今の若者に哲学は必要か?

このQ&Aのポイント
  • 最近の若い人は自民党と共産党の違いもわからないと言う
  • 若い人達が政治や宗教に否定的で結論が出ない
  • 若い世代が倫社も学ばない人も多く、現実は良くならないのではと危惧
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今の若者に(現代に)哲学は必要か?

最近の若い人はと ローマ時代から?言われてたそうですが 30代の人に聞いたら 自民党と共産党の違いもわからないと言う 哲学の言葉を使うと「〇〇さんは学生運動の世代なんでしょ?」と これまた見当違いな事を言う人達 若い人達がこれで 将来はどうなるのだろうか? 政治や宗教の話も 否定や批判ばかりで 結論らしきものが出ないし まず話が劣化しています。 これからの若い世代が倫社も学ばない人も多く 哲学もしないとすれば 理想とか夢はみな、お花畑として否定され 現実はちっとも良くならないのではと危惧します それとももう哲学は必要ないのでしょうか? 私も「哲学」という学問は何だか柔軟性がなく 融通が利かない気がします。 この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして 消え去ろうとしているのでしょうか? 哲学が結論を出していかない事が役に立たない理由でしょうけど 方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? 皆さんどう思われますか?

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  • Nakay702
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回答No.5

>今の若者に(現代に)哲学は必要か? ⇒いつも、有意義なご質問をありがとうございます。 A.職業柄、若者に接する機会が多いのですが、その範囲から言うと、彼らの最大公約数的な意識や実態はこんな感じです。 (1)学問全般にあまり関心はないが、特に哲学のような抽象論には興味がない。 (2)哲学は、「理屈をこねくり回して、むずかしいことさらにむずかしくしている」。 (3)取っついてみる気になるものがあるとすれば、それは「HOW TOもの」くらいだ。 B.彼らの親御さんと話すこともあって、「ご子息と会話なさいますか」と尋ねると、次のような訴えが多いです。 (1)「どうだ、しっかり受講して、授業料取り戻しているか」と聞くと、決まって「まあね」という答えが返って来る。 (2)新聞の記事などを示して、「お前はどう思うか」と聞くと、「別にぃ」というような返事の来ることがほとんどだ。 (3)「まあね」はまだしも、この「別にぃ」は腹が立つ。「話しかけるな」の別表現で、「しかと」(=無関心)の態度そのものだから。 C.上のABなどが話題になったとき、よく彼らに「哲学の見直し」を勧めます。 (1)「哲学」の原義は「愛知」、つまり、「いろいろなことに好奇心をもって、知って、考えよう」ということです。Bの(2)(3)は、これで解決できると思いますが、どうですか? (2)「哲学史」は、「昔の人が何を苦悩し、どう考え、どう解決したか。解決できないまでも、どんな解決への道筋をつけようとしたか」、などを知ることです。そういう視点でみれば、Aの(1)(2)が、勘違いであったことに気づくと思いますが、どうですか? (3)もっと大事なことは、「哲学は人間学だ」ということです。「人間的に、トータルにたくましくなるための学問」です。そう考えれば、例えば、経営などの実学を学ぶにも、Aの(3)のように、単なる技術の修得に終始するのでなく、社会における人間的営為の1つとして見ることにもつながるでしょう。「先義後利」や、さらには「至誠通天」といったような経営理念にもつながるかも知れません。 とにかく哲学は、「しかと」してはいけません。「人間は、人間に生まれるのではない。人間になるのだ」と言われます。我々は常に、「人間になる過程中にいる」わけですが、その際、実は、「哲学ほど心強い味方はない」と言っても過言ではないでしょう。

