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《わたし》なる理論は 哲学プロパーではないか?

 次のような理論は 人生哲学であっても 哲学プロパーなる哲学ではない。という見方が 提出されました。  果たして いかがお考えになりましょう? おしえてください。          *  《わたし》なる理論  1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。  2. そのわたしは 物心がついてから 初めてのウソをつきイツハリをおこなったとき ふとわれに還る。ウソをウソだと知ることは たましい(感性)がよこしまを嫌い あたま(理性)がそのマチガイをみづから認めることをとおしてである。しかも われに立ち還ったわれは 感性と理性とを含み包む境地としてのわれである。  3. われに立ち還るというのは 自己還帰また自己到来と呼ばれるが 立ち還ったわれは 数として《一》なる存在だとすれば:    (α) わたしは わたしである。 1=1  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  5. 人はおのれのついたウソからわれに還り 他人(ひと)のイツハリにあざむかれたと知ってやはりわれに還るとき この(β)の言わば自己のさらに二乗を繰り返し 《わたし》を生きる:   (γ) 《わたしがわたしである》わたしは わたしする。        1x1x1x・・・x1=1 すなわち 1^n=1  6. ところで 上の(α)の姿は 人間の意志や思考を超えている。超えた部分をも持つ。存在そのものは 思考した結果得るというものではなく 同じく意志によって得たというものでもない。つまり人間なる存在にとって 生来の所与としての人間の条件である。  6-1. この人間の条件を無条件に受け容れることが 自己の内なるアートマンもしくはブッダターないしルーアハ(神の霊)にめざめることである。  6-2. そのときわたしは アートマンにつうじているブラフマン神もしくはダルマ・カーヤ(法身)のブッダないし普遍の神に向かうなら それについて きよらかなおそれをいだく。ここでわが心なる《非思考の庭》が成る。  7.  非思考の庭 これが 《信仰》のことであるが ふつうはそれは (β)および(γ)における意志行為一般に道をゆづって 背後にしりぞいている。  7-1. 意志行為が 生きることの基本であり 記憶行為や知解行為との連携において中軸を成す。  7-2. 言いかえると 現実に生きる過程において芽を出し花を咲かせ実が成るという場合 中軸の意志のほかに じつは中核として あまり顔を出さないところの・(α)の《わたしはわたしである》その動態がはたらいている。  8. あとは 実際問題としてこの世の中には シガラミがすでにあり よく言えばそれは伝統にかかわって飾りや誉れであったりしつつ よくもわるくも自己の心の・正負の充足にかかわる。これは 空(シューニャ)であるが 仮りのものごととして確かに現象している。  9. 《さとる》とは――つまりすでに生まれつきブッダである者がそのブッダであることを成就するというのは―― シガラミやら栄光の関係やらそれらの縁起(因果関係)から 自由となることである。栄誉からも自由でなくては シューニャター(空性)は捉えられない。  9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。  10. 言いかえると この《自由の視点 ないしそれとしての人間の境地》は 人は社会的動物として関係性において生きているからには つねに他者とともにあって 《〈わたし〉たち》が互いにコミュニケーション過程をとおして 実現しようとするものである。  10-1. ここに(α)の《わたし》にそなわるアートマンは 思考の緑野へと翻訳され 《慈悲――ともだちであること――》もしくは《愛――互いに隣人であること――》という言葉で説明される。  11. ・・・・・・

みんなの回答

回答No.7

数学に関してあんたに言い分があるとすれば、それは十分読めてな。 定理が出来ないのならば真理は不在ではないか。 西洋は、先進的でありながら、、この点で降参を表している。 あんたはそうでないと言いたい心があるから数字を持ち出したのだろう。 この精神分析は、普遍的人知の恥部だ。 人の弱みだ。 現代はまだそんなだ。 あんたの論理から、遊び心のつもりで数学を排除すると、見違えるほどわかりやすい物になるだろう。 希望を持ちつつ楽しみたまえ。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきましてのご回答をありがとうございます。  たぶん  ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~~~~~~  4. そして立ち還るときの姿としては:   (β) わたしは《わたしがわたしである》わたしに立ち還る。 1x1=1  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    この姿についての 数字による説明は あんがい大事なのではないだろうか?    一に一を掛けるのであって 何かよさそうな絆創膏や薬を―― 一のほかに――あてがうものではないということ。  ゆえに まだあなたの意見には同意できない。

