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マ(間・間合い)の理論

 マの理論は 世の中にどうしてマチガイが起きるのかを問い求める思索です。またうまいマの取り方を求めます。    この理論は けっこう広い範囲で有効ではないかと われながらひそかに期待していたのですが 一向にわたしの中で進展も発酵もしないままです。いまいちどみなさんの前に提出して ご見解をうかがいたい。こういうコンタンでいます。  (α)  ひとは自分も他人もひとをころさないものなんだよ。という初めの命題。  (α‐1) おのれとのマ――すなわち おのれという言葉をとおして意識するその《わたしとおのれとのマ》――をそのまま保ち 相手が同じようにその相手じしんの《おのれとのマ》を保っているなら 互いに相手の自由を侵さないであろう。  (α‐1‐1) 《命題》と言ったのは このことが 無根拠にてわが心の奥底で成り立ったという見通しによるのであり けっきょく希望としての命題です。  (α‐1-2) 《わたしとおのれとのマ》とは 《わたしがわたしである》ことである。《〈わたしがわたしである〉わたしがわたししていること》である。  (α‐2) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか? それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  (α‐2‐1) 後者であれば 《マの理論》がそのまま 一般理論であるとなる。心理学や精神分析は これに従属するであろう。ぎゃくに存在論は マの理論の別名となる。  (α‐2‐2) もしそうだとしたら 人文科学および社会科学のすべては マの理論の応用となる。  人間関係がマであることは勿論であり たとえば社会階級や経済格差もそうであり 職場におけるガミガミ役とアース役との役割関係も マの理論の一環であるとなる。  (α‐3) 言いかえになるが わたしはみづからの人生を生きるにあたって一般にわたしの思うようにはならない。と思う。そのことを知っている。このようなわたしの自由の不十分は どこから来るか? 社会的な不十分だと言い切れるか? つまりマの理論が一般理論となりうるか?  (β) けれどもひとは かなしいかな 考えや思いが移ろいゆき変わりゆくというようにも成っていて 自分や相手とのマをずらしてしまうことがある。と分かっている。このマのズレによって かなしいかな 相手の自由を踏みにじることが起きる。おのれの自由をさえみづから そのマをズラし侵して不自由を作りだすことがある。――このように考えてよいかどうか?    (β‐1) とすれば 《わたしがわたしである》ことのズレあるいは意識的なズラシ これが初源のマチガイであるのか?  (β‐2) つまり極論して言えば 《わたし》はひとをころすことを考えてしまうことがあり 果てはそれを実行してしまうことがあるというそのマチガイは ひとりの人においてのみ起こっているのか?  (β‐3) いやいや その個人の内面において起きるズレやズラシとしてのマチガイは たとえそのまま初源のものであったとしても それと同時に 相手とのマにおけるズレも起きているのであって 個の存在と存在どうしの関係とは 同時に成り立っている。のか?  (β‐3‐1) つまり《わたし》どうしのいわば外における関係としてのマは それぞれの《わたし》個人の内面における《おのれとのマ》と 同時一体である。のか?  (γ) 《わたし》は その自然本性において すでに初めに《わたしがわたしである》存在としてあるか?   (γ‐1) それとも すでに初めに《わたしとおのれとのマ》は こわれたかたちで生まれて来るのか?  (γ‐2) たぶんそうだとしても ひとは言わば《しづかなたましい》のあり方をすでに知っていて ほんとうは知っているがゆえに――無根拠において知らず知らず――問い求めている。と言えるか?  (γ‐3) もしそうだとしたら 《たましづめ(鎮魂)》が すでにマチガイの起こっている世の中にあってそれを直そうとするマの理論の実践だということになる。ここになら 精神分析も従属する思索として入れてもよいだろう。   ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。   (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で 鎮静の逆の意味   のようです)。   〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。   間はただのうつろなる時間と空間ではない。   実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (δ) ・・・以上の所論を吟味しつつ修正をも加えつつ ご自分のマの理論を展開してください。  感想もお寄せください。