yuniko99
質問者

お礼

聞く所によると、先生たちも今の若者には困ってるようですねえ 授業の際寝る。寝ていいと思っているらしい。 後何回休んでいいんですかと聞く。休めるなら休みたい。やる気がないのが見え見え。 「〇〇さん」と指名して答えを聞くと「いや いいです」と断る。断っていいと思っている。 勉強なんて暗記もの コンビニのマニュアルは覚えたら使えるけど 勉強は試験が終わったら後は使えない。と言う感じ。 学問があればなあ と寅さんが言ってた昭和は遠く過ぎ去った。 勉強は熟 大学は単位 哲学・思想なんて分からない。 スマホにラインにゲームにマンガ スピードがあって面白く楽しい コミュニケーションが全て? 兎に角時間がない。引き籠もりやニートにでもならないと時間がない バイトにカラオケに食事に合コン 習い事に塾に学校に部活 哲学している暇がない。 しかし何が何だか分からない? 知ってるつもりの現代人。 人は二度生まれるという 第二の誕生が、確かな自己を持つ代わりに 知識・情報と幼い自我しか身に付かなかった のでは? 若い人に哲学をしてもらう雨には 学校で時間を取って考えて貰わなければなりません 自分でやる人は少ないと思います。 倫社もやらない高校が多い様です。 根気よく考え 自分が何者であるか 世界が何であるか それを再発見してくれる若者を 待望しますけどねえ。 哲学かももっと開けた内容を外に向けて発信して欲しいものです。 どうも大変ありがとうございます。

その他の回答 (9)

