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時間は無限ではないロジック

哲学には素人ですが、先日、神の謎という本を読んでいて、わからない部分がありました。それは、「この世に無限のものはそ存在しない。従って、時間は、無限ではなく、ある時点から始まった」という説です。このロジックがどうしてもわかりません。精通された方、ご教授をお願い致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.4

アリストテレスは、無限は数学的・理念的には存在するが、現実的には存在しない、と言いました。 そして無限を、分割による無限と加算による無限とに区別しました。 分割による無限とは、線分を半分に分割し、さらにその半分を半分に分割し、と、どこまでも分割を続けることです。 数学的・理念的には無限に分割できるとされていますが、現実的には不可能です。 この無限の分割の問題が、ゼノンの「アキレスと亀のパラドックス」です。 足の速いアキレスでも、足の遅い亀を、永遠に追い越すことは出来ない、という有名なパラドックスで、古代ギリシャの時代から、2500年、数々の数学者・哲学者がそれを解こうとチャレンジしてきましたが、今もって解決していません。 もう一つは、加算による無限ですが、たとえば数列、1、2、3、4、5、6、7、8・・・・・・∞というように、数を無限に連ねてゆくことです。 数学的・理念的には無限に連ねて行くことができるとされていますが、現実的には不可能です。たとえ、高度のコンピューターがあったとしても、無限に数列を続けることはできません。ただ、無際限に到達できるだけです。 したがって、「この世に無限なものは存在しない」。 時間・空間が無限か、それとも有限で始まりがあるか、についてはカントの「純粋理性批判」の弁証論の「純粋理性の二律背反」で論じられており、有限な人間理性では、どちらとも決定できないと、論証されています。 その論理は以下のようなものです・・・・・・ テーゼ・・・・・世界が時間的に有限だとしよう。有限だということは時間には始まりがあるということになる。そして始まりは同時に終わりでもあるから、その始まりの前にも、時間があったはずである。なぜって、始まりだけあって、終わりがないということはあり得ないからである。始まりもあるものは終わりもなければならない。そして世界の始まりに、その時間が始まったとすれば、それも終わりであり、その前に時間がなければならない。そしてその前に時間があったならば、さらにその前にも時間がなければならない。かくて時間は永遠にさかのぼってなければならない。ということは、時間は有限ではない、ということであり、始まりがない、ということである。かくて世界には始まりがあり、時間的に有限だという前提に矛盾する。 アンチ・テーゼ・・・・・世界に始まりがなく、時間にも始まりがないとしよう。ということは、時間は無限の昔から続いていることになる。無限の昔から時間が続いているとしたら、今もその無限の過程にあるはずである。そして無限の過程が続いているとしたら、世界はどこかで、時間的に始まらなかったはずである。ところが、世界は今・目の前に存在する。今・目の前に存在するということは、始まりがあるということである。これは、世界に始まりがなく、時間的に無限であるという前提に矛盾する。 このようにして、カントは世界が時間的に始まりがあり、有限だというテーゼも、世界に始まりがなく、時間的に無限であるというアンチ・テーゼをともに否定し、どちらも成り立たない、という。 これが一応、カントの有名な「二律背反論」の背理法による論理ですが、私としてはちょっと首を傾げるところです。 デタラメとは言いませんが、詭弁ではないか。

tahhzan
質問者

お礼

いやはや、実に難解なロジックですね。門外漢の感想と致しましては、ただ、ひとこと、時間の概念は人知を越えたところにあるのかも…というものです。大いに参考になりました。ありがとうございました。

その他の回答 (6)

回答No.7

無限の「物」は存在しない。 しかし時間は物ではない。 ゆえに「無限の物はないから、時間も有限だ」という言明は不成立。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。時間は物ではない、ということですか。なかなか難解ですが、参考になりました。ありがとうございました。

