言葉は自分をはかる?

このQ&Aのポイント
  • 言葉は自分を測る手段である。
  • 言葉の意味反応を知ることで、自己認識ができる。
  • 言葉は自己探求の重要なツールである。
回答を見る
  • ベストアンサー

言葉は自分をはかる?

 たとえば「空は青い」という言葉の意義が知解できるとする。その上で、「で、それがなんなの」という意味反応が自分の中にあるとする。それを知ることが、言葉で自分を測るということ。 時には、「そうだ、そう思う」という意味反応。同じ言葉のものさしがちがった計測値を示す。  意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。字義どうりの「空」「青」とは別の意味として「腑に落ちている」場合もある。それは回想を生じさせいるのかもしれない、そしてて、意識は流れていく。  他人のことはよく分からないが、自分のことについては、偽りのない生の反応が感じられるから、まあまあ、測れると思う。  そして、どういう意味反応をする者に、自分はなろうとするかを図ることができるようになると思う。 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.12

「空は青い」 について、意義または意味について 「それがなんなの」or「そうだ、そう思う」 という可能性。 ご回答者様の場合 >意義のレベルでの理解は、感覚的反応がほとんどない。 >意味のレベルでは「腑に落ちた」ような感覚がある。 ということですね。 でも私は意義のほうが腑に落ちた、という感じがします(=感覚)。 辞書の定義とは別にし、「意義」について、私の定義では本質という意味にとらえています。または追求、専門的な領域で用いられる対象。 一方「意味」は一般的に用いられるとき、便宜上のため、軽くあしらわれるものの対象。 意味はおっしゃるような「意識上に流されていく」ようなイメージです。 「>字義」は一般的用語となる前に、まず事実を説明するためにある言葉=字=道具の意です。 私が「腑に落ちる」ときは「意義」を感じた時です。 それは私は理屈っぽいので、理論や本質(のようなもの)を説くことば(考え)に出会うとき、腑に落ちて気持ちいいのです。 >「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか? 思います。主体的に言葉でコントロール可能なものもあるし(言葉に対する言葉)、ご回答者様のおっしゃるように翻弄される場合もあります。 人生を通し、身をもって「言霊」とは真実だと感じてもいます。これは重要なことです。 潜在意識、脳は「主語を感じない」と言われます。 私はこれが言霊の正体だと思うのです。 言葉は人の意識、心、すなわち人生を左右します。 心を生かし、また、殺します。ですが、言葉そのものに罪はありません。それを使う人の意識の問題です。その意味で「言葉は人(自分)をはかる」とは思いません。 人をはかる言葉でしたら、その言葉を選択する意識の問題です。 >「空は青い」という言葉の意義が知解 ここでひとつ質問なのですが、「空は青い」という「事実」は知解できるものなのですか? 知解は『知識の力で悟ること。』ですよね。 「考え」は知識の力で得、またそこから派生するものですが、「空が青い」という変えようがない「事実」は知解できるものなのでしょうか?