noname#210533
noname#210533
回答No.12

そうは思いません。 何故って、あなたが述べられている意見は、無数の人々の中の、 ある一人の意見でしかないからです。 私はこう思います、なら 誰でも、ああそうですか。で終わりです。 でも、「皆さんどう思われますか?」と訊いた瞬間、それは自分とは 全く違う考えと価値観を述べさせることになります。 単に賛同を募りたいだけなら、それは問いかけですらないからです。 そして、それに対して議論的な返答をしたり、批判的であったり、 きちんと受け止めることが出来ないならば、それは結局、世界の為と 口では言いながら、自分を人々に認めさせたい、自分の考えを皆に 認めてもらいたい、という個人的欲求でしかないのです。 社会の中で、何か一つの問題について、具体的な行動を社会に起こして 貰う為には、社会の中で一定数の合意形成が必要です。 例えば、その合意の核にあなたはあなたの意見が採用されることを 欲している。 でも、あなたがご自分の考えを正しい、だから社会はそれを受け入れるべき、 違うと言うなら議論しよう、私が負けたら従うよ。負けないけどね。 というような思考や意志は、社会の合意ではなく、単なる個人的思考と 個人的欲求でしかないのです。 社会がそれを核にしようと試みる思想なり価値観は、どれだけ多くの人に 賛同てもらえるか、ということを度外視することは出来ません。 そして、その賛同というのは議論による勝敗に因って決められるとは 限らないのです。多くの場合。 あなたが言う哲学は、他人から見ると哲学とは呼べないレベルの物だと 思われることも多い筈です。 難しいばかりで役に立たないのではなくて、個人的見解にこだわり過ぎて 全く異なる人々の「哲学」や「行動原理」に無頓着すぎるのです。 今の時代を救う、とおっしゃいましたが、前回も回答に対して真摯に 向き合ってはくれませんでしたね。 難しい回答をしたためたわけではありません。 あなたの考えを否定はしないが、膨大な人々で構成される社会では、 それは個人的見解でしかない、そのことをきちんと理解しないまま 社会を変革し得る哲学を私は持っている、と考えること自体が、 言葉は悪いですが、幼稚だと思うのです。 社会を変革していくムーブメントの核には、間違いなく哲学が存在する。 ただ、その哲学というのは、あなたが考える平凡な倫理観念や、古典的な 価値観とはかけ離れたものです。 決してあなたの考えを否定するつもりはありませんが、社会の中でどれだけ 価値を認めてもらえるのか、核に置いてもらえるのか、という視点で言うと 人々の思考や心に届く、重大な価値に欠ける。 多くの人からそう思われるから、合意形成の核心には置かれないのです。 人々に重要な価値ある考えだと認めてもらうためには、多くの人々の 志向や価値尺度、それらの元になっている現代社会の科学や文学、近代史、 経済、性、文化・・・膨大な領域について基本的な意味や背景、成り立ち、 仕組みや展望などについて網羅することが必要です。 恐ろしく複雑で変化の激しい現代社会に全方位で向き合い、それを自分の 思考や価値体系、考え方に組み込んでいけなければ、世界の実相を否定して 自分に都合のよい世界観に固執することになってしまいます。 イスラム国の、指導者たちのように、です。 柔軟性に乏しく融通が利かないものは、哲学では無くて、 「哲学はもう要らないのか?」と嘆いている、失礼だが、あなただと 思うのです。 上の言葉には、抜けている主語がある。 哲学、ではなく、「私の哲学」と読み替えてみてください。 それが一つの真実です。 無知が語る全知は、全知ではなく無知。 とても失礼な言い方だとは思いますが、 個人が固執してきた「哲学」とは、自分の人格に深く 根差しているはずです。 それを否定して全く別な見方や考え方の土台を頭に 組み込むことは、とても難しい事です。 リハビリと同様の苦痛が伴うはずだと思います。 ただ自分の思考を繰り返しなぞるだけでは、個人の 趣味に他なりません。 例え数十人、数百人の小さな規模の社会でも、そこで 総意となるような考え方の基準として合意してもらうには、 個人の価値観の中で考えている限界から抜け出なければ ならないのです。 正しいものが選ばれるべきだ。 これにしがみ付いている老人がここにもお一人おられますが、 正しい、ということ自体が絶対的な物ではなく、形成された 社会の合意の上に暫定的に成り立っているものです。 自らが正しい、と言い切った所に、既に誤りが発生する。 自分の考えは必ずしも正しくはない。 そのスタンスを持つことが出来なければ、そもそも他人の 価値観や思考を、素直に受け入れる前提で聴くことは出来ません。 まず自分が正しく価値がある、という前提で、それに反する 他者の意見を見る時、否定的に、上から教え諭すような意識が 生まれたなら、それは欺瞞に過ぎないことを自らに厳しく問うて 自分のただの欲求を社会的正論にすり替えぬように律する必要が あると思うのです。 自分こそが正しいと、本心で思う者は、その思う心に反比例して 正しくなくなるのです。 何の行動も伴わず、社会の実相を捉えることもせずに、今の時代を救う、と 思い込む考えがどれ程人々の心に届きにくいのか、それは何故か、と いうことにも客観的な見方で自分に向き合い、自分の考えとは違う他人の 目線で自分を見つめ直せる余地を多く持たねば、この複雑な現代社会に 哲学を唱えることなど夢にも叶いません。 あなたはあなたなりに真剣に考えておられます。 だから、私も真面目に答えました。 歯に衣着せぬものいい、失礼はお詫びしますが、社会を変えたいなら、 社会に滅私奉公する行動を生涯自らに課すことです。 自分は社会を憂いて、良くしようと考えて、とおっしゃるでしょうか。 それは、違うのです。 あなたは現場に出ることなく、小さな縮尺のラフスケッチで、 巨大な宮殿の設計が出来ると思い込んでしまっているのです。 その夢想を、形にしてくれる優秀な職人達が、あなたと気持ちを 一つにして現場に向き合うことが出来るなら、ラフスケッチでも 宮殿を建てることが可能かもしれません。 ガウディのように。 でも、彼はラフスケッチを具現化するために、沢山の模型を その都度作りながら、否定的な見解の職人たちに対して あの手この手で粘り勝ちし、時に高いフィーで交渉もした。 職人たちに思想で打ち勝つ、のではなくて、職人たちが 理解し、興味を持ち、熱くなり、その気になるようにするには 何が必要かを自らに問い続け、とにかく、動き続けたのです。 相手が納得するまで、です。 現実に、彼は思想を語るのではなく、思想を騙って人心を 動かそうともし、ともかく、散々動いたのだ、と申し上げたいのです。 この幻とも言える電脳空間で無数の匿名の陽炎に向かって いくら言葉で問うたとて、あなたの手足となって動いてくれる 職人が見つからない限りは、それは虚空に消えて行く虚しい 叫びに過ぎないのです。 世界をどうこう、という夢想も結構ですが、実現を図るなら、 小さくてもいいから、現実の社会で行動し、結果を出そうと あがかねばならないとおもいます。 自分の名を残すことはおろか、名乗ることさえせずに、 社会の為に奉仕する姿勢で、滅私奉公する。 その積み重ねが人々の目に映った時に、ほんの束の間、 あなたの「哲学」を少しだけ語る機会が与えられましょう。 人の心に良くも悪くも強い感情を引き起こすことが無い「思想」など、 路傍の石にも等しいのですから。

