ブディズムの効用は親鸞のしめした《信》の理論のみ

このQ&Aのポイント
  • ブディズムにはブッダター(仏性)の理論がありますが、それは既にブラフマニズムが打ち出しているアートマン(霊我)の概念と同じです。
  • また、《空》観は相対と絶対、有限と無限を区別するだけであり、人間は時間的存在であることがわかっています。
  • ブディズムのメリットは親鸞の非知(非思考の庭)としての《信》の理論によってもたらされます。
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ブディズムは ブッダターの提示と親鸞のみだ

 ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第七章 ブディズムの効用は おそらく親鸞のしめした《信》の理論のみ  1. まづ ほかに ブッダター(仏性)の――非思考の庭にとっての――理論があります。けれどもブッダターがすべての人にやどるというこの想定は すでにブラフマニズムが 《アートマン(霊我)》として打ち出している。  2. あと 《空》観がよく引き合いに出される。けれどもこれは けっきょく相対と絶対との――有限と無限との――区別を言ったまで。ひとは 時間的存在だ――時空間としての世界‐内‐存在である――と明らかにしたまでである。  3. それらのメリットは 親鸞の《非知――非思考の庭――》としての《信》の理論におさめられて行く。  ○ 親鸞: 義無きをもって義とす。:非知としてのアミターバ・ブッダ      【Q:親鸞の《義なきを義とす》は 神の依怙贔屓か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7894579.html  ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~    経験      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと知った)    非経験      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)     ○ (非知なる非経験の場⇒非思考の庭)  ~~~~~   非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰   ________________________   思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教   感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)   ________________________  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  4. 非知なる非経験の場は ブラフマニズムにおける神ブラフマンなどのように 全体に対応するひとつの神としておおよそどの民族にあっても持たれている。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモ。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ / マハーワイローチャナ    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》  F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  4-1. つまり ゴータマ氏は ブラフマニズムの非思考の庭のあり方を踏襲し その霊なる神の名前を裏返したのみである。だから 後世の人たちは ブッダターを立てた。これは アートマンのことである。  ☆ 不要およびマチガイを削り 加えるべき認識を加えるようにしてご教授ください。全体についての自由なご批判をも歓迎します。

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noname#189751
noname#189751
回答No.24

分かった。 親鸞の前に法然がいた 法然という心の親がいた それだけは忘れないでくれ。 法然の教えが子供だましなら、なぜ親鸞はそれを受け入れられたのか 無駄かもしれないが、一応書いておく 気に入らなかったら捨ててくれ その方がBさんのためにいいだろう 以上。 定め無きを無義といい 言葉無きをもって無義の義という 無義の義とは祈りの心 仏の慈悲が人の慈悲になるのでもない、人の慈悲が仏の慈悲になるのでもない ただその中に居て知る誠 言葉無き誠を知るは信心のはじまり 祈られし事と祈る事のはじまり

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。  法然についての親鸞の思いを 直筆ではありませんが 歎異抄から引きます。  ▼ (歎異抄 2) ~~~~~~~~~~~~~   http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/tanni/tanni-02.htm   (あ) ・・・念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらんと、こころにくくおぼしめしておわしましてはんべらんは、おおきなるあやまりなり。  ・・・  (い) 親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(=師匠たる法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。  (う) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。  (え) たとい、法然聖人にすかされまいらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからずそうろう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしの見方にて解説します。  (あ)は 聖道門つまり宗教としての信仰を掲げていてもいわゆる自力の思想である行き方を 信仰としては当然ですが 棄てます。(い)で触れているように 浄土門つまり他力だという説明を採ると言っています。  その(い)の行き方は 法然直伝であり あとの(う)や(え)にもしるしているように 法然の行き方につけ加えるものも そこから削るものもないと言っています。  (う)――このくだりは のちに親鸞が採り得て示し得た変化(進展)が 顔をのぞかせているかも分かりません。  そのことを考える前に 先に(え)において法然の行き方をたたえ これを顕揚するのだと語ったことに留意することができます。  かんたんながら これで  ★ 法然という心の親がいた / それだけは忘れないで  ☆ いることを確認しておくことが出来たとします。  ところが親鸞は 先へもすすみます。その境地にさらになお変化を得て行きます。  たぶんそのような境地の深化の可能性は すでにたとえば上の歎異抄の説明の中にもそのキッカケが見出されます。  すなわち (い)で《ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし》という命題をかかげつつも その基本路線のもとにもなお自由度または伸び代があった。それが (え)に明らかだと考えられます。  ▼ (え) 念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり。  ☆ これについては 消極的に見るなら 念仏としての浄土門・易行道は 信心であるのだから 《考える》問題ではないということを確認しているだけだとも見られます。  積極的に捉えるなら そのように《思考に非ず》なる道を一筋にあゆむ――つまりは アミターバ・ブッダの誓願にしてもあるいはその義にしても そんな思考における理念や観念は一向にかまうものではない――と言い放ったかにも見られます。  このような親鸞における自由度ないし伸び代は 例の悪人正機の説をめぐっても発揮されているのではないか。  つまり その説の中身をうんぬんするというのではなく そうではなくすでに 悪人と善人との比較をつうじて信心のありようを《考える》ことを打っちゃってしまうような道へと 念仏・浄土門・易行道についてさらに問い求めていく姿があると見られるからです。  つまり 善悪の彼岸です。《非思考の庭》と言うべき動態なる信仰の座です。  これを 吉本隆明は 《非知》という言い方で表わしています。(ただし この非知が 不可知とどう違うかや 非思考ないし非経験とどう同じであるかについては 触れていない〔と思う〕)。  わたしは 親鸞の思惟の軌跡を時系列で追うことはしていませんので ただ文章を引用するだけですが 次のような知恵の境地に到ったことはマチガイないわけです。  ▼(親鸞:義なきを義とす) ~~~~~~~~~  (お)(親鸞の書簡:末燈抄・十) 他力と申し候ふは とかくのはからひなきを申し候ふなり。  (か)(同上) 仏智不思議と信ぜさせ給ひ候ひなば 別にわづらはしく とかくの御はからひあるべからず候ふ。ただ ひとびとのとかく申し候はんことをば 御不審あるべからず候ふ。とかくの御はからひあるべからず候ふなり。  (き)(同上:九) 他力には 義なきを義とするとは申し候ふなり。  (く)(歎異抄・十) 《念仏には 無義をもつて義とす。不可称・不可説・不可思議のゆゑに》と仰せ候ひき。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《不可称・不可説・不可思議》は ナゾの何ものかのことを言うには それでよいでしょうが アミターバ・ブッダを規定(想定)する定義としては むしろ《非知 ないし非経験の場 もしくは非思考の庭》と表現したほうがよいと考えます。  ★ 法然の教えが子供だましなら、なぜ親鸞はそれを受け入れられたのか  ☆ 法然の行き方に削りもつけ加えもせずに その一筋をさらに問い求めて行った結果たどりついた地点なのです。つまりあるいは 浮気をせすに内部で深められて行き 人間の心的現象がこまかく腑分けされて行ったのだと思われます。  たとえば 《はからひなきを自然と言ふ》というとき 《ハカラヒを無くそうとする》のは ハカラヒなわけです。そういった内面の襞を分け入っておのが心を見つけ出したのでしょう。  ★ ~~~~~~~~~~~~  (け) 定め無きを無義といい  言葉無きをもって無義の義という  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから――ここからは 哲学思想のぶつかり合いです――     (こ) 《定め無き》は 定めが無いという規定をすでにおこなっています。《無義》は じつは 《義》があるかも知れないのです。(この点 親鸞の表現およびそれを踏襲したわたしの説明に不備があったようですが)。  (さ) つまり《定め無き》は 《いっさい何も規定しないということ》の《義ないし意味ないし思惟ないし自力ないし不自然》があるのです。  (し) 《言葉無き》も同じくです。そこに意味ないし思惟を見い出していることになります。ハカラヒをおこなっています。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  (す) 無義の義とは祈りの心  (せ) 仏の慈悲が人の慈悲になるのでもない、人の慈悲が仏の慈悲になるのでもない  (そ) ただその中に居て知る誠  (た) 言葉無き誠を知るは信心のはじまり    (ち) 祈られし事と祈る事のはじまり  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ですから――哲学思想のぶつかり合いつまり 心の対話にあっては 遠慮せずに自由にどうぞではなく 遠慮をしてはいけないのです(遠慮したぶん 心は退化します)――  (つ) 《祈り》は わたしはここにいますと言っています。むしろその前後に聖なるアマエにおいてうんと《おねだり》をすればよいのです。  (て) 聖なるアマエにおいて もし《遠慮》をするなら それは今度は その相手をその遠慮のぶんだけ見くびっていることになります。おまえなんか 神と言ったって あんまし有名ではないし 実績がなく頼りない神なんだよなと語ったことになります。  (と) つまりは 神を評価しうる存在だと自己を見なしたことになります。そんな《立派な》存在が 見下したところの神にむかって どうして祈ったりするのか?  (な) 《慈悲》――(せ)――は それとしてひとつの主題をかかげて問い求めなければならないでしょう。   ○ わたしの側の参考資料:   【Q:慈悲は 人間にとって行為しうる経験現実か?】    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5764972.html  (に) 《まこと(真‐事 / 真‐言 / 誠)》――(そ)(た)――は 《主観真実》のことです。そして確かに別様に《普遍真理》をも意味し得ます。   ○ 真理と事実と真実  ~~~~~~      普遍真理( X )――非経験の場    世界事実( Y )――経験世界・経験事象    主観真実( Z ) 対 真理――《 X - Z / 信じる》     〃       対 事実――《 Y - Z / 考える・感じる》       わたし( i )の世界観: 《 X - Y - Zi 》   ~~~~~~~~~~~~~~~~~  (ぬ) 《非経験の場 X 》をそれがナゾであると知りつつ・だから雲をつかむようなことと知りつつ心( Z )に受け容れる意志行為が 《信じる X - Z 》である。  こんな感じですかね。

