マの理論と芸術の関係

このQ&Aのポイント
  • マの理論は、マチガイの起きる理由とうまいマの取り方を考える思索であり、マを取ることで心身が健康になる。
  • マをうまく取るためには、魂振りと魂鎮めの行為が必要であり、芸術がその魂鎮めのキッカケとなる。
  • 芸術は美によって世界を変える力を持ち、具体的な癒しのあり方や美学について哲学的に考察することができる。
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マ(間合い)の理論⇒マを取る⇒芸術といういとなみ

 マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。  そして マをうまく取ると ひとは我れに還る。我れに還った状態というのは たましひがやすらかで 身と心とがすこやかであることだ。  では マをうまく取るというのは どういうおこないか?  一般に 《たましづめ(魂鎮め)》だと考えられる。しかもこれには 魂振りと狭義の魂鎮めとがあるはずだ。  静かなたましひを保つために 人は互いにまづ先に魂振り・すなわちツッコミをおこなう。ここからマの取り戻しが始まる。  ちなみに このツッコミをいくらおこなっても相手が反応してくれないときには こちらは手に負えなくなる。交通渋滞が起きる。現代人の悩みは これである。  この交通渋滞としてのマのチガイや抜けを 元に戻す魂鎮めなる行為は 一般に芸術がになうのである。  芸術とは たとえてみれば尺八や法螺貝のひと吹きによって 世界が その今の舞台としてどんでん返しに遭ったごとく 変わるそのきっかけのことである。    この仮説にもとづき 芸術のになう《癒し》の具体的なあり方を哲学してください。  また この仮説じたいについてのご批判をも寄せてください。  芸術の担う癒しないし魂鎮めのキッカケは 一般に美である。この美については それが人それぞれの美学のもとにあることを 次の質問で尋ねました。   【Q:真善美のみなもとは 同じひとつであるか?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8918609.html  そして 音楽の美については 次の質問で問い求めています。   【Q:音楽って何のためにあるの?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8902931.html  芸術の全体をまとめて述べてくださってもよいですし 個別に音楽や絵画等の具体的なコトゴトについて明らかにして行く作業も 歓迎します。  要するに あなたの美学をご披露ください。  ○ よろしかったら 次の マの理論を参考にしてください。    (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してくださっても 歓迎です。感想だけでも よろしいです。

質問者が選んだベストアンサー

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noname#205880
noname#205880
回答No.3

こんにちは。春休みで実家に帰ってるから自由時間が多いのね。 理解できる範囲で a-1 までの文章を固定して進めます。 <引用> おのれとのマ――すなわち お のれという言葉をとおして意識するその《わ たしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれ とのマ》を保っているなら 互いに相手の自 由を侵さないであろう。 そして、わたしが思うに、まが取れている状態は穏やかであり、美しく完結している、自分の中で自分の均等が取れ、そして同時に外にたいして自分が開かれ外と内との区分がなくなる・そういった感覚になる(かもしれない私の個人的な想像)。〈《自分の中で》自分の均等が取れ〉というのが正しければ、それは自分の中の世界ということだけど、でもそれでは〈自分の外の・いまこのいる世界・あるいは神が造ったと される 世界〉にくらべればとてもちっちゃい。 だから、自分の均等〈貴方の言う、マと同じであれば〉を一時的に壊してでも自分を壊してでも、自分の外にある価値観を自分のものにしなければならない・したいと思う。そとからひとつの価値観を得るということは、両極端の価値観を知る前段階として(両極端を知ることで均等が得られるとするならばだけど)必要なんじゃないかなと思ったよ。物理的に暴力的に相手のマをとる方法としては、相手の陥っているモノに対して真逆のモノにわたしが為り、意図的に自分をふらせる、ね、でしょっていう。スパルタ教育してるんだから余計なことしないでよって言われる可能性もあるけど、困ってたらそうしたらいいし、みんなが暇そうしてたら敢えて振るのもよいよね、多分ね。もちろん、自分の中に、経験として蓄積させてつよくさせなきゃいけないから考えることも大切だとおもいます。自分の世界が広ければひろいほど、意図的に自分をふらせたときのタメージは少ないし、いずれはどれだけ振っても余裕になる。はず。それら全てが芸術の本当の営みかなと質問をみて、考えて、思いました。交通渋滞はほどいた方がいいかもね。