回答No.11

youniko99さん こんばんは お礼を読むに、yuniko99さんは大学を中退してしまったそうで、学歴コンプレックスが、いまだにあると思われます。 私の世代は、3高(高学歴・高収入・高身長)が女性にもてる必須条件の時代でした。 しかし今の時代は違う。 私が高校生の頃、勉強せずにゲームセンターに入り浸っていた人がいました。 私も、勉強の虫な高校生だったわけではなく、その友人とゲームセンターに行きました。 現在ではゲームセンターもかなり進化しましたが、当事、猛スピードで走る車をハンドルで操作するレーシングマシンのゲームがありました。 私は、1面クリアがやっとでしたが、彼は、最終面までクリア。 進学校でしたが、彼は浪人しても大学に入れませんでした。 彼は大学に進まず、高校で職につきましたが、どんな職業についたと思いますか? 救急車の運転手です。 人を助ける重要な仕事です。 これをゲームセンター哲学と言う。

yuniko99
質問者

お礼

なるほど^^これは面白い落ちでしたねえ 実話でしょうねえ^^ それは凄い。僕も高校を出て直ぐ就職すれば良かった 哲学科でなければ 結局はやめてしまったでしょう どこの大学でも いや哲学科に入ってもやめてしまったでしょう 僕のやりたかった勉強じゃないから 若い人は自分の人生哲学を持ってればそれでいいと思うんです ただ それが実は哲学と言うものと繋がってると言うことが分かればいいのですが 今の若者を取り巻く状況と大学の権威哲学ではほとんど接点はないと思われます。 若者に役に立つ哲学を配信するには我々が直接手渡しする以外にありません ネット哲学なるものを配信しなければなりません そんな実践理性批判とか今時誰が読むでしょうか?ハイデッカー? 便所の戸をドンドン叩いて「入デッカー?」位ならわかるかもしれません そんな今時の若いものが 共産党も自民党も分からない人たちが サルトルを理解するはずがない。 我々が漢詩を嗜まないのと同じです。内容は良くても難しすぎます ぼくの哲学でさえ「マンガにできませんか?」と言われました^^ 今の人に役に立つ哲学を探したいですねえ どうも大変ありがとうございます。

回答No.10

yuniko99さん こんにちは 忙しくて回答するつもりはありませんでしたが、No.5の回答者に対するyuniko99さんのお礼に、youniko99さんは今の学生の認識を勘違いしているのではと思いますので、回答します。 私は、文献を探すために、市民利用ができる大学の図書館を利用することがありますが、確かに図書館で寝ている学生は多い。 しかし、考えてみてください。現在の日本における年収の平均値は右肩下がり、あのダイエーがイオンに吸収されたり、シャープでさえ赤字で存続があやうい。経営を立て直すため、大企業であってもいつ解雇されるかわからない時代です。 そんな中、大学で学ぶ学生の視点で考えてみて欲しい。親は優秀な子供でも、大学で学ばせる充分な養育費がない家庭もあると思います。奨学金をもらって学べば良いと思うかもしれますが、奨学金というのはれっきとした借金です。親からの仕送りでは足りず、バイトをして自力で学費などの、お金を捻出しなければならない学生も多い時代と思われます。 しかし、バイトという社会経験をすることで、哲学(経営哲学)は学べる。 私はバブルの頃ですが、マイセンやウエッジウッドやジノリなどのコーヒーカップで出す、高級コーヒーショップでバイトしたことがあります。 味が本当にわかる、お客さんかわかりませんが、1杯、1000円のプルーマウンテンが飛ぶように売れ、1日あたり25万円の収益がある店でした。 まだ、ガキであった私はそこの筋が寝入りの職人的店長に、例えば「洗い物をしている時、下をを向かず、お客様の顔を良く見ながら洗え!」とか、昼は元気な声でお客様にいらしゃいますでいいですが、夜、同じように言うと「バカヤロー、ラーメン屋じゃないんだ。夜はお客様は仕事で疲れていらしゃるのだから、顔を良く見て言え!」と注意されました。 そんな店長にコーヒー哲学を学びました。 最近は行く暇がありませんが、ドリップやサイフォンで抽出する、お店で飲むと、たてる人により味が違う気がします。 男性がたてると力強い味ですが、女性は優しい味になる。また、最初の一口飲んだ時にうまいと思うコーヒーをたてる人がいるかと思えば、最初の一杯はまずく下手なのではと思っても、冷めた最後の一杯のコーヒーがうまいというコーヒーをたてる人もいます。 コーヒー哲学は奥深いです。 ところで、私は苦みばしったコーヒーが好きなので、炭火焼コーヒーを飲み、決してブルーマウンテンは飲みません。苦みばしったコーヒーは焙煎で豆をフレンチトーストとかイタリアントーストという深煎りするもので、ブルーマウンテンなどの高級豆は酸味や甘みも楽しむためにそのような焙煎はしません。 現在、日本でこのようなお店で炭火焼コーヒーを飲むと450円、最近コーヒーマシンが導入されたコンビニでは、100円ですが、どのように価格が決まるか知ってますか? 以前、渋谷の単観映画館でコーヒーについてのドキュメンタリー映画を見ましたが、コーヒー豆は赤道付近の熱帯地方で採れるため、大規模農場で黒人が労働して栽培している。そして船で輸入され、商社などが日本に豆をおろし売る。そしてコーヒー屋の職人腕で付加価値をつける。 では実際、大規模農場で栽培している黒人が1杯のコーヒーを日本人が飲むためにどのくらいの収入をもらっているかと言えば数%で、輸送費や商社の儲けなどに多くのお金が占められている。 ようするに、1杯のコーヒーを飲むために、日本人はアフリカやブラジルなどの黒人を奴隷のようにして飲んでいる。 これが世界の貧富の格差ですが、現在のグローバル化の社会において、アフリカなどの発展途上国も投資で豊かになってきています。 そのうちに現在の値段で日本ではコーヒーは飲めなくなるかもしれませんし、逆に豊かになった発展途上国に日本人が奴隷のように働かされるかもしれませんよ。 自分を高めなければ危険だ。長文の回答を書いている暇は無い。 思考のためコーヒーによる眠気覚ましは欠かせません。 ヴォルテールは一日に72杯コーヒーを飲んだそうです。 では、たまに顔を出します。