atomonados
質問者

お礼

frauさん。こんばんは。 >でも私は意義のほうが腑に落ちた、という感じがします(=感覚) 受け止めます。 >辞書の定義とは別にし、「意義」について、私の定義では本質という意味にとらえています。または追求、専門的な領域で用いられる対象。 意義と意味が曖昧なので、明確に区分することを意図しています。 人とのコミュニケーションを取る上で客観性を持たせるということ、それと自分が合理的に思考する用がたせるものであるということ、こういうことを目的としていますが、まず後者です。あなたはそれで明確になりましたか。その定義で思考が論理的にできますか。 >一方「意味」は一般的に用いられるとき、便宜上のため、軽くあしらわれるものの対象。 意味はおっしゃるような「意識上に流されていく」ようなイメージです。 「>字義」は一般的用語となる前に、まず事実を説明するためにある言葉=字=道具の意です。 同上ですが、加えて、純粋な定義というものが必要ではないかと私は考えているのです。 >私が「腑に落ちる」ときは「意義」を感じた時です。 受け止めました。 >それは私は理屈っぽいので、理論や本質(のようなもの)を説くことば(考え)に出会うとき、腑に落ちて気持ちいいのです。 分かります。意義や意味を厳密に使い分けようとする私が、意義や意味という語を使わないこの文で、分かるというのも変な話ですが。 本質の直観が、直感的に感じられる。この気持ちよさですね。共感できます。 >「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか? >思います。主体的に言葉でコントロール可能なものもあるし(言葉に対する言葉)、ご回答者様のおっしゃるように翻弄される場合もあります。 共感するところがあるのですね。よかった。 >人生を通し、身をもって「言霊」とは真実だと感じてもいます。これは重要なことです。 共感するのですが、「言霊」という概念は人によって受け止め方が様々で、何か別の表現の仕方が望まれるところです。結局のところ言霊思想なんですが、怪しいところをなくすように表現を考えています。 >潜在意識、脳は「主語を感じない」と言われます。 私はこれが言霊の正体だと思うのです。 なるほど。ここはもう少し分析したいところです。が、先にすすみます。 >言葉は人の意識、心、すなわち人生を左右します。 心を生かし、また、殺します。ですが、言葉そのものに罪はありません。それを使う人の意識の問題です。その意味で「言葉は人(自分)をはかる」とは思いません。 人をはかる言葉でしたら、その言葉を選択する意識の問題です。 おっしゃるとおりです。私の表現に誤りがあります。私が言葉によって人(自分)をはかる。こう訂正します。ご指摘ありがとうございます。 =================================== >「空は青い」という言葉の意義が知解 ここでひとつ質問なのですが、「空は青い」という「事実」は知解できるものなのですか? 知解は『知識の力で悟ること。』ですよね。 「考え」は知識の力で得、またそこから派生するものですが、「空が青い」という変えようがない「事実」は知解できるものなのでしょうか? =================================== 事象と事実を使い分けています。どちらも事柄ですが、現実性があるのが事実です。今この瞬間の経験事実。必ず感覚を伴います。これが記憶され、回想されると感覚はふつうぼんやりとしたものになります。回想されたものが、感覚ではなく、感覚を呼び起こすきっかけのようなものかもしれません。精神から脳に働きかけてバーチャルな弱い感覚状態を生じさせそれを見ているように思います。こういう場合にも、現実性はある訳です。今意識しているという。 事象というのは、そんな現実性を捨象して、感覚を伴わない事柄を言います。「サイコロをふって1の目がでる事象」というときの使い方であり、この事象の内容が現実に結びつくかどうかは、可能的ですが必然的ではありません。 青い空をみて、感覚情報の青→色彩情報の青→言語情報の青という情報処理がされていると見ます。この過程が知解です。知というのは受け入れるための形式で、色彩空間や、色彩概念というものです。そういうものを人は持っていて、そこに感覚対象を分類します。 こういうことを知解といっています。 『知識の力で悟ること』の知識が、区分された知の形式です。力は感性、悟性でしょう。悟ことは「あっ解った」ということ。つまり、区分し用意された形式に、対象が当てはめられ、例えば  青[0]だったのが、青[1]となるようなことです。 1:そうである 0:どちらでもない。-1:そうでない。 こういうパラメータで表しています。 どちらでもない状態に拘束されていたものが、意識対象として青であるという状態に解かれる。そういうことです。 考えを知識の力で得ると言うのは、曖昧さがあります。 私も厳格に区別するに至ってませんが、おおむね、 概念思考によって得られる考え「概念」 概念区分や分類。 推理思考によって得られる考え「判断」 類推(類似性に基づく)。推理(論理性に基づく)。 のように見ています。 ここでいう「空が青い」というのは判断ではなく概念思考です。 対象である空を、対象概念として、述語概念の「青い」に分類して結びつけた。ということです。単純すぎる例で思考の実感はわかないかもしれませんが。覚えたての概念を使うときは思考するという実感はあるでしょう。 分かりやすくまとめることなく、述べてしまいましたがこのへんで。 「脳は主語を感じない」これは考えるヒントになります。ありがとうございます。

atomonados
質問者

補足

言霊思想に触れられたことで、核心をつかれたと思いました。ありがとうごさいます。 「脳は主語を感じない」も記憶にとどめて参考にさせていただきます。

その他の回答 (12)

  • frau
  • ベストアンサー率28% (56/199)
回答No.13

No.12です。 意味と意義の違いについて、ご回答者様は以下のように定義されています。 ---------------------------------------------------------------------------- 意義・・・基本的に言葉が指す内容。国語辞書にあるそれぞれの概念の説明内容。頭で理解するもの。字義。 意味・・・現実的で感覚的な意(おもい)を味わえるもの。心で感じるもの。言葉で表せないもの。(字義として、こう表してはいるが) ---------------------------------------------------------------------------- 辞書では ---------------------------------------------------------------------------- 「意義」について『1 言葉によって表される意味・内容。「その語の本来の―」 』 「意味」について『言葉が示す内容。また、言葉がある物事を示すこと。』 ---------------------------------------------------------------------------- と定義されていますが、意義は「意味」に定義を譲ってます。字面的にはどちらも「内容」を指しています。つまり、その言葉がもつ固有性というようなものは辞書には書かれてません。どうもその言葉の持つ本質や固有性が捉えられない(辞書には不満です。広辞苑だとまた高度な解釈なのでしょうが、値段が高いから持ってませんw。私はご回答者様の「概念の説明内容」という意義についての定義の方が会得できました。 私は「意味」は制限のある自由な解釈が許されるもの、と捉えています。 「意義」については、先の回答でも述べました通り「本質」を表すものと捉えていますので、自由な解釈がさらに限定される定義、と考えました。 いかがでしょうか^^

