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豊臣政権が滅んだのは、おねのせい?

 先日テレビで、某占い師の方が、「豊臣政権が滅んだのは、秀吉の妻のおねのせい。秀吉亡き後、おねが他の大名たちに豊臣政権の存続をもっと訴えていれば滅びなかったかもしれない。おねが秀吉を裏切って、家康側についたから、豊臣は滅んだ。おねは悪女だ。」と、言ってました。  私は、あの時代は一人の君主に忠義を尽くすという価値観は無く、こういう考えは江戸幕府以降の考えであり、この当時は自分をより評価してくれる君主のところへ移ることが当たり前だとされていた時代なので、べつにおねのこの行為は裏切りではないと思うんですが、みなさんはどう思いますか?

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  • tyouei
  • ベストアンサー率32% (17/53)
回答No.12

 相当主観的な意見ですが、参考程度にして戴けると幸いです。  前の方々も仰っている方がいますが、豊臣政権そのものの構造にも問題があったのではないでしょうか。つまり、秀吉という一個人によって求心力が保たれており、秀吉の亡き後、完全な連立政権と成り果ててしまった。その結果、政権中枢で家康という野心家を抑える事の出来る者が前田利家1人という状況の中で当の利家が死んでしまい、野心家の独裁となった……。そもそも、豊臣政権の政権構造そのものが、あくまで秀吉が生きているときしか想定していないような構造に見えるのは結果を知っている故でしょうか。実務を5人の奉行に任せ、5人の大老がその指揮・監督をする。じゃあ、その指揮・監督する5人をどうやって取りまとめるのか? 内部抗争が起こったらどうするのか? 第一、支配者たる豊臣家の持つ経済力・軍事力そのものが相対的に考えて他の大名(特に徳川)を抑え切る実力を有しておらず、また、(秀吉が信用していたかどうかは分からないが)家康というかつて自分と敵対した相手をあまりに信用しすぎていたのではないのか。少なくとも、戦国の生き残りがまだ世の中を運営していた時代に、あまりに連合政権的かつ文治的政治をしていたように感じます。鎌倉、室町、江戸、少なくともこの3つの幕府は、室町が守護大名の連合政権的性格が強かったとしても、初期の頃は武力で周りを押さえつけて権力を確立しました。実際、そうしなければ戦いを勝ち抜いた猛者たちを黙らせる事は出来ないです。  本題、豊臣政権崩壊はねねのせいか? 多分、絶対間違いではなくとも、正しいとも言えないと思います。少なくともねねは自分と夫が築いた家を滅ぼしたいとは思っていなかったはずです。畿内の一大名に成り下がろうとも、家を存続させたいと思うのは当然ではないでしょうか。実際、家康が関ヶ原の恩賞として豊臣家の領地を分配した時、それにねねが反対したとは聞きません。あくまで私見ですが、彼女には、豊臣を200万石級の大名から畿内60万石の大名に力を落とす事で徳川に対抗するだけの軍事力を残さないようにするというビジョンがあったのかもしれません。変に力を残せばそれこそ淀君に勝機があると考えさせてしまいます。  かなり余談ですが、家康が豊臣を滅亡させたのには、2代秀忠の軍事的センスの無さが起因になったという説があります。事実、秀忠は関ヶ原において徳川本隊3万を真田の篭城のせいで間に合わせる事が出来ませんでしたし、大阪の役では急ぎすぎて兵を疲れさせたとも言います。相続後の問題や、政治的センス(こちらはあったのではないかと思う)を見越して秀忠を将軍にしたものの、まだまだ重要なセンスである軍事的才能がこれではとても安心できない。死後、もし豊臣を残して再び動乱になったとき、軍事センスの無い当主では家の存続に関わる……そう苦悩の末、豊臣を滅ぼしたというものです。  駄文、失礼致しました。

007yuuki
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noname#26663
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回答No.11