yuniko99
質問者

お礼

私もコーヒーは好きでしたが 今は腹痛の為コーヒーは全く飲めません。 レストランや喫茶店でコーヒーを飲むことも この人生で10回もなかったかも そんな贅沢はしません。 まあ学生がバイトして眠いというのはわかります しかしその講義がもったいない。 講義は寝てて卒業は出来るわけ?学歴のためにやってるんでしょうか? 私は学歴もないし 底辺で働いていましたが バイトで学ぶことって どこでもそうは変わらないのでは? 大学で学ぶことは様々だから貴重ですが 企業や社会で学ぶことは 力関係と利益の人間関係、働く仲間意識 社会常識 仕事に耐えること 根性、胆力とかではないでしょうか? そんな事は大学に行けなかった人も学んでいます。 学生運動を起こさない為に 政治がとった無思想教育。考えさせない教育 そのつけが考えない生徒を生んでいるのじゃないでしょうか? エリートと底辺の底辺ではどう違うか知っていますか? どうもありがとうございます。

  • hekiyu
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回答No.9

"最近の若い人はと ローマ時代から?言われてたそうですが"    ↑ エジプトじゃないですか。 ”30代の人に聞いたら 自民党と共産党の違いもわからないと言う”      ↑ 日本と米国が戦争したのを知らない人もいますし、 総理大臣の名前を言えないひとも沢山います。 ”若い人達がこれで 将来はどうなるのだろうか?”      ↑ ワタシの感覚では、劣化ではなく、分極化して いるように思えます。 優秀なのと、優秀でないのとの落差が激しいです。 ”哲学もしないとすれば 理想とか夢はみな、お花畑として否定され  現実はちっとも良くならないのではと危惧します”      ↑ それではお聞きしますが、理想が世を良くしたことが あったでしょうか。 社会主義、共産主義の理想の元、一体何億人が犠牲に なったのでしょうか。 ”それとももう哲学は必要ないのでしょうか?”      ↑ 真実発見としての哲学は必要ありません。 真実発見なら、科学の方がはるかに優れているからです。 ”この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして 消え去ろうとしているのでしょうか?”     ↑ ハイ、消えつつあります。 ”方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか?”      ↑ それでは、社会主義、共産主義の愚を繰り返すことになります。

