• 締切済み

人を愛しているって、どうやって分かるのでしょう?

私は医師診断済みのアスペルガーです。 他人を愛しているという状態が理解できず困っています。 辞書的にはいつくしむとか可愛がるということですが、社会的にはもっと崇高なものを含んでいるように思えるのです。 例えば愛ゆえに自己の身を滅ぼすとか、愛は至高・不変とか、不可能を可能にするとか。 でも、実際に愛って何との問いに明快に答えているもので、崇高さを感じる言葉に出会った記憶がありません。 すべて自己の内心、自分の目が見て耳が聞き、脳が判断を下した自己完結の出来事のように思えて仕方が無いのです。 私に愛とは個人という概念をも払拭するものだということを、私にも納得できるかたちで教えていただけないでしょうか?

みんなの回答

noname#224724
noname#224724
回答No.9

できません。 だって愛は一方通行だし、自己満足だから。

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  • ecco
  • ベストアンサー率23% (81/346)
回答No.8

難しく考えることはないんじゃないかと、単純な私は思ってしまいますが。 食べ物が限られている状況で、自分はお腹がすいていても食べずに子供に食べさせる、 というように、 自分はたとえ辛くても、他の人の幸せの為になることをする。 そういうことかなあと思いますが…。 もし金銭や他の対価があれば『サービス』という言葉になるのかもしれませんが、 よく言われる「無償」、「見返りを考えない」、 ただただ与えるだけ、それが愛なのかと思います。 分かりやすいのは、マザーテレサでしょうか。 彼女が今にも息絶えそうな病人に「あなたのことを愛していますよ」 と言葉をかけている映像を見たとき、 私にはこみあげるものがありました。

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回答No.7

>助けないことと助けることを天秤にかけて、 >助けないことの >デメリットを全く上げれませんか? >自己嫌悪でも正義にはんするでもいいですが、 >すこしでも自分が「不利」と案じる動機がある時点で、 >「不純」 >ですよね。 デメリット、自分が溺れるリスク、です。 現に夏場のニュースを見ると 溺れた子供は助かったが 助けに行った大人が溺れた、という話がよくあります。

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  • sakura-333
  • ベストアンサー率10% (935/8801)
回答No.6

多くの場合は独占欲とごっちゃにしてるんじゃないですかね? そんなに重々しくも気高くもないのかなと思います。 まぁ都合のいい時に愛を持ち出す人は気を付けた方がいいと思います。

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回答No.5

>社会的にはもっと崇高なものを含んでいるように >思えるのです。 考えすぎじゃないですかね。 ・車に轢かれそうな人がいたら  とっさに「危ない!」と声が出るといった無償の愛 ・おぼれている子供がいたら、  後先かまわず飛び込む ・好きな女性が他の男の仲良くしていると  イライラする独占欲、執着の愛

miyabi16
質問者

お礼

ありがとうございます。 補足にも書いたように、私の基準では例題は「愛」足りえません。 定型の人は「愛」という言葉を発するとき、それらの行動を「無償」で行えると聞きます。 本当に凄いです。 回答ありがとうございました。

miyabi16
質問者

補足

>・車に轢かれそうな人がいたら  とっさに「危ない!」と声が出るといった無償の愛 ・おぼれている子供がいたら、  後先かまわず飛び込む これは私の基準だと「自己中心的な行為」です。 何故危ないと声に出したのか? なぜ子どもがおぼれたら飛び込むのか。 無意識下に刷り込まれた規範や社会性の影響はないのでしょうか? 助けないことと助けることを天秤にかけて、助けないことのデメリットを全く上げれませんか? 自己嫌悪でも正義にはんするでもいいですが、すこしでも自分が「不利」と案じる動機がある時点で、 「不純」 ですよね。 定型の人は、この辺をすべてクリアした、私から見ると聖人のように見えます。

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  • kyo-mogu
  • ベストアンサー率22% (3398/15359)
回答No.4

 発達障害とか関係無く難しいですよ。  まず、気がつく事の難しさ。  ヒントはどれだけ、あなたに対して行動してくれるか。手伝ってあげる。話しかける。物を与える等々。親子の関係だと子供に対する愛情はそういった行動がありますが、この行動がない場合もあります。見守るという行動です。これは子供を信頼している場合もあるし、ただ単に放置もありますが、信頼している場合はあなたの行動をよく見ています。放置は見ませんから。  親子の場合、あの時はと結構語ってくれるでしょうね。  恋人としての愛情は、私が感じたのが、遠恋だったのもありますが別れが辛いと感じた事です。 その人と一緒に居たいという気持ちが強くなるんですね。また、他の異性との関係に嫉妬もあります。なんで話しているんだとか、些細な事で苛立ちがあるんですよ。  お互いが必要とする感じがありますね。  愛とは必ず相手が必要です。それは人間だけではないです。物でも植物、動物などでも。その対象が必要と感じる心が愛なのかなと。必要だから守ったり、育てたりとかするのだと思いますよ。