bragelonne
質問者

お礼

 2580あああさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ そして、わたしが思うに、まが取れている状態は穏やかであり、美しく完結している、自分の中で自分の均等が取れ、そして同時に外にたいして自分が開かれ外と内との区分がなくなる・そういった感覚になる(かもしれない私の個人的な想像)。  ☆ これは 理想の状態でしょうか。あり得ますよね。と同時に 世の中のことで 友だちとの時間を思えばその穏やかな心の状態が深められもすれば 何かといわゆるシガラミのようなものごとを思えば ちょっと憂鬱になるかも知れない。と言ってよいでしょうか。  ★ 〈《自分の中で》自分の均等が取れ〉というのが正しければ、それは自分の中の世界ということだけど、でもそれでは〈自分の外の・いまこのいる世界・あるいは神が造ったと される 世界〉にくらべればとてもちっちゃい。  ☆ なるほど。ミクロコスモスということでしょうか。  でもこのちっちゃい小宇宙における均衡が安定するなら となりの小宇宙なる人とその平穏な時間を分かち合えるかも知れない。  ★ [・・・]自分の外にある価値観を自分のものにしなければならない・したいと思う。そとからひとつの価値観を得るということは、両極端の価値観を知る前段階として(両極端を知ることで均等が得られるとするならばだけど)必要なんじゃないかなと思ったよ。  ☆ となるのでしょうね。いろんなあたらしい思想や価値観が現われて来ますからね。  ★ 物理的に暴力的に相手のマをとる方法としては、相手の陥っているモノに対して真逆のモノにわたしが為り、意図的に自分をふらせる、ね、でしょっていう。  ☆ 実際の具体的な振る舞いとしてむつかしいものがあるかと思いますが 反対の極を持ち出して 相手との均等・均衡を取れればそれに越したことはないでしょうね。  ★ もちろん、自分の中に、経験として蓄積させてつよくさせなきゃいけないから考えることも大切だとおもいます。  ☆ 同時並行的でしょうか。  ★ 自分の世界が広ければひろいほど、意図的に自分をふらせたときのタメージは少ないし、いずれはどれだけ振っても余裕になる。はず。それら全てが芸術の本当の営みかなと質問をみて、考えて、思いました。  ☆ これは たのもしいですね。そしてつまり 生活の中の振る舞いの一つひとつが あたかも《芸術行為》となるといったかたち。・・・  ★ 交通渋滞はほどいた方がいいかもね。  ☆ ほんとですね。話しかけても答えない場合が 多いんですよ。このところ。  

bragelonne
質問者

補足

 質問者にとって初めての方の投稿に敬意を表して BAを決めました。

その他の回答 (2)