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noname#195588
noname#195588
回答No.27

今回は引用が大変だったので 間違いなどがあるかもしれませんので気をつけてください。 要はテキストがなんだか違うという話。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ワイド版 岩波文庫 ブッダ最後の旅―大パリニッバーナ経― 232ページ 第三章  六五 以下1―20節はAN.Aṭṭhaka-Nipāta,LXX(vol1. IV, pp.308-313)に出て来る。また1-10節は Udāna VI,1; SN. vol. V,p 295 f.に出て来る。Cf. Divyāvadāna, pp.200-208. ~~~~~~~~~~~~~~~~ 上記の引用は節の漢数字を算用数字にしました。 確認するのも大変。 ちなみにAṭṭhaka-Nipātaは、Aṅguttara Nikāya (AN)にありました。 http://suttacentral.net/an Divyāvadānaはわかりません。 それで、 http://suttacentral.net/dn16/pi そのサイトのDīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta と、岩波文庫のブッダの最後の旅と 訳がなんだかあわなくて、どうなっているんだと調べた。 suttacentral.netのディーガニカーヤとPTS版のディーガニカーヤとなんだかテキストが違うようです。 ~~~~~~~~~~~ pdfの数字81 テキストのページの数字72 Pali Texts (PTS) Mahavagga (Digha Nikaya II) https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/dighanikaya.html ~~~~~~~~~~~~ 面倒なのでウダーナは確認していません。 ~~~~~~~~~~~~ 一〇 そこで、尊師は、チャーパーラ霊樹のもとにおいて念じて、よく気をつけて寿命の素因(潜勢力)を捨て去られた。 尊師が寿命の素因を捨て去られたときに大地震が起った。人々を驚怖させ、身の毛をよだたせ、神々の天鼓は破裂した(=雷鳴があった)。 そこで尊師は、その意義を知って、そのときこの感興のことばを発せられた。 「量られ、また量られない(身の成立する)もとである<生存の素因>を、聖者(=ブッダ)は捨て去られた。 みずから内心に楽しみ、精神統一をして、殻のような自己の成り立つもとを破壊した」と。 ブッダ最後の旅 72ページ ~~~~~~~~~~~~ “Tulamatulañca sambhavaṃ, Bhavasaṅkhāramavassaji muni; Ajjhattarato samāhito, Abhindi kavacamivattasambhavan”ti. http://suttacentral.net/ud6.1/pi ~~~~~~~~~~~~ それにしても註釈が長い。 ~~~~~~~~~~~~~ 寿命の素因――āyu-saṃkhāra「いのちのもと」である。 この語はMN.I,pp.295,296; SN.II,p.266;Jātaka IV,p.215にも出ている。 ブッダはすでにニルヴァーナに達しているので、死後に生まれ変わることはない。 しかし過去の業の余力があるので、それがこの世で生命をたもつ素因となって、ブッダはなお この世で生きているのである。 インド一般の哲学では潜勢力のことをsaṃskhāra(=Pali: saṃkhāra)というがを (例えば、Praśastapādabhāṣya, Kashi Sanskrit Series,§ 39 ,p. 136 f.)、それと共通の観念である。 ところがここでは寿命の潜在性(可能性)放棄したのである。ここではブッダを神格化して、やがて 大乗仏教の仏身観に向かう第一歩が認められる。 感興のことば――この詩句は難解であり、おそらく文句がくずれているのであろう、とリス・デヴィッズはいう かれはWindisch: Māra und Buddha, pp.37 ,72; Udāna VI,1; SN.V,p.263 ;Divyāvadāna,p203に言及している。) しかしパーリ語としては異様であっても、恐らくマガダを中心とする東部インド語における文句を比較的に忠実に伝えているのであろう。 ブッダ最後の旅 240ページ ~~~~~~~~~~~~~~~ 使用するパーリ語のテキストがPTS版である必要はないと思うけど、 中村元の翻訳したものとは違った仏教理解になっていく可能性もありますね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  次のくだりの読みをこころみてみました。  ▼ (Udāna 6.1 Āyusaṅkhārossajjanasutta 末尾の詩句)~~~~~~~~~  “Tulamatulañca sambhavaṃ,  Bhavasaṅkhāramavassaji muni;  Ajjhattarato samāhito,  Abhindi kavacamivattasambhavan”ti.  ▼ (ブッダ最後の旅 72ページ)~~~~~~~~~  「量られ、また量られない(身の成立する)もと  である<生存の素因>を、聖者(=ブッダ)は捨て去られた。  みずから内心に楽しみ、精神統一をして、  殻のような自己の成り立つもとを破壊した」と。  ☆ (試訳‐1) ~~~~~~~~~~~~~~~  ふつうの( Tulam- )発生を( sambhavaṃ )も(-ca )   特殊な( -atulañ- )発生をも  存在( Bhava- )を発生させるチカラを( -saṅkhāram- )  ム二(聖者)は( muni ) 捨てた( -avassaji )。  定まれるこころの( samāhito )  高き霊なる我れを( Ajjhatta- )楽しめる人は( -rato )  鎧の( kavacam- )ごとき( -iva- )霊なる我れの( -atta- )  生起を( -sambhavan ) 壊した( Abhindi )。と( iti )  ☆ (試訳‐2)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  凡夫にせよ偉人にせよ  存在を生成するチカラを ムニは 捨てた。  すでに定まれる境地にていと高き霊なる我れを楽しめるひとは  鎧のごとき霊なる我れの生成を壊した。と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ もし試訳‐2のように訳すなら そこには その《無我 an-aatman / an-attan 》を説くことに呼応するような《低級な霊なる我れ kavacamivattasambhavan / Bhavasaṅkhāram 》とそして その低いアートマンを捨てその生成を壊すことのできる《いと高き霊なる我れ muni / Ajjhattarato samāhito 》とがあるということになるのだろうか?  それゆえ この高級な霊我を立てたところで  ▲ ここではブッダを神格化して  ☆ ということになるのだろうか。  いえ。わたしには何も分かりません。読んだこともないのですから 知りません。  もっとも もし高級の霊我を《非経験の場 つまり 神〔を受け容れた非思考の庭〕》だとしても 低級の霊我を捨てたり壊したりすることはないだろうにと考えられます。  ★ 要はテキストがなんだか違うという話。  ☆ というお話にお応え出来ていません。すみません。

noname#195588
noname#195588
回答No.26

jIvA http://spokensanskrit.de/index.php?tinput=jIvA&direction=SE&script=HK&link=yes&beginning=0 Ayus http://spokensanskrit.de/index.php?script=HK&beginning=0+&tinput=Ayus&trans=Translate&direction=AU βίος bios ζωή zōē 命を意味するものは他にもあるんだろうけれど lifeで検索しただけでもたくさん。 アミターユスのアーユスと、命を意味するジーヴァは ギリシャ語のゾーエーとビオスのような違いがあるのだろうか? 浄土門の人たちは、 アーユスが人間の外部にあると考えたのだろう。 アーユスを外に出すことで、内からアーユスを捨て去るのだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~ jīva、āyus ~~~~~~~~~~~~~ こんなのを見つけました。 Udāna 6.1 Āyusaṅkhārossajjanasutta http://suttacentral.net/ud6.1/pi 6.1 寿命を形成する働きを捨棄することの経(51) http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html ~~~~~~~~~~~~~~ 15. Āyusaṅkhāraossajjana Atha kho bhagavā cāpāle cetiye sato sampajāno āyusaṅkhāraṃ ossaji. Ossaṭṭhe ca bhagavatā āyusaṅkhāre mahābhūmicālo ahosi bhiṃsanako salomahaṃso , devadundubhiyo ca phaliṃsu. Atha kho bhagavā etamatthaṃ viditvā tāyaṃ velāyaṃ imaṃ udānaṃ udānesi: “Tulamatulañca sambhavaṃ, Bhavasaṅkhāramavassaji muni; Ajjhattarato samāhito, Abhindi kavacamivattasambhavan”ti. http://suttacentral.net/dn16/pi Dīgha Nikāya 16 Mahāparinibbānasutta にもあるようだ。 観無量寿経は現実的な救いがないような気がするけれど ~~~~~~~~~~~ (5) どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教え ください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁 りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄 や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。 わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たり したくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝 し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる 世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」 http://www2.saganet.ne.jp/namo/sub27.htm ~~~~~~~~~~~~~~~~~ ヴァイデーヒーの願いがこうなのだから、 それでいいのかもね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ヴァイデーヒーの願いがこうなのだから、 / それでいいのかもね。  ☆ いやぁ わたしはそうは思いませんね。  この発言を読むかぎりで ワイデーヒーは 問題を解決しようとする意志が消えていますね。つまり生きる意志がなくなっているとさえ見られます。  ゴータマは 石上の布留のやしろの《みたまふり》をほどこしてやらねばいけないでしょうね。    ● 6.1 寿命を形成する働きを捨棄することの経(51)  ☆ どうも分からないですね。早い話が 《いのちを捨てる》って言ってるんでしょう? 分かりません。いくら ニルワーナの《伝統》があるからと言って。  ● ( Ayus ) ~~~~~~~~~  ・存在にかんするもの: man, mankind, life  ・寿命・健康・・・・: long life, health, age  ・ちから・・・・・・: vigour, vital power, active power  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こう見ると 直前の《寿命を形成する働きを捨棄すること》というときのそのハタラキのことを言うのでしょうし そう見たとき その《捨棄する》というのは何ともおかしなことを言うものだなぁと思うのですが どうなんでしょうねぇ。  ● j I vA : life  ☆ これは 現代のロシア語に同根の語があるので分かりやすいです。ジー‐チ(生きる・暮らす)が ヤー ジヴー( I live. )というように活用しますから サンスクリットが ジーワであることにも違和感はありません。  どうも ヰタミンのヰタと同じ語源らしい。つまり ギリシャ語の ビオスとも。  ● ( vital ) ~~~~~~~~~~~~~~   http://www.etymonline.com/index.php?term=vital&allowed_in_frame=0  vital (adj.) :late 14c., "of or manifesting life,"   from Latin  v i t a l i s "of or belonging to life,"   from  v i t a "life,"   related to  v i v e r e "to live,"   from ProtoIndoEuropean root  *g w e i-   (cf. Old Persian  *j i v a k a- "alive;"   Greek  b i o s "life,"  / z o o n "animal;"   Lithuanian  g y v a t a "(eternal) life;"   Old English  c w i c,  c w i c u "living, alive;"   Old Irish  b e t h u "life;" cf. also bio-).  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ちなみに 《Old English  c w i c,  c w i c u "living, alive;" 》というのは 現代の 《 quick 》なる語のことです。  ● ( quick )   http://www.etymonline.com/index.php?term=quick&allowed_in_frame=0  ☆ バスクとフランスにおけるガスコン。(つまり v, b ∽ g )。あるいは 《 go ―― went ―― gone 》の w ∽ g 。  《 j 》は 《 g > g i > j i (イの折れ。 ギ > ヂ)》からです。  《ゾエー》は どうなんでしょう。そう言えば ビオスとゾエーとが 意味において入れ替わったとかいう話を聞いたことがあったような。  生きるチカラとしての アーユスについて  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  浄土門の人たちは、  アーユスが人間の外部にあると考えたのだろう。  アーユスを外に出すことで、内からアーユスを捨て去るのだろうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という見方は どうもよく分かりません。何かの展開がありますか?