みんなの回答

noname#205880
noname#205880
回答No.2

ことの発端は、言葉をつくり、善/悪をわけたことにあるんじゃないでしょうか。 本当は人間はころしあいませんが、現状ではズレ(とおっしゃってるもの)のおかげで、常に何処かでころしあいます。

bragelonne
質問者

お礼

 2580aaa さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 現状ではズレ(とおっしゃってるもの)のおかげで、  ☆ この原因を  ★ 言葉をつくり、善/悪をわけたこと  ☆ と捉えておられるのでしょうか?  たとえば 次のようにこの原因をふたつの場合に分けて問うています。  ☆☆ (趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~~~~~   (α‐2)    (あ) わたしと相手とのマが 抜けたり違ったりするという心的かつ社会的な現象は それぞれの《わたし》の内面に原因があって起きるのか?    (い) それとも あくまで相手との《わたし》どうしの関係(カカハリ)および実際の交通(マジハリ)において起きるのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とすれば 《言葉をつくる》ことは 独りだけでは出来ないので (い)のほうで捉えてよろしいでしょうか?  ただし 《善 / 悪を分けたこと》は ひょっとして独りだけでも出来るのでしょうか どうでしょうか。  (あ) 《わたし》の内面に原因があって起きるのか?   という側面をもふくむ。ということになりましょうか? わたしは わたしの心にさからって善と悪とを知る木から採って食べた。からでしょうか?  そのとき でも《ことば》は出来ていたでしょうね。エワは 蛇と会話をしていますし アダムにも食べるように ことばで誘っています。  (い) わたしどうしのカカハリ / マジハリ  としての《言葉をつくったこと》のほうが 大きな原因になっているでしょうか?  ううーん。  ああ ただし これらの《言葉の問題》も《善悪を分けたこと》も  ★ ことの発端は  ☆ というかたちで捉えておられますね。必ずしも《原因》ではないのかも知れない。《わたしの内におけるマのズレ》にとって 間接的な原因になっている。ということかも知れない。    とすれば 直接の原因は おのれ自身の意図的なズラシ ここにあるのでしょうか?  どこか・何かが 《おのれのマ》の問題として チガイを生じたり抜けたりしたのでしょうか。  《たましづめ(鎮魂)》が 必要になりましょうか。  必ずしも生産的に・建設的に復唱しえなかったかも分かりません。  言葉の問題も 善悪観も 一筋縄では捉えられないでしょうね。

回答No.1

こんばんはです。 この質問は、難しいですね~。 ☆《わたしがわたしである》 ◇主語の「わたし」は、認識主体・心なのでしょうが、 述語の『わたし』が何であるのか、 これが問題だと思うんですよ。 ───主語と述語の《わたし》が逆転しても構いませんが─── たとえば、認識主体が私と考えるもの、肉体と心を含めた私であり、主観からすれば対象であるとすれば、 認識主体の「わたし」と『わたし』は、ものすごく近しい間柄であるけれど、 これは他者と考えるべきなのでしょう。 そうではなく、 述語の『わたし』がアートマンのごとき《真我》のようなものであるならば、違う話になる。 で、認識主体の「わたし」と『わたし』で考えると、 《わたしはわたしである》は誤解、認識の誤りなのでしょう。 この誤解からさまざまなことが起こるのであろう。 認識主体である「わたし」が役割や能力などで期待する『わたし』と、『わたし』の行いや結果と食い違ったとき、 「こんなのは、本当のわたしではない。本当のわたしは、こうではないはずだ」 などと言ったりすることがありますよね。 「わたし」、もしくは、「わたし」が期待する『わたし』と、『わたし』がまったく同じものではないにもかかわらず、同一であると、その距離感を誤っているから、こうしたことが起こるのであろう。 弁証法的に止揚したあらたな《わたし》、「わたし」と『わたし』を統括するような、あらたな《わたし》が必要なのではないか。 主客の対立を超えた《わたし》が必要なんじゃないか。 そして、それが本当の《わたし》なんであろう・・・。 はっきり言って、言葉遊びなんですが。 書いている本人が、何を書いているのか、自分でも分からない(笑い)。 そして、 他人と「わたし」は、関係性で考えていいんじゃないですかね。 ここで、大切なのは、交渉性と距離感ですよ。 特に距離感が大切だと思いますね。 AとBという特定の人の関係においても、この適切な間合い・距離はTPOで大きく変わるので、 難しいですよね。 かつてBを喜ばしたり慰めた同じ言葉でも、場面や状況が変わったりすると、Bを深く傷つけたり、Bに「ふざけるんじゃない」と怒られたりもしますので。 まぁ、怒らすのも、《魂振り》かもしれないんですけれども♪ 今日は睡眠不足の上に、暑かったので、 頭が難しいことを考えることを拒否しているので、 ひとまず、こんなところで。 「わたし」は『わたし』の頭に「もっと働けよ」と命令しているのですが、 『わたし』の頭が言うことを全然聞いてくれないので(ポリポリ)。