回答No.2

bragelonneさん こんにちは。 今回は音楽ではなく美術的見地からメスを入れて回答しようと思います。 昨日から、国立新美術館において、ルーブル美術館展が始まって、フェルメールは男性を描いた作品の2点だけだそうですが、その1点である、「天文学者」が来日したようで、時間を見つけて行ってこようと思ってます。もう1点の「地理学者」は渋谷bunkamuraにおいて2011年の展覧会で観ました。 さて、私は美術館めぐりをして、日本画、洋画を問わずいろいろ観て来ましたが、今回の「間」という質問に対し、絵画の「余白」という視点から述べます。 特に日本画は余白が、命と言われるくらい、絵画を観ていると、作者の感性かあるいは技量をつけた上の計算か分かりませんが、実に、余白をうまく生かし、水墨画や色彩画を描いていると思います。 もし、幹の枝が数ミリずれたら、絵画の美が失われてしまうのではと思うことがあります。私は絵はがきコレクターとして、展覧会において、感動した絵を絵葉書にして保存しますが、日本画の掛け軸を絵葉書にすると余白を切ってしまいますから、まったく絵の良さが消えてしまいます。もっとも、掛け軸を全部、絵葉書に収めると小さすぎて、何を描いているか分かりませんから、しかたありません。 しかし、洋画はギリシャ神話やキリスト教の絵画にしろ、余白に人物を詰め、こてこてに描くように思います。ルーベンスなど観ると、たしかにダイナミックな動は分かりますが、人がうじゃうじゃという印象を私は持ちます。 ここで、上述したフェルメールに戻りますが、2007年に国立新美術館に来た、教科書にも良く出ている名画「牛乳を注ぐ女」を添付しますからご覧ください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%9B%E4%B9%B3%E3%82%92%E6%B3%A8%E3%81%90%E5%A5%B3 この絵画は後ろの白壁を余白としてうまく残していると思います。近年X線解析により、フェルメールは壁に暖炉を描こうとしていたらしいですが、白い壁に塗りつぶしたそうです。 この作品を観にいった時、絵画の周りに丸く柵が設けられており、まじかで観て観察することは出来ませんでしたが、壁には釘が打ち付けられてそうです。 しかし、この白の背景である余白が、フェルメール絵画の真骨頂である、ラピスラズリという宝石から作るウルトラマリンという青色を引き立たせていると私は思います。 さて、日本画に目を向けると、岡倉天心の四天王の一人であった下村観山に焦点をあてます。下村観山は、幼い頃、よく能を観たそうで、自己の絵画における独創性に行き着いたところは、絵画と能の融合だったそうです。 これは、東京国立博物館所蔵の重要文化財「弱法師」や横浜美術館所蔵の「小倉山」に良く現れてます。「弱法師」は右隻は謡曲「弱法師」の盲目の主人公が桜の木の下で夕日に拝むという屏風ですが、左隻は金屏風に沈む夕日だけであり、余白だらけです。「小倉山」も右隻は紅葉の下で歌を詠む藤原定家ですが、左隻は松木に、よく観るとかわいらしいリスがいるだけで、余白だらけです。ですから下村観山を観る場合、右隻左隻の両方がそろわないと、観る価値はなく、絵葉書コレクターの私は夕日だけの左隻の絵葉書も欲しいところですが、売れないので作っておらず、横浜美術館は両方とも作っていますが、やはり左隻は売れないようで、絵葉書が旧バージョンです。 総括して何を言わんとするかというと、下村観山は能の世界の彼岸と此岸を絵に表そうとして、右隻は此岸ですが、左隻は彼岸か両者を繋ぐ場所であり、余白だらけです。もしかしたら左隻のさらに左の絵のない部分に真実を下村観山は絵にこめたのかもしれない。そして、フェルメールの場合も含めてこの余白があるからこそ、「有」と「無」という哲学的な絵画の美が産まれるのではないかと私は考察しています。

bragelonne
質問者

お礼

 やあ こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ フェルメール:「天文学者」&「地理学者」  ☆ この二点に限らず このような窓と机と人といった構図(モチーフ?)は 似ていますね。(多いですね)。  ★ 今回の「間」という質問に対し、絵画の「余白」という視点から述べます。  ☆ はい。  ★ 特に日本画は余白が、命と言われるくらい  ☆ これも はい。ですね。    ★ しかし、洋画はギリシャ神話やキリスト教の絵画にしろ、余白に人物を詰め、こてこてに描くように思います。  ☆ ええ そうですよね。  ★ 「牛乳を注ぐ女」:この絵画は後ろの白壁を余白としてうまく残していると思います。近年X線解析により、フェルメールは壁に暖炉を描こうとしていたらしいですが、白い壁に塗りつぶしたそうです。  ☆ これは 《余白》なのかどうか? どうでしょう?  ★ しかし、この白の背景である余白が、フェルメール絵画の真骨頂である、ラピスラズリという宝石から作るウルトラマリンという青色を引き立たせていると私は思います。  ☆ ううーん。この青は ほかのどんな色に対しても際立つのではないでしょうか? と答え返してみる。  ★ 下村観山: 絵画と能の融合::「弱法師」&「小倉山」  ☆ 小倉山は いいですね。と思います。これらの場合は じっさいには金色ですが 余白でしょうね。描いた場面とは関係ないとみづからが主張しているスペースですから。一致しましたね。  ★ 下村観山は能の世界の彼岸と此岸を絵に表そうとして、  ☆ そうなんですか。《日想観》というのは まぎれもなくブディズムのようですね。  ★ 右隻は此岸ですが、左隻は彼岸か両者を繋ぐ場所であり、余白だらけです。  ☆ なるほど。ふたつの作品を合わせて見ると そう言えそうですね、。  ★ もしかしたら左隻のさらに左の絵のない部分に真実を下村観山は絵にこめたのかもしれない。  ☆ あっ。ちょっと違った見方をしてみます。つまり 右隻のちらちらと木々のあいだに見える《余白》 これがむしろ《真実》を指し示しているかに見えますが。  ★ そして、フェルメールの場合も含めてこの余白があるからこそ、「有」と「無」という哲学的な絵画の美が産まれるのではないかと私は考察しています。  ☆ もしそうなら 《マ》でしょうね。間合いの取り方で 見る人の心にそれぞれの印象をもたらすでしょうね。とは思います。  かんたんに受け答えをし過ぎたかも分かりません。あしからず。