noname#189751
noname#189751
回答No.25

しょうがないな 哲学のぶつかり合い、なんて言ったってただの遊びだろ 自分で分からないから、きれいにそう言っているだけじゃないか 落書きのヒントを書いておくよ。 概念規定以前であるという事と、概念規定不可能であるという事と、 概念規定を行わない事が適切である、という解釈 無義というものは、これらのどの状態にも当てはまる 無義の義というからには、これらの状態をさらに一つの規定として扱うという事だ。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ あとは自分で考えろ できないのなら捨てろ どうしても分かりたけりゃ仏様の前へ座れ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 歎異抄の評価は言うに及ばずだ 信仰における親鸞の純粋さを示してあまりある 誰かにすこしくれてやりたいくらいだ ただ親鸞が到達した世界が絶対かというとそうじゃない 小経義疏をはじめ、人の業を直視して悪人正機と言ったんだろうけど 一闡提と五逆罪の重罪悪業の身は除かれている そこでもって密教で言うには「一見阿字五逆消滅・・・」という、業果を畏れぬ懺悔の道もあるにはある また、方便をもって二生、三生を経てでも済度するというスケールの大きな事も言われている まあ、きりがないんだわ・・ 教えの性格上、親鸞はそこまでしか言えなかったという可能性だってある。 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ブディズム、ブッダ的なるもの、ブッダ的思想、仏教的思想 三角ピラミッドにすれば、底辺はブッダ以前という、かざみどりさんが言ったような事だ その上が、お釈迦様の直説で、その上が部派仏教で、その上が大乗で 一番てっぺんにあるのが密教という事なんだろう その密教もピラミッドにすれば格々しかじか・・という 頼富本宏さんに聞いた方がいいだろう 仏教ピラミッドは幾つもある、無数にある ブディズム全体が曼荼羅の世界だ ブッダも親鸞も、その中の一尊にはちがいない みんな個性がある 共通しているのは智慧(理知)と慈悲の顕れという点だ 片手落ちという事はない それぞれが見事な顕れで、それぞれが一つの頂点を持っている ブッダだけが、親鸞だけが頂点という事はない 結縁という事においても不平等という事はない ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ もういいだろう 終わりにしよう まだいくらか不愉快だ 最後に言いたいのは 自分に非があるときには素直に一言謝ったほうがいいという事だ 当たり前の事だし、それが礼儀というものだ それができなければ狭量さを晒けだすようなもんだ 阿修羅になってもいいのか まだ血圧が高いんで、ここいらで止める ごめん。

bragelonne
質問者

お礼

 ● (とある質問) ~~~~~~~~~~~  有頂天と増上慢について、知識のある方、ご教示願えますでしょうか。  また、この二つは密接に関係していたりするものでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ といった主題が披露されました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   概念規定以前であるという事と、   概念規定不可能であるという事と、   概念規定を行わない事が適切である、  という解釈  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これらはすべて人間の側から 人間の能力と努力とで出来る事柄だという前提に立った総括的な規定です。  すなわち 概念規定を超えている場があると こちらは言っています。  体調は よいときとわるいときとがあって その状態に応じて うつくしいものを見た・感じたというその感覚が違うようです。(そういう主題をあつかった質問をいま挙げています)。  わたしの文章に接すると そのときの一時的に現われる感情を超えて うつくしさというものに出遭うことでしょう。  ご回答をありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。    ○ 義無きをもって義とす  これをめぐってですが もし《非経験の場》を想定し規定するとすれば むしろやはり    ○ 非経験の場 : 非義  と表現したほうがよいかとも思われます。経験世界における義と不義とを超えているという意味においてです。  ただし 親鸞のこのいまの命題は まさに非経験の場を――つまり神を もしくは アミターバ・ブッダを――見つけたかに感じて受け容れるときのその過程そのものをよく物語っている。こう捉えられるのではないでしょうか。  具体的には 世の中で 義なる人たちが不遇で逆境に甘んじていることとか 同じことですがこれ以上の理不尽なことはないといった不条理なことがまかりとおっているとか これらの事態にあまんじなければならないときに その相手を演じている当事者たちをも 義と不義とを超えた非経験の場からの目が イノチある人間存在としては あたたかく見守っているんだなと知る。――つまり 義無きをもって義とすとさとった。

noname#189751
noname#189751
回答No.23

Bさん・・ >法然は 信仰論については 低いですよ。  ★ どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない  ☆ 要するに 《もっぱら念仏による往生》という信仰もどきです。 残念だが、これは言っちゃいけないよ 言っちゃいけない言葉だ 浄土宗門徒への侮辱だ Bさん自身が問われてしまうよ・・ どの宗派の教えにも、それぞれの意味や価値があるという事を忘れちゃいけない どの宗祖にも、それぞれの宗教的な輝きがあるという事を忘れちゃいけない Bさんからこの言葉を引き出してしまった事において 質問文に直接関係のない法然を持ちだした私にも責任はある できれば撤回を求めたいのだが たぶんBさんは撤回しないだろう だから反論はしない 私は阿弥陀様の脇にいらっしゃる仏様の信心を頂いた 無義の義、というものを受けた者の一人として思うのは 信じる者が信じない者に何を言っても無駄だということだ お互いに無駄でもいいのだが、お世話になった縁ある教えの宗祖を貶すのだけは黙過できない Bさんにとっては、仏教は終わっているのだろう そんなふうに見えてしかたがない 私も目が悪くなった。 お元気で。

bragelonne
質問者

お礼

 A さん 元気か。ご回答をありがとうございます。  ★ Bさん自身が問われてしまうよ・・  ☆ 身内のあいだの愛という基礎に立って 社会的な愛に臨むわけですが これまでは借りて来たネコみたいに何も言えなかった。遠慮のしっぱなしでした。多少は 気が強くなって来ましたか。  わたし自身を問うてくれと つとに言って来ています。フルボッコで批判をどうぞと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  どの宗派の教えにも、それぞれの意味や価値があるという事を忘れちゃいけない  どの宗祖にも、それぞれの宗教的な輝きがあるという事を忘れちゃいけない  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 法然に対しては すでに親鸞が最上級のうやまう心をもってたたえています。親鸞の傘の中で 口のわるいわたしは 言いたい放題。  ★ 信じる者が信じない者に何を言っても無駄だということだ  ☆ これは おかしい。あくまで《話し合い》が 地獄の底にまでも通用する手形です。  ★ お互いに無駄でもいいのだが、お世話になった縁ある教えの宗祖を貶すのだけは黙過できない  ☆ でも 《念仏をとなえれば 極楽往生する。必ずさとりを得る》というのは 子供だましでしょう。  せいぜいが 子どものような心になるようにという《オシエ》なのかも知れない。そこに 効用があるのかもしれない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  Bさんにとっては、仏教は終わっているのだろう  そんなふうに見えてしかたがない  私も目が悪くなった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《終わらせてはいけない》という清論を俟ちます。  どこまでも 《話し合い》です。

noname#195588
noname#195588
回答No.22

観無量寿経に疑問が出てきた。 http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/kangyou.htm 偽経とかそういうのではなくて 珍しいというかなんというか 誰も現実的には救われていない。 ビンビサーラは幽閉 ヴァイデーヒーは幽閉。そしていわば幻を見る。 アジャータシャトルはそのまま。 幽閉された人間の見た幻 ニヒリズム。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  観無量寿経に疑問が出てきた。  ・・・・  誰も現実的には救われていない。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば《結語》のくだりでは:  ▼ (【仏説観無量寿経の大意】) ~~~~~~   http://mujintou.lib.net/dharma/shinshu/kangyou.htm  [結語]  (え) 仏(釈尊)は、弟子の阿難(あなん)からの、この経の「かなめ」は何なのですかとの問いに対して、念仏すべきことを強調される。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ のだそうですね。ここから さらには 念仏の効用が説かれて行くのでしょうか。  もっとも親鸞は 《非行非善》と言って 《念仏すれば極楽往生する》という命題を真っ向から揚棄しましたが。  ▼ (【仏説観無量寿経の大意】) ~~~~~~~~~  [序分]  (あ) 韋提希(ワイデーヒー)は地面に身を投げ、号泣しながら仏に訴える  (い) そこで釈尊が眉間から光を放って諸仏の浄らかな国土(浄土)を現出されると、韋提希はその中から特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと訴え、そこに行く方法を説き示されるように仏に懇願する。  [本論]  (う) このように仏が説かれたとき、韋提希とその侍女たちは極楽世界のすがたや、阿弥陀仏および観音菩薩・勢至菩薩を見て、歓喜の心が起こり、からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 物語に拠るかぎりで   ▼ (う) からりと迷いがはれて大悟し(廓然大悟)、  ☆ と言っていますね。しかも――よく分からないのですが――  ▼ (う)・・・さとりを得ようとする心(菩提心)を起こして、極楽往生を願った。   ☆ とも続けて語られています。   さとりを得たのか 得ていないのか?    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ビンビサーラは幽閉  ヴァイデーヒーは幽閉。そしていわば幻を見る。  アジャータシャトルはそのまま。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは この   まぼろし  とは何ぞや? になるのでしょうか。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  幽閉された人間の見た幻  ニヒリズム。  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうなんですかねぇ。  とお茶を濁したお応えにてですが。  No.18のお礼欄でわたしは 《仮城・大仮城》ということを言っています。シンキロウです。  シンキロウだったなら ただの一時的な気休めであり その場のなぐさめであるとなります。  もしこのマボロシが 《非経験の場》なるナゾのことだったら・・・。

