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家康

秀吉が、家康に低姿勢なのはなぜですか?。 なぜ、秀吉の方が身内を人質に提供しなくてはならないのでしょうか。 権力を持っているうちに、徹底的な不平等条件で骨抜きにすべしではないでしょうか。 秀頼の安泰を願うなら、懐柔できないまま家康を泳がせては、ならなかったと思いますが。

  • 歴史
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  • ベストアンサー
  • oska2
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回答No.9

>秀吉が、家康に低姿勢なのはなぜですか?。 秀吉には、配下に自らの武将が存在しなかったからです。 秀吉配下の武将と言えば、旧信長配下の武将ですよね。 秀吉を「命を預ける頭首」とは、案外見ていません。 ※加賀前田家でも、(一時期)秀吉に反旗を翻していますよね。 子飼いの武将は、未だ未だ実戦経験が少なく多くは期待できません。 ところが、家康の場合は「徳川家代々の家臣団」が存在します。 ※家康が今川の人質の頃にも、家臣団は三河で忠誠を誓っていました。 また、信長の盟友・義兄弟関係だった事も原因ですね。 秀吉と家康が戦火を交えると、「両雄並び立たず」で双方ともに甚大な被害が想像できます。 家康としても、同様の考えで最後は秀吉の軍門に(一時的に)下ったのです。 >権力を持っているうちに、徹底的な不平等条件で骨抜きにすべしではないでしょうか。 孫子の兵法では、目的を果たしたら「ナンバー2を殺せ」という教えがあります。 (三河から辺鄙な関東に国替えを命令した時か)虎視眈々と策を練っていたと、思いますよ。 ただ、(老年性弊害・認知症などでの)朝鮮出兵などで機会を逃したと考える事も出来ます。 関白としての職権で、何とでもなる時期に「家康を征伐しなかった」のは「家康を恐れていた証拠」でしようね。 >秀頼の安泰を願うなら、懐柔できないまま家康を泳がせては、ならなかったと思いますが。 家康は、案外古い考え(当時としては常識)を持っていました。 秀頼の年齢が問題ですが、「関白秀頼」が誕生していれば豊臣家は安泰でした。 将軍職の上に、関白職が存在します。 徳川将軍家が豊臣関白家を攻撃すると、反逆罪となります。 家康としても、「秀頼が関白に就任する前に決着」をつける必要性になったのです。 話が若干それましたが、「秀頼が関白に就任する」までは死なないと思っていたのでしようね。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 つまり、秀吉は、家康に、決して負けていたわけではなく、虎視眈々だったわけですね。全く同感です。 当時の武将間での、過去の反逆は、あってあたりまえ。昨日の敵は今日の友、またその逆もしかりで、これは「ゲーム」なのです。いい子(忠誠)にしていて勝てるなら世話はありません。 三成と真田信繁が「頼りない」のはザッツ・ライトですね。賢いが、パワーやラフプレーが出来る程の経験がない。 「真田丸」では、ラフプレー「暗殺」という手に出ました。 時間ギリギリでのスリーポイントシュートが外れたと言ったところでしょうか。

その他の回答 (11)