  • ways
  • ベストアンサー率31% (79/253)
回答No.1

そうかもしれないですね。間を取れないと、相手との距離感もつかめないと思うし、相手のものや仕事を盗ってしまうことにもなりかねない。 間合いの取れる人は、立ち振る舞いも身のこなしもスマートで、だから、芸術をしても、いい作品が作れる気がする。芸術は心の表現なので、作者がいつも心を磨いていないと、新鮮な作品は生まれない。手慣れた作品をいくつも作っても仕方ないし。

bragelonne
質問者

お礼

 ways さん ときどき現われてくださいますが いつもおおむね見方考え方を同じくする回答を寄せてもらっているかと思います。ありがとうございます。そして こんにちは。  マの問題ですね。じつはこのことを分析し理論づけるのは たいへんな作業になるでしょうね。  理屈を言うより じっさいにマの取り方の上手な人を手本としたほうが よっぽど手っ取り早いということになります。  でも哲学は どんなフロンティアにもいどむものなのでしょう。言葉によっても表現しその間合いだとか間取りだとかをさらに明らかにして行ければよいと考えます。  今回はまだまだその基礎・その初歩からです。しかも 基礎理論を飛び越えてすでに マの奪回としての大作戦となるであろう芸術のあり方にまで向かって行っています。  まぁ いろいろな場面や局面や分野でのことがらを情報としてあつめておきたい。とも考えています。  そうして 次の命題は 全般的に誰もが心しなければならないところなのでしょうね。  ★ 芸術は心の表現なので、作者がいつも心を磨いていないと、新鮮な作品は生まれない。  ☆ ただちに魂振りや魂鎮めもが役立つ場面が来るようにも思いました。自分のこととしてでした。  このスレの行方を見守って行ってください。

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     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。    この理論は けっこう広い範囲で有効ではないかと われながらひそかに期待していたのですが 一向にわたしの中で進展も発酵もしないままです。いまいちどみなさんの前に提出して ご見解をうかがいたい。こういうコンタンでいます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

  • マ(間・間合い)の理論  (つづき)

     マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。また うまいマの取り方を求めます。  (α)  ひとは自分も他人も ひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(かかわり)および実際の交通(まじわり)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や格差もそうであり ガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。        〔* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で        鎮静の逆のことのようです。ただし それも しづめる        ためにそうするのだということのようです〕。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  以上の所論をたたき台として ご見解をおおしえください。

  • 被災者とわれらにとって 芸術とは何か

     エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?   つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

  • 現代日本に住む芸術家の皆さんは、今、何を目的に活動しているの?