noname#189751
noname#189751
回答No.21

Bさん ありがとう。 お手柔らかくしてくれたようだ。 自分で言うのもなんだけど・・ この感情魔・・というやつは、心の中のあっちこっちを探るのが好きで止められない まあ、心の中をいろんな旅をしてきたんだろう そんな旅の印象から、人を見てしまう癖があるようだ・・。 (もうちょっとだけ、言いたい放題ゆるしてくれ・・ ) 親鸞の前に、法然と付けるのには訳がある 自分の家が浄土宗だからだ それと、どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない 切り離せないんだ 或いは、完成の前の未完成の魅力・・というものを法然に感じているのかもしれない まあ、法然も親鸞もビッグバン・・と言ったけど 法然を取り上げてみれば 彼は幼い頃に、すでに仏に出会っていたという気がする それは父親との別れの時にだ 父親が敵に討たれて、亡くなる前に・・「恨みなき安らぎの心を得よ」と言ったのが、そうだと思う この子は一生、私を討った敵を憎むだろう・・それではこの子は救われない・・ そういう思いで言ったのだと思う その言葉を忘れる事はなかったと思う その父親の大きな優しさも忘れる事はなかったと思う 父親の優しさは、仏の優しさではなかったか・・と思う だから・・といってはなんだが 法然は長じてからは、父親の冥福を祈る気持ちが人一倍強かったんではなかろうか・・ 或いは、それが浄土の教えにつながったのかもしれない そんなふうにも思う 比叡で学び尽くして、最後に辿りついたのが極楽往生の教えだったのは、偶然ではなかったと思う。 (仏を信じれば)必ず安らかな世界に行ける・・という教え まあ、父親が与えてくれた教えだったのかもしれない・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ こういった慈悲の系譜というのだろうか ブディズムというか、神髄というのか 消えることのない宗教心の輝きみたいなもの・・ 聖者に限らずあるような気がする それは時に身近であり、時に崇高かもしれない 慈悲という心を受けることと、与えることの様々な姿 慈悲とは祈りである・・と言えば分かりやすい まごころで祈る・・と言えば、もっと分かりやすい 慈悲を信じるという困難さは、慈悲との出会いによって打ち破られる 短い人の一生の中で、それは何度あるのだろう・・ たった一回でもあれば、人はこの世に生れてきた意味があるのかもしれない 親鸞もきっとそういう思いではなかったろうか・・ 信心の重さとは、まごころを知る重さ 信心の確かさは、まごころを知る確かさ そんな気がするんだが・・ すこし、きれいすぎたか・・・。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  法然は 信仰論については 低いですよ。  ★ どうしても法然と親鸞が一つに見えてしょうがない  ☆ 要するに 《もっぱら念仏による往生》という信仰もどきです。  念仏は 心の中の思いとしてあるにしろ称名念仏として声に出してとなえるにしろ いづれも思考にかかわっています。経験事象です。  信仰は 経験事象を超えているところのナゾを心に受け容れることです。  よって 親鸞は 信仰ないし往生については 《非行非善》だと言います。  往生するのは 《修行を積んで成るのではなく 善行をおこなって到るものでもない》と言い切ります。経験事象ないし経験行為によるものではないと。   念仏は すでに《即得往生》をしたあと ありがたいと思えば となえればよいわけです。決して手段ではないのだと。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  父親が敵に討たれて、亡くなる前に・・「恨みなき安らぎの心を得よ」と言ったのが、そうだと思う  この子は一生、私を討った敵を憎むだろう・・それではこの子は救われない・・  そういう思いで言ったのだと思う  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 哲学であり倫理学の問題です。つまり 経験事象としてあります。  《やすらぎ》を得ていないと言おうとするのではなく そういうことは 生活の態度としてよくおこなう人は修得することができるでしょう。そしてそれだけのことです。  ★ その父親の大きな優しさも忘れる事はなかったと思う  ☆ これもあり得ます。そして それだけのことです。  ★ 父親の優しさは、仏の優しさではなかったか・・と思う  ☆ これは 《仏》とは何か? がはっきりしないなら 何とも言えません。  ★ 法然は長じてからは、父親の冥福を祈る気持ちが人一倍強かったんではなかろうか・・  ☆ これもあり得ます。よく出来た人間としてあり得ます。ただし 信仰とは別です。  ★ 或いは、それが浄土の教えにつながったのかもしれない  ☆ 《浄土のオシエ》とは何であるか? がはっきりしないなら 何とも言えません。いえ この場合は 一般的にも《オシエ》は だめです。信仰についての説明であるオシエであっても それはすでに概念として述べたものですから 信じる問題ではなく考える問題になってしまっているのですから 思想だけの事柄におさまります。  オシエは いかに信仰について語っていても 信仰とは別です。まして宗教となったオシエであれば せいぜいが道徳です。つまり 倫理学の領域までの話です。  まさか経験思想としてのオシエを《信じる》などと言っているのではないでしょう。それは 《念仏をとなえれば往生する》というその思惟ないし観念をつよく思い込むというだけの話です。  ★ (仏を信じれば)必ず安らかな世界に行ける・・という教え  ☆ ただそういうふうに思惟を成したということを示すだけの命題です。信仰とは何の関係もありません。  《安らかな世界に行ける》のは 実現するかも知れないのです。つまり 心で分かるやすらかさのことです。つまり 信仰とは何の関係もありません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  こういった慈悲の系譜というのだろうか  ブディズムというか、神髄というのか  消えることのない宗教心の輝きみたいなもの・・  聖者に限らずあるような気がする  それは時に身近であり、時に崇高かもしれない  慈悲という心を受けることと、与えることの様々な姿  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このように意味のある世界にあるあいだは・つまり《義》を求めているあいだは ただの倫理や学問あるいは趣味の問題です。高尚な趣味かも知れませんが ただそれだけの話でおしまいです。《義人》であるかも知れませんが 信仰とは何の関係もありません。――と親鸞は 見たのでした。  ★ ~~~~~~~~~~~  慈悲とは祈りである・・と言えば分かりやすい  まごころで祈る・・と言えば、もっと分かりやすい  ~~~~~~~~~~~~  ☆ もし神がほんとうであるなら わたしたちが何かを祈るその前にすでにそのことを知っている。だから むしろ信仰を得たならば 思いっきり甘えればよいわけです。底なしに広くおおきい心で受け留めてくれるでしょう。ですから もし祈りを それでもおこなうというのは それは ここにわたしはいますと ひとこと自己表現をおこなっているのだと捉えます。  ★ 慈悲を信じるという困難さ  ☆ ですから たぶん 無慈悲を見たと思ったときに(あるいは 不条理なことに出遭ったときに) その義無きをもって義とするのは 信じることにつながっていると思われます。  慈悲を信じるというのは 慈悲なる概念ないし理念を理解して受け容れることを言うのでしょう じっさいは。それも 倫理学の問題です。自然法爾の信仰は 思惟を超えています。よ。

noname#195588
noname#195588
回答No.20

やはり、ギリシャ語なのにヘブライ人と書いてあることに指摘がいきましたか。 私も投稿したあと、あれっ、と思いました。 まあ、違うなら違うでいいです。 生贄による憐れみは、 ヴェーダの生贄を批判した仏教からすれば ありえない概念だから 比べればいいというものではなかったですね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ まあ、違うなら違うでいいです。  ☆ わたしの知識では 違うか合っているか 判断がつきません。  ▼ (ヰキぺ:慈悲) ~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2  サンスクリット語の「カルナー (karunā)」は「抜苦」「憐れみ」というのであるが、その原意は「呻き」(うめき)にあるという。  大乗仏教においては、この他者の苦しみを救いたいと願う「悲」の心を特に重視し、「大悲」(mahā karunā)と称する。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは むしろそういった概念としてかたちづくっているというふうにも捉えられるのではないか。と考えるのですが どうでしょう。  ▲ 「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。直訳的には「内臓が動く」。  ☆ これなら 内臓にウゴキを生じるような《呻き》と対応するかも知れません。  あるいはつまり そういう概念として定義するなら そういった思想が出来るかも知れません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  生贄による憐れみは、  ヴェーダの生贄を批判した仏教からすれば  ありえない概念だから  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ こういう事情があるのなら それはまた 違いが出て来るかも知れないとは思いました。    確かなことは まだ分からないというような煮えない応答ですが。