回答No.6

全然関係ないけれど 喝破とは、沈黙の 対比になっているのね。 獅子吼でもいいかもしれないが。 沈黙はムニとかマウナとか。 さっきの回答を投稿して思ったけど。 論破よりは仏教的な内容だから喝破のほうが それっぽいか。まあ、どうでもいいか。

tahhzan
質問者

お礼

そういう言葉もあったんですね。ありがとうございました。

回答No.5

無始無終とかいうのが仏教にあるらしいので だから無限というのがどこかの禅宗みたいに とやかくいわれます。 ところが 苦集滅道ともいいますので、 この世が苦であるならば 始まりと終わりがあるのです。 そういうロジックです。 ブッダは苦の発生と消滅を説いた。 ですから無限ならば、 世界は苦ではない 娑婆は苦ではないと沈黙の聖者を論破してください。 時間と空間が異なるのであれば、時間を空間で表現しないで下さい。

tahhzan
質問者

お礼

少し難解でしたが、ありがとうございました。

回答No.3

時間の最小単位はプランク時間という単位です。 そのプランク時間を単位としてどの時間帯(=時代)も有限の数字で表現できるので「時間が有限である」ことが分かります。 「時間が有限でない」為には、有限の数字で表現できない時間(=時刻)というモノを示すことが出来なくてはなりません。

tahhzan
質問者

お礼

前半部分は、なるほど、よくわかりました。残念ながら、後半部分は私には難しくて理解できませんでした。ありがとうございました。

  • stmim
  • ベストアンサー率24% (57/236)
回答No.2

「この世に無限のものは存在しない」ということは「この世に存在するものはすべて有限である」ということになり「時間はこの世に存在している」から「時間は有限である」ということになります。時間が有限であるためには時間の始点と終点がないといけません。終点は現在の時点であり、時間の開始時点がどこかにないと有限になりません。もし無限に過去にさかのぼれるなら、それは文字通り時間は無限ということになります。 ロジックは単純だと思いますが、tahhzanさんが納得できないのは「この世に無限のものは存在しない」というテーゼのほうじゃないのでしょうか?もしこのテーゼを受け入れるなら時間は有限であり時間の開始時点がどこかにあるということになるかと思います。 ちなみに宇宙論では今から138億年前に宇宙が無の状態からはじまったとしています。 その前には時間も空間も存在しなかった。だから138億年前から時間がはじまったということになります。

tahhzan
質問者

お礼

ああ、例のビッグバン理論ですね。なるほど。あの時点から始まったんですね。その前は横浜文字通り、無だったわけですね。それで、理解できました。それにしても、この宇宙が他にもあるという説もあり、我々素人には理解するだけで大変な世界ですね。ありがとうございました。

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (840/4403)
回答No.1

アインシュタインによると時空(時間と空間)はビッグバンで作られたということです。 宇宙の始まりが時間と空間の始まりであり、宇宙の終わりが時間と空間の終わりです。

tahhzan
質問者

お礼

なるほど。あのアインシュタインさんの説ですね。ありがとうございました。

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  • 日本人は神について何も知らんと言われたら

     1. 神について何も説明できなくても 信じる動態はあると考えます。したがって わざわざ神について説明せよという問いを受けたときのこたえが出来るかどうかの問題です。  2. たとえば次のように ヘーゲルに問われたとしたら 返す言葉はありましょうか?  ▲ (ヘーゲル:有限と無限) ~~~~~~~~~~~  無限なものと 有限なものとの一体性・・・この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが この矛盾を持ちこたえることができるのが 人格(* もしくは《時間》)の高さである。  (『法の哲学』§35 追加)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. 無限とは わけの分からないものです。つまり神のことですが 経験世界を超えています。しかもヘーゲルはここで 有限なる存在であるわれわれ人間にあっても その生まれつきの自然本性にこの無限がやどる・または埋め込まれていると言おうとしています。  4. なぜこの《有限なる存在における無限との――非思考における―― 一体性)》を我慢できないのかと問うているはずです。     5. なぜあなたはその存在としての《時間》が 高くないのか? と。  6. あとはヘーゲルの読みを勝手に自分の側に持って来ていますので それを説明します。    6-1.  《この矛盾・・・は どんな自然的なものも自分のなかにこれを持ってはいない ないしはこれを 我慢できないであろうが》というとき それは ここでは 神について説明せよと問われたとき〔だけ〕の問題だと見るということです。  6-2. 言いかえると 自然本性としては《矛盾をやどし持っている》。けれどもそのことについて理論立てて説明することは出来ない。  6-3. ただし哲学においてその問いを問われて何にも答えられないのなら それは《神について何も知らん》ということになる。  6-4. それでよいのか? という問いです。  7. なお 《日本人は》ということにさほど意味はありません。これを日本語で問うているというような意味です。