yuniko99
質問者

お礼

理想といえば共産主義、社会主義と言うのはどうでしょうねえ 今までも理想を掲げて実現して来たからこそ 人権や労働基準法やオリンピックがあるのです >真実発見なら、科学の方がはるかに優れているからです。 科学と哲学では扱う分野が違います。お分かりでないのでしょうか? 科学が物質、エネルギーを主に客観的に扱うに対して 哲学は人生観、世界観を 主観的にも客観的にも扱います。 そうそう科学万能ではないのです。哲学の怠慢です。 どうもありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.8

yuniko99様、こんばんは。 >「この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして 消え去ろうとしているのでしょうか? 哲学が結論を出していかない事が役に立たない理由でしょうけど 方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? 皆さんどう思われますか?」 「現状を正しく認識する」に、哲学は、必要では? >「今の時代を救う結論」 これはちょっと、アブない表現かもしれないと、思います。 (♪ぼうやの、じんけんは、どこへ、いった)

yuniko99
質問者

お礼

正しく現状を認識する事は難しいですが 確かに大切なことです。 一つの現実に対して議論になるとみんな違う事を言い 批判し合う事になりますね。 今の時代を救う結論 は危ないですかねえ? 無理やり結論を出せとは言いませんが 一つの結論を出すのに何千年かかってるんだ? と言う焦りもあります。 分からないから面白いとも言いますが 分からないために死を選ぶ人も多い 何か言ってやれよと思ってしまいます。 どうも大変ありがとうございます。

noname#211437
noname#211437
回答No.6

>今の若者に(現代に)哲学は必要か? 哲学:人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、    理性によって求めようとする学問。    また、経験からつくりあげた人生観。 抜粋ですが、最後の「経験からつくりあげた人生観」ということに 焦点を当てて考えれば、時として必要であり、時として必要ではない事も あり得るというのが私の見解です。 >若い人達がこれで 将来はどうなるのだろうか? その若い人達の将来は、若い人達自身が一定範囲の枠内で 考えれば良いだけの話だと思います。 若い人達自身で一定範囲内で自分達の責任を持つようにすれば 良いだけの話だと思います。 >それとももう哲学は必要ないのでしょうか? 時には必要であり、時には必要ではない事もあると先に述べましたが、 古代ローマ時代から栄えた学問であり続ける限り、 永久に途絶えることのない学問でもあると私は思います。 >私も「哲学」という学問は何だか柔軟性がなく 融通が利かない気がします。 >この難しいばかりで役に立たない哲学は、もう要らないものとして >消え去ろうとしているのでしょうか? 間違っても、消え去ることはないでしょう。 現に記録や資料として数千年も昔から残っているのですから。 >哲学が結論を出していかない事が役に立たない理由でしょうけど >方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? 結論にも何通りもあります。 どの結論が正しくて、どの結論が間違っているのかは 哲学という学問では絶対的な答えはないと思います。

yuniko99
質問者

お礼

なんだか掴みどころのない回答ですねえ。 方便じゃない方が良いです。哲学が一つの答えを出した方が良いです。 がそれは今の時点では無理。ならばたとえ方便でも 今必要な思想を供給して欲しい。 無理でしょうね 多分。 どうもありがとうございます。

回答No.4

>それとももう哲学は必要ないのでしょうか? はい。必要ありません。 >消え去ろうとしているのでしょうか? はい。むしろ学校教育から消し去ることが必要と思います。 >方便でもいいから今の時代を救う結論を出していくべきなのではないでしょうか? いいえ。方便は駄目です。 >皆さんどう思われますか? 哲学をする自由は認めましょう。 自費で哲学教育を購入する事も認めます。 しかし、税金で補助をする学校においては、哲学の講義や授業は廃止し、其の時間を数学や物理学に振り分けるのが学生の為、日本の為、人類の為になります。

yuniko99
質問者

お礼

え~~~~本当ですか これ以上数学やるんですか? そんな必要あるんですか?? どうもありがとうございます。

noname#208350
noname#208350
回答No.3

「方便でもいいから今の時代を救う結論」←結論は 昔っから出ていますよ・・ それ(救い)が出来ない事も・・・ そして 現在 救いの道も開かれました・・ あなたが それを知らないだけです・・

yuniko99
質問者

お礼

ほ~~~~~~それはどういう道が開かれたのか是非伺いたいものです。 まさか宗教じゃないでしょうねえ 宗教はこの世にゴマンと在って結局は壁になってる様に見えますが  道というと?どの様な?道が? ありがとうござます。