atomonados
質問者

お礼

>私は「意味」は制限のある自由な解釈が許されるもの、と捉えています。 「意義」については、先の回答でも述べました通り「本質」を表すものと捉えていますので、自由な解釈がさらに限定される定義、と考えました。 概念の意義については、 必然的意義と偶然的意義に分けます。 必然的意義:その概念にとって本質的なもの 偶然的意義:その概念にとって付帯的なもの 「空が青い」の「青い」は付帯的・偶然的意義です。夕焼けで「赤い」時もあります。 ところが、現実に実感している瞬間、付帯的・偶然的意義であったはずの「青い」が、そんな軽いものではなくなります。このときの「青い」は《意味》として受け止め区別することにしています。 意味の領域は広く、「概念の意義がなるほど解った!」に意味があるとも言えます。このへんの意義と意味の厳格な区別ができてないのですよ。意味の深度というのを考えて、  青[-3]、青[-2]、青[-1]、青[0]、青[1]、青[2]、青[3]     と表そうかと考えたりしています。マイナスは否定「でない」です。例えば、「青」という文字を見た、その意義をイメージしたというだけの意味レベルを青[1]で表します。青[2]の意味レベルは、現実に青い空を見ている時のもの。さらにその上に何か別の意味があるのが、青[3]というように。 本質的意義は、意味レベル1、実質的本質は、意味レベル3以上です。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.11

>これが、自分が返す言葉で知る、自分の現在地 言葉に対する感想を現在地と言い換えてるのですね? ということは「言葉は自分をはかる」とは「言葉は自分に感想を与える」と言い換えられるはず それならばその通りだと思います ただ、一歩引いた目で見ますと、感想を与えるから何なのでしょうか 恐らくatomonadosさんは「自分をはかる」という言葉から察するに 自分とは何なのか、その疑問に答えようとしてるのだと思います その趣旨で「言葉は自分を測るか?」という質問を解釈しますと 「言葉に対する感想で自分とは何か分かるか?」という表現が精確ではないでしょうか? そうだとして答えますと、いくら言葉に対する感想を知ろうとも自分とは何かはわからないと思います なぜならそもそも自分なぞ存在しないと思うからです

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。そもそも「自分は存在しない」と思われるのですね。  存在しないものを対象にしてそれが何か「分かる」わけがない。それに「分かる」能力主体の自分というものが存在しなければ「分かる」ことは不可能である。  仮に言葉に対する感想というものがあるとしても、そのことで自分の存在するということにはならない。  おっしゃるのはこういうことだと思います。ご意見は尊重します。しかしぼくには同意できかねますので、補足欄にその内容をコメントしようと思います。時間がかかるかもしれません。