noname#195588
noname#195588
回答No.19

nirvṛtaḥ は、シャンカラの註釈ですから、もっと後の時代です。 ~~~~~~~~~~~~~~~ まいったなあ。 「学識を廃棄して」の学識はpāṇḍityaṃか。 やっぱりサンスクリットはわからんなあ。 bālyaṃ ca pāṇḍityaṃ ca nirvidyātha muniḥ 子供の状態および学識を廃棄して、それから、彼は[沈黙している]隠者になる。 で、 法然、親鸞と出てきましたが 学識を廃棄しては、 浄土門は愚痴に還りて極楽に生ず。 っぽいと思いました。 amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ | 隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」 これは、非僧非俗の親鸞みたい。 ~~~~~~~~~~~~~~ 「ヤージュニャヴァルキヤよ! 一切の内部にある自己は、どれか?」 「飢えと乾き、悲しみ、惑わし、老いと死を超えているものである。まことに、この自己を知って、 ~~~~~~~~~~~~~~~~ これを阿弥陀仏にするのは無理やりですかねえ。 ついでに、 スッタニパータの マーガンディヤ経の「内心の安らぎ」の 安らぎ santiを 安心と訳せば、「安心」という浄土門で重要な概念も 原始仏教に根拠をおけるでしょう。 慈悲と愛の話ですが 単語の意味だけ調べてもしょうがないとは思いつつも 慈は、maitrIだから、ギリシャ語はphilosと比べたらどうだろう? 悲は、karuNA だけど ギリシャ語だとなんだろうと思ったから ためしにcompassionで聖書を検索。 splagchnizomaiなんていうのがでてきた。 ~~~~~~~~~~~~~~ splagchnizomai http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Mar&c=1&v=41&t=KJV#s=t_conc_958041 ~~~~~~~~~~~~~~~ c.f.「かわいそうだ」と訳される「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。 直訳的には「内臓が動く」。ヘブライ人にとって内蔵は怒り、愛、痛み、同情、共感などの感性が 宿る場所だった。日本語では「胸、はら」に該当する。これと異なるのが知的な理解の座である 「頭」だ。 http://www.rikkyo.ne.jp/~kayama/2007jan-seigitoheiwa-mejiro.pdf ~~~~~~~~~~~~~~~ 頭よりも、はらわたの問題かもね。 それでニルヴァーナの問題ですが、 中村元によると、他の宗教からとりいれたもので、方便だそうです。 では、ほかの宗教とはなんだろう?とは思いますが。 わからないです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ 中村元の「自己の探求」新装版  青土社 239ページから引用です。 以下引用。 ところで、こんなに注意してまで長生きする必要があるのだろうか? 世俗の人々が長寿を欲するのは当たり前である。 しかし出家修行者に長寿は願わしいことなのであろうか? 早くニルヴァーナへ入ってしまった方がよいのではないか? これは仏教説としては矛盾ではないか? これは明らかに矛盾であるとわたくしは思う。 しかし仏教はもともと最高目的(paramattha,amata etc.)をめざす教えであり、 もしも長寿がそれに接続するものであり、人間にとって願わしいものであるなら、 それを説いて差し支えない。 そしてニルヴァーナの教えを捨て去ってもかまわないのである。 ニルヴァーナの教えそれ自体が、仏教にとっては、当時のほかの宗教から とり入れたものにほかならず、一種の方便説にすぎなかった。 だからニルヴァーナの教えを捨ててしまってもかまわないのである。 ――――後代の密教徒が行ったように。 ~~~~~~~~~~~~~~~

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ nirvṛtaḥ は、シャンカラの註釈ですから、もっと後の時代です。  ☆ まちがったみたいです。  ○(No.17お礼欄を修正) (ニルワーナ etc. ) ~~~~  ブディズムやジャイナイズム以前:   ・ nirodha ・・・これはあるかも知れない。  以後:   ・ nirvaana ( nibbaana )   ・ nirvṛtaḥ ( nibbuta )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  法然、親鸞と出てきましたが     学識を廃棄しては、  浄土門は愚痴に還りて極楽に生ず。  っぽいと思いました。  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。聖道門は 《学識》に頼る・・・でしょうね。    《愚痴に還りて》は まぁ エポケーをおこなうといったことでしょうか。《能天気》と言ってもよいのでしょうか。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  amaunaṃ ca maunaṃ ca nirvidyātha brāhmaṇaḥ |  隠者でない状態および隠者の状態を廃棄して、それから、彼はバラモンになる。」  これは、非僧非俗の親鸞みたい。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ つまり ブディズム以前のブラフマニズムにあって 《出家と在家との中間》を目指すかたちも描かれていた。ということですかね。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~  ▼ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ヤージュニャヴァルキヤよ! 一切の内部にある自己は、どれか?」  「飢えと乾き、悲しみ、惑わし、老いと死を超えているものである。まことに、この自己を知って、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これを阿弥陀仏にするのは無理やりですかねえ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《自己》が霊我としてのアートマンであるとわたしは採りますが そうだとすると 《アミターバ・ブッダなる神を受け容れたわが心なる非思考の庭》(その動態)のことだと受け取ってみます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  スッタニパータの マーガンディヤ経の「内心の安らぎ」の  安らぎ santi を 安心と訳せば、「安心」という浄土門で重要な概念も  原始仏教に根拠をおけるでしょう。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 背景と言いますか 概念の系譜がどうであるかと言いますかが 分からないので いまはまづ留意してみます。  ★ 慈は、maitrI だから、ギリシャ語は philos と比べたらどうだろう?  ☆ 《友》という内実で共通なのでしょうか? 生活感覚としての語義については 何とも手が出ません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  悲は、karuNA だけど ギリシャ語だとなんだろうと思ったから  ためしに compassion で聖書を検索。  splagchnizomai なんていうのがでてきた。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このあたりは もっとむつかしそうです。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「splagchnizomai スプラングニゾマイ」は通常「憐れむ」と訳される。  直訳的には「内臓が動く」。  ヘブライ人にとって内蔵は怒り、愛、痛み、同情、共感などの感性が宿る場所だった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは ギリシャ語でも 内臓のいけにえがあったのか。それとも ヘブライイズムのナラワシとその言葉から借用したのか。  借用だとすれば いわゆるカルク( calque / loan-translation )でしょうか。つまり 《目からうろこが落ちる》という借用のように。あるいは Uebermensch → Superman → 超人 というように原語の意味をそのまま取って訳した外来語。  ▼ (Liddell & Scott: σπλάγχνον splagchnon ) ~~~~~~   http://www.perseus.tufts.edu/hopper/text?doc=Perseus%3Atext%3A1999.04.0057%3Aalphabetic+letter%3D*s111%3Aentry+group%3D60%3Aentry%3Dspla%2Fgxnon  τό, mostly in pl. σπλάγχνα  A.“σπλάγχανα” , inward parts, esp. the heart, lungs, liver, kidneys, which in sacrifices were reserved to be eaten by the sacrificers at the beginning of their feast (いけにえの内臓)  II. metaph. (like heart), the seat of the feelings, affections, esp. of anger (愛情や憎悪など 感情の座) その動詞化  ● σπλαγχν-ίζω splagchnizoo ,= σπλαγχνεύω splagchneuoo,  II. Med. feel pity, compassion, or mercy (あわれむ)  ● σπλαγχν-εύω splagchneuoo,  A.eat the inwards (σπλάγχνα) of a victim after a sacrifice, (いけにえとしての内臓を儀式のあと食べる)  II. prophesy from the inwards (内臓を見て予言する)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ (中村元) ニルヴァーナの教えを捨て去ってもかまわないのである。  ☆ そのとおりに考えます。《滅》という方向で さとりを捉えようとすることが そもそもマチガイであると単純に思います。