    例えば、西洋の芸術は芸術活動を裏付ける論理があったわけですが、 いや、西洋に限らず日本でも近代以前は宗教的な意味が、そうでなくても芸術に理論があったはずだ。 しかし、現代では芸術に「意味はいらない感性だ」。とかいうことが良識とされています(最近私が読んだ雑誌にも、「芸術を語ることは愚行なことだが…」とか書かれていました)。 まず、なぜ芸術を論理的に捉えることが愚行なのかが分からない。 芸術は結局宗教みたいなもので、宗教内で「神はいる、いない」かの論争をしてはいけないように、芸術も「なぜこれが芸術なのか?」は論争してはいけないのですか?芸術って結局そんなものなの? 芸術は作者の意思による自由、また、その受け取り方も、鑑賞者の自由というのも、なんだか現代では良識みたいになっていますが、では何故、シュトックハウゼンが、同時多発テロは「最高の音楽だ」と言ったことに対して世界的な非難が上がったのか? 社会的タブーを打ち破り常識を覆すというのも芸術の役割かもしれませんが、現代ではその破られるタブーは「エロ」に関するものばかりなのは何故なのか? 本当に、タブーを破ろうというのならば、差別万歳、弱者侮蔑をマジで主題とした芸術があってもいい。しかし、見当たらない。 つまり、「エロ」は現代では「許容範囲内のタブー」なのである。 しかし、芸術が許容範囲内で収まるわけが無い。 芸術に論理はいらない「自由な感性」だというのならば、例えば、差別を推奨する意味を持ってる芸術があったとしよう。しかも、それは、配色、デッサン、構成が申し分ない。 この場合、芸術は感性だというのならばいかにその芸術が最低な意味を持っていようとも、認めなければいけない。しかし、現代ではなぜか認められない。先のシュトックハウゼンのように。 それに、「差別があったほうが世の中上手く良く」という主題を持った芸術も滅多にお目にかかれない。 お目にかかれないということは評価されていないのである。 芸術は自由な感性ではなかったのか? というこの矛盾に挑んでこそ、現代の芸術家ではないのか? なぜ、エロスやエコや可愛らしさや自己表現が上手く表現できている芸術ばかりが評価され、しかも、そのことに多くの人は矛盾を感じないのか? そして、何故、芸術を論理的に語ることは愚行とされてしまうのか? もし、これらの矛盾に挑んでいる芸術家がいるのならば、教えていただきたいし、「芸術は論理で語るべきではない!」という方は、何故論理で語るべきでないのかも教えていただきたい。 そして、なによりも重要なことは、こんな世の中の状況の中、現代の芸術家は何を目的に絵を描いているのかも教えていただきたい。

  • ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――

    ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――  《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。  《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。  ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。  例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。  禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。  けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。  ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。  要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?  でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。  どうすればよいでしょう?  * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