bragelonne
質問者

お礼

 気持ちよく眠ってらっしゃる。この季節 コタツがちょっとという感じはありますが。  こんばんは。ご回答をありがとうございます。  きょうは 条件がよくないですか。  ◇ そうではなく、 / 述語の『わたし』がアートマンのごとき《真我》のようなものであるならば、違う話になる。  ☆ あぁ。それはそれでありなんでしょうけれど さすがこの質問趣旨としてはそこまで考えていませんね。  と言いますか そういう場合には その真我=おそらく霊我・つまり 非思考の庭 のことだと思われ ただちに信仰の問題になるかと思うのです。  この問題すなわち:  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~    ☆《わたしがわたしである》  ◇主語の「わたし」は、認識主体・心なのでしょうが、  述語の『わたし』が何であるのか、  これが問題だと思うんですよ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なる問題ですが わたしの内では意外とかんたんです。わざと複雑に考えないということでもありますが つまりは   《わたし》とは そのわたしという言葉で呼ぶ対象です。   つまり 自称するのですから おのれみづからのことです。  しかもそのことが 《わたしとおのれとのマ》というふうにも あたかも隙間があるかのごとく言っています。  なぜかと言えば そこに おのれの心にさからってのように ズレないしズラシが起こるからです。別名で やましさ反応のことだと思います。  わたしは 単純太郎ですから 《自我》だの《超自我》だのにはついて行けない人間ですし 次のようにも考え慣れていません。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  たとえば、認識主体が私と考えるもの、肉体と心を含めた私であり、主観からすれば対象であるとすれば、  認識主体の「わたし」と『わたし』は、ものすごく近しい間柄であるけれど、  これは他者と考えるべきなのでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうではなく わたしはわたしだの一点張りです。わづかに ズラシは起きる。こういう見方でいます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~  で、認識主体の「わたし」と『わたし』で考えると、  《わたしはわたしである》は誤解、認識の誤りなのでしょう。  この誤解からさまざまなことが起こるのであろう。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ううーん。こうなると わたしにはむつかしい。  《認識》のあやまりは 起きることはないと思うんですが どうでしょう?  すなわち 認識の主体としてわたしを意識したとき その意識対象はすでに認識主体であるわたしだと思うからです。意識・認識・呼びかけのいづれの場合にも 行為主体とその対象とは 一致してわたしです。  わたしとおのれとのマのズラシ これは けっきょくむしろ何かひとつの主題をめぐって認識なり意欲なり気持ちなりの違和感やさからいが起きることだと考えられます。  ワタシやオノレをわたしとは別のどこかにその像を描いたり観念としてつくったりして捉えるということは ないと思うんですがねぇ。単純右衛門之丞安易之守でしょうか?  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  AとBという特定の人の関係においても、この適切な間合い・距離はTPOで大きく変わるので、  難しいですよね。  かつてBを喜ばしたり慰めた同じ言葉でも、場面や状況が変わったりすると、Bを深く傷つけたり、Bに「ふざけるんじゃない」と怒られたりもしますので。  まぁ、怒らすのも、《魂振り》かもしれないんですけれども♪  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは おもしろいですね。    よって  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  他人と「わたし」は、関係性で考えていいんじゃないですかね。  ここで、大切なのは、交渉性と距離感ですよ。  特に距離感が大切だと思いますね。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ◇ 弁証法的に止揚したあらたな《わたし》  ☆ これは たぶん 無いと思っています。反論を期待もしますが 弁証法と言う前にすでに はっと気づくなら わたしは我れに還っていると思うのです。認識行為を超えた《気づき》が ヒラメキのごとくはたらくのではないかと思っています。  取りあえず こんな感じでしょうか。