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.12

MONKEYMONKEY さん、こんばんは。 秀吉は、家康が信長の盟友であることを、いまさら気にするたまでしょうか?。 そんなことで、つまづく思考者なら、農民から天下人になど、なろうとしてません。 サラリーマンでも、年上の部下を持つスピード出世の社長は別に珍しくありません。下剋上の戦国時代ならなおらさです。 6歳年上は早く死ぬというマイナスを見るのではなく、秀吉が中1の時に家康は小学一年生なわけでしょう。さっさと使いパシリにしていまえばいいのです。 先輩後輩の一般論を議論してるのではなく、これまで、散々、先輩をコケにして、出し抜き、天下一となり、利休やキリシタンを残虐に殺してきたようなメンタルのモンスターである秀吉が、なぜ、家康となると、急に、慎重になり、萎縮することがあるというのでしょう。 秀頼の心配を思えば、家康を不当に潰すくらいの非道さとパワーを持ってたと思うんですよね。 政略結婚程度で家康が配下になるわけないですよね。家康がそんなピュアではないことは、秀吉が一番知ってます。 家康には後継者になりそうな息子もたくさんいますし、強力な三河武士団や元武田の遺臣である甲州武士団が麾下に加わっています。兵力は精兵ぞろいです。それに比べて、自分の兵力はただの信長以来の寄せ集めで、いざとなったら使い物にならないかもしれないからです。いい例が小牧長久手の戦いです。そして、政治能力は秀吉の次にあります。もう自分の健康が長くない以上、彼に助けてもらうほか、豊臣家の後継者である秀頼を盛り立てる方法がないと判断したのです。もちろん、お目付け役として前田利家をつけてね。本当なら小田原の連れ小便の時に崖から突き落とすくらいの根性があればよかったんですがね。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 なるほど、秀吉のまわりときたら、信長時代からの中古車ばかり。 それに引き換え、家康の未来は来るべき新しい世紀(17世紀)への若き息吹に溢れている。 と、なれば、豊臣家もまた、時代のあだ花として、散ってゆくべく、ということかもしれませんね。 「強いから」とはまた違う意味が、秀吉が家康を潰せなかった理由にあるかも知れませんね。秀頼では、統一した天下をハンドリングできない。猫に小判なわけですからね。 統一した天下に、奇しくも日本最大の関東平野を舞台に、国際都市を建築した家康にとり、戦国時代など、前置きに過ぎないわけですからね。

回答No.11

ありがとうございます 確かに秀頼にとって害かも知れませんが 当時の家康は名実ともに秀吉に次ぐナンバー(2)の実力者です 単なる雑魚ならさっさと滅ぼしたでしょうが これほど実力があれば秀吉としたら味方につけて秀頼を守らせたほうが得策と考えたのでは? それだけ秀吉は家康を信頼したいたのですから

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 家康を、信頼したかったかもしれませんが、信頼できなかったのではないでしょうか。 信頼できないやつですよ。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.10

>生涯打つ手がなかったのは家康の方だと思えます。 秀吉が死ぬまでこれは正しいですね、豊臣政権が強大な時代をひたすら頭低くすごして豊臣家が弱体化するまでやりすごしました。 弱体化の主因は二つ、朝鮮出兵と秀頼誕生秀次切腹です。 >秀吉にとり家康を勢力図の上で窮地に追い込むなどたやすいと思うのです。 家康を窮地に追い込むことはできますよ。ただ豊臣家にとって当初は徳川家など数ある大名の一つだったということです。叩くことでえられるメリットとそれにより豊臣家が負うダメージ、NO1がNO2をたたいたところでそれでNO1もダメージを負えば相対的にNO3が勃興します。そして家康の立ち回りが完璧すぎて、豊臣がダメージを負わず徳川をたたく手がほとんどなかったわけです。そこまでして徳川をたたく必要性を認めなかったうちに、豊臣が自らの失点でどんどん弱体化し気が付けば徳川家が相対的に強くなり過ぎていたわけです。 真田丸でも最後秀吉はぼけ老人として描かれてますが、そもそもどのあたりまで秀吉が意識がはっきりしてて主導権を維持できたかさえよくわからないですしね。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 「ヒットラー最後の12日間」という映画では、墜落するヒットラーに手を焼く周りの必死の説得が実を結びませんが、秀吉の最後もこれに似ています。 家康は、焦らなかったですね。 秀吉にベッタリという役回りとなった三成や真田信繁は、ゲッペルスやエヴァのように王と心中するしかありません。 家康はその点、ギリギリの距離を維持できた。 まあno.3は見当たらなかったので、家康を潰せれば豊臣は潰されなかったのではないでしょうか。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.8