atomonados
質問者

補足

I 葛藤と矛盾の意味論的解釈  デカルトの説を知った高2の頃より、自己存在に関しての矛盾対立は、さほど深刻ではないものの哲学へと動機付けるに十分な、ぼくの内面の葛藤でもありました。それはすでに解消しているのですが、ここでは意味論的に論じようと思います。 (1)矛盾律と排中律  例えば、パルメニデス「あるものはある」とヘラクレイトス「万物は流転する」について、   A「合理主義的(非経験主義的)見解 かつ 非合理主義的(経験主義的)見解」   B「合理主義的(非経験主義的)見解 または 非合理主義的(経験主義的)見解」   Aは矛盾して成り立たず(矛盾律)、Bは矛盾なく成り立つ(排中律)。 (2)一面性と二面性  すなわち、一面的に捉えて矛盾する見解(A)は二面的に捉える(B)ことで解消する。 (3)意義と意味  意義と意味の区別はフレーゲからの借用。ここで、   A 永続的(超時間的・観念的) かつ 非永続的(時間的・現実的)   B 永続的(超時間的・観念的) または 非永続的(時間的・現実的) と捉え直すと、見解Aは意義面での矛盾に、見解Bは意味面での葛藤に相当することが分かる。  たとえば、「ネコ」なる概念は、意義として、イデアルに永続し、リアルに変化するものではない。そこで論理式、「「ネコ」 かつ 「非ネコ」」は恒常的に矛盾であり、偽となる。真であるためには、意味の上でどちらかであることが要請される。(ただし矛盾の解消については、表現を複雑にするだけなので省略する) 意味としての「ネコ」は、リアルに生滅する。それをこう記す。  「ネコ」[0]→「ネコ」[1]→「ネコ」[0] この記法は、「ネコ」が、イデアルな(永続的)意義を、[0]と[1]は意味論的存在パラメータ(非永続的)を示し、  「現実にネコがいない」→「現実にネコがいる」→「現実にネコがいない」 を表す。ただし、「永続的」は絶対的でなく、一貫して「ネコ」なる意義を用いる限りのもの。 (4)意味論的存在論  重要なのは、「ネコ」の存在ではなく、知覚・感覚が意味として存在すること。また、意義としては対象が主題だが、意味としては自分にとっての意味の存在状態が主題となること。 (5)葛藤の意味論的解釈  再び、  「ネコ」[0]→「ネコ」[1]→「ネコ」[0] にもどって考える。この状態が短い周期で交錯していると、ぼくは(広義で)葛藤していると言う。いる・いない、どちらに感覚・知覚してるのかっていう自分への苛立ち。  有名どころで、ハムレットの「生きるべきか、死ぬべきがそれが問題だ」というが、典型的な葛藤。  ・・・「生きるべき」[0]→「生きるべき」[1]→「生きるべき」[0]・・・  ・・・「死ぬべき」[1] →「死ぬべき」[0] →「死ぬべき」[1]・・・  葛藤の解消は、意図の選択、決断することにある。とりあえず破滅的なほうを選ばなければよい。 II 「自分が存在しない」と「自分が存在する」について (1)客観と主観  主観的なことは I で述べた。さて客観に入ります。意義の対立が、客観的にどちらかでなければならないということが要請されない場合は、主観の相異ということで解消する。各々、他者の人権を尊重しましょう。思想の自由、表現の自由ということで。    そして、意義の対立が、客観的にどちらかでなければならないということが要請される場合。これは、現実的に社会的に、義務、権利、責任、能力の主体として「自分が存在する」とみんなが思うことは大前提。とても当たり前のこと。 (2)自己言及の意味論的解釈  この論点は、別に提示しようと思うので省略します。 簡単に言えば、 ・常識に反する ・「自分が存在しない」と思う自分は存在する という異論があって、「自分が存在しない」とは思えないのです。 >「言葉に対する感想で自分とは何か分かるか?」という表現が精確ではないでしょうか? これには、測定という意味がなくて、自然科学的手法をとりいれようとする思いが省かれてしまいます。また「自分はどうすべきか」というニュアンスも省かれてます。ぼくとしてはそこのところを重視しています。自分を、主観的だけれども合理的な、そんな観察を通して把握して、自己表現を調整する。「はかる」には、そういう意図があります。 ガリレオが「なぜ」より「どのように」を重視したように、自分の本質への問いは後回しにします。

回答No.10

ただ、質問者さんの意味反応という言葉とsemantic reactionという考え方が似ているなと思ったので、私の興味・関心から質問しただけです。 これ以上の意味は含んでいません。 また、 semantic reactionを意味反応と訳し、これを説明している日本語のサイトもあったもので・・・。 こうした用語をご存知の上で質問なさったのかな、と思っただけです。 「はい。裁判にかけられているみたいです。」といった不快な思いをなされたのならば、 ここに深くお詫び申し上げます。

atomonados
質問者

補足

不快な思いはしていないので気にしないでください。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.9

リンク先では自分を測るとは自分のものさしによって自分の現在地を測ることだと言っています atomonadosさんの言うものさしとは言葉のことであるのでしょうが、では現在地とはなんですか?

atomonados
質問者

補足

>では現在地とはなんですか? そうですね。現在の状態でしょうか。どんな言葉どんな反応をするかという。あるいは対象が言葉でなくとも、どんな言葉で反応するかとか。その反応の傾向みたいなものを自分の現在地と思います。 たとえば、「美」に対して、「きれいなもの」とか辞書にありそうな意義で反応するほかなかった少年時代。そして時を経て、今では「調和、均整、律動、そういった形式美と自然さを備えた洗練された表現」といった、知的な意味で応答したり、「やがて散る紅葉のはかなさに美を感じる」と言葉を返したりする自分になっている。これが、自分が返す言葉で知る、自分の現在地。