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回答No.3

見えないし証明もできないし分析も出来ないからわからなくて当たり前だと思いますよ。

miyabi16
質問者

お礼

ありがとうございます。

miyabi16
質問者

補足

ありがとうございます。 でも周りがさも「私は愛を持っています」といって生きているのが辛くはあります。 彼らはなぜ、分析も証明もできないものを「ある」と信じて公言できるのでしょうか?

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noname#246942
noname#246942
回答No.2

うん? 君がここで質問した事が、全てじゃないの? 「愛」に、明確なものなんて無いよ。 逆に明確なものがあれば、君の言う通り、それは個人の概念、自己完結の思想以外の何物でも無い訳だしな。 そもそも、別に、君がアスペルガーだから、「愛」がどんなものであるか分からないって事ではないんだよ。 たぶん、「愛」について語った時、そこにいる万人を納得させられる回答を出せる人間など、恐らくこの世にはいないんじゃないかな。 ただね、自分思うに、君は何か「愛」と言うものを、かなり崇高で、例えようの無い唯一無二のように捉えているみたいだけど、実際、そこまでのものなんかね? 「これは愛で、これは愛じゃない」 「こういうのが愛で、こういうのは愛とは言わない」 そう明確に線引きしたり、判断出来る人間なんている訳ないし、そう考えて行けば、どれも全て愛とも言えるし、どれも全て愛じゃないと言えるような気がする。 愛なんて、そこら中に転がっているものかも知れないし、愛なんて、どこを探しても絶対に見つからないものなのかも知れない。 結局、「目には見えない形の無いもの」を具現化すると言うのは、不可能に近い程、実に難しい事で、最終的には、あくまで「個人の概念」に頼るより、他ならない事なのだと思う。 「人を愛しているって、どうやって分かるのだ?」 「他人を愛しているという状態が理解できない」 と君は言うが、「他人の概念」と「自分の概念」が違っている事など、愛に限らず、よくある事だろう? 別に、他人の考える愛に、君自身が必ずしも倣う必要は無いと言う事だ。 とは言え、それでは面白くもなんとも無い話なんで、自分の考えを一つ。 例えば、世の中にある全ての物事には、必ず「光と影」「陰と陽」「表と裏」がある。 それは、「愛」についても例外では無く、愛ゆえに、人を救う事もあれば、愛ゆえに、人を殺す事もあるのだと思う。 君の言っている事は、「愛」と言うものがいかに崇高であるか、「愛」と言うものがいかに至高、不変的なものであるのか、そればかりを求めているように見えてならない。 しかし、それでは、愛というものの本質から、余計に離れて行ってしまうだけではないかな。 重要なのは、愛に対する崇高さを感じる言葉でも、愛についての納得出来る答えでも何でもなく、「自分の心が素直に感じるもの」の尊さなのだ。 それはきっと、どんなに頭で理解しようとしても、決して分からない事だと思う。 「好きだ」と思う気持ちは同じでも、その付き合い方は人によって様々だ。 「守りたい」と思う気持ちは同じでも、その守り方は人によって色々なのだ。 だからと言って、その元になる気持ちまで違うと言われてしまったら、何も出来なくなってしまうだろ? なので、自分の結論としては、もっと自由に考えてもいいんじゃない?と言う事だ。 取り止めのない話になってしまったが、参考程度まで。

miyabi16
質問者

お礼

普通の人の「愛」とは万古不変、霊異記や雨月に現れる「死しても家を守る妻」というそれではないのでしょうか? 貞淑に命果てても夫を待ち続ける妻、現代的な価値観ならパートナーでしょうか? 自己という認識を超えたもの、肉体という器を越えたものを、定型の方はすべて持っていると認識しております。 ちがうのでしょうか?