bragelonne
質問者

補足

 おぎない。  数学や数字は 西欧の専売特許ではないよ。  日本人にあっても 和算として じゅうぶん発達していたと言います。

回答No.6

親切で言っておく。 論理から数学を排斥すると、あなたの意見は普遍性を持つだろう。 これは観念世界たる神の世の達人からの助言だよ。 それがあなたにとって眉唾でも別にいいんだがな。 大学などで教える、日本の哲学は、明治の貿易商の様な感じがいまだにするよ。 あんたは頑張ろうと思えば、そこに切り込めるぐらいに知識が成熟している。 これは私には持ち合わせていないあなたの特技だ。 私の弟子になるつもりはあなたには無いだろう。 その位の反逆者精神を見込んでいるよ。 だからこそ励みたまえ。 期待を込めているよ。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ううーん。やっぱりまだ 前回と同じように 賛否相い半ばするのではないかと思う。    《わたしはわたしである》。――この命題は(つまり 自分の考えを述べた文章表現を 命題と言うことをも あらたに日本語として必要だと思うから 使っている) さらにバタ臭い表現で言いかえることも やはり必要だと考えられます。  自同律(同一原理)・自己同一性(アイデンティティー)。あるいは 同語反復(トートロジー)。  そして これを 《 A は A である》と言うだけではなく 《わたし》にかかわっているので――つまりは わたしがどこまで行っても 元の(自然本性としての)わたしであると言いたいわけなので―― 数字の一を用いる。  ぎゃくに言えば カザリでもありうるシガラミを自分の内に取り込むことは 無いということが示される。   1 ⇒ 1 + α   というふうには 《わたし》は拡大することは ほんとうには無い。地位や栄誉を得てクリスマスツリーのごとく膨らむことは ほんとうには無い。あったとしても錯覚である。さらに言えば   1 ⇒ 1 x n = n  といったふうに膨張することも無い。(*)このことは 《 A は A である》だけでは 表わしにくい。(表わすことは出来るが 効果がうすい)。  と考えられます。   * 膨張することはない。:あんたも ブッダは人間であると言っているではないか。つまり 神ではなく 神格化されることは無いと。 n がさらに無限大へと膨らむことは マチガイであると。

bragelonne
質問者

補足

 あんたを BA にすると 出来レースになっちゃうと思うので BA は無し。

回答No.5

論理の構成に助言しとくがね。 数学を差し込んだ点がアウトだ。 数学は神に到達しないと言う西洋の定義が、観念において(迷信と化し)あなたの心がけを柔らかく伝えるアマテラスの愛の代弁となっていない。 西洋かぶれが博識だったのは日本国内でも時代遅れだが、あんたはそんな古い学問を大切にしている。 イエスがあんたの信仰の教科書であったりする点はとやかく言う必要はない。 個人の問題だ。 西洋かぶれの汚名は君自身で挽回したまえ。 要素は多岐にわたるだろうが、むしろ西洋に愛を示しつつ穏便な批判をするのがあなただろうな。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ 要素は多岐にわたるだろうが、むしろ西洋に愛を示しつつ穏便な批判をするのがあなただろうな。  ☆ ここは なかなか複雑な作業をぜんぶまとめて一気に言ってしまっているみたい。  ううーんとですね。  わたしの場合は 西洋・東洋という区別は ないですね。なくなりました。  それはたぶん 途中から 考えるのは日本文として・日本語の世界においてだというふうに決めてやって来たからだと思う。  つまり 外国のものごとや思想などなどもみな 日本語をつうじて基本的にとらえるといった作業をおこなって来た。  これは どういうことかと言うと 外国の文章もそれらはみな 日本語に翻訳した訳者の考えとして捉えるという体裁になったということではないかと思う。  ということは わたしの考えは それがやって来た元はと尋ねたときに 外国の思想も入っている。ということになる。  さらに言い換えると この翻訳の日本文で これこれのくだりは どうも日本人であるわたしにとっては おかしい。そぐわない。と思ったときには それでもその日本文に対して 反応し批判をしたりもする。というかたちだと思う。  その結果として この部分はヨーロッパ人から来ているとか ここは 日本人の発想であるとか そういったかたちが出来上がっているのではないだろうか。  アウグスティヌスの考えを取り上げてさらに説明するならば それをわたしは――むろん外国の人間であると知っているのだけれど―― アウグスティヌスという日本人からすると変わった名前の人間の思想なのだと捉えるわけです。同じ地続きのどこかに住んでいる(いた)一人の人間であると。  ですから もしそれも言うなら せいぜい《地球かぶれ》ではないかな。  ★ 数学を差し込んだ点がアウトだ。  ☆ 日本人も 数学好きはいるようです。これは 数学嫌いの人とで 二分されるのかも知れません。アウトとセーフとが半々かも知れないぢゃん。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