回答No.8

あなたが真に見ているものは何ですか? 実は、網膜表面の感受細胞表面での量子相互作用に 過ぎないのです。 光や音のような情報性の高い先行感覚の相互作用 パターンに対して、過去の五感の相関した経験の 蓄積によって、より生理的な感覚(味覚、嗅覚、 触覚など)を励起させる事で、“そこに行けば何が 起きるか”=予測=空間的広がりを生じるのです。 つまり、見えている事も言葉も、あらゆるものが 「自分(経験の蓄積)をはかる」事でしかないの です。

atomonados
質問者

お礼

>あなたが真に見ているものは何ですか? 実は、網膜表面の感受細胞表面での量子相互作用に 過ぎないのです。 それはちがいます。物理空間ではありません。ぼくが直接見ているのは意識野です。 >つまり、見えている事も言葉も、あらゆるものが 「自分(経験の蓄積)をはかる」事でしかないの です。 自分が(経験の蓄積)というのは、そうかもしれません。ただし、経験の蓄積だけではないでしょう。それが何らかの機能を持つか、それとは別に能力体がなければ、何事も生じないと思いますよ。 言葉のほかあらゆるものが、自分をはかるものであるというご意見ですね。 どうもご回答ありがとうございました。

回答No.7

semantic reactionなる言葉を作ったアルフレッド・コージブスキーに関する記述がウィキペディアにありましたので、ご紹介します。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%96%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC この記事の逸話、つまり、「みなさん、わかったでしょう。これは人々が食べ物を食べるときに言葉も食べていることを示したのです。食べ物本来の味はしばしば言葉の味に劣ります。」という発言は非常に興味深いように思います。 ではでは。

atomonados
質問者

お礼

ありがとうございます。言葉に操られているかということが、よく分かります。 刺激情報:見た目ビスケット、「食べたかったんだ」「うまいだろう」 意義:お菓子 意味反応(連想):うまいお菓子 意味反応(意欲・行為):食べたい。食べる。 刺激情報:"Dog Cookies" 意義:犬の食べ物 意味反応(連想):人のたべるものじゃない。 意味反応(感情・行為):うぇー。たべちまった。思わずトイレに吐きに行く。 解釈としては、こんな感じかな。 そして、この部分、 意義:犬の食べ物 意味(連想):人の食べるものじゃない に、なにか問題がある。 「犬の食べ物」→「それは人の食べるものじゃない」を別に問題ともせず受け入れてしまっていると思う。 「犬の食べ物」→「人も食べることができる」という反応様式(連想様式)をもっていれば問題なかった。連想様式も、記憶され、特定の情報刺激をきっかけに回想されると考えることができそう。

回答No.6

こんにちは。 英語で申し訳ないのですが、 semantic reaction については、 http://www.stevenlewis.info/gs/sr.htm で詳しい説明がなされているようです。 ここで、semantic reactionは ~~~~~~~ Korzybski labelled his system "General Semantics" to reflect his focus on the "semantic reaction," which he defined as human evaluational responses to verbal and nonverbal stimuli in connection with their personal meanings. Translated into the prevailing vernacular, Korzybski's use of the term "semantic reactions" is akin to "thinking-feeling reactions," where "emotions" and "intellect" are not sharply divided but interact in complex ways. ~~~~~~~ と説明されています。 まったく同じではないのでしょうが、 "thinking-feeling reaction" というのはわかりやすいのではないでしょうか。 知(intellect)と情(emotion)が明確に分離していない、複雑に相互に影響し合う(状態)・・・。 ところで、 この質問に示されている内容は、質問者さんのオリジナルなものですか? 意味反応という言葉は質問者さんの造語ですか? それとも、この言葉をどこかで見て知っていたのでしょうか?

atomonados
質問者

お礼

semantic reactionについて調べてくださったんですね。ありがとうございます。 semantic reaction を コージフスキーが日常語で用いるときは、情と知がそれほど明瞭に分岐しておらず相互作用している領域の「思考-感情反応」に類似している。 まあ、似ているといえば似ていますね。無意識コピーなんだろうか・・・。 まったく同じという自覚はないですね。知と情のそれほど分岐していない領域などの概念を、言われれば意義はわかりますが、重視していないのでぼくにはあまり意味がない。 というか、むしろ明確に分岐しているとして、知は、情報(刺激)-意義間の相互作用、情はは、意義-意味間の相互作用としてとらえようとしているのかもしれません。で、意味空間か情報空間かが曖昧な領域でそれを行っている。 ・・・結局同じことですか。 まあとにかく、少し整理がついてきたので感謝します。