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    ひとは神隠しを好むものなのか――《間(ま)の理論》――  《夕日信仰》の説を批判的に捉えつつそこから展開する問い求めです。  《たそかれとき》は 光と闇のあはひ(合ひ‐合ひ)であって 時に逢魔時(おうま〔が〕どき)とも呼ばれたそうです。これは 大禍(おほまが)時から来たそうです。  ひとはモノとモノのアハヒにどこか惹かれるところがあるのでしょうか? 爪を切り耳掃除をし髪を切ったりいじくったりすることに多少のあやしさを感じるでしょうか? もしそうだとしたら それも或る種の仕方で ウチとソトのアヒダについての気持ちがかかわっていましょうか。  例の『遠野物語』〔の紹介記事ですが〕によれば 《マヨヒガ》という話があって それは山の中でふと大きな屋敷を見つけ そこには誰もいずただ料理が出来上がっている。これを食べて家に帰ったあとはと言うと 何ごともうまく行きやがて長者になったと言う。マヨヒガ=マヨイガ=迷い家。  禍事(まがごと)だけではなく善事(よごと)も アハヒの魅力にはふくまれているようです。話を広く取っていわゆる神隠しに遭ったが 山の中で家に帰ろうかそれともよそうかという思いのそのアハヒから事が展開したというような。マ(間)→ま(真)あるいはマ(魔)。魔はよその国の言葉ですが早くに採り入れたもののようです。逢魔時。  けれどもこの逢魔時は 例の丑三つ刻につながっていて それこそ例の藁人形ののろいにまで行き着きます。つまりこの事例は アハヒから新たなコトが出て来るというよりは 自分の気持ちから自分の都合のよいコトよ出て来いという人為的なしわざにまで発展する。  ここで――例によって――《ガミガミ役とアース役とのアヒダの意識の排泄》という社会現象の話です。  要するにひとは 神隠しが好きなのでしょうか? つまり《意識の排泄なるガミガミ電波の放射》についてなら それはいけないことだと言うに決まっています。けれどもその《マ》に臨んでは どうしても耐えきれない何か惹かれるものがそこにはあるのでしょうか?  でもそれは《間違い》ではないのでしょうか? 《間抜け》ではなくそのマを埋めているのですが もっともっと間合いをうまく取ろうと思えば取れるのではないか。  どうすればよいでしょう?  * どうもわたしは 一般的に言って占い好きというところに アース役がいぢめに遭うという社会現象のひょんなきっかけがあるようにも思えるのですが どうでしょう? 言い過ぎでしょうか。こわいもの見たさでもないでしょうに マ(アハヒ)の魔のほうに自分が持って行かれてしまうというようなクウキとして。