  • 《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》

      《怒り》にかんする次の質問について 結論らしきものがあれば 大方のみなさんの同意を得てまとめておくのがよい。と考えた結果の質問です。     【Q:【怒り】という感情はあるのですか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html  《にゅうとらる》は  ここでの参加者(上の質問者)の ID ですが 《怒り》が 利害関係などから自由に起こり言わば中立であると考えられるので ちょうどよい名づけではないかと考えます。  以下 申し訳ないですが わたしの投稿記事を たたき台にします。        *  (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。  (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。  すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。    (う) 怒りは 案外さまざまな感情と違って中立であるように思われます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  :利害関係のあるところにだけ発生する落胆や悔しさとは違って   いつでもどこにでもあらわれ、思い込みや期待を含まないということなのかな。  あくまで自分のために湧くもの、ということなのかな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    拉致被害者の家族の皆さんの気持ちと考えを思ってみると分かりやすいのではないか。  初めは とにかく身内の者がいなくなったと知って まづ自分を元気づけるチカラとして怒りが現われる。怒りが現われること自体が 自分を元気づけることである。  つまり 一方では 愛する家族の者を手元からうしなった悲しみをも もう一方では 人間の意志を踏みにじる者に対してその無効の行為を中止して原状を回復せよといううったえをも 怒りは活かそうとする。  その後は 問題を分析し国家間の問題だと知ったなら その当事者に 実行をうながしつつ ゆだねる。(または 自分が首相や国会議員になって 解決にあたる)。という問題の処理の仕方に移る。  (仮りにヘイト・スピーチをおこなっても かまわないのでしょうが それは ひとつにすでに怒りとは違ったものになっている。怒りと違わないとすれば 誰か助けてくれという叫びに変わったかたちである〔に過ぎなくなる〕)。    (え) ケガをしたり病気になったりするときにも 傷口には白血球が集まり からだがその病原菌に抵抗し たたかいます。あたかもそれと同じように まづ自己活性化としてのごとき怒りが現われる。  ◆ :生き物に備わった自然な反応ということですね。  (お) 悲しみにあったときや 苦しみを背負ったときでも あたかも怒りのごときチカラの発現はありうる。のではないだろうか。  (ただし いつまでも泣き続けているだけなのは その怒りのごときチカラを要らないと言っているように思われる)。  (か) 怒りがなぜ中立的であって また 瞬間的に現われるものと見るのか?  たぶん いつまでも怒りをあらわにしているというのは そのうったえのつど 相手に負けまいとして怒りを反芻しこれを再現し自分を元気づけるのでなければ けっきょく相手を脅しにかかっている。のではないでしょうか。  ◆  【怒り】に化けている感情  ◆  【威嚇】【恐怖】【防衛のための攻撃】【すねる】【いじける】【存在を主張する】         *  あるいはつまり  (き) 《たまふり(魂振り・たましづめ(鎮魂)》としての《怒り》が あるのではないか?  これは じっさいには《何ものかナゾ》のチカラによって われらが心にそれぞれ起こるものだと考えられます。     ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。    たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。    (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で      鎮静の逆の意味のようです)。    〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。    その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。    間はただのうつろなる時間と空間ではない。    実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《マ(間)》をもたらすのが 瞬間的に起きる怒りではないだろうか? それ以前のマを打ち破る。  (く) 怒りのイカは いか・つ・ち(厳・の・霊= 雷)のイカですので あたかも稲妻・稲光に譬えられます。  (これらの語源については 【怒り】の質問の回答No.27を参考にしてください)。  そして《いかづち》のチが 霊であり 雷は 神鳴りであるなら その古代人の発想を借りて 神にあてはめて捉えてみておきます。  心の傷の癒える自然史的な過程に棹差す鎮魂の場合と同じく 怒りはまづ直接には感性としてあらわれます。そして そのみなもとは やはりナゾの何ものかだと思われ それとして神だと想定してみるという場合です。  神が われわれをそれぞれの内面において元気づけているという見方です。  つまりは 欠けが生じたりこれを繕ったりするという傷 このような傷をこうむる心がある。その心の奥なる奥座敷とも呼べる《非思考の庭》から 稲妻を発したものと想定する場合です。庭ないし場が 電磁場か何か分かりませんが チカラだというものです。神のチカラです。  抹香くさい表現では こうなっています:  ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ  わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって  滅ぼしている。     (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  かくして 《怒り》は ゼウスの《雷霆(ケラウノス)》であるというわけです。  ☆ 添削を経て 定理として確定します。

  • アーティストや芸術家達の恋愛

    初めまして。 最近とても気になる事があります アーティスト、音楽家、芸術家、作家、デザイナー等 いわゆる特殊な特技、打ち込むものが人一倍ある人達は(プロ、アマ、オーバー、アンダー、知名度がある、ない、売れている、いないに限らずです) 同じように何か特技、打ち込むものがある人としか基本的に恋愛対象としないでしょうか?特に女の人です 周りを見ていても思うのですが、何か打ち込むものがある人は同じように相手にも打ち込むものがある人を付き合っています。 (例えば作詞家ならその人の付き合う相手はデザイナー、ダンサーなら相手はDJ等) たまたま出会う場が同じだからとか趣味が似ているからそりゃ性格も合うだろう というのは分かるのですが、それだけではない、要は お互いに何も打ち込むものがない人には魅力を感じないから というのもある気がするのですがどうなのでしょう? 特に女性の方は相手にも同じように何か打ち込んでくれてないと魅力を感じなさそうです。 これは悪い意味ではなく、どちらかというと私も相手の男性に自分より優れていて欲しいと思うのは当たり前の事だと思うのです。 自分と同じもしくは自分以上に何か趣味や打ち込む事があるのが理想なのかな という人の心理が気になる人間の疑問です。 何も無いことが駄目だと思ってる訳ではありません。 男性でしたら女性に求めるものは昔から言われいるような 家庭的であったり女らしい内面であったりという事の方が重要だと思うので。 でも打ち込む事のある女性の場合相手に求めるものは 経済力や男らしさよりも同じように何かをしてて欲しいと思うのではないかと感じたのです。 そう感じたのはそれが男らしさというか尊敬に繋がるからです。 今はそれ1本で食べていけていないにしろ、経済力はその打ち込んでいる事でうまく行くかもしれないですしね。 なのでまだ仕事にできる程でなくとも 多少経済力が落ちても何かに打ち込む姿にやはり魅力を感じますか? 実際に特殊な特技をお持ちの方(男性も)の意見を聞きたいです宜しくお願いします!