回答No.1

哲学である必要はないが、状況に流されて生きるのは危険だ。 貧富の格差、少子化、軍国化‥‥社会の行方を「個人の幸福感 の増進」から「組織としての生産力の増進」へと歪める、 “他律化への流れ”が大きくなっている。 (ヒト型進化(認識力の発達による自律的分業)からアリ型進化 (遺伝や社会制度といった他律的分業)への転換)

yuniko99
質問者

お礼

自律的、ヒト型進化から他律的、アリ型進化へ変わるのはどうでしょう? あまり望ましくない様に思いますが 若者達ももっと自律的になって欲しいものですねえ。 アリ型の戦争がまた起きそうで 嫌な感じですねえ。 どうもありがとうございます。

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    はありますでしょうか? 友人から「存在する(生きる)意味」について聞かれました。 私はこの事(哲学)については専門外なので、「分からない」とだけ答えましたが、自分も似たような事を経験した事があります。 その時、私の取った行動は「考えないようにする事」でしたが、この問いに対して何か明確な答えのようなものはありますでしょうか? 稚拙ですがウィキや教えてを使って調べたのですが、個人的には「人それぞれ」というのが私の結論で、あまり役に立ちそうもありません。 ニーチェの永劫回帰や超人についてもあたってみたのですが、どうも欲してる内容とは違うような気がします。 こちらにいらっしゃる皆様は、哲学に対して経験豊富かと存じます。 よろしければ、皆様の御知恵を拝見できますでしょうか?

  • 哲学と科学の違いは何でしょうか

     日本語を勉強中の中国人です。哲学と科学の違いは何でしょうか。個人的には、前者は人それぞれの考え方についての学問で、後者は客観的な事実に基づいて出した結論の学問だと思います。皆様はどう思われますか。  もし教えてGOOである質問があるとします。どんな時に、この質問を哲学のカテゴリに投稿するでしょうか。どんな時に、、この質問を科学のカテゴリに投稿するのでしょうか。  また、質問文に不自然な表現がございましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

  • 哲学と死の恐怖の克服について

    私は小さなころから死が怖いです。 死について考えると、世界が何の根拠もないものに思えて、 日常生活というのは全て無意味な勘違いで、私にわかることなんて世界にひとつもなく 私に与えられる意味や価値なんてなにもなく、ただいつか消えてしまうのだと思うと恐ろしくてなりません。 そのような思いがあり、哲学は何かその恐怖を克服するヒントになるのではないかと考えて 大学では哲学をしようかと思ったのですが、一回生次の授業で教授が何をいってるのか全くわからず (ギリシャの人達は魂をどうの、というような話をしていたとおぼろげに覚えています) 諦めてしまいました。 しかし、このまま生きていって「社会人としての充実した生活」のようなものを送っても その先に死の恐怖の克服がある気が全くせず、やはり自分は何かをしなければならないとおもい、 再び哲学に関心をもっています。 そこで質問なのですが、 (1)哲学と死の恐怖はどのような関係にあるのでしょうか。 大学での授業はギリシャからはじまったのですが、ギリシャ人の思考は私が死の恐怖を克服するために役にたつのでしょうか。どのように役にたつのでしょうか。 もしそれが死の恐怖の克服に役に立つのであれば、今度はちゃんと取り組んでみたいと思います。 はじめから死の恐怖を克服するという目的をもって取り組むことは真実を探求する学問とは相いれないような気もして それなら潔く哲学ではなく宗教に取り組んだ方がいい気もしています。 (2)死の恐怖を克服した哲学者はいますか 若い時は死の恐怖で発狂しそうになったけれども晩年は安らかに死んだ そういう哲学者としてはどんな人がいますか。 (3)今死の恐怖と取り組んでいる人としてはどんな人がいますか 中島義道という人や森岡正博という人の本にははっきりと、自分は死が怖くてその克服のために哲学をしていると書いてあったように思います 他に、そういうことを言っている哲学者はいますか。 (4)最後に、こういう私にお勧めの書籍などあれば教えていただければと思います。 よろしくお願いいたします。