MONKEYMONKEYさん、こんばんは。 秀吉が天下を取ったといっても、彼のまだ織田家でのもと朋輩だったたくさん人はいました。だから、信長の盟友である家康に上洛してもらいたかったのです。だからこそ必死でした。例えば、丹羽長秀などは彼の先輩格でしたが、早世したので、勝家のように滅ぼさずに済みました。家康上洛がなければ、他にも秀吉に従わない大名はいたでしょう。 権力を持っているうちに、徹底的な不平等条件で骨抜きにすべしではないでしょうか。 秀吉の方が長生きできれば、跡継ぎは秀忠ですから、何とかなったのですが、いかんせん、6歳も年上だったので、先にあの世へ行きました。 秀頼の安泰を願うなら、懐柔できないまま家康を泳がせては、ならなかったと思いますが。 だからこそ、家康の嫡子である秀忠には淀君の妹、お江を嫁がせ、自分の嫡子秀頼にはその子おせんを嫁にもらう約束を遺言していました。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 秀吉は、家康が信長の盟友であることを、いまさら気にするたまでしょうか?。 そんなことで、つまづく思考者なら、農民から天下人になど、なろうとしてません。 サラリーマンでも、年上の部下を持つスピード出世の社長は別に珍しくありません。下剋上の戦国時代ならなおらさです。 6歳年上は早く死ぬというマイナスを見るのではなく、秀吉が中1の時に家康は小学一年生なわけでしょう。さっさと使いパシリにしていまえばいいのです。 先輩後輩の一般論を議論してるのではなく、これまで、散々、先輩をコケにして、出し抜き、天下一となり、利休やキリシタンを残虐に殺してきたようなメンタルのモンスターである秀吉が、なぜ、家康となると、急に、慎重になり、萎縮することがあるというのでしょう。 秀頼の心配を思えば、家康を不当に潰すくらいの非道さとパワーを持ってたと思うんですよね。 政略結婚程度で家康が配下になるわけないですよね。家康がそんなピュアではないことは、秀吉が一番知ってます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率31% (10472/32929)
回答No.7

小牧・長久手の合戦は戦術的には秀吉の大敗北であるところを、得意の外交力でどうにか政治的勝利に持ち込んだ戦いでした。一般的に、彼我の戦力差が3倍を超えると多い側が勝利するものですし、5倍を超えるとどうにもならなくなるものです。しかし小牧・長久手の合戦は羽柴軍は局所的に5倍を超える戦力を集めていたにも関わらず、家康に翻弄される一方でした。元々秀吉は野戦指揮官としての能力は高くないというか、低いといったほうがいいくらいで、一方の家康は上杉謙信にも匹敵する野戦の鬼で、特に小牧・長久手の合戦はその能力の真骨頂で家康会心の戦いのひとつでもあったと思います。 合戦という形になればどうあがいても羽柴軍は徳川軍に勝てないという事情があったのは大きかったと思います。 また秀吉が北条家を滅ぼして天下統一が成された後も、豊臣家の権力基盤というのはさほど強いものではありませんでした。なにしろ、家臣団がどうにも弱いのですよ。秀吉にとってブレーンとも呼ぶべき全面的な信頼を置けてなおかつ優秀な家臣というのは、実質弟の秀長くらいでした。黒田官兵衛は己が野望を最優先にしてしまうタイプですし、福島正則と加藤清正は知恵は回りません。 そんな豊臣家が徳川家に圧力をかければ、上杉家、毛利家、伊達家、島津家などが反発するであろうことは予想できるところです。結局のところ、秀吉は懐柔するしか方法がなかったようにも思います。そこは成り上がり者の哀しさだったと思いますね。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 部長対部長の営業対決なら、家康は脅威ですが、既に、社長の座を得た秀吉が、家康の営業力を恐る必要はありません。それどころか、家康の営業にいちゃもんをつけて、弱体化する事が可能な立場です。 上杉、島津、伊達、毛利も優秀な部長や課長ですが、彼らがいかに優秀であろうと、秀吉は社長です。彼らが謀反を起こすようなパワーバランスは非現実でしょう。 真田丸ちゃんや三成は、十分優秀なブレーンではないでしょうか?。 福島、加藤は、頭が回らないが、だからそこ(裏切る心配のない)信頼していい強力な軍隊なわけです。 戦国時代にいまさら成り上りを憂うのは時代錯誤というもの。 信長からして本質は成り上りなのですから。 成り上がりは下剋上時代のトレンドです。

