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卑弥呼はどうして売国奴扱いされないのでしょうか?

魏志倭人伝の 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状 遣塞曹椽史張政等因齎詔書黄幢 拝仮難升米為檄告諭之 卑弥呼以死 大作冢 徑百餘歩 狥葬者奴碑百餘人 の部分などを参考に考えてみてください。 傲慢な上にありふれたつまらない回答は私は必要としないので書かないでください。

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.7

確かに日本側から見ると売国奴ですよね。 その通りです。 日本では売国奴なので名前が後の世に残らなかったのだと思います。 事実、日本書紀にこの魏志倭人伝の事は少ししか記されていません。 売国奴扱いされないというより、卑弥呼は無視された存在と考えた方がいいと思います。 それだけ日本側から見ると卑弥呼は矮小な存在だったと思われます。

vyhhimuko
質問者

補足

いつもご賛同ありがとうございます。

その他の回答 (6)

  • 441moe
  • ベストアンサー率16% (75/449)
回答No.6

売国行為してないからです。 先ずせめて中学生程度の日本語勉強してから中国語勉強しましょう。

vyhhimuko
質問者

補足

アホクサ。 俺の質問には君はこれからレスしてくれなくていいよ。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.5

 #1です。補足です。 >>つまりその時には内紛状態だったと思いますよ。  ここが僕の読みと違うところです。Xから助けを求めてきた、しかもそれがXの共立王からだ、というのも、自己宣伝の常套手段です。  しかし、中国からの援軍はこないし、倭女王の勢力範囲も倭全体ではない、いずれも誇張の産物で信じるに足りない、と思います。  これは2世紀ですが、600年ほど後の『古事記』でもあちこちに「まつろはぬ」者がいて統一ができていない記憶があるので、「内紛」が起こるほど纏っていないのではないかと思います。

回答No.4

「邪馬台国」の売国奴ではあっても「日本国」の売国奴ではないからです そもそも 魏志倭人伝の信憑性自体「?」ですし

vyhhimuko
質問者

補足

まあ確かに距離も方位もデタラメのオンパレードですからね。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.3

 #1です。補足です。 >>ここで桓帝-霊帝(146年 - 189年)の倭国大乱と卑弥呼の共立王としての確立を示しています。つまり卑弥呼は倭国連合の王なんです。こんな事もわからないのでしょうか?  これには、時間と空間を決めておくのがいいと思います。 1。時間  桓帝149-167)霊帝は(168-188)ですから、『魏志』よりかなり前の話です。又聞きの又聞きであることは。あはは 2。空間  引用なさった文の後に、  自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 とあり、女王の国と狗奴国とは離れており、倭の人間でもみんな女王には属しているのではなかった、と明記してあります。 3。時間で又聞きの風評、空間で地理もあやふや。かなり眉唾系数の高い資料ですね。

vyhhimuko
質問者

補足

>自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王 とあり、女王の国と狗奴国とは離れており、倭の人間でもみんな女王には属しているのではなかった、と明記してあります。 そうなんです。彼らは同じ倭人(日本人)と書かれています。 しかも卑弥呼と卑弥弓呼から親族に近い間柄だと思いますね。 その後の共立の国王選びでも、共に戦い言い争ったことが書かれていますね。 どちらか一方が国を侵略したのではなく、いろいろな基準から台与が女王としての地位を確立したかのように書かれていますね。 つまりその時には内紛状態だったと思いますよ。

回答No.2

助けを求めたのは確かですが、なぜそれが売国奴ということになるのでしょうか? 今日本は(細かいことを除いて)米国の軍事力の下に平和を維持している状態とも言えます、現状の日本において誰が売国奴なのでしょうか? それはさておき、質問で明らかに間違っている部分があります。それは『助けを求めたのは卑弥呼ではない。台与である』ということです。 この年表の年、倭は3回目の使いを送り”助けを求めて”います。そして(偶然にも)2回目の倭の使いの返答として、張政が倭に来ています。そして張政が倭でやったことは『台与に檄告諭した』ことです。 この”張政がやったこと”というのが大切です。張政は卑弥呼でも男王でもなく(難升米と)台与に檄告諭したので、張政が倭に来たときには倭の王はすでに台与だったと考えられるのです。なので、この年に倭の使いを送ったのも台与と考えるのが妥当です。 よって質問文に正確に答えるならば『倭が助けを求めたときには既に卑弥呼は死んでいて無関係だから』です。

vyhhimuko
質問者

補足

コメント二度目で消されてしまったいたので簡単に書きますね。 >2回目の倭の使いの返答として、張政が倭に来ています。そして張政が倭でやったことは『台与に檄告諭した』ことです。 この”張政がやったこと”というのが大切です。張政は卑弥呼でも男王でもなく(難升米と)台与に檄告諭したので、張政が倭に来たときには倭の王はすでに台与だったと考えられるのです。なので、この年に倭の使いを送ったのも台与と考えるのが妥当です。 そういう考え方もありでしょうね。 >それは『助けを求めたのは卑弥呼ではない。台与である』ということです。 助けを求めたのは卑弥呼だと思いますよ。 ここら辺は史料が少ないので判断が難しいところですね。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15295/33014)
回答No.1

 倭女王卑弥呼与狗奴国王卑弥弓呼素不和  とあることから「倭」と「狗奴」は別の「国」です。だから甲と乙、別の国なら甲は乙の国を売る人、すなわち売国奴ではなく、まだ「日本」という統一国家が存在しない時です。  たとえ韓国のパクさんと、日本の阿部さんが仲が悪ても、パクは日本の売国奴ではないのと同じだと思います。

vyhhimuko
質問者

補足

後漢書東夷伝 「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主 有一女子 名曰卑彌呼 年長不嫁 事鬼神道 能以妖惑衆 於是共立爲王」 ここで桓帝-霊帝(146年 - 189年)の倭国大乱と卑弥呼の共立王としての確立を示しています。 つまり卑弥呼は倭国連合の王なんです。

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  • 邪馬台国って、

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