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哲学科について

urigadai2013の回答

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回答No.3

ヘーゲルは哲学は「転倒した世界である」と言いました。 つまり哲学者は私たちとそんなに違わない、普通の人ですが、その見ている世界が、同じ世界でも、「転倒した世界」なのです。 何が「転倒した世界」なのか、具体的な説明は難しいのですが、私の体験からすると、18歳の時、電車の中でショーペンハウワーの「意志と表象としての世界」を読んでいて、その第2巻の冒頭の文章を読んで、電車の乗り換えのために、ホームに降り立った時、突然、光が煌めいてバーッと明るく閃光が走り、それまで見えていた世界がまったく別の世界に見えてきました。 宗教的な「啓示」とか「回心」の体験によく似ていました。 もちろん、だからと言って、世界が何一つ変わったわけではありませんでしたが、底が抜けた、というか、世界は何の根拠もなしに虚空に浮かんでいるように見えてきました。 ちなみに、ショーペンハウワーの該当箇所の文章を下にあげておきましょう。 「無限の空間に無数の光る球があり、そのひとつひとつの周りをおよそ1ダースほどの照らし出された小さい球がグルグル回っているが、その内部は熱く、堅くて冷たい皮におおわれており、その皮の上で、これを覆っているカビが認識する生命体を生み出した。・・・・・これが経験的真理、実在であり、世界である。けれどもこの生命体は無限の空間で思いのまま漂うあの球の上に存在して、どこから来て、どこへ行くかを知らず、休む間もなく迅速に生成消滅を繰り返えしつつ、初めも終わりもない時間のなかで、押し合いへし合い苦しむ、数えきれない似たような存在のひとつに過ぎない」 どうですか、実に壮大なヴィジョンです。 自分が地球の上のカビに等しい存在であり、押し合いへし合いしているけど、どこから来たか、どこへ行くかも知らず、生成消滅を繰り返して、気がついた時はもう自分は存在していない。 私は思いました、いったい、この自分というのは何なんだ? そして、世界というのは何なんだ? 私たちは日常生活をしていると、世界が存在することは、そして自分が存在することは、当たり前のように思えますが、実際は何も見ていない、ということが分かります。 私にとって、その駅のホームで体験したことは、ヘーゲルの言うように「世界がひっくり返った」ことを意味しました。 そして、私は思いました。 「なぜ、この世界は存在するのか? 存在しなくても良かったはずなのに、存在している、これはなぜだ? そしてもう一つ、この世界を覗き込んでいる私という存在がある。この私というのは何なんだ? 私というのは誰なんだ?」という疑問でした。 どうして世界は無でなくて、存在なのでしょうか? 以来、半世紀、私はずっとそのことを考えてきました。 だけど、今もって、そのことが分かりません。 アリストテレスは「哲学とは、世界を目の前にする驚きである」と言いました。 何事であれ、何ものかが存在することは驚異です。 世界は、そして宇宙はなぜ存在するのでしょうか? 無でもよかったはずですが、どういう訳か存在しています。 こんな不思議なことが、世の中にあるのでしょうか? たぶん、あなたでも、世界が、宇宙が存在するのを見ているはずです。 でも、根本的な疑問、なぜ存在するのか? という疑問には襲われなかったのだと思います。 なんと言っても、日常生活がある、学校の授業があり、友人との語らいがあり、両親・兄弟との楽しい団らんがあります。 社会に出れば、職業を持ち、日々の課題をこなさねばなりません。 そうして哲学の初心、世界が存在していることへの驚異の念は失われて行き、日常生活に埋没してゆきます。 世界が存在していることは自明であり、当然のことです。 それが存在しないなんてことがあるでしょうか? 私はショーペンハウワーの壮大なヴィジョンに触れて、普通の日常生活が送れなくなりました。 そんな些末なことなんかどうでもいいものに思われてきました。 なぜ、世界が存在しているのか、ということを考えることに比べたら、自分の職業だとか、結婚して家庭を築くことなんか、些末などうでもいいことです。 かつてニイチェは言いました。 「どう生きるかよりも、なぜを考える方が一倍も大切なことだ」と。 つまり「いかに」よりも、「なぜ」の方が大事なのだ、と。 ショーペンハウワーは若い時、母親の主催するサロンで、ドイツの有名な文学者の質問「どうしてあなたは哲学をやろうと思ったんですか?」と問われ、「人生は不可解です。私はそれを解明することに一生を捧げるつもりです」と答え、感心されたと言います。 世の中には、世界の謎に取りつかれ、それで一生を棒に振る人間もいるのです。 たぶん、あなたから見ると、そういう人間は変わっていると思うんでしょうね? 私自身は別に変っているわけでも、そのつもりもありませんが、世間の尺度から見たら、変わっている部類に分類されるかもしれません。 ただ、私は自分が18歳の時に「啓示」を受けて、「回心」の体験をして、その謎を解くために一生懸命に生きてきただけなのですが。 批評家の故・秋山駿は「ある種の人間は18歳の時に精神的な革命に遭遇することがある」と言いました。 まさしく、私は彼のいうとおり、精神的な革命に遭遇して、人生が大きく転換するのを体験した人間でした。

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