noname#189751
noname#189751
回答No.18

Bさん どうも お世話さまです。 ご苦労さまです。 気楽に・・といっては失礼なんですが 雑感めいた事を話してみます。 軽く聞き流してください (もしかして・・聞き捨てならぬ! といった事がありましたら、お手柔らかにお願いします・・手モミモミ・・ ) ねむり猫さんの >《信》にすべてを凝縮してしまうのならば、 かもしれません。 このへんなんでしょうね・・ 結局、信じるか信じないか・・という 信じられるのか、信じられないのか・・ではなく、信じるか信じないか・・という ストレートな疑問への深まりが、この言葉に込められているような気がします。 「信」あってこその仏教・・という矢印でもありますかね・・? ・ ・ ・ ・ ・ それでもって まあ 現状報告というか ありのまま、というか 実況生中継というか (見るにたえない)悲惨な実態、状況なんですが・・ 法然、親鸞の残した浄土門の教えが、今どうなっているのか・・というご報告 なむあみだぶつ、というお念仏は形だけあって、阿弥陀如来への信心は皆無に近い これが本当のところなんです 遠い昔に、あれほど持てはやされた教えが完全に形骸化してしまった 時代なんでしょうよ・・ね 信じるか信じないかの時代ではなく・・信じられるのか、信じられないのか・・の時代になってしまった みんな頭が良くなったわけですよ だから不幸な人が多くなってしまった 簡単に幸せになれる方法があったのに それはマチガイだという人が多くなってしまった で、現在、信じている人は その一線を越えた、ほんの一握りの人達だけです 遠い昔は、その一線を越えるのに時間がかからなかった 多くの人が越えられた でも今は違うんですね みんな頭がいいから、なかなか越えられない 見向きもしない人がほとんどで、中には「オレは無宗教だ!」なんて威張っている人もいる 具体的な信じる根拠もないのに信じるなんてアホらしい・・ けれども、死んでからの事は分からない・・ だからまあ、適当に手を合せて念仏を唱えておけばいいか・・っていう人がほとんどです と、まあ そんな悲惨な状況なんですが そこから見て・・ 法然、親鸞はマチがっていたのか・・ 或いは、さかのぼってお釈迦様もマチがっていたのか・・ 何の意味もないじゃないか・・屁の河童だ・・という人もでてくる 宗教史という歴史の一ページに書いておくだけでいいんじゃないか・・ という、きわめて合理的な整理整頓に落ち着いてしまう だいいち、「慈悲」という言葉が気に入らない 上からの目線でもって見られているようで面白くない 聖書で説く「愛」でいいんじゃないか スパッと・・愛だけでいい 愛だけで十分だ そ-ゆう人が多くなってきた で、まあ現在「愛」という言葉が氾濫しているわけです 「慈悲」というやつがどこへ行ったのかというと・・ 姿が見えない なくなったのか・・というと、そうではない 「愛」という言葉の影に隠れて見えにくくなっただけです 法然、親鸞は失われても「慈悲」は失われない と そんなふうにも思います。 お釈迦様はどうだったんでしょうね・・ 初転法輪という華々しいデビューを飾った・・ようですが 気持ちはどうだったのかな~ 緊張はなかったんだろうか・・ と、下すの勘ぐりなんですが 心配ご無用というか まあ、堂々とした立派なデビューだったようです 梵天が、ケチケチしないで教えを説いて下さいよ・・という事で しょうがないな・・という事だったようです その、しょうがないな・・という消極性が変わってゆく 消極性が積極性に変わってゆく そのターニングポイントがあったわけです ゴータマという一人の人間の、その後の生涯を決定づけた事があった・・んではなかろうかと思うわけです それは何だったんでしょうね・・ 別にどうだっていいじゃないか、人の気持ちなんだから・・という意見もあるかとは思うんですが まあ、仏典によれば 「衆生への慈悲」と、ごくアッサリと書かれています アッサリすぎて、よく分からない 意外と、ここが大事なんじゃないかと・・なんて思うわけです 気分転換という程度のことじゃなかった 一人の人間の内面、心の中に大変な事が起きた 大事件が起きたんじゃないかと いらぬ想像をめぐらしてしまうんですが・・ それが何だったかというと・・ (まあ、ハナシなんですが・・ハナシ・・) すこし恰好をつけて言ってみると 「慈悲という心のビッグバン」 みたいなものじゃなかったかと・・ 「大慈悲心」と言われていますからね きっと、すごい爆発だったんだと思います みんなビックリした 頼みに行った梵天も、その衝撃でひっくり返ったかもしれない・・ とまあ、それくらい前代未聞の大爆発が起きた・・んじゃないかと 大慈悲心を発する・・という爆発、ビッグバンはその後の初転法輪という、みずみずしい舞台を生むわけです。 ・ ・ ・ ・ ・ ざっと、まあ、こんなふうに見てゆくと 法然、親鸞にもあったんではないか 似たような事があったんではないか・・とも思うわけです 「衆生への慈悲」とアッサリ片付けられている裏側なんだけど 法然、親鸞の場合は・・ 法然は 自分にはこれしかない、みんなにもこれしかない・・という教えを選び取って山を下りた 一つだけを信じ、ただその信じる事にひたむきであれ・・という姿勢を崩さなかった 法然という秀才が選び取った教えは、その後、親鸞という純粋愚直な人間に受け継がれてゆく・・ とまあ、そうなんですが・・ どうなんでしょうね 法然が教えを選んだという舞台裏は・・ 彼は本当に選んだのか・・? という疑問があるわけです これもまあ、お釈迦様と同じでごくアッサリと記されている 経典の一節を読んで感得した・・と書かれているわけですが ただ単に、それに感動して決めた・・という事だったんだろうか? どうもインパクトが弱い感じがする もっとこう、ダダダッ というやつがあったんではなかろうかと・・ まあ、空海が東大寺の大仏に祈願をして、大日経と出会った・・というような 嘘かホントかは分からないんだが それぐらいの事があったんではなかろうかと・・ 彼は選んだのではなく、差し向けられたんではなかったのかと・・ 差し向けられた(不二なる)ものを受け取ったんではなかろうかと・ そんなふうにも思えてくるわけです まあやはり、そこには爆発があったんでしょうね すごい爆発が・・ 差し向けられたものを受け取った時に、すごい爆発が起きた、起きてしまった それでもって、まあ、その後の彼の人生は大きく変わってしまった お釈迦様と同じで、それは「慈悲という心のビッグバン」だったかもしれない ・ ・ ・ ・ ・ あ あ ビッグバン 終わらないビッグバン お釈迦様も、法然も親鸞もビッグバン まだ冷めない 自分もその中にいるのだろう、ビッグバン 誰だ・・? 仕掛けたのは・・? ・ ・ ・ ・ ・ 小さな小さな慈悲の心がふくれて・・いつかは起きるんだろうか それとも、不発弾で終わるのか・・? まあ いいや・・ (こ-ゆう無責任な やからが仏教界にはゴロゴロ ) (いまだもって、他力という甘えが抜けきれない ) (甘えっぱなしという、幸せな馬鹿が結構いる ) ・ ・ ・ ・ ・ 以上、ダラダラと、長々と、くどくどと、言いたい放題でした。 ごめんなさい。 え~と 肝心の 質問の答えは・・(これを言っておかないと叱られる・・) 「慈悲への帰結」 という事でお許し願いましょう。 あ あ~っ ・ ・ 「理知への帰結」 というものもあったか 逆にな・・ あったけどダメだ オレには向いてない なぜっ・・て? 感性的堕落を堕落とも思わない愚か者・・といつも言われているから 裏を返せば 感情的なものの見方は、よろしくない・・という事なんだろう でも まっ・・ 感情を抜きにしちゃったら、味気ないし 感情だって、いろいろだと思うし ピンキリというか・・ そんなこんなで 「慈悲」って、どんな味がするんだろう? 聞いた話だと・・ 「まごころ」っていう味がするらしい なんでも、こいつは世の中で一番手ごわくて、煮ても焼いても食えない 間違って食べちゃった人の話だと・・ こんなまずいものが世の中にあったのか・・といっては涙がでて頭が下がる・・らしい 「世の中で一番まずいやつ・・」 「まごころ」って言いずらいから、照れ隠しにそう呼ぼう・・ ※ご清聴ありがとうございました。 (えっ・・ だれも聞いてない・・?) (そりゃ失礼しました・・ ) (Bさんだけは聞いてくださいね ) (お願いします。 ) (じゃ お元気で・・) 

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~   信じられるのか、信じられないのか・・ではなく、信じるか信じないか・・という  ストレートな疑問への深まりが、この言葉に込められているような気がします。  「信」あってこその仏教・・という矢印でもありますかね・・?  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この文章で感じられる基本的なことは ふたつです。  (あ) 《非経験の場》を心に受け容れる――つまり受け容れるというのは人間の意志行為であり その受け容れる対象は 雲をつかむようなナゾです――というのが《信じる》です。そしてこれは 何を受け容れるかが人間には分からないからには 向こうから(つまり ナゾのほうから)やって来るのを俟つしかありません。  つまり 信じるというのは 信じる対象たる神によって与えられる。のであると考えられます。  (い) ブディズムは 親鸞よりほかの人びとは この《信じる》についてほとんど分かっていません。まづ無理だと見ます。それらしいことは言っていますが 上の(あ)の定義には 達していない。こう見ます。(あぁ 道元がそれらしいことを書いています)。  そして (あ)の条件を満たしていないならば それは《信じる》ではなくアタマで《考える》ことの結果得た《信仰もどき》です。《思い入れ》とか《思い込み》とか《精神のこの上なき純粋な状態を想定したそのこと》とかでしかないと考えられます。精神は 考えるの次元のものごとです。  ★ お釈迦様はどうだったんでしょうね・・  ☆ まるっきりダメでした。信じるとは何かについて ダメです。趣旨説明欄の   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如  これは 理念型として有り得ると推測した結果です。No.5のお礼欄を見てみてください。  ★ ゴータマという一人の人間の、その後の生涯を決定づけた事があった・・んではなかろうかと思うわけです  ☆ 《この上無き知恵を得たさとりの状態》について ずばり答えは何かと訊かれても 《もの自体》は言葉で表わすことは出来ないという逃げ道をみつけたからか あとは すべてさとりにしてもオシエ一般にしても つねにさとり本体の準備段階としての足場だけを上手に組み立てるという手を考えだし あとはペテンが効くと高をくくっていたのだと見ます。  それが ターニング・ポイントだったのだと考えられます。  ★ 「衆生への慈悲」と、ごくアッサリと書かれています  ☆ このご見解を活かして解説するなら こうです。  その当時すでにカーストなる身分制がひどくつらく 個人の考えではどうにもならないほどに生活と心の自由をしばっていました。極論すれば 大方の下層階級の人びとにとって世の中は生き地獄です。その身分は一生変わらないというように先が見えているのですから。  そこで 慈悲の心に厚いゴータマとか言う人間は そのような砂漠を行く人びとにウソでもいいからオアシスを見せてやりたい。こう思ったわけです。大化城と言ったかとも思いますが オアシスのありさまを ウソも方便なのだということで 大々的に人びとにすすんで語って見せてやったのです。  それが 対機説法であり 何十年ものあいだの《業績》が残る結果ともなりました。  そのオシエは ほんとうのところは シンキロウです。逃げ水です。  それだけ ゴータマは 人びとのことがかわいそうでかわいそうでならなかったのでしょう。  ★ 他力という甘え  ☆ という勘違い。です。  《他力》とは 自分の持てるチカラではないということです。自然法爾とも言いますが そんな術語は措いておいて たとえば《他力に頼る》という場合は その言葉の表わす他力というチカラがすでに――そう表現した時点で――概念の意味内容として・またひとつの観念として 自分のものになっています。  つまり《他力》というのは すでにその観念が――観念にかんするかぎり――自分という人間の知性の中におさめられたモノだということになります。つまり 早い話が この場合の他力は 自力なのです。じつは自力であるところの観念としての他力をもてあそんでいる。だけなのだと見ます。《他力という甘え》という場合はです。  聖なるアマエは 他力とか自力とかの次元を超えた場に甘えて行くのですから。  ☆☆(No.15お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~  ○ 《神》とその仮象(分身) ~~~~~~~~~~~~  非経験の場:神・・・・ブラフマン【本体】  ____________________  非思考の庭:信じる人・・・ヒラメキ【ふるくは天使と呼ばれた】  --------------------  思考の緑野:考える人・・・言語・沈黙【仮象】  感性の原野:・・・(アマエ?)    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《非経験の場:神・・・【本体】》と《経験世界:感じ考える人・・・【仮象】〔におけるアマエ?〕》とをきびしく分けて世界を見ること これが 《聖なるアマエ》だと思います。分けたあとは 思いっきり甘えてもよいわけです。何でも願い事をしてもよいわけです。