専門家様、それに準じる方が多いようですね。^^ 関が原では、大半の武将が動きませんでした。 当然です。 家康が居ない時に伏見城を闇討ち。 挙句、夜襲は汚いとののしるありさまです。^^ 前田利家の人望でかろうじて結束していた豊臣の家臣は 前田利家が死ぬとめちゃくちゃな行動で対峙します。 ここをまとめ上げる人望の持ち主は徳川家康の他いなかったのです。 毛利は平気で裏切ってます。 これに任せるべきではありません。 関が原以降も各大名は一応秀頼に忠誠を誓っています。 ここから大きく歴史が変わるのですが、 三成、淀が「おっちんで」いたならば、 福島以下の軍勢は徳川に就いていません。 豊臣軍10万は、全力で徳川を包囲し、殲滅させてます! (多分)^_^;

007yuuki
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noname#113190
noname#113190
回答No.10

この時代の武将達は江戸期と違ってドライです。 現在でも、息子達が独身の内は親の言うことを聞きますけど、結婚し家族が出来れば、親のことよりも妻や子供のことを考えて行動する男性が多いですけど、豊臣恩顧の大名達も血の繋がった一族が周囲におり、多くの家来も従っていますから、彼らの生活が成り立つような行動が求められ、必然的に勝ち馬に乗るという行動に出ます。 高台院(おね)が何を言っても、後ろ盾が無ければ、いかに恩があるといっても一族郎党を路頭に迷わすような無責任なことは出来ませんから、落日の豊臣家に肩入れする大名はいないと思います。 大阪方の陣に集まった武将達も、ハイリスクハイリターンの賭けに参加したまでで、領土をもった大名なら、下手をすれば乱心として家臣に押し込められますから、万一の保険をかける意味で、一族の数人を勘当して無関係にして、大阪方に参加させるのが精一杯のところでしょう。 女性が力を持つのはきちんとした後継者があればで、この時代は「女の腹は借り物」といって、正室に子供が無くても、側室の子供が跡継ぎになる場合は、正室が育てるのが一般的で、成長した子供は育ての親を親として立てることで権威を保ちます。 高台院にはこれがありませんから、諸大名も心情的な同情はしても、彼女の檄に応じてということはないと思います。 豊臣家が栄えるためには、一番の失敗は秀次を殺したことです。 彼は平凡な人物ですが、愚かという程ではなく、近江八幡市の街を見れば判るように、山内一豊、堀尾吉晴らに補佐され、後継者としては問題のない力量を備えた人物で、秀吉と違って子供も多いので、少なくとも3代目までは繁栄が続いたと思われます。 彼がそのまま後継者になっていれば、またその遠因として、叔父の秀長が健在なら、切腹も避けられたかも知れませんし、豊臣家は悪いほうに転がったのでしょうね。

007yuuki
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回答No.9

そうですね。 淀殿サイドからは、確かに裏切り行為に見えるかもしれませんね。 歴史はいろいろな立場で見ると、奥が深くなりますね。 歴史上の人物でも、ひとりの人間ですから。

007yuuki
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noname#25898
noname#25898
回答No.8

おねさんは、天下一の良妻です。 ただひとつの瑕疵は、子どもを生めなかったことだけです。 先を見る目の確かさは、秀吉より上かもしれませんし、まず、この人が奥方でなければ、秀吉の栄達もなかったと思います。 信長に夫の浮気を訴えたのも、甘えてかかってくる人間には、弱いと計算してのことかもしれません。人の心を読むことができるかのようです。 おねさんのビジョンには、先が見えていたのです。 自分ひとりの立場のどうこうでは、もう豊臣の行く末は、どうにもならないことを。 滅亡を先延ばしにすることくらいは、三成への介入、子飼いの武将、加藤清正、福島正則あたりへの懐柔で、できたかもしれません。 おねさんの行為は、傍観であって、裏切りではありません。 あのお方は、何か勘違いをなさってますね。

