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仏教は、自己中ですか?。
みなさま、初めまして。 今では、仏教も他者を救済するのも仕事(修行?)の一つのようになっているかと思いますが。 釈迦が生きていた時代は、どちらかというよりかは他人よりも、自分を修行して輪廻転生からの解脱を目標しているかのような感じに見えてしまいます。 つまり、自分が輪廻転生からの苦しみさえ解き放たれてしまえば、他人がどうなろうと知ったことは無い?。って感じでしょうか?。 初期仏教では、他人を思いやるよりかは、自分の事のみを考えろみたいな感じに思えて。 そういった意味で、「自己中」って表現をさせて頂きました。 私利滅滅な質問であることをご了承願います。 深い意味はありません、「んーーー」と思ってだけでの質問なので。
- gametan
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- 哲学・倫理・宗教学
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- kurinal
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gametan様、こんばんは。 >「釈迦が生きていた時代は、どちらかというよりかは他人よりも、自分を修行して輪廻転生からの解脱を目標しているかのような感じに見えてしまいます。 つまり、自分が輪廻転生からの苦しみさえ解き放たれてしまえば、他人がどうなろうと知ったことは無い?。って感じでしょうか?。」 まあ、「修行」を見れば、それが「他人のため」とは、見えないかもしれないですね。 >「初期仏教では、他人を思いやるよりかは、自分の事のみを考えろみたいな感じに思えて。 そういった意味で、「自己中」って表現をさせて頂きました。」 ・・・「他人のため」なんて言ってるのが、実は、とか。 「(初期)仏教の教え」というのは、いわゆる宗教ではなくて、もっと現実的なものだと思っています。 例えば、「1+1=2」ということを発見するのに、「自己中」といったことが関係あるでしょうか? それでは「他人を思いやる」というのは、どういうことでしょうか?
- 雪中庵(@psytex)
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宗教は初期、アニミズムとして、理解の外や力の及ば ないものに対する“祈り”として発生した。 世界各地で同時期に、厳密な教義や厳しい戒律を伴う 一神教の世界宗教が(時に為政と結びついて)勃興し たのは、分業化や貨幣制が発達し、それまでの原始 共産制(助け合いとしての社会)から、“お金や出世 といった馬車馬の目の前のニンジン”によって他律的 に操られるようになった結果、その自己チューな意識を 補正する“アメ(お金)”と並ぶ“ムチ(法規やモラル)” も必要になったのだ。 「宗教が自己チュー」なのではなく、「宗教は自己 チューな人間を矯正する」ものなのだ。 「あの世で救われる」からといってお布施を巻き上げ るのは、一つ間違えれば詐欺だ。
- hekiyu
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"自分が輪廻転生からの苦しみさえ解き放たれてしまえば、 他人がどうなろうと知ったことは無い?。って感じでしょうか?。" ↑ 違うでしょう。 自我を捨てれば苦しみから解放される。 だからこれを他の人にも教え、伝えよう てことだから、自己中とは言えないでしょう。 他人に教えるためには、まず自分が悟らねば ならない、というだけだと思います。 自己中なら布教はあり得ないことになります。 金儲けだ、といえばそれまでですが。
- Oubli
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釈迦が悟りを開いた時、だまっていてもいいのにその信念をわざわざ周囲に広めたのではなかったでしょうか。そういう意味では自己中の方ではないと思うのですね。家族を捨てて修行にはいったとかいいますが、結局息子も入団しています。もちろんこういうのは後世のイメージですが、自己中というよりはおもろいおっさんだったのではないかと考えるのです。
- yasuraka03
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宗教て、多種多様で、長い歴史と、世界中のあちこちの人々の間で存在し続けていますよね? とらえられ方も、解釈の仕方も様々です。とても難しいものも多く、一部だけを取ってみると、それはおかしいのではないかと思うことも有りますよね? でも、あなたのように疑問を持つことは決していけないことではないと思います。 ただ私は、他人を傷付けたり、反社会主義的なものは別として、それぞれが、それぞれの地域で、必要とする人が信じるのは自由だと思います。 後、多分あなたが仰っているところは、やはりその時代はある意味で、勉学や知識に乏しい人がほとんどでしたし、食べていくのに不自由する人も多くいたので、その様に教えを解いていくことで、信仰を広めていきやすかったのかも知れません。それに自己が満たされていれば、悪いことをしなくなり、結果的に他人に迷惑をかけたりしなくて、社会全体が向上していくと言う結果にはなりませんか?
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