解決済みの質問
こんにちは。
人物像については、千年以上前のことで想像、創造するしかないんでしょうね。
ただ、彼らの置かれた状況はある程度把握できますね。
まず、背景に平氏と源氏ですが、平氏は桓武天皇の直系が棟梁筋で、当時の棟梁は清盛。一方源氏は清和天皇の直系を棟梁筋とし、当時では義朝でした。
しかしながら、義朝は平治の乱で平清盛に敗れ、源氏は崩壊状態となりました。(嫡子である頼朝は伊豆で平氏の北条家に幽閉)
清盛は同じ武家のライバルである源氏を抑え、次に標的を公家の藤原氏に定めたのではないでしょうか。
故に、彼は同族に平姓を名乗らせ、公達として勢力を朝廷に伸ばしたのだと思われます。「政治家タイプ」なのでしょう。
一方、源氏は源姓を名乗る者は直系に限られてました。
木曾、武田、斯波、島津等臣籍になり後世に至ってます。
義経は平家の公達に憧れ、妾腹の自分も頼朝の異母弟として源氏の公達になりたかったのではないでしょうか。軍事の天才でありながら、政治感覚が欠如していた「お坊ちゃまタイプ」のようです。
義仲は、直系の頼朝を出し抜いて、傍流ながら源氏の棟梁になるべく旗揚げしたが、戦勝後のプランが無かった事実から、やはり政治感覚は虚しく「お山の大将」タイプだったのではないでしょうか。
いずれも、後白河の描いた画に踊らされたように伝わっているのは、後に武家社会を築いた頼朝が、公家非難のために脚色したのかもしれませんが…
長く幽閉生活を強いられ、何時殺されるかわからない日常を送った頼朝程には、彼らは苦労を知らなかったのでしょうね。
投稿日時 - 2004-07-26 13:42:40
お礼
とても詳しく書いていただきとても
参考になりました。
ありがとうございます。
投稿日時 - 2004-08-23 02:07:00
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ベストアンサー以外の回答(4件中 1~4件目)
義経については#1の方の通り、日本史上まれな優れた戦闘実戦指揮官であり、またそれだけの才能しか無い男だったことは間違いないでしょう。
清盛、義仲とも、彼らのライバル頼朝が天下を取ったわけですから、残っている歴史書が正しく彼らの人となりを伝えているとは限りません。義仲については頼朝のような政権プランが無かったことは多分正しいと思います。
清盛については一門で政権を固めたことが悪く思われているようですが、これはその前に藤原氏、鎌倉時代に北条氏もやっていることです。商業を盛んにすることに力を注いだようなのでそういう面では評価されてもいいかと思います。小説ですが、池宮彰一郎氏著「平家」(角川書店)が新しい清盛像を描いたということで、日経新聞連載時から話題になってました。
この時代を混乱させた責任の多くは後白河法皇にあると思います。
投稿日時 - 2004-07-22 04:45:21
木曾義仲については、ネットの検索で引っかかりました。
源義経や平清盛も有名ですから、ネットで検索すれば、詳しい情報が簡単に手に入ると思います。
参考URL:http://www.amy.hi-ho.ne.jp/gehen/japanese/start.htm
投稿日時 - 2004-07-21 19:58:27
お礼
早速検索してみたいと思います。
ありがとうございます。
投稿日時 - 2004-08-23 02:04:43