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  • hkinntoki7
  • ベストアンサー率15% (1046/6801)
回答No.1

 愛は目に見えるものではないので言葉を信ずるしかないと思います。で、言葉を信じるかどうかはその人の評価で決めるしかないと思います。  目の前に鉛筆があってこの鉛筆は何cmなのかは定規を当てれば誰でも共通した答えが得られます。しかし、自分が作った料理を相手に食べてもらったときに、美味しい、と感想を述べたとしても本当に美味しいのかどうかはその人以外、わかりません。愛も同じです。  これって質問の答えになっていますか??

miyabi16
質問者

補足

料理の喩えは分かりやすいです。 この場合、自分がおいしいと判断する基準はどこにあるのだろう? それは何故か?不純は無いかなど色々考えてしまいますが、 多くの人はそうではないのですね。

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     当方、医師よりアスペルガー症候群の診断を受け、三級の障害者手帳を持つものです。アスペルガーは、その傾向として社会の暗黙のルールを理解しづらいと言われています。私も、自分の思っている常識が、世間の常識と「ズレている」ことがあるのだろうと考えています。そこで、自分の気になった出来事を、世間の人がどう捉えているのかを知り、どこに「差」があるのかを、理解したいと考えています。ご協力頂けると幸いです。 今回は、差別とは何であるか?を質問いたします。 私は、差別とは「自分(あるいは自己の所属する集団)と他者を比較し、他者をより、低く評価する行為・または自分より低位と考え、相手の権利を侵害する行為」と考えています。例えば都議会の野次も「女性の結婚しない権利を否定した」ことが差別の要点と思うしだいです(セクハラや、社会的な立場は、また別にあるでしょうが)。 辞書的には「正当な理由無く劣ったものとして、不当に扱うこと」なのですが、「正当な理由」があれば、劣ったものとして扱っていいのか?不当に扱わなければ、劣ったものとして扱っていいのか?正当と不当の線引きは?など、疑問が山盛りです。 「ユダヤ人は劣等人種だ」も「高齢出産は危険度が増す」も、同じ差別なんでしょうか? 前者は、何の根拠もないデマですが、後者はある程度経験と科学的知見に基づいた事実ですよね。前者は人種差別として、受け入れられますが、後者は「女性手帳」の問題や新聞に載る問題発言を見ても、「区別」や「事実の示唆」とも受け取れる側面もアリ、差別とは一概には言えないのではと思うところがあります。 後者の差別は「言われたほうが不快に感じる」が故に差別であるとされているように思えてしまいます。もし、この仮定が真とすると社会の風潮に迎合できない人間は「差別主義者」となってしまうと思うのですが。 差別の定義とは、私の思うようなことで間違いは無いでしょうか。それとも、「相手が差別と感じたら、もう差別である」が世間では一般的なのでしょうか? 不明な点や、補足が必要であれば、出来る限りお答えしますので、ご回答よろしくお願いします。

  • 『愛国心』とはなにか?

    「愛国心」という言葉には、「愛(する)」という語がつかわれていますが、英語では愛国心は、パトリオティズム【Patriotism】、「愛国者」をパトリオット 【Patriot】(ラテン語のpatria(祖国)より)といい、Love=愛 とは違っています。 さて、愛の起源は、親と子の間に芽生えるものと考えられます。嬰児は全くの無力ゆえに、「親」に無条件に、本能的に「愛を求め」「甘え」ます。一方で親(主として母親)も「我が子」に対して、「無条件の愛を」与えます。 子供が成長して、「自我」が芽生えてくると、子供の内面では「親は常に正しいわけではない」「時に親は自分たちの価値観を押しつけてくる」という反発、相対化が始まり、また、親に対して「秘密」を持つことで、徐々に「個」、「自己・自我」を確立してゆきます。けれども、時に親に批判的になり、親に隠れて何かをすることがあるにしても、多くの場合、親と子の間には、土台としての「愛情」が流れているように思えます。 また学校などで、新たに「ともだち」という関係が生まれると、そこには親とは別種の「友情」のようなものが生まれます。無論「友情」といい「恋愛」といっても、それは時に脆く、一瞬にもとの「他者」に戻ることもしばしばです。 さて、「親」や「ともだち」というのは、目に見える実態のあるものとして彼の前にあるもので、それに人は、時に愛し、時に反発しながら共に生きてゆきます。 一方で、「国」を愛するという時、その「実態」とは何でしょう? 子は自我が芽生える前に「親」に「愛を求め」「甘え」る。そして自我の確立とともに親との距離が生じるのですが、「国」という概念を子供が自覚するのは、少なくとも自我が芽生える以前のものではないはずです。だとすれば、「国を愛する」こころ、というのは、少なくとも「親」や「ともだち」との関係における「愛情」や「友情」のような「本能的」なものとは異なるようです。 国を愛するイコール「郷土愛」という言い方もありますが、東京に生まれ育った者の、個人的な実感としては、少なくとも、東京のように目まぐるしく街の姿が変わるような場所に生きていると、愛の対象とし得る「場」が無いように思えます。『兎追いしかの山』も『小鮒釣りしかの河』など、どこにも見当たらない。 では、「国を愛するこころ」とはどのように生れるもので、また何を対象としているのでしょうか? 何かこれは親子の愛情や友達や恋人との「友情」「恋愛感情」という「愛する」とは別の、寧ろ 「信仰」に、より近いもののように思えるのです。 みなさんのご意見をお聞かせください。