  • Hoffman2
  • ベストアンサー率40% (18/45)
回答No.6

戦って屈服させるには、徳川が強大だったからでしょう。実際に、小牧長久手では負けていますからね。正面切って武力で従わせるには、豊臣家の相応の被害が出るし、何年かかるかも分からない。逆に、下手に出てそれで徳川が豊臣の配下になってくれるならこんなに楽なことはありません。戦で大きな人、金、兵糧なども費やす必要もない。このときはまだ関東の北条、東北の伊達、九州の平定もしておらず、徳川相手に大戦するほどの余裕もなかったのでしょう。 討伐の順番が違って、先に九州も平定し、伊達が戦わず豊臣に臣従を誓っていて、残るは徳川と北条だけであったら、秀吉の出方も強気になっていたと思います。史実であった関東の北条に対するように、豊臣から人質など出さずに、徳川と北条に上洛を命じ、言うことを聞かないならば武力で討伐したと思います。が、そのような状況になれば、徳川も自ら上洛したでしょうね。そのあたりが北条と違って、大局を見る目はあったと思います。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 明智と北条への容赦なさを見て、家康も震え上がったはずです。 豊臣にとり、最初から家康だけが脅威なのは明らかなので、三成と真田にそこを研究させるべきでしたよね。

回答No.5

家康は当時 秀吉も認める天下一の実力者だったからです 小牧・長久手の戦いで敗れて以降 秀吉は何とかして家康を屈服させようとしていました (家康は北条氏とも姻戚なので手を組まれると秀吉の天下統一に最大の障害となるため) 不平等条約なんかでもし対立して また戦いとなれば秀吉が勝てる保障はありませんでした(北条をしばめ伊達など東国の諸大名が家康に付く公算が大きかったため) 秀吉の最大の美学は「戦わずして相手を屈服させる事」です

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 それは心配をあげだしたら、家康が脅威なのは確かですが、小田原征伐で、あざやかに、北条氏を滅ぼしたように、全国の武将に踏み絵を踏ませて、家康を追い込めば、小牧・長久手の二の舞はないでしょう。 そして脅威であればあるほど、溺愛する秀頼に対する「害」なのだから、たとえ刺し違えても家康を生かしてはならぬと思います。

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (811/3029)
回答No.4

天下統一をしたころには豊臣家と徳川家では圧倒的な差があり物の数ではなかったんですよ。 秀吉の母を人質にしたのは家康を上洛させるためで、母と本人、あるいは長子(長男は死んでるので次男)では人質としてはやはり徳川のほうが重い人を出しています。 不平等条約・・・といいますか関東移封で東海道を中村山内堀尾福島と豊臣恩顧をずらっと並べ封じ込め策もとられています。 この風向きが秀頼生誕でがらっと変わります。豊臣家は近江派と尾張派の派閥対立がおき、さらに次代の当主たる秀次が失われます。 この段階では家康は秀吉の理不尽な要求に素直に従う律義者で天下に通っています。ここで家康に戦を仕掛けたとしても、勝ちはするでしょうが諸大名の信頼を失い豊臣政権は求心力を失いその後の治世が難しくなったでしょう。ただでさえ無茶な朝鮮出兵で豊臣家の求心力が低下してる時期で巣。また骨抜きと言われてもこれ以上領地は触れないでしょうしなかなか難しいものがあります。 打てる手はほとんどなかったのでしょうが、ただひとつ、どうにか家康暗殺できなかったのかなあ?とは正直思います。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 才覚だけで信長の家臣となり、明智光秀を討ち、小田原征伐でオールスター戦をプロデュースした秀吉にくらべ、生涯打つ手がなかったのは家康の方だと思えます。 三成や真田といった優秀な若者をスカウトする眼力もあり、利休や官兵衛などの才能も味方につけました。 秀吉にとり家康を勢力図の上で窮地に追い込むなどたやすいと思うのです。

  • 4237438
  • ベストアンサー率28% (278/974)
回答No.3

>秀吉が、家康に低姿勢なのはなぜですか?。なぜ、秀吉の方が身内を人質に提供しなくてはならないのでしょうか。 小牧・長久手の戦いに苦戦し、戦うより外交的戦術で味方につけようと考えた。家康を支持する大名も多く強敵過ぎた。争うよりそちらを選んだ。 >権力を持っているうちに、徹底的な不平等条件で骨抜きにすべしではないでしょうか。 そういう作戦においても家康は長けていた。武力戦においても外交戦術でも強敵であった。味方にとりこむほうが得策であった。 >秀頼の安泰を願うなら、懐柔できないまま家康を泳がせては、ならなかったと思いますが。 その通りです。でも結局、別な道を選びました。まあしかし、家康の天下となったおかげで東京ができました。日本にはそれで良かったんじゃないでしょうか。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 家康を支持する勢力などいたのでしょうか?。そんなのいたら秀吉に睨まれるだけですからヤバいでしょう。 家康のどのあたりが外交戦術に長けていたのでしょう。みな、似たようなもんではないでしょうか?。 確かに東京が出来たのは良かったですね。まさに家康がデザインしたコスモポリスです。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.2

