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百人一首の僧侶と恋の歌の関係
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百人一首にある「僧侶が詠んだ恋の歌」の多くは、自分の現実の恋愛体験の歌ではなく、今風に言えば「仮想現実」の歌、想像で詠んだ歌です。 21,今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな (素性法師) 85,夜もすがらもの思ふころは明けやらで閨のひまさえつれなかりけり(俊恵法師) いずれも恋しい人を待つ気持ちを詠んだ歌です。この時代の「妻問い婚」の風習からすれば、「待つ」のは女性ですが、作者はいずれも男性の僧侶で、恋人を思う女性の気持ちを想像して詠んだ歌です。歌合せの際に題を与えられて詠んだ歌であろうと考えられます。 86,嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな (西行法師) この歌は、自分の感情を詠んだように受け取れますが、「千載集」の詞書には「月前ノ恋」の題で詠まれた題詠であると書かれています。作者は23歳で出家していますが、それ以前の若いころから和歌の才を周囲に認められていたそうですから、出家以前に作った歌でしょうか。 いずれにせよ百人一首に採られている「僧侶が詠んだ恋の歌」について、(詠まれた)当時の人が僧侶がこのような歌を詠むことを「異常なこと」だと考えていたとは思えません。 念の為に付け加えれば、百人一首の恋の歌すべてがこうした歌合せなどの題詠ではなく、ほかの歌集の詞書や史実から、現実の恋愛感情の表出であると考えられる僧侶以外の作品は当然あります。 余談ですが、万葉集巻十六には、当時の人が「異常なこと」と考えたとみられる古歌があります。 (3822)橘の寺の長屋にわが率宿(いね)し童女(うない)放髪(はなり)は髪あげつらむか (大意)橘寺の長屋に私が連れて一緒に寝たおさげ髪の少女はもう成人して髪を上げたことだろうか この歌はさすがに理屈に合わない(寺の長屋は俗人の寝所ではない)として、ある人は次のように決(さだめ)たとしています。 (3823)橘の光(て)れる長屋にわが率宿(いね)し童女(うない)放髪(はなり)に髪あげつらむか (大意)橘の実の輝く長屋に私が連れて一緒に寝たおさげ髪の童女は「はなり」に髪上げをしただろうか 万葉集の時代でも百人一首が作られた時代でも、寺の僧侶が上の3822のような歌を詠んだとすれば、「異常なこと」として批判されたと思われますが、もちろんそのような歌は百人一首にはありませんし、仮にそのような行為があったとしても歌を後世に残すことはできなかっただろうと考えます。3822の歌は「古歌」とありますので、特定の作者とは結びつかない形で伝承されていたのでしょう。
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- hue2011
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全然異常じゃありません。 坊様というのは人の苦悩をやわらげ、助けに導くのが仕事です。 だから人の弱みも知らなければいけないし、そもそも自分も人間なのですから、共感できる体験が必要です。 必要以前にそういう体験が肉体的にも精神的にもなければおかしい。 同じように育っている男の子ですよ。年齢的にある場所まで来ると起きることは起きますし、悩むことも多い。 そういうひとがそれを克服しながら、人を導くようになっていって、はじめて和尚様と尊敬を受けるようになるわけです。 これは尼様でも同じです。 一切その方向の欲望とか衝動を経験したことがないなんていう人間が、煩悩だらけの人を導き説得できますか。 私たちもそうですけど、たまたま、性犯罪を起こさなくてこれて良かったなと思うようなことがあるのです。 それを生の形で表現して発表するかどうかだけのことです。 シンプルな恋心を歌で表現したりしたものが、これいいな、と選者の目にとまって万葉集だの古今和歌集になっていったわけです。 なぜいいか、というと、ある種の第三者的な目による抑制が効いていて品位があるからです。 その中でさらに選ばれて百人一首なんかにあつめられただけです。 たとえば僧正遍昭 「あまつ風雲のかよひ路ふきとぢよをとめの姿しばしとどめむ」 このきれいきわまりない歌のヌシはどういうひとだったかというと、良峯宗貞という美男で洒脱な軍人だったそうです。左近の少将でした。 仁明天皇に寵愛され、社交界ではならぶものない色男だった。妻もいるが愛人も二人いた。 ところが仁明天皇が崩御してしまった。 突然ぷっつりと消息を絶ち、皆が探していた。妻が泣き泣き探し回りながら初瀬寺というところに夫の服や太刀をおさめ、もう一度逢いたい、と僧侶に頼んだのです。 そうしたらその奥の部屋に当人が剃髪して座っていた。 この人の歌なんです。 この人はその後乞食坊主として托鉢して歩いた。 そのとき、声を聞いて、あ知り合いではないかと思った女性がいてこれが小野小町でした。 寒いでしょう、衣あげましょうか、などと言ったらどう答えたか。 「世をそむく苔の衣はただひとへかさねばうとしいざふたり寝む」 私は出家だから衣は一枚しかありません。あえて言うなら一緒に寝ようじゃありませんか。 とんでもない歌を返したのが僧正遍昭だったという話。 このひとは最後は元慶寺というのを創設してその管長をつとめて亡くなったようです。 何か男女の深い悩みがあったらこの人に相談したくなるし、仮に相談したら目の覚める答えが返ってくると思いませんか。 平安時代というのはそういう時代だったのです。
お礼
頭を柔らかにしないととても想像ができないことでした。大変勉強になりました。
- trytobe
- ベストアンサー率36% (3457/9591)
幼いころから僧侶として育ったわけではなく、公家などで優雅な生活をした後に、隠居の意味で仏門に入るという人が多かったからだと思います。 つまり、年取ってもう激しい恋愛とかはしないけれども、若い人たちを見ていると、自分の若いときのことも踏まえて共感するところはあって、若いっていいよなあ、と詠みたくなる、と。
お礼
当時の構想と言われていた人たちも同じような歌を詠んでいたのかと思いました。読めば公表しないというようなことはなかったのではとも思いますが、当時のコミュニティの特殊性などにも関係していたのかとも想像いたしました。
補足
高僧を構想とミス入力いたしました。不注意をお詫びいたします。
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大変興味深いお話でした。ご教示を参考に少し勉強してみたいと思います。