  • 《〈怒り〉をめぐるにゅうとらるの定理》

      《怒り》にかんする次の質問について 結論らしきものがあれば 大方のみなさんの同意を得てまとめておくのがよい。と考えた結果の質問です。     【Q:【怒り】という感情はあるのですか。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8663798.html  《にゅうとらる》は  ここでの参加者(上の質問者)の ID ですが 《怒り》が 利害関係などから自由に起こり言わば中立であると考えられるので ちょうどよい名づけではないかと考えます。  以下 申し訳ないですが わたしの投稿記事を たたき台にします。        *  (あ) 《怒り》は その当の出来事に遭って まづとにもかくにも自分を元気づけるチカラの現われではないか。むしろ瞬間的な心的現象である。  (い) そのとき怒り以外にともなわれる感情をあたかも鼓舞するかのように現われるチカラなのではないか。  すなわち 悲しみをかみしめるということにだって ある種の怒りのような元気づけのチカラが作用しているのではあるまいか。    (う) 怒りは 案外さまざまな感情と違って中立であるように思われます。  ◆ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  :利害関係のあるところにだけ発生する落胆や悔しさとは違って   いつでもどこにでもあらわれ、思い込みや期待を含まないということなのかな。  あくまで自分のために湧くもの、ということなのかな。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~    拉致被害者の家族の皆さんの気持ちと考えを思ってみると分かりやすいのではないか。  初めは とにかく身内の者がいなくなったと知って まづ自分を元気づけるチカラとして怒りが現われる。怒りが現われること自体が 自分を元気づけることである。  つまり 一方では 愛する家族の者を手元からうしなった悲しみをも もう一方では 人間の意志を踏みにじる者に対してその無効の行為を中止して原状を回復せよといううったえをも 怒りは活かそうとする。  その後は 問題を分析し国家間の問題だと知ったなら その当事者に 実行をうながしつつ ゆだねる。(または 自分が首相や国会議員になって 解決にあたる)。という問題の処理の仕方に移る。  (仮りにヘイト・スピーチをおこなっても かまわないのでしょうが それは ひとつにすでに怒りとは違ったものになっている。怒りと違わないとすれば 誰か助けてくれという叫びに変わったかたちである〔に過ぎなくなる〕)。    (え) ケガをしたり病気になったりするときにも 傷口には白血球が集まり からだがその病原菌に抵抗し たたかいます。あたかもそれと同じように まづ自己活性化としてのごとき怒りが現われる。  ◆ :生き物に備わった自然な反応ということですね。  (お) 悲しみにあったときや 苦しみを背負ったときでも あたかも怒りのごときチカラの発現はありうる。のではないだろうか。  (ただし いつまでも泣き続けているだけなのは その怒りのごときチカラを要らないと言っているように思われる)。  (か) 怒りがなぜ中立的であって また 瞬間的に現われるものと見るのか?  たぶん いつまでも怒りをあらわにしているというのは そのうったえのつど 相手に負けまいとして怒りを反芻しこれを再現し自分を元気づけるのでなければ けっきょく相手を脅しにかかっている。のではないでしょうか。  ◆  【怒り】に化けている感情  ◆  【威嚇】【恐怖】【防衛のための攻撃】【すねる】【いじける】【存在を主張する】         *  あるいはつまり  (き) 《たまふり(魂振り・たましづめ(鎮魂)》としての《怒り》が あるのではないか?  これは じっさいには《何ものかナゾ》のチカラによって われらが心にそれぞれ起こるものだと考えられます。     ●参考 (上田正昭:鎮魂の原点) ~~~~~~~~~    鎮魂の原初の姿をたずねあぐんで タマシヅメよりもタマフリの方が古いことに気づくようになった。    たましいを鎮静ならしめる前提に タマフリがあったのだ。    (* フリは 振りつまり 振り起こす・奮い起すの意で      鎮静の逆の意味のようです)。    〔* タマフリを含めた〕鎮魂の時と声とは 間(ま)である。    その折りにたましいが充足され それを契機として つぎの段階への飛躍が用意される。    間はただのうつろなる時間と空間ではない。    実は生命の蓄積されるおりめなのだ。     (上田正昭:日本の原像――国つ神のいのち―― 1970)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《マ(間)》をもたらすのが 瞬間的に起きる怒りではないだろうか? それ以前のマを打ち破る。  (く) 怒りのイカは いか・つ・ち(厳・の・霊= 雷)のイカですので あたかも稲妻・稲光に譬えられます。  (これらの語源については 【怒り】の質問の回答No.27を参考にしてください)。  そして《いかづち》のチが 霊であり 雷は 神鳴りであるなら その古代人の発想を借りて 神にあてはめて捉えてみておきます。  心の傷の癒える自然史的な過程に棹差す鎮魂の場合と同じく 怒りはまづ直接には感性としてあらわれます。そして そのみなもとは やはりナゾの何ものかだと思われ それとして神だと想定してみるという場合です。  神が われわれをそれぞれの内面において元気づけているという見方です。  つまりは 欠けが生じたりこれを繕ったりするという傷 このような傷をこうむる心がある。その心の奥なる奥座敷とも呼べる《非思考の庭》から 稲妻を発したものと想定する場合です。庭ないし場が 電磁場か何か分かりませんが チカラだというものです。神のチカラです。  抹香くさい表現では こうなっています:  ▲ (アウグスティヌス:《心の欠けなる傷》について) ~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ  わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって  滅ぼしている。     (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  かくして 《怒り》は ゼウスの《雷霆(ケラウノス)》であるというわけです。  ☆ 添削を経て 定理として確定します。

  • 《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?