atomonados
質問者

補足

>この質問に示されている内容は、質問者さんのオリジナルなものですか? はい。どうして疑われるのか理解できませんが。 >意味反応という言葉は質問者さんの造語ですか? はい。裁判にかけられているみたいです。 >それとも、この言葉をどこかで見て知っていたのでしょうか? 意味論、一般意味論というのがあるのは知ってます。Wikiなどの説明を読んでも、身につかず、「意味反応」は意識的な記憶に残っていません。無意識に記憶していた言葉を借用しているかもしれません。 世界の区分の仕方がいろいろありますが、ぼくは情報空間と意味空間に区分して、人の何やらよくわからぬ言葉にならぬ精神的活動を、意味空間に押し込んでいます。そして現象を情報と意味との相互作用として捉えようとしています。その境界に言語形式のものとして概念があり、その意義を情報空間にその意味を意味空間においています。その境界で、自分は表現者であり観察者です。そういう自分がいる場所が意味空間で、たぶん意味を生産したり消費したりしているのでしょう。

  • asisai888
  • ベストアンサー率15% (11/73)
回答No.5

自分を測るってどういう意味ですか?

atomonados
質問者

補足

「自分のものさしで他人を測る」といったりしますね。それは失礼なことだと思う。 で、「自分のものさして自分を測る」とは聞いたことがない。検索したらありましたが。 http://emptyhouse.jp/entry-2034.html この人と同じようなことを考えて、「自分を測る」って言ってます。 プロタゴラスの「人間尺度論」も自分のものさしで他のものを測って、意見は人それぞれって言ってます。ギリシアには「汝自身を知れ」という箴言があるんですが、その知り方については言説が見当たらない。で、ものさしとして言葉を用いようと考えたわけです。 まあ、心理テストみたいなものかもしれませんが。

回答No.4

「言葉は自分をはかる」と思います。 「空は青い」という単純に客観的な情報。 それを判断しようとした瞬間に この情報にその時点での精神状態による慣性の流れからの傾向が加味された感覚が加わります。 その傾向を導き出すためのきっかけとしての存在が「空は青い」という情報だと思います。

atomonados
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 言語観をいくらか共有できそうですね。客観的な情報と主観的な精神状態。情報空間にある言葉の意義と、意味空間(とぼくは呼ぶ)にある、ことばにならないが言葉に応じた実感というもの、これを区別しています。 たとえば腹がたった自分が、腹立ちまぎれの言葉を表象し、ますます腹が立つというように、ことばに振り回されていた自分が、こんどは言葉を活用しようと考えたとき、どんな言葉を情報として表象すれば、心が安らぐのかと考える。そういう言葉の使い方をして、70億分の1の平和を作ろうとしています。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.3

atomonados様、こんばんは。 ♪「知らなかったよ・・・空がこんなに青いとは」 DE 「言葉は自分をはかる」と、あなたは思いますか? ということですか。 ♪「知らなかったよ・・・空がこんなに青いとは」

atomonados
質問者

お礼

現実に感動して言葉の意味を知った自分というところですか。 ご回答 ありがとうごさいました。

関連するQ&A

  • 使いたくない言葉

    みなさんこの言葉だけは絶対使いたくないというのはありませんか? 私の場合「切れる」という言葉は使いたくありません。 本来、堪忍袋の緒が切れるから出てきたのでしょうが 今の感覚では堪忍というのがすっぽりと抜け落ちているようで 簡単に「切れる、切れた」という人を見るとまるで 「私は何事にも我慢の出来ない子供のような人間です」と 自分で言ってるように思えてしまうのです。 もちろん言葉はその時代時代で意味やその重みが変わっていくのは 承知していますが、皆さんはこの言葉だけは簡単に使ってほしくない この言葉だけは意味を取り違えてほしくないと言うのはありませんか?

  • 「残念で遺憾」という言葉に違和感

    「残念で遺憾」という言葉に違和感があります。 よく政治家が使う「遺憾」という言葉、自分は「残念だ」という意味だと捉えているのですが、 今日、ニュースの記事で「残念で遺憾」という言葉を使っている方がいらっしゃいました。 自分の感覚ですと、「残念で遺憾」は「残念で残念」という感じで、同じ意味の言葉が並んでおり 少し違和感を感じました。 自分の「遺憾=残念という理解」や、「残念で遺憾という言葉に違和感を感じる感覚」はおかしいのでしょうか? 大したことではないので気にしなくてもいいのですが、もし何かご存知の方がいらっしゃいましたら、 ご意見をお聞かせいただけると嬉しいです。 どうぞよろしくお願いします。

