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石田三成から学んではいけない点
一時期、勝っている側でなく負け組からヒントがないかなどのそういうことに注目が集まったかと思います。 石田三成はドラマでは負け組でも忠義の人という描き型ですが、豊臣秀吉に気に入られて、時代を読み違えたともいえると思います。 頭脳で布陣をくむのは良かったりもしますけど、正論、官僚的だったともいえると思います。 あまりもてはやすのは実際はよくないようにも思えるのですけど、どうなのでしょうか?
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- 貴方が下す、石田三成への評価
豪華絢爛たる戦国乱世の人材の内、長らく低い評価に甘んじていた代表的人物となれば、何と言っても石田三成ではないでしょうか。 私が子供の時分、まるで聖人君子の如く扱われていた加藤清正辺りがいる一方で、さながら権臣・佞臣としてそれはもう散々な評価が下されておりました石田三成、もっともその後両者に対する風向きが、少々変わったとの印象もありますが・・。 或る意味、徳川家康が側面支援そして企画・監督して、三成がキャスティング・主演した感のある関ヶ原、結果のみを考えれば、単に豊臣家の滅亡を早めただけとの御指摘もある一方で、彼のみが故秀吉への餞・レクイエムを手向けた唯一の子飼いであった、そうも取れるはず。 その後の歴史を知り得る我々から見れば、大坂の陣は付け足しに過ぎず、徳川政権成立へと至った最大のエポック・メイキングはやはり関ヶ原でして、豊臣の天下に別離を告げる或る種のセレモニーであった事は明確でしょう。 そもそも宇喜多秀家・上杉景勝といったごく稀な例外を除き、殆んどの大名家は家康の権勢に及び腰であった事実を見れば、彼が尻を叩かねばとても西方に10万もの大軍(もっとも実際に参戦したのは、その内の3割程度ではありましたが)を掻き集める事は不可能でした。 一方、人間の功利性を知り尽くした家康との比較に於いて、余りに正義・忠義といった倫理面のみを世を計る物差しとして捉え過ぎた甘さがあり、且つ敗れはしたが、東西20万もの大軍を参集せしめ、関ヶ原の戦いという後世に残る一大イベントを催して、なし崩しに徳川へという流れだけは食い止めた訳で、どうにかこうにか豊臣家の体面を保ったとの印象を持ちます。 さて前置きが長くなりましたが、主観・客観の如何に関わらず、皆様がお持ちの三成に対する評価・印象を御聞かせ下さい。
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お礼
まとめる力はたしかにそうですね。 前面に出たら、反感が強い人ですよね。 ご回答ありがとうございます。