     次のような理論は 人生哲学であっても 哲学プロパーなる哲学ではない。という見方が 提出されました。  果たして いかがお考えになりましょう? おしえてください。          *  《わたし》なる理論  1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。  2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。  3. われに立ち還るというのは 自己還帰また自己到来と呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:    (α) わたしは わたしである。 1=1  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  5. 人はおのれのついたウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己のさらに二乗を繰り返し 《わたし》を生きる:   (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。        1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1  6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。超えた部分をも持つ。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たというものでもない。つまり人間なる存在にとって 生来の所与としての人間の条件である。  6-1. この人間の条件を無条件に受け容れることが 自己の内なるアートマンもしくはブッダターないしルーアハ(神の霊)にめざめることである。  6-2. そのときわたしは アートマンにつうじているブラフマン神もしくはダルマ・カーヤ(法身)のブッダないし普遍の神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここでわが心なる《非思考の庭》が成る。  7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが ふつうはそれは (β)および(γ)における意志行為一般に道をゆづって 背後にしりぞいている。  7-1. 意志行為が 生きることの基本であり 記憶行為や知解行為との連携において中軸を成す。  7-2. 言いかえると 現実に生きる過程において芽を出し花を咲かせ実が成るという場合 中軸の意志のほかに じつは中核として あまり顔を出さないところの・(α)の《わたしはわたしである》その動態がはたらいている。  8. あとは 実際問題としてこの世の中には シガラミがすでにあり よく言えばそれは伝統にかかわって飾りや誉れであったりしつつ よくもわるくも自己の心の・正負の充足にかかわる。これは 空(シューニャ)であるが 仮りのものごととして確かに現象している。  9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては シューニャター(空性)は捉えられない。  9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。  10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。  10-1. ここに(α)の《わたし》にそなわるアートマンは 思考の緑野へと翻訳され 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――互いに隣人であること――》という言葉で説明される。  11. ・・・・・・

  • 存在は 善悪を超えている。

     ひとの存在についてです。  じつは この命題が 思い浮かんだのみです。  ○ ひとという存在の自然本性は そこから――自由意志による選択をとおして―― 存在(生命)に善いことも そして その善いことに反すること(つまり 悪いこと)も 自由に おこなうようである。  ○ ただ その存在じたいは 善悪を超えている。かも知れない。  ☆ こういう命題です。これについて 真偽・成否などをおしえて欲しいのですが どこから どのように 問えばよいか 分かりません。  手がかりは あります。  ○ 神は 自分にかたどって ひとをつくった。  ☆ これによると 神は おそらく――善人悪人を問わず 誰にも 等しく 雨を降らすというごとく―― 善悪を超えているはづですから  その神の存在に似ている と言えば そうなのかなというところです。つまり  ○ ひとは はなはだ不類似であるが いくらかは 神に似て その自然本性において 善悪を超えているところがある。かな?  ☆ という命題です。  こういう中身なのだよ とか いやいや それは 考え違いだ これこれのごとく認識すべきなのだよ とか おしえてください。ほかの仕方や内容の回答でも かまいません。

  • たましいのままのわたしではあまりにも生きずらいのです・・・

    長い自分を見つめる時間の末、内面においても世の中をすべて切り離したときに存在の中心ともいえるたましいにたどり着きました。 それは長い間つきあってきた人格とはまったくかけは なれていました。 そんな人いらっしゃいますか 世の中では、いままでどうりの演じるような自分でしかいることできません。 からだがそんなふうに育ってしまい、たましいに合った表現ができないのです。 なんかわかるっていう人もしいらっしゃいましたら新しく生まれたわたしの生き方にアドバイスください。