  • 現代を語る上で重要な概念装置

     理解するって言った方がいいかも知れません。  ちょっと調べてみると、概念装置っていう言葉自体はWikiにも載ってないんですね。  道具や機械を使うのと同じように、何かを理解するために何らかの概念を方便として使うってことです。物理でしたら「電磁波」とか「重力」とか「ダークマター」とか、何らかの“概念”を仲立ちとすることによって理解しようとするわけです。社会学や哲学、心理学の分野でも同じで、例えば「無意識」という概念が無かった時代の人の理解の仕方は今とはずいぶん違っていたでしょう。ヒステリーの人を『悪魔に取りつかれた』みたいな理解の仕方をしたのでしょうね。  ほかに重要だと思う最も大きな概念装置って何だろうと考えた次第です。「アスペルガー」っていうのも最近の概念装置だと思うのです。他になにかありますか?。

  • コチコチに硬い、自分で考えない哲学者について。

    人にはわきまえてほしいものだ。 役職や使命であればバカ丸出しは否定されない。 実在する妖精、 セレビィだ。 さてね、かねがね知性を装った言語による動物反射というのを目にしている。 ため込んだ知識に照らして電卓みたいな文法解釈で動物反射する先生方だ。 彼らが思考する内容は、しかめっ面せざる得ないほど言語以外の思考をする私には丸見えだ。 一言で言って、思考内容は自己プラミングで、その自己プラミングで自律動作する生体ロボット。 これは我執と言って釈迦が笑いものにしたそのままだ。 自分で自分を束縛する暗示をかけ続けるんだ。 しゃかいわく「あーらかわいそーねー」 このタイプは人間としての知性を全うしていない。 AIで再現可能だからやがて職を失う。 丸見えのその醜態で特に醜いのは、女の裸妄想で奮起してその間に趣味で哲学している点だ。 セレビィは女の子だから、「男ってキライ」 私なりにケラケラとあーらかわいそーねーを述べよう。 文字が専門家の間であろうと流布する前にも神話時代の文明の勃興は証明されている。 なに文字以前の歴史以外の伝承のことだ。 釈迦自身も口伝で伝承された。 これね、頭コチコチがもてはやされた職種としての黄金時代だった。 考えてくれ、唇から流れる言葉だけが伝承であった時代、私心を挟んで独自の解釈で伝承をゆがめることは、職務に対して不誠実なことだ。 丸暗記棒読みはこの時代極めて社会的に重要だった。 さて文字を使いこなせる時代がその後到来した。 闇の仏陀の私として、経文で固定された釈迦の伝承は気の毒極まりない。 西洋の場合はな、大体こうだろう。 聖書はそもそも文字で故事を再生すること自体が魔法じみた神秘だった。 口伝が頭こちこちがもてはやされたことと同じく、明白で揺るぎようのない、文字という記録で絶対というのを思いついたんじゃないかな。 当初の絶対の着想は、現代では記録性という言葉だ。 案外解明するとつまらないものだ。 仏教が日本に文字を伝えたのと全く同じだったということで、文字を学ぶ教科書は神秘的で神の言葉のごとしであることがもてはやされたということだろう。 その聖書は確かに西洋の知性の原点だ。 ここで結論が出る、神を伝えることは人が他者と知性を共有する、教えと学びという伝承の原点だ。 学問は神学から派生して細分化されていったのだろう。 だからね、人が知性を獲得してサルから進化したいきさつには神の発見が欠かせない。 頭コチコチは古いタイプの継承を意図する学者さんだ。 現在では研究を積み重ねるタイプの方が活躍しやすいから、哲学において特に、自身の考えのない奴は哲学者じゃないということになっている。 まあ役割は人それぞれだから、古いタイプも活躍の場が少なくても迷惑はかけないじゃないか。 さてここは哲学カテゴリー クラブ ヴァルハラだ。 哲学者の皆さんから自身の心情に関して何か吐き出してもらいたい。 アニキなツンデレにオカマとしてV字開脚したくなるくらいありがたいブチカマシをくれてやろう。 今回は大サービスだ。