  • 地方公務員が関わることのできる芸術の仕事

    こんにちは。 就職活動中の者です。といっても進路はまだ定まっていません。。 ここ何年かで、近所の公立美術館へ(客として)通うようになり、そこで働いている人達に興味を持つようになりました。 例えば、 受付の人、開館中,展示品の監視をして端で座っている人、お客さんの質問に答えて解説をしている人、外部から呼んだ芸術家の方のセミナーや講義中にプロジェクターやスライドをいじる人、子供との芸術教室で子供にアートを教えている人、或いは展示前に準備をする裏方の仕事等です。 芸術家の弟子(?)やスタッフ(?)のような人が、現場でサポートをする場合もあるでしょうし、展示準備は専門の業者による仕事のような気もして、どこまでが地方公務員の仕事の範疇なのかイメージが曖昧です。学芸員と呼ばれる人は、特別な資格を持っていて、芸術作品の研究をしたり、展示の企画をしたり、図録に解説文を載せている、あと芸術家のトークの相手になったり…程度の大まかな印象があって、一般の人向けではなく、作品や芸術家中心の仕事をしているような印象がありますが…それも果たして合っているのか… そこで質問です。 1.地方公務員としてできる芸術分野の仕事にはどんなものがありますか? 2.学芸員がやらず、地方公務員がやる仕事とは?/或いは、地方公務員サイドから見た学芸員の仕事とは? 3.美術館で中長期インターンの募集をしていることがありますが、これは、知識(というか素養?)がない人でも受かるものでしょうか?門戸だけ開かれいて、その実、若き未来のキュレーター達が椅子を取り合っているなんてことを恐れなくても大丈夫でしょうか… 私語厳禁の空間の中でこういった質問を長々とするのは迷惑かな、とずっとビビってて、やっとここで聞いているチキンな私ですが、 どうかよろしくお願いします。

  • 芸術療法について

    もうすぐ20歳になる学生です。 ビジネス関連の専門学校に通っていて、今は簿記やパソコンなど、一般企業への就職を目的とした資格取得の為に勉強しています。 当初は2年で卒業し、内定を貰えればそのまま就職(会社でパソコン相手に事務処理などをする仕事)でいいと思っていたのですが、最近になって心理学やアートといった、今勉強していることと全くかけ離れた分野の方に気持ちが傾いています。 もともと心理学にも非常に興味があり、絵も大好きで美術の学校に行こうか迷っていたのですが、それは後でもいいかと諦め、結局ビジネス系の学校に進学しました。 一時はそれで納得したものの、やっぱり気持ちはそっちに向いてしまい迷っています。 調べていると、アートや音楽などで人の心を癒す「芸術療法士」という仕事があることを知り、ますます勉強したい気持ちになりました。 ただ芸術療法士が必要とされる海外と違って、日本ではまだまだ知名度も低く、芸術療法士の資格だけではなかなか認めてもらえないそうです。 芸術療法は国内ではあくまで臨床心理士や作業療法士が、一つの治療として用いる方法だそうで臨床心理士、特に作業療法士の資格を取ることが大事だという話を聞きました。 芸術療法を勉強する学科もあるそうですが、アートなどは後から個人的に身に付けることも出来るから、学校に通って勉強しなくてもいいのでは、という話も聞いたのですが、実際どうなのでしょうか? また大学と専門学校ならどちらの方が良いでしょう?(臨床心理士は大学院を出ないといけませんが・・・) 自分の印象では心理学なら大学で、作業療法などは専門学校が向いているかなと思うのですが・・・ でも学費の面などを考えると、大学は勿論専門学校でもちょっと厳しいかな、と思う部分もあって悩みます。 大学でも授業料が非常に安い通信制大学の心理学科も視野に入れています。 心理的な問題を扱う仕事は凄く大変で簡単な仕事ではないし、今の学校で取得した資格を生かして普通に一般企業に就職し、1日でも早く稼げる方がいいという人もいますが、やっぱりそれでは納得出来ない自分がいます。 心理学や作業療法などの分野に詳しい方、アドバイスなどいただけると嬉しいです。