noname#195588
noname#195588
回答No.17

チャーンドーギヤ・ウパニシャッドのほうも ニルヴァーナを調べようと思ったけど Chandogya-Upanisad (Chandogyopanisad) with the commentary ascribed to Samkara http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil/1_sanskr/1_veda/4_upa/chupsb_u.htm ~~~~~~~~~~~~~ 文章はここから見つけました。 あってるかどうか? http://gretil.sub.uni-goettingen.de/gretil.htm トップページはこちらでしょうか? http://gretil.sub.uni-goettingen.de/ ~~~~~~~~~~~~~ それで早速、「nirvāṇa」で検索。無い。 「nirodho」はあった。 atha yatraitad asmāc charīrād utkrāmati | athaitair eva raśmibhir ūrdhvam ākramate | sa om iti vā hod vā mīyate | sa yāvat kṣipyen manas tāvad ādityaṃ gacchati | etad vai khalu lokadvāraṃ viduṣāṃ prapadanaṃ nirodho 'viduṣām || ChUp_8,6.5 || ~~~~~~~~~~~~~~~ ChUp_6,14.2のシャンカラの註釈 ChUpBh_6,14.2に 「nirvṛtaḥ」はありました。 yathāyaṃ dṛṣṭānto varṇitaḥ svaviṣayebhyo gandhārebhyaḥ puruṣastaskarairabhinaddhākṣo 'viveko diṅmūḍho 'śanāyāpipāsādimānvyāghrataskarādyanekabhayānatharvrātayutamaraṇyaṃ praveśito duḥkhārto vikrośanbandhanebhyo mumukṣustiṣṭhati sa kathañcideva kāruṇikena kenacinmokṣitaḥ svadeśāngandhārānevā'panno nirvṛtaḥ sukhyabhūt / ~~~~~~~~~~~~~ 初期ウパニシャッド全部調べようかと思ったけど 初期[編集] ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド:白ヤジュル・ヴェーダ:初期 第1期 ヤージュニャヴァルキヤの教えが含まれる。アートマンに到達しアートマンからブラフマンに溶け込むニルヴァーナの解説が含まれる。 チャーンドーギヤ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第1期 シャーンディリヤやウッダーラカ・アールニの思想など。 タイッティリーヤ・ウパニシャッド:黒ヤジュル・ヴェーダ:初期 第2期 アイタレーヤ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期 カウシータキ・ウパニシャッド:リグ・ヴェーダ:初期 第2期 ケーナ・ウパニシャッド:サーマ・ヴェーダ:初期 第3期 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A6%E3%83%91%E3%83%8B%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%83%E3%83%89 ~~~~~~~~~~~~~ テキストが見つからなかったので諦めた。 ~~~~~~~~~~~~~ ニルヴァーナ (ジャイナ教) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%8A_(%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%82%A4%E3%83%8A%E6%95%99) ~~~~~~~~~~~~ ニルヴァーナの概念はジャイナ教にもあるみたいだから 仏教特有というわけではないのでしょうけれど ウパニシャッドに比べれば かなり、仏教に特有の概念になるかもしれません。 今までずっとニルヴァーナはインドに昔からある概念だと思っていたので 意外でした。 どうして仏教のテキストに、ニルヴァーナがたくさん出てくるのかは謎になりました。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ニルワーナは ブディズムやジャイナイズム以後に現われた概念だと思われるということですね。  ○ (ニルワーナ etc. ) ~~~~~~~~~~~~  ブディズムやジャイナイズム以前:   ・ nirodha   ・ nirvṛtaḥ ( nibbuta )・・・これらはあるかも知れない。  以後:   ・ nirvaana ( nibbaana )  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▼ (ヰキぺ:ニルヴァーナ (ジャイナ教)) ジャイナ教においてはカルマの呪縛からの最終的な開放を意味する。  ☆ このほうが まだ単純さを残しているように感じます。  ただし わたしには 《カルマ》というのは 単なる言葉の遊びに過ぎないと思っています。  なんで  ○ 滅  ☆ なんて概念を さとりの中身としようとしたんでしょうね。

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  • 《梵我一如》類型は一般および個別絶対性理論だ 

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知(やがて既知となるであろうと推察しておくもの)      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    【α(霊我)】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ直観・良心    -----------------------    【心(精神)】:考える:思考の緑野:コギト     【身(身体)】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(マクロコスモス)との一体性として示される。つまり梵我一如なる類型。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ この仮説でじゅうぶん世界のモヤモヤのあたまは晴れ上がると思うんですけれどねぇ。どうでしょう。

  • 《梵我一如》類型::一般および個別絶対性理論

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超えて因果関係から自由な場ないしチカラである。そのように想定し 《非経験の場》とよぶ。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知        未知      不可知(知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。身と心とから成る自然本性に ぷらすαとしてやどる。    信じる:霊我:非思考の庭:ヒラメキ直観    -----------------    考える:精神:思考の緑野:コギト     感じる:身体:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  ☆ 以上の仮説を たたき台として標題の問い求めをすすめてください。

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     哲学カテが 劣化して来ていませんか。  神とは何かについて 十年一日のごとく ああでもないこうでもないと おままごとを繰り返していませんか。  神は人間がつくったんだとか 全知全能なら何でもできるのではないのかとか いったい全体 よくもそんな落書きを書きなぐって 哲学だと言えるのでしょうか。  人類史上もっとも新しいもっとも妥当な見解を示します。  あらゆる疑問と自由なご批判をフルボッコでどうぞお寄せください。  1. 神は 概念ではないのですが 人間の言葉で・つまり概念として何とか理解しようとひとはつとめます。  2. 概念ではなく経験事象ではないという意味は 次のように図示できるはずです。   (あ) 神は 《非知》である。 ~~~~~~     経験事象       可知         既知         未知       不可知(知り得ないと知ったものごと)     非経験の場(因果関係から自由な場を想定する)       非知 (知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)       ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3. この非知ないし非経験の場を・つまり神をひとが心に受け容れた――これが《信じる》ということなのですが――とき われわれ人間の存在のあり方として次のように図示出来るのではないか。   (い) 《信じる》のは 《非思考の庭〔なる動態〕》である ~~~     信じる:《非思考の庭》:信仰なる動態;⇒ヒラメキ直観     --------------------------     考える:《思考の緑野》:理性←→オシエとしての宗教     感じる:《感性の原野》:知覚;直感ヒラメキ     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  3-1.  《オシエとしての宗教》という意味は まづ一般に成文化されていなくても何らかのオシエがあります。これが 教義となって教祖・教団をともなうなら まさに宗教です。      3-2. 言いかえると オシエは 概念であり想像の世界でもあります。つまり 宗教は 《信じる》とは別の問題であり領域です。宗教の説く《神》は 信じる神とは 別物です。  3-3. もともとは 《信じる》からオシエが得られたとも言えるでしょうが 言葉として教義として成ったなら それは言わば《信仰というセミの抜け殻》になってしまいます。宗教は じつは信仰の自殺行為です。  4. 《信仰》である《非思考の庭》は 実際に具体的に次のようなかたちを採っています。  《梵我一如》というかたちを 一般類型として捉えることが出来ると思います。   (う) 信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えることができる ~~~~~   =《非思考の庭》が 次の二層構造を成すと考えられる。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   4-1. 神は 名がちがっても みな同じひとつの神である。つまり 《非知》である。  4-2. 非知は 経験事象を超えており因果関係から自由であり 経験的な有無をも超えている。     よって人間の言葉で表わそうとすれば 神は有るとも無いとも言いうる。非知は けっきょく絶対ということですから 絶対有とも絶対無とも言い得ます。  4-3. すなわち 有神論も無神論も まったく同じ《非思考の庭》なる信仰である。と帰結されます。     有神論の中で その神の名が いくつかに分かれるというかたちです。       4-4. なお 多神教だとか汎神論だとかというのは 神の《依り代》がいくつかあると見立てた結果持たれた信仰のかたちです。同じひとつの神が 具体的に山の神や海の神として依り代(または 補助線)になっていると見るとき やほよろづの神々が持たれます。  4-5. むろん 《非知》というのも・そして《神》というのもすべて神を理解しようとして持たれる人間の言葉なのであり それらは・それらもすべて 神の依り代です。《かみ》という言葉は 神そのものではなく 依り代のひとつです。神を知りたいというとき人が自由に引く補助線です。  4-6. 人びとは この補助線(依り代)として臨時に用いる神にかんしてその概念を問題にして 全知全能であるとか いやそのように人間がつくったんだとかと言っています。仮りの理論であると心得ないのなら ちゃんちゃらおかしいと哲学は言わなければなりません。  4-7. 神についてのお医者さんごっこは もうやめにしましょう。さもなければ 哲学の劣化は じつに人間の劣化そのものです。  4-8. なぜなら むかしの人びとは それでもまだ曲がりなりにも素直な心で ほんとうの神――非知なるナゾ――をそれぞれ信じていた〔と言える部分が大きい〕と考えられるからです。信じることはそっちのけであるわ かと言って思考能力はおままごとの状態にとどまるわでは いったい何のかんばせがあって みなさんは 生きているのか。