  • 自分に関する肯定的な言葉が全く響かないのですが

    自分に関する肯定的な言葉、例えば自分への褒め言葉、自分が何かした事への肯定的な評価等、が全く響きません。 自分の事に聞こえず、漠然とした誰かに対して言っているくらいの感覚なのですが、誰かを傷付けたりしていなければ大丈夫ですかね? リアルでもネットでも人見知りなので、肯定的な言葉どころか、そもそも他人様と話す事も少ないですし。 趣味とかも特に無い(というか、『楽しい』とか感じないので、やっても意味無い感じがして特に何も能動的にしてない)ので、評価される事も無いですし。 問題有りだと対処法を知らないとと思いますが、どうなのでしょう? 他の人が肯定的な言葉を言われていたりする瞬間には、何か感じる時もあります。 自分が否定的な言葉を言われると、しばらく引きずるくらいには色々と感じます。 漫画等の、現実じゃない何かしらでも、感じる事はあります(良かった話でも、嫌な話でも) 特に悪い内容については、我が事くらいに気が滅入ってしまうくらいには色々と感じます。 子供の頃に褒められた覚えが無かったから受け取り方を知らないのかなーとか考えたりはしますが、そういう人向けの記事とかに書いてある肯定的な言葉も、「はあ、そうですか(超他人事)」くらいにしか見えないので、自覚したところで改善の見込みは無いです。 ちなみに、発達障害と社交不安障害で心療内科に通院はしてますが、元から響いてなかった気がするので関係性は微妙だと思います。

  • 言葉がストンと胸に落ちるとは

    面識がある友人知人の言葉、 著者(本やWEBなどテキストのみのやりとり)の言葉が 「ストンと胸に落ちる感覚」とは、その人との相性から来るのでしょうか。 それともその人の「言葉選びのセンス」と私の好みが合っているのでしょうか。 ※金銭・仕事・恋愛等の利害関係が無い間柄でのやりとりを想定しています 世間的に「名言」「文学的な価値がある名文」と呼ばれるものの良さは もちろん理解できるのですが、それとは別に 「言葉単体で見たら、わかりやすいけれど取り立てて珍しい表現をしている わけでも無い、比喩が多いわけでも長文でも無い、 けれど心の奥底に響いて腑に落ちる」 感覚です。 面識がある人の場合、その人の背景を深く知っていて、家族のように近い関係ならば 「その人が発するプラスの言葉はどんなものでも嬉しい」と感じるのは納得できます。 まだ知り合って日が浅い人が何気なく発した言葉が嬉しい、なぜか心の奥に引っかかるけれども理由がわからない…という感覚が、自分でもよく理解できていません。 いったいこの気持ちがどこから来るのか知りたくて質問いたしました。 何か私に気付くヒントをいただければと存じます。 よろしくお願いいたします。

  • この意味を持つ言葉を探しています。

    こんな意味を持つ言葉を探しています。 (3つ言葉を探しているわけではなく、1つの言葉を探す、3つの手がかりです) (1)自分にとってレベルが低くて、合っていない様子を表す。 (2)「私はA大学を志望していたが、周りに『君にとってその大学は○○だ』と言われたので、志望を偏差値の高いB大学に変えた。」という文章の、○○に入る言葉。 ただし、「君にとってその大学は○○だ」と言う文章は、意味が合えば、語順が変わったりしてもいいです。 (3)意味合いとしては、「役不足」(間違った意味ではなく、正しい意味で)みたいな感じです。 (「君にとってその大学は役不足だ」はおかしいと思うので・・・) お願いします。

  • ネットで使う言葉はどう書きどう解釈すればお互いハッピーでいられるのかを

    口頭で言われる場合は問題がないのですが同じ言葉をBBSなどで言われる(書かれる)と異様に気に障るのはなぜなのでしょうか。 私自身、特別に感情移入などせずに、日常レヴェルの感覚で書いたことに異常に反応され、以降のコミュニケ―ションを断念したことがあります。 その言葉を使う意図を詳細に説明すれば、お互いの感情を害さずに済むのでしょうかね。中には実際に出会う機会がまず得られないこと、自分の身の安全を確保していることを前提としたカキコをする人もおられるわけで、語感の問題のみでもなさそうですが…… ネットで使う言葉はどう書きどう解釈すればお互いハッピーでいられるのか、お教えいただければ幸いであります。

  • 言葉の力で自分は変わる?

