が台頭しましたからね。家紋の専門家によると、その家が江戸時代から続いているような家なら、家紋を見ればどっちなのかはだいたい分かるそうですよ。 だから日本中の武士は「ウチは源氏」「ウチは平氏」「ウチは藤原氏」と称していたのです。 有名な戦国武将(大名)で由緒正しい家柄といえるのは、武田信玄でしょう。武田家は由緒正しい清和源氏の末裔です。これにちょっと劣るのが今川義元で、今川家も同じ清和源氏なのですが、武田家のほうがより本流に近いんです。 ちなみに上杉謙信は元々血統的には長尾家になるので平氏ですが、謙信が上杉を禅譲されたので、上杉家となると藤原家となります。より細かくいうと上杉家の中の山内上杉家となりますが。他に扇谷上杉家ってのもあるの。もうこれは小学生のお子さんどころか質問者さんの理解レベルも超えていると思います・笑。 では織田家はどうなのか。織田家というのは尾張国の守護代(支店長代理)の一族になります。室町幕府っていうのはそれぞれのナントカの国に対してその支店長ともいうべき守護職を置いていたのですが、守護の多くは京都に住んでいて現地にはいなかったのです。そこで現地に住んで実質的な管理をやる守護代という役職が各地にいたのですが、織田家はその守護代です。 しかも、信長の父親である信秀はその織田家の中でも庶流というからどうも直系ではなく傍系らしいのです。つまり家の格っていうのはかなり低いほうで、一応織田家は平氏ってことになっているのですが信長も一時期「藤原信長」と名乗っていたりして、はっきりいってよく分らない。まあはっきりいやあたいした家格ではないってことです。時代は実力主義の戦国時代ですからね。 では一方の松平家はどうか。三河土着の一族であることは分かりますが、どうも資料が十分ではなくよく分っていません。何しろ後には天下人になった家ですから、後世にいろいろ書き換えたり都合の悪い部分は削除したってことも多々やったと思うので、もう客観的な資料が出てくることはないでしょう。 ちなみに織田信長実質的に天下人にリーチをかけた状態でしたが、天下をとった人ではありません。だから「織田が平氏だから次は源氏」という考えは当時の人たちは思っていなかったはずです。信長が朝廷が認める天下人になったわけではないですから。 信長の最高官位は、右大臣です。これは正二位の官位で、見てお分かりの通り一番の官位ではありません。この上には正一位、従一位の官位があります。 そして信長は本能寺の変の直前に、突然に官位を返上して無官となってしまいます。官位がないと天皇に会うこともできません(後に江戸時代、来日した象を天皇に見せるために象に官位が与えられたことがあります)。朝廷は慌てたのですが「ま、そういう仕事は(明智)光秀とかがやるからいいよ」といったのです。 このとき、慌てた朝廷は何と「あのー。太政大臣、関白、征夷大将軍。お好きなのを選んでください」といっています。私が知る限り、この三大テノールで好きなの持ってけといわれた人物は織田信長ただ一人です。ところがこの日本史上前代未聞の申し出にも信長は「どれも要らん。興味ない」とすげなく断ります。 私は、これが本能寺の変の直接的な引き金になったのではないかなと思っています。超合理主義者の信長は「俺が官位持ってたら、俺は天皇の部下ってことになるじゃん。俺、天下人じゃん。俺が天皇の下って、おかしいじゃん」と思っていたのではないかなと思います。 意味のないものは大嫌いな超絶合理主義者で理系脳だった織田信長は、家柄とかそういうものを心底「くだらない」と思っていたのではないかなと思います。だからこそ、彼は部下の出自を全くこだわらずに超能力主義で抜擢していました。彼の部下には明智光秀や羽柴秀吉、滝川一益といった「出自が分からない幹部」ってのが一杯いるんです。 ただそこまで絶対的な立場ではなかった頃には官位を貰ったり足利将軍を擁立したりということもしていました。ただそれは「今はそれは利用したほうが役に立つから」という合理主義に基づいたものだったと思います。もう自分にとっては不要になったから足利将軍を追放し、自分の官位も返上したのでしょう。「織田家は平氏だったのか(信長が藤原信長と名乗っていた時期があったから)藤原氏だったのか」は今でも研究者の間で論争になっていますが、そうなってしまったのも信長自身が「どっちでもいーじゃねえか」って行動したからのような気がするんですよね。

tigerdragon
質問者

お礼

ご回答ありがとうございましたm(__)m。 皆様お一人お一人にお礼のコメントを差し上げるべきなのですが…皆様のご回答を拝読し なんとなくではありますが 息子に説明してあげられるような理解に至りましたもので… 同じお礼のコメントを差し上げます事 お許しくださいm(__)m。 息子が 質問に至る【徳川改姓】のお話を聞いたのは【塾】の授業の様でした。 授業が眠くならない様 興味を引き付ける為に色々(こじつけ 笑)ともとれるエビソードを入れながらお話して下さっているのかな と思いました。 歴史は単純に 『〇〇がこうだったので××が起こりました。』という単純なものではないので…因果関係や当時の微妙な背景を 簡単にはまとめられないし…それを理解するのは(私もですが特に小学生の息子には)難しいのだろうなぁ…とも気が付きました。 ご回答頂きました皆様のご説明を咀嚼し これから息子に説明してあげようと思いますが…(結構時間がかかりそうですが…苦笑。) 取り急ぎ… 母は なんとなく理解に至れましたので お礼のご連絡をさせていただきあした。 ありがとうございましたm(__)m。

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