B様。 >「☆ 《想定》というのは 作業仮説のようなものです。  仮説として立てて 理論を形成し そこから広く議論をして行きます。  つまりこの議論の結果で 初めの想定が よかったかよくなかったかを判定します。よ。  ということは 幅広い・むしろ理論の外からの批判を受けて そこでの対話でよいかわるいかを決めます。」 「~国」には、ならないようにね

bragelonne
質問者

お礼

 ふざけるなかれ。  それでも ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

bragelonne様、こんにちは。 >「1. 《わたし》は 生まれながらにおのが身と心に《アートマン(霊我)もしくはブッダター(仏性)》ないしは《プネウマ(神の霊)》をやどす。《非知》としてのナゾなる神が 霊としてこの世界にあまねく満ちているという想定のもとに。」 この「想定」と言われるものが、多分、ネックかと。 >「9-1. 生身のまま完全に自由となることは出来なくとも その視点としては 自由を実現することである。生きる過程の問題であってよい。」 「1」すら、無ければ、ということであります。 (「6」も、かな)

bragelonne
質問者

お礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ この「想定」と言われるものが、多分、ネックかと。  ☆ 《想定》というのは 作業仮説のようなものです。  仮説として立てて 理論を形成し そこから広く議論をして行きます。  つまりこの議論の結果で 初めの想定が よかったかよくなかったかを判定します。よ。  ということは 幅広い・むしろ理論の外からの批判を受けて そこでの対話でよいかわるいかを決めます。

回答No.2

あんたに論議を吹っ掛けたクレーマーはたかが知れてるね。 それは見ていないのだが、人生の目標や意義を論じたのではなく、人生の経験を年寄り臭い言葉で述べたのを、すなわち年寄りの自慢話こそ人生論だと考えているのだろう。 一般的に人生論とはそうだと考えられている。 人生の過程で得たものが悟りだとかそんな論理の根柢があるのだろう。 むしろその点のなって無さを掘り返して君流に批判するのがよかろう。 繰り返すが、人生を語ると言うなら、論理的で十分哲学だよ。

bragelonne
質問者

お礼

 いやいや あまりほめられても・・・。    ご回答をありがとうございます。  たぶん・おそらくその人の見方では 人生をどう生きるかという問いのひとつ前の段階で もし人生のことを扱うとしても その要素や要因など 部分を成す個々のものごとをしっかりと主題として立てそれらを――生きる指針を考える手前で―― 概念として整理する。といったことを 哲学だと捉えているのでしょう。  そのような基礎事項を全体としても 整理しさらに秩序づけて世界観へと理論化し体系化する。といった作業だと考えられているのでしょう。  かんたんに言うと 哲学は 具体的な答えを出してはいけない。といったような。  まぁ そのあたりを課題としてかかげておいて もう少しいろんな意見を聞くことにしましょう。  ありがとう。

回答No.1

くわしく説明してあるね。 専門的言い回しが理解を阻んでいるが、日本人に判りやすい仏教文化から自己を確立する過程として、整った美しい論理だ。 作文として二重丸を付けてやろう。 回答だが。 あんたに間違いはない。

bragelonne
質問者

お礼

 これはこれは。まづは ご回答をありがとうございます。  そこまでほめられると どう言ってよいやら。  それが これでは 単なる人生を生きるときの指針であって 哲学を成すとは言えない。哲学の伝統としての行き方から言えば 派生的なおまけの領域でしかない。のだとか。  この問題提起をめぐって 判定していただきたい。という問いになっています。    ★ 専門的言い回しが理解を阻んでいるが、  ☆ まだ こなれていない。のですね。分かりました。さらに考えてまいります。

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • 仏性は 生命なのですか? 霊なのでは?