秀吉が、家康に低姿勢なのはなぜですか?    ↑ 家康が強いからです。 なぜ、秀吉の方が身内を人質に提供しなくてはならないのでしょうか。     ↑ 天下統一を焦ったのだと思います。 権力を持っているうちに、徹底的な不平等条件で骨抜きに すべしではないでしょうか。     ↑ 天下統一が間近になると、考えが保守的、 消極的になるのでしょう。 力で押しつぶす、という危険な道よりも 安逸な道を選ぶようになるのです。 この点、関ヶ原をやった家康とは違います。 秀頼の安泰を願うなら、懐柔できないまま家康を泳がせては、 ならなかったと思いますが。    ↑ 自信が無かったのだと思います。 秀頼が産まれたときはかなり老齢になっています。 家康と違って、秀吉は成り上がりで、本当に信頼 出来る部下が少なかったわけです。 家康討伐を命じて、それで果たしてどれだけの 大名がついてくるか。 家康に負けたというトラウマも手伝って、強硬姿勢に 出られなかったのが敗因です。

MONKEYMONKEY
質問者

お礼

ありがとうございます。 小田原征伐や大陸攻撃をして、消極的とは考えにくいと思います。 本当に信頼できる部下など誰にもいないと思います。それが戦国の下剋上の世でしょう。 秀頼の為なら何物にもかえて家康を潰すべきでしょう。

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    大坂冬の陣で講和した時の条件は堀を埋めるという事でしたが、徳川家康は堀をわざと指定せず外堀どころが内堀まで埋めるという狡猾な事をやり、丸裸にされた大坂城は大坂夏の陣で豊臣秀頼・淀君の親子もろとも落城の憂き目を見ることになってしまいましたが、 どうして豊臣方は内堀も埋められてしまうのを黙って見てるしかなかったのでしょうか? 内堀と言っても広くて大きいでしょうから、埋め立てるのにも日時が掛かるでしょうし、武力行使で止めようと思えば出来たはず。「内堀を埋めて良いとは講和条件にない!」と抗議して止めさせる事だってできたはずなのに、なぜ家康のながすままにされてしまったのでしょうか?

  • 関白と征夷大将軍

     関ヶ原の合戦の戦勝のどさくさで天下を奪った家康。  果たして奪ったという言い方が妥当かどうかなのですが、 征夷大将軍に任命されて、幕府を開いたことで、法的に 政権を掌握した家康に対し、豊臣家は元の主筋という 法的には何の権力もない存在です。  では、あらゆるコネやカネにものを言わせて秀頼が 関白に任命され、豊臣関白家を復活させた場合、 政権は豊臣、徳川、どちらが執るのでしょう。  鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府 どの時代にも 関白や太政大臣は居ても、政治に口出しはしなかったが、 豊臣関白なら黙って家康のやりたいままにはしないはず。  というより自分が政権を執るための関白就任だから。  たら、れば、は歴史のタブーですが、全くあり得ない話でしょうか。 もし徳川将軍と豊臣関白が同時に存在したらどうなっていたと 考えられますか。