  • 一般および個別絶対性理論:普遍神およびその信仰

     1. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  2. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。    経験事象      可知        既知(間違いだったと分かることもある)        未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)      不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)    非経験の場      非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ。未知や不可知と一線を画す)  3. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。    【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心    -------------------------    【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト     【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  4. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  5. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  6. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  7. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  8. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  9. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。一般にこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く宗教は いまのこの理論の外である。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。  ☆ 以上が 標題についての仮説であり 問い求めのためのたたき台です。吟味・検証しつつさらに推し進めて行ってください。自由なご批判をどうぞ。

  • 一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説

     一般および個別絶対性理論 ならびに特殊絶対性仮説または宗教の絶対的批判  1. 特殊絶対性とは 《われ 神を見たり》なる主観を外から否定も肯定も成し得ないというときその神観としての主観を言う。〔(5)に見るごとく 神は 非知ゆえである〕。  2. 言いかえると 《われ 神の声を聞けり》なる主観は 外へ出かけるなら意味を成さない。意味を成すとすれば 神を人間の認識しうる概念としてのみ扱った場合に限る。  3. ゆえに 宗教は それがもし神を他人に向けて心に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くのならば ただの譫言である。または 神なる概念の弄びである。宗教は 存在理由が無い。  4. 《絶対》とは 経験事象としての有る無しを超え因果関係から自由な場ないしチカラである。《非経験の場》とよび そう想定する。  5. 非経験の場は 認識のあり方として 《非知》である。   経験事象     可知       既知(間違いだったと分かることもあるが知ったとする)       未知(いづれ既知になるであろうと推察されている)     不可知(未知でしかも知り得ないと証明し得たものごと)   非経験の場     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾ)  6. 非知なる非経験の場 これを――《神 またはその一定の名》において――心に受け容れたとき(つまり 信じたとき) わが心には《非思考の庭》が成る。ヒトたる生物の身と心とから成る自然本性に ぷらす α としてやどる何ものかの自覚が起きる。   【 α : 霊我】:信じる:非思考の庭:ヒラメキ・良心   -------------------------   【心:精神】:考える:思考の緑野:コギト    【身:身体】:感じる:感性の原野:センスス・コムニス  7. 非思考の庭は 受け容れる器(ミクロコスモス)とその対象(非対象:マクロコスモス)との一体性として示される。類型として梵我一如とよぶとよい。または 霊霊一如である。   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空(シューニャター)・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ・タターガタ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(超自然およびその依り代としての自然)    霊:われ(自然本性)   G. ユダヤイズム:霊霊一如    霊:ヤハヱ―;(エローホ=神)    霊:われ   H. イスラーム:霊霊一如    霊:アッラーフ(イラーハ=神)    霊:われ  8. したがって 非経験の場 ないし 非知なる神は そのまま普遍神である。名が違うのみである。また それら有神論に対して 《無い神》と名づける無神論も いづれも普遍神についての互いに同等の説明である。  ――これが 一般絶対性である。  9. 個別絶対性とは ひとりの人の信仰 すなわち 《普遍神とわれとの関係》をめぐっての説明となる。  10. というのは 普遍神をよぶ名前が異なっているだけではなく 個人ごとの信仰が――〔非〕対象である神は 普遍神ひとつであると想定されるにもかかわらず―― 互いに同じであるか どう同じであるかが 人間には分からないからである。  11. それは いわゆる証明抜きの公理として持たれる信教・良心の自由という内容につながっている。目に見える現象としては互いに異なるところがあると言わねばならないはずだが その信仰は 個人ごとの個別絶対性として捉えられる。また それとして とうとばれる。  12. 個別絶対性は 神が普遍神であること および その神とわれとのカカハリとしての信仰が霊霊一如なる普遍的な類型において成ること――つまりは 一般絶対性理論――からみちびかれる。  13. 個別絶対性は さらに具体的な個人にあって《普遍神とわれとの関係》が――生身の人間にとってゆえ――多様性を持つと見られるとき 特殊絶対性として捉えられる。  14. ちなみに 信仰から得られた観想を 倫理規範としまた世界観としたのは 宗教のオシヘである。オシヘは すでに思想である。  15. ところが もし宗教がこのオシヘをかかげ 無条件に受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説くなら いまの絶対性理論の外にある。オシヘは 思考の緑野の中におさまり 《考える》ものである。《信じる》とは 何の関係もない。神論としてアウトである。  ☆ ご見解をどうぞ。  

  • 神は ヤハヱーもキリストもアッラーフも同じでは?

     霊のお話です。  神の霊は しんじるのであって 考えるのではない。  信仰は 非思考である。  ゆえに:  ○ (ワタシなる存在における《霊》の位置) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  したがって 《非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)》における《神》は 全体として ひとつであって その名が違っても何らその神に差はない。   ヤハヱー・キリスト・アッラーフなどなどという名は そういう言葉として 《思考》の次元であるから。《非思考の庭》にとっては ただそれを代理してあらわすシルシに過ぎないから。  《無い神》という名の神であっても 同じくである。〔下記の(2)の例を参照〕  参考に 宇宙の霊と 《小宇宙(わたし)》の霊との関係を次のように図解しました。  1. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン主宰神    我:アートマン霊我  2. ゴータマ・ブッダ:無無一如    無:シューナター(空)=ゼロ    無:アン‐アートマン(無我・非我);ニルワーナ(寂静)  3. ブディズム:仏仏一如    仏:アミターバ(阿弥陀仏) / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:タターガタ・ガルバ(如来蔵)・ブッダター(仏性)  4. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  5. (プラトン?):霊霊一如    霊:プシュケー・コスムー(宇宙霊魂) / アニマ・ムンディ( 宇宙霊魂)    霊:《われ》  6. シントウイズム:《あはっ!》:もののあはれを知る    =きよらかなおそれ    =聖なる甘え    =わび・さび  こう捉えておけば もう神の議論は要らないと思われます。そういう問い求めです。いかがでしょう? 

  • 老子は 無神論〔なる信仰〕か?

     福永光司が まとめとして 書いています。  ▲ (福永:《道》をめぐる信仰? ただの宗教?) ~~~~  (あ) 中国において その宗教思想史の全体を一貫して思想的関心の中核をなしたものは   (い) 自己の生命を天(《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》)から与えられたものと自覚し   (う) この天から与えられた自己の生命をどのようにして保ち全うし補い輔(たす)けるかであり    (え) また有限の存在である自己の生命をどのようにして《妙有》《常好》の《上帝》《天尊》もしくは《道》《天理》の無限性と結合し 一体化するかであった。  (福永光司:中国宗教思想史   『岩波講座 東洋思想 第13巻 中国思想 1』 1990 所収)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 《無限》をあつかうのは 信仰――それは非思考である――しかない。宗教はその信仰論であつかった内容を オシエ――それは 思考である――としてこれを どこで間違ったか 信じる(絶対として受け容れる)ことを為す。  (2) 言いかえると もし《道》が 無限であり絶対であり真理であると想定したときには これがいわゆる神であり その神である道について人は そのまま――思考にあらずして――わが心に受け容れる。これが 信仰である。心には《非思考の庭》が成る。それは 生きる存在たる人にとって 動態である。  (3) すなわちここで 信仰の形態を類型的に捉えた《梵我一如》のかたちを確認したい。  ○ (信仰は すべて《梵我一如》類型で捉えられる) ~~~~~   A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ   C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)    仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)       / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)   D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》   E. (プラトン?):霊霊一如    霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)    霊:《われ》   F. 《もののあはれを知る》    霊:かみ(自然および超自然)    霊:われ(自然本性)  G. タオイズム:道人一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (4) (う)の自己の生命の保全は いわば経験的な意志行為であり 経験思想である。しかるに(え)は まさに梵我一如なる信仰としての《道人一如》を指し示そうとしているかに見える。  (5) そのとき問題は  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ というふうに この場合にも《経験的な意志行為》を問うていることにある。けれども 信仰は 非思考である。ハカラヒから自由である。(それでも《受け容れる》という点で経験行為であるはずだ つまり ハカラヒがあるのではないかとの疑問が出るとすれば それは 或る種の《賭け》のごとき意志行為だと捉えるのがよい)。  (6) とすると もしタオイズムを宗教ではなく信仰だと言おうとすれば (3)項における    B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューニャター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  なる無神論の形態だと捉えるすべがある。すなわち 人は有限の生命だから 無限性を帯びる霊我=アートマンは無いと見て 道は無限だがその《無》つまり《無い神》という呼び方を選び取って当てる。   G. タオイズム:道(無い神)人(無い霊)一如 / 無為人為一如    道:無限性:無為自然    人:有限性:人為不自然〔を超えて〕  (7) 言いかえると あと一つ問題なのは  ▲ (え) 有限の存在である自己の生命をどのようにして・・・《道》・・・の無限性と結合し 一体化するか  ☆ なる究極の問い求めに当たって 《道人一如》なる理念を掲げずそのような《一体性》の理念は 打ち棄てて顧みない。ととなえることをもって 信仰であることにとどまるかどうかである。  とどまらないとすれば ただの――非思考であるべき《信じる》を 思考の産物であるオシエに当てはめるという――自己矛盾に拠って立つ宗教である。  以上を問います。  (8) すなわち タオイズムがもしこの問題にかんしてどっちつかずの答えを出すようであるならば それは もう取り上げるに足りない。のではないか? おもしろおかしい話を二つ三つしているという程度の思想であると。  (9) なお福永説に拠らない場合があるかと思います。どしどしご提案なさってください。  (10) なお親鸞の場合には     C. ブディズム:仏仏一如(=有神論)     仏:アミターバ・ブッダ(阿弥陀如来)     仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  を信仰の形態としては・つまりその理論としては掲げつつ けっきょくこの理論によって救われ浄土に行くのかどうかは分からないと言う。つまり理論では必ず往生できるし している。しかもそのことが論証・実証できるかどうかなどは分からないと言う立ち場をも明らかにしている。これは 端的に言って 日本的霊性である。ほかには 聖書にもとづくキリスト信仰のみだと思う。  ここまでを問います。