  • わが《固有の時》とヒラメキ

     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 縁起からでる意味と陰陽5行

    こんばんはー。 ちょっと質問をー。 以下は、アウトラインとしてですが ぼくらは意味の世界に生きています。それはニヒリズムを考えれば確かだと思うのですが。つまり意味を失っては生きていけません。 物質は物質という意味があります、それは明確に「意識」の外部への投影だと思ってます。それらがただの電子雲だ、と思ってはいません。 で、その意味というものは、矛盾から発生している、のではないか、と思いました。 というより、意味=矛盾、そのものだと思います。 (もう少しベタな言い方だと、「え? なんで?」、という意味のわからなさ、意味わからへん! なんでなの? と思わず叫びたくなる、そういう経験が、まさに意味を作り出している、という) 意味は、矛盾から生まれて、そして、意味はその自己矛盾故に、必ず消えていく、と思うんです。 つまり、意味を、正しいものとして、ぼくが勘違いしている間だけ、意味は成立している、と思います。 意味は、業や、巡りやカルマ、などと言われるように、ネガティブなものと、必ずセットで成立しています。それは切っても切り離せない、というか、マイナスがあるからプラスがある、という意味です。 意味は、理解できなさ、矛盾を、把握して理解しようとした、まさにその瞬間発生する、と感じました。 それは、人の脳の把握能力による、「無」の分裂、と個人的に思っています。 意味が起こる仕組みそのものは、陰陽5行説が僕はかなり正しい、と感じました。 つまり何もないものが、陰陽2つに分裂する、ということですが。 具体的に、縁起によって、矛盾した意味が作成されるところの仕組みを、陰陽5行説は説明している、と思います。 つまり、現実問題、基本的概念は常にペアでしか存在できない、という事実と、あらゆる概念はこのたくさんあるペアの組み合わせによってできてる、というのは、たぶん・・だいたいは、正しいような気もしますが・・・ ちなみにこの概念の現実的に組み合わさり方は、数学の考え方である、複雑系の状態を取っている、と思っています。樹形図的なイメージです。 意味は矛盾そのもの、というのは、別に現世否定とかではありません。 純粋に、意味のメカニズムとしてお伺いします。 縁起などの言葉の意味は、言葉、概念としては少し知ってるつもりです。 縁起はこの世を空だといってます。つまり、意味は「意味がない」といってるとも解釈できます。この世の意味は本質的な意味がないからこその、空じゃないでしょうか? つまり意味のできる仕組みを解くことは、縁起を実感すること、と思ってます。 縁起、と言うような上から俯瞰した視線ではなく、 まさにこの世に、今ダイレクトに生きる人間の視点から、分析したいなーと思ってます。そうでないと実生活でこの概念は使えないなーと思うので。 上のように感じながらも、まだ色々実感するには分からないところがあります。 これが分からないんだ、ということができないのがもどかしいんですが。 理屈が日常生活にまで降りてきてくれない! 何か論理に欠けているところがあります。 イメージとしては、概念としての把握じゃなく、感情や衝動や、そういうものが、理由なく生まれるところかな?? 感情は、無が時間的に分裂した現れ。人格は空間的に分裂した現れだ、と今のところ把握してるのですが、どう思われますか? つまり、現世とは、時間と空間に分裂したものであり、その時空間の性質に沿って、感情と人格、という概念が表れてる、と思ってるんですが、今のところは。 いろんな精神病の事例を見ても、それはかなり当てはまっている、と感じるので。 それらは単に「ない」でも、まあいいのですが・・・ 多分それは、意味の矛盾を感じてるのは、ぼくだけではなく、だれでも70億人みんなそうなんだ、と言うところが実感としてないような気もします。 つまり普遍的な、意味の作成の仕組みが極めて抽象的故に、具体的な外的事柄に依存しない、だれにでも当てはまるメカニズムなんだ、というところかなと。 上の話をふまえて、加えることや、あるいは間違っている所など、あったらと思いました。 まとまりなくてごめんなさい、というかまとめられないので質問してるんですが・・ 自分でも色々勘違いしていることは間違いないんですが、客観的な意見が伺いたいです。仏教的のみの切り口に限らず、ちょっと視野を広げたいなーと。 よろしくお願いします。