    このカテに初めて投稿しますが、適切なカテ選択かどうか迷っています。 幾つかの質問を読みましたが、専門用語が多く、理解困難な質問もありますし、難解な「哲学的」問題を平易に回答している場合もあるので・・・ さて、質問ですが、わたしは自分で自分を持て余しています。 精神科やカウンセリングにも通っていますが、イマイチ効果が見られませんし、こちらも多くを期待しないようになっています。 以前町沢静夫という精神科医に、精神分析のようなことを求めたところ、 「あんたは言葉が巧みで、そういうことをやっても言葉遊びに終わってしまう」と、こちらには意味不明のことを言われてそれっきりになりました。 またこのサイトで本当に切羽詰って質問しても、回答者に対して素直になれません。何かしら反論めいた言葉を返してしまいます。こちらには別に意図するところはないのですが・・・ 皮肉ではなく、ここに質問して、適切な回答を得て、素直に自分を見つめ直すきっかけとされている方をスゴイと感じます。 先日このサイトでとても印象に残った回答を頂きました。 個人的に知り合いになりたい。せめてメール交換でもしたい!と思ってしまいました。 以下の質問の#3の回答です。 http://okwave.jp/qa3486922.html これには正直参りました。 これまでのどのカウンセラーより鋭く踏み込まれた思いです。 こういう風に言われるとなぜかとても気分がよく、こういう言葉ならなんでもウンウンと聞けてしまような気がします。 また以下、 http://okwave.jp/qa1808159.html これは私の質問ではありませんが、#3の方の答えに深く考えてしまいました。 わたしは自分が嫌いです。 自分に自信が持てません。 自己を肯定できません。 自分が何者であるかわかりません。 一応大学では哲学を専攻していました。 ・・・すみません、質問の要点がわからなくなて来ました・・・ ただ何故わたしは上記のような回答に反応するのか? 霧が晴れたように感じるのか・・・ そのあたりに何かが隠されているような気がするのです。 ・・・すみません。質問の体をなしていませんが、 何かお感じになられたらご意見お聞かせください。 補足が必要なら言ってください・・・ よろしくお願いします。

  • コケティッシュと言う言葉の意味

    コケティッシュと言う言葉の意味についての質問です。 デートしている年下の20代男性に 『貴女は一言でいうならコケティッシュ』と言われました。 そのときは笑ってましたが、コケティッシュの語源や辞典に載っている意味を改めて調べたら 自分の認識していた意味合いと異なっておりました。 (辞典では:なまめかしい、色っぽい、男性の気をそそる等) ご年配の方であれば、割と辞典のとおりに認識されていらっしゃるかと思います。 しかし最近コケティッシュと言う言葉は、かなり本来の意味から一人歩きを始めていて もしかしたら個人レベルで意味合いがかなり異なってきているのではないかと思います。 私も今回調べるまでは、コケティッシュとは、独特で個性的なことだと勘違いしてました。 独特で個性的がゆえに、結果としてなまめかしさが出ることもあると言う認識でした。 皆さんのコケティッシュと言う言葉の意味はなんですか?どういうイメージですか? 特に20代男性の皆様。ご回答お待ちしております。よろしくお願いします。

  • なぜか心に響いた言葉

    タイトルどうりですかなんでもいいです自分がいいと思った言葉…というか文章などなんでもありです! 漢字でもいいですし歌詞でも映画のセリフでもなんでもアナタが気に入っている言葉を教えて下さい。お願いします。 ◆◇私の好きなものを紹介します◆◇ 『土に根を下ろし 風と共に生きよう 種と共に冬をこえ 鳥と共に春をうたおう』  です。これは【天空の城ラピュタ】のシータのセリフで 何故かジーンときてしまいました。 『神という名の光ができればそこには闇というなの悪が生まれる。光は強くなればなるほどまた、闇も強くなる』  です。これは何かのHPで見てあぁナルホド…と素直に納 得させられた文です。(覚えてしまいましたし 笑 『COM』  なんですけど意味もまったく知りませんし。ただ『COM』  という言葉の響きが好きなだけです。他にも『類』など 好きです。 他にもまだまだノートに書き込んでいるのですか長くなりすきそうなのでこのへんで…。ぜひアナタが好きなコトバを教えて下さい。   

  • 自分の必要性が分からなくなった

    自分がいくらでも取り替えのきく人間だと気づいてしまいました。 仕事とか何をやっても自分より優れている人がいて、 ポンコツな自分よりその人がやった方がいいのではと思えてしまいます。 また誰かに何かを与えたくてもより的確に上質なものを与えられる人間がいて、 自分のことなんて必要じゃないと思えてしまいます。 人にかける言葉にしても自分の言葉は薄っぺらくて、 より深みのあることが言える人間の方が必要とされるのは必然だと思えます。 TwitterやFacebookにつぶやいても反応がなく無視されるし、 本当に僕の言葉は必要とされてないんだなと実感しました。 こんな自分に生きていく意味があるのか分からなくなりました。 心はいつも渇いている、満たされるためには与えなければならない、 でも自分の与えられるものなど誰も必要としない。 こんな僕に生きている意味などあるのでしょうか。