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中国唐の時代西安で庶民が時刻を知る方法について

中国、唐の時代の風俗を調べているのですが、 庶民が時間を知る方法について記したサイトなどが見つかりません。 西安では、朝70回鐘を鳴らして城門を開いたとありますが、 その後も定期的に鐘や太鼓を鳴らしていたのでしょうか。 例えば庶民が「午時(午前11時)にどこそこで待ち合わせしようね」 といのは可能だったのか知りたいです。 日本の江戸時代では、九つからだんだん数を減らしながら、 鐘を打って時刻を知らせていたようですが、 そういったことが、唐代の西安でも行われていたのでしょうか。 また行われていたとすると、具体的にどういう方法でしょうか。 (例えば午後1時の未時に太鼓を10回打つなど)

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  • fumkum
  • ベストアンサー率66% (504/763)
回答No.1

どなたも回答されていないようなので、直接の答えにはなっていないのですが、日本の養老律令の中の職員令9条の陰陽寮の規定の中に、漏刻(ろこく―水時計)博士と守辰丁(しゅしんちょう)の規定があります。 漏刻博士=守辰丁を率いて漏刻の節(とき)を伺うこと。 守辰丁 =漏刻の節を伺い時を以て鐘鼓(しょうく・しょうこ)を撃つこと とあります。これによると水時計で時間をはかり、鐘と鼓で時を知らせたようです。日本の律令は唐の律令をもとにしていますし、下記の唐六典を見ると同じような制度が唐にもあったようですので、最低限首都の長安では、時を鐘鼓で知らせていたと考えられます。 唐六典の中の漏刻関連の官職および職掌・先例関連。 挈壺正二人,從八品下;(掌知漏刻。《周禮》有夏官挈壹氏、秋官司寤氏、春官雞人氏,凡三職,鹹掌其事。自漢已後,太史掌之。皇朝長安四年始置。)司辰十九人,正九品下;(掌漏刻事。隙置司辰二人,從第九品下;煬帝改為司辰師,本屬武候府,大業三年隸於太史局。皇朝因之。久視元年除「師」字。)漏刻典事十六人,(皇朝置,掌伺漏刻之節。)漏刻博士九人,(隋置,有品、秩,掌教漏刻生。皇朝降為流外也。)漏刻生三百六十人,(隋置,掌習漏刻之節,以時唱漏。皇朝因之,皆以中、小男為之,轉補為典鐘、典鼓。)典鐘二百八十人,(皇朝置,掌擊漏鐘。)典鼓一百六十人。(皇朝置,掌擊漏鼓。)挈壺正、司辰掌知漏刻。孔壺為漏,浮箭為刻,以考中星昏明之候焉。(箭有四十八,晝夜共百刻。冬、夏之間有長短:冬至,日南為發,去極一百一十五度,晝漏四十刻,夜漏六十刻;夏至,日北為斂,去極六十七度,晝漏六十刻,夜漏四十刻;春、秋二分,發斂中,去極九十一度,晝、夜各五十刻。秋分已後,減晝益夜,九日加一刻;春分已後,減夜益晝,九日減一刻。二至前後則加減遲,用日多;二分之間則加減速,用日少。凡侯夜漏以為更點之節,每夜分為五更,每更分五點,更以擊鼓為節,點以擊鐘為節。) http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E5%94%90%E5%85%AD%E5%85%B8/%E5%8D%B710

tamari777
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。諦めかけていたので、とても嬉しいです。 水時計という物があるとは知らなかったので、 とても参考になりました。 そう言う物があるなら、かなり正確に時間を計れていた可能性が高いですね。 具体的にどのような場所で、何回鐘や太鼓を叩いていたかを知るには、かなり専門的な資料でも探さないと見つからないと思うので(記述その物が残っていない可能性も高そうですし)諦めることにします。 ご親切にありがとうございました。助かりました。

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