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江戸時代の時間の数え方と鐘・太鼓の打ち方
- 江戸時代の初期から、鐘・太鼓は辰刻(とき)の始まりではなく真ん中の正刻に打たれていました。しかし、貞享暦の改正時からは初刻と正刻の区分を記載しなくなり、辰刻(とき)の始まりが徐々に認識されるようになりました。つまり、辰刻(とき)の始まりが従来より半刻(1時間)遅くなり、定着したものです。
- この変化により、鐘の音を聞くと人々は辰刻(とき)の始まりを意識するようになりました。例えば、以前は正刻に明六ツ(6時)の鐘が鳴っていた場合、明六ツ半は7時になりましたが、貞享暦以後は辰刻(とき)の始まりに鐘が鳴るので、明六ツ半は6時になります。つまり、今の時間で見ると1時間の差が生じることになります。
- 質問1:「初刻と正刻の区分を記載しなくなり」とは、初刻と正刻の区分がなくなったことを意味します。その理由としては詳細は分かっていませんが、辰刻(とき)の始まりの認識を促進するための変化だったと考えられます。また、質問2に関しては、貞享暦以後の辰刻(とき)の始まりが従来より半刻(1時間)遅くなったため、鐘の鳴るタイミングによって時刻の認識に差が生じることがあります。
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- ichikawa2017
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