  • 豊臣政権、秀吉死後のIF

    関ヶ原の合戦が起き、徳川政権が興ったのはなるべくしてなった結果だと後世から観たら思います。豊臣秀長や前田利家といった豊臣政権内での調整役の死。それによる文治派(近江派)と武断派(尾張派)の対立。豊臣秀吉自身、有力な武家出身でないために死を覚悟して尽くしてくれる譜代の家臣(徳川家康でいう鳥居元忠や本多忠勝ら)もいません。また秀吉・秀長ともに継子に恵まれず秀吉の晩年に秀頼が生まれましたが、8歳の子供に政権が担えるわけがなく、秀吉の死後、有力な大名からなる五大老・五奉行による合議制によって政治が執り行われました。(秀吉の天下統一の過程でほとんどの有力大名を残し、滅亡したのは関東の北条氏ぐらいでした。それにより豊臣政権は大名による連合政権ともいえ、それを秀吉自身の能力やカリスマでまとめ上げていたといえます。)また、2度の朝鮮半島出兵により西国大名、特に豊臣恩顧の大名が疲弊してしまいます。結果、政権を担うことができるのは関東に250万石以上の領地を持ち、朝鮮出兵を経験せず戦力・財力を温存でき、戦国武将として桶狭間合戦以来の経験を持つ徳川家康しか残らなかったと思います。(この時代大名はすでに経験の浅い2世世代に移っていた。秀吉死後、残った人物の中で家康がNO1であるという評価が当時あったのかもしれない。)さて、ここで質問です。豊臣秀長や前田利家が秀頼が成人するぐらいまで元気で長生きしていたら歴史はどうなったでしょうか。(1610~1615年ぐらいまで。政権内で発言力があり、親豊臣政権・親秀頼が絶対条件)また、蒲生氏郷・堀秀政や小早川隆景らも元気に長生きしていたらどうなっていたでしょうか。例えば、秀吉死後の五大老が徳川家康・豊臣秀長・前田利家・蒲生氏郷・堀秀政・毛利輝元・小早川隆景(これでは七大老)ならば、家康もあれほど好き勝手はできず、史実のような政権奪取の野望も持ったなかったかもしれません。また、史実どおり合戦が起きたとしても、西軍総大将兼現地総司令官が豊臣秀長で現地副司令官が蒲生氏郷と堀秀政(蒲生・堀の領地は史実と違い近畿・中部・北陸で50万石以上が望ましい。)、軍監は黒田如水(説得して西軍に親子共々協力させる。大谷吉継は黒田の補佐。)で前田利家は西軍副大将兼大阪城留守居として大阪城に入城させる。石田三成は大阪で兵站奉行として全軍の兵站に専念させる。上杉は史実通り会津で挙兵させる。(蒲生が会津で、上杉が越後で挙兵でも可。その場合、関ヶ原現地副司令官は堀秀政のみ。水戸で佐竹も挙兵させるのが望ましい。)歴史のIFになりますが、その後どうなったと思われますか?皆さんのご意見を聞かせてください。

  • 淀殿が悪女扱いされた理由

    先日、テレビ番組「歴史ヒストリア」で、大河ドラマの主人公・江の姉で豊臣秀吉の側室・淀殿の特集をやっていました。 特集の中で、淀殿がなぜ悪女扱いされたかという説明があり、 「淀殿の妊娠・出産に関連した秀吉の処罰があったから」だと解説していました。 具体的にいうと、 第一子・鶴松を妊娠したとき、淀殿の浮気相手との子だ、秀吉の子ではない、といううわさが立ち、そのようなうわさを流した人々を処罰したこと 淀殿が第二子・秀頼を出産した後、秀吉の養子で、これまで跡取りに考えていた秀次を自殺に追い込み、秀次の妻・側室・子どもも処刑したこと 以上だそうです。もちろん淀殿の責任ではありませんが。 ただ、それ以外にも淀殿が悪く言われる理由があると考えています。 1・「勝者の歴史観」 「勝者」である徳川幕府の視点で見れば、徳川家康と最後まで対立し、服従しなかった淀殿は「悪者」に見えたと推測できます。これは人民裁判で処刑されたマリー・アントワネットや、東京裁判で処刑された東条英機にも当てはまるのではないかと思います。 2・「男尊女卑の価値観」 江戸時代の武家社会の間では、儒教(朱子学)に基づく男尊女卑的な価値観があり、女である淀殿が表舞台に立ち、政治に口を出すことを良く思わなかったからだと思います。これは洋の東西を問わず、権力を持った女性有名人全般に多少は言えることなのかもしれません。 以上のことに「歴史ヒストリア」は突っ込んでなかったという感想を持ちましたが、この私流の解釈は妥当なのでしょうか。ご回答よろしくお願いします。