  • 法理論とは何か他

    幾つかありますが、一つでもかまわないので教えて下さい。 一つ目は、何度か質問をした時に回答の中で『法理論からは無理』とか言われた事があるんですが、法理論が人より先・上にあるわけではなくて人が法を作ってるのでしっくりこないんですが。何ですか?それは誰が考え、作ったり入ってくるんですかね。基本的には、政治家や官僚や法律関係者が作って運用してるんでしょうけど。敗戦時にも強制的?に入れられたり、真似た部分もあるのかな。 二つ目は、事後法で裁けないと聞いた事がありますが東京裁判では『人道に対する罪』?で裁かれたのは日本や世界の法律関係者や外交関係者や国民にどう評価・認識されていますか? 三つ目は、だいぶ前に福田首相の時にハイジャック事件で、犯人の要求通り仲間を釈放して多額の現金まで渡した超法規的措置?はどういう位置づけになりますか? やはり法というのは人が作って運用する物だから、その時の権力者や国民や専門家等がどう考えるかである程度自由に運用できるという事ですかね。

  • 人は他人や自己やそのあやまちを赦す能力があるか

     次の命題についてその当否を問います。  ○ (人は他人や自己なる人をまたそのあやまちを赦す能力があるか)~~~~~  (あ) 人は その生まれつきの自然本性としての能力(すなわち感性および理性)によって 自己であれ他人であれ 人およびそのあやまちを赦すことは出来ない。赦さないことも出来ない。  (い) 互いに互いをたたえたり咎めたり 批評・批判をすることが出来るのみである。       (う) 人と人との関係は その行為にかんして・そしてましてや存在にかんして 赦す・赦さないといった判断をするようには出来ていない。  (え)=(い) マチガイを指摘することは 互いに自己防衛のためにも 必要である。      (お)=(あ) 自然本性においては その能力によって ひとを赦すか赦さないかの判定をするようには出来ていない。  (か) わづかにおそらく 恨み辛みや憎しみをその――ほんとうの心に反してでも――想像力によってかき立てた人間から始まって その気持ちや第二の心がついには 人間どうしの交通論の一環として《赦す・赦さない》の文化を生んだ。のではないか?  (き) 《なんぢ ころすなかれ》という文(発言・命題)に表わすことをとおして・またこれを社会の取り決めとすることによって 《赦し・もしくはあだ心・またルサンチマン》なるむしろ〔低劣なる〕知性としての倫理問題を生んだ。のではないか?  (く) ここで短絡すれば よってこの現行の文化のあり方を見直すべきではないか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~            *  別の言い方で問います。  (け) けっきょく世界との・そしてなかんづくおのれとの和解にかかわっているものと考えます。  言いかえると おのれの存在について心からやわらいでいるかどうか にかかわるであろうと。  (こ) その意味は こうです。  人は 人のあやまちを赦すことも赦さないことも出来ない。  分かりやすく言えば 赦す資格も能力も じつは人は持ち合わせていないのだ。ということは 赦さない能力も資格もまったくない。  (さ) では あやまちによって傷をこうむった人間に出来ることは何か?  そのあやまちについて あやまちであることを経験合理性にもとづき説明し そのマチガイをその人に おこなってはいけないと伝える。すべての行為は 自由であるが 人に迷惑をかけることは 自由ではないと。  (し) つまり 哲学として互いに自由に批判をすること。および 必要ならば・必要なかぎりで 法律にうったえるということ。  ここまでしか われわれは為すすべは持たない。のではないか?  (す) 批判を伝えたあとは――人間存在としてのカカハリは どこまでもありましょうが―― マジハリという意味での関係は もはや基本的にその相手の人とは無くなるということ。それが《赦すことも赦さないことも出来ない》の意味です。  (せ) というのも 人は おのれ自身のあやまちについては 一日二日経てばもうけろっとして忘れてしまっていると思われるからです。自分に対しては ほどなく赦しているというのが 世間の相場であろうと思われます。    (そ) その人間が 他人とそのアヤマチについて 赦さん・赦せん おまえよ あやまれというのは 滑稽である。