     (α) ブッダター(仏性)は 生命なのですか?  あるいは  (β) アートマン(霊我)は 神の霊であって 非経験・非思考だとおもわれる。か?  (γ) ブッダターは けっきょく アートマンと同じなのではないか?  (δ) 生命とは この神であり霊であるのか? そのようにただ想定されているものに過ぎないのか?  (ε) それとも 自然科学によって検証され得るものですか? 経験事象ですか?  (η) あるいは 非経験・非思考でもあり 経験事象でもある? そんなことはないかぁ。  (θ) ヒトの自然本性は 身と心だと思われるが そして霊とは これらを超えたワケの分からないナゾだと思われるが では 生命とは何ですか?  (ι) ヒト(あるいはほかの生物)に付属している(もしくはそのむしろみなもととしてある)チカラでありハタラキであるのですか 生命は? 遺伝子のハタラキですか?

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

     ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに確かに ブッダター(仏性・如来蔵・自性清浄心)の理論があります。のちに言う《非思考の庭》の問題です。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った定理など)    非経験(経験世界を超えた場を想定)      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ------------------------   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  ☆ これらが わが心なる《非思考の庭》における《信》のあり方である。みな同じなのである。ただし思考に非ずとして。  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは そこにふたたび逆転し名前を変えて ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

  • ブッダは ブラフマンの掌で暴れまわった孫悟空では?

     ブッダの独自性は何でしょう?  そのむかしアブラハムという人に《信じる》という非思考の場が芽生えました。  神とわたしとの関係がその信じるままであるならば――という意味は 非思考のはたらきとして記憶能力において精神および身体の秩序がととのっているならばということですが そうであるならば―― とうぜんのごとくひとはやわらがしめられている。こころはやすらかである。ひとと仲良くやっていく。  と知りました。  このことは 古代インドでは神をブラフマン(梵)と呼び《わたし》をアートマン(我)と捉えて その両者の一体(つまり 梵我一如)という思想に表わしました。  あるいは同じく神を プラトンでしたかは 世界霊魂(プシュケー・コスムー)と呼びました。ローマ人たちは アニマ・ムンディと訳し換えて使っています。その後ドイツ人らは 同じくヱ゛ルト・ゼーレと言ったりしていました。  ところで ゴータマ・ブッダは 天の邪鬼よろしく 無我(アン‐アートマン)の説を唱えました。(諸法無我)。ほかのものに依存せずみづから成ってあるという存在を――つまり ブラフマニズム(バラモン教)の宇宙霊であるブラフマンのことを言っているのですが これを―― そんなものは無いと言いました。(もしくは 有るとも無いとも言わないと説明しました)。  ですから いわゆる仏性は――あたかも 宇宙霊のブラフマンが 《わたし》としてのアートマンに宿るというそのようなものとわれわれは捉えていると思うのですが その仏性は―― ブッダは説いていません。あくまで後世になって説かれたものです。   ただしそのブッダも あたかもみづからが宇宙霊となって 自分はブッダとして永遠に生き続けており 自由自在に好きなように歴史に即して人間となって現われるのだというようなことを言ったとされています。つまりそのように後世の人びとは 捉えるようになっています。  乱暴にひと言で言ってしまうなら ブッダは ブラフマニズムという思想の中で孫悟空のように飛び回り暴れまわっていたということではないでしょうか。  《成道》を得たブッダに おまえの悟りを人びとに伝えたまえとブラフマンが勧めた(梵天勧請)と自分(ブッダ)では言っていますが 果たして どれだけの独自性があったでしょうか?  (ないと思って言っているわけではないのですが 批判にまわりたいと思っていますし そのことに道理はあると考えています)。  もし仏性という普遍性の定理は別として言えば もはやブディズムは惰性としての仏教しかないのではないでしょうか? 橋から落ちた犬に引導を渡すのは 哲学の役目だと考えます。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。