007yuuki
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回答No.7

豊臣家が滅んだのは、時代の流れでしょう。 まず、秀吉生前に弟の秀長が病死していることや、秀次を自害に追い込み、一族の縮小化が進み・・・秀頼の後見人が外様の前田利家だったと言うこと。 家康は大名からの人望はありましたが、石田三成にはそれがなかった。 また、家康は豊臣家を一大名として残しておこうと思ったと思います。 それを淀が反対して、家康は豊臣家を滅ぼす決意をします。 秀吉は織田家から政権を奪い取りました。 主君だった信長の子供を殺したり、側室にとしたり・・・家康の事を非難できる立場ではないと思いますよ。

007yuuki
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  • popesyu
  • ベストアンサー率36% (1782/4883)
回答No.6

>この当時は自分をより評価してくれる君主のところへ移ることが当たり前 というのは言いすぎかと思います。豊臣家というか羽柴家というかあそこは完全な一代社長の家で、そもそも家じゃない。織田家は一応家系としてはそれなりの求心力はあったでしょうが、信長が完全にそれを切り捨てた(ただ実力本位主義制度を取り入れたことであそこまでいきなり成り上がれたという面もありますが)、一方徳川家は勿論裏切りはありましたが、例え家康が途中で死んでいたとしても徳川家自体がいきなり離散することは無かったでしょう。家督争いなどでもめたり、天下は取れなかったかもしれませんが、徳川家そのものは戦国の世をしばらくはずぶとく残っていたと思います。 そういう意味での「家」が豊臣家には全く無かったというのが根本の原因で、一つ一つの原因を求めていけば、おねに豊臣家に求心をさせるだけの行動力が無かったというのも一つとしてはあるとは思います。弟・秀長の早死にとか、無謀な朝鮮出兵だとか、後見となった光成にカリスマが無かったとか、子供が無能(というか生まれたのが遅かった)だったとか、その辺の理由と同程度のものでしょう。これらが全部重なっていたとしても豊臣家に「家」があったのなら、また何とかなっていたのではと思うわけで。 まぁそれ以前にあのおばちゃんの戯言をそこまで真剣に受け止めることは無いかと思いますが。予言通りに阪神が優勝しなかった!!とか真剣に怒りますか?

007yuuki
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  • Scull
  • ベストアンサー率26% (248/951)
回答No.5

馬鹿馬鹿しい話です。そもそも秀吉とおねの間には「おねの許可成しに何事も決めてはならない」という取り決めがあった様に、「主従」という関係ではなかったんです。つまり秀吉が死んだ後に「おねが豊臣をどうしようがおねの胸先三寸」という事。 言い方を変えればおねの意志を無視して豊臣の存続をはかろうとした豊臣家臣達こそ「豊臣政権を裏切った」とも言える訳です。また、秀次を廃した時点で豊臣の崩壊は決定づけられたともいえ、秀吉自身が豊臣政権を裏切ったとも言える訳です。 まあ、結局のところ「占い師の戯言」です。

007yuuki
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  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.4

女性が諸大名に豊臣家の存続を訴えても、反発されるだけでしょうね。 大名家は今の会社のようなもので、トップの好き勝手で動かすと、下の者が大変に迷惑します。家の存続を第一とすれば、実力者家康と敵対しないのは普通の選択です。 なお、おねが秀吉を裏切って家康についた証拠は存在しないかと。 (参考URLを御覧ください)

参考URL:
http://www.asahi-net.or.jp/~ia7s-nki/knsh/shirakawa.htm
007yuuki
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  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

歴史カテゴリーとしての回答 織田家を簒奪して成立した豊臣家を「ライブ」で見ていた当時の武将にとって、次の天下人として公平な目で見れば、家康ということになるでしょう。 異常だったのは、簒奪後に家康が15年も長生きして、しっかり体制固めをできたこと。それなりの成人した後継者がいたと言うこと。 源氏の鎌倉幕府にしても、頼朝が頓死して、後継者に恵まれなかったので、三代で滅んでいます。

007yuuki
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