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江戸時代の教育について

江戸時代の教育には藩校などの支配階級を対象としたものと、寺子屋のように庶民を対象とした教育があると思います。 今庶民を対象とした教育について調べているのですが、庶民に教育をするようになった背景がいまひとつつかめません。「農業全書」といった農民向けの書物が出版され、庶民も文字が読めなければいけなくなったからなのかな~と自分なりに予想してるんですが・・・ それ以外の理由などあれば教えてください。よろしくお願いします!

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質問者が選んだベストアンサー

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  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.1

こんにちは。 直接的には行政上の必要からでしょう。 時代劇によく出てくる「触れ書き」や「高札」が掲げられても、字が読めない事には、通達の内容が伝えられませんね。 戦乱の世が終わり、平和な時代が続くと、村単位でそこそこの管理をしていたものが、段々細かく、個人レベルまで管理するようになります。 さらに時代が進むと一揆防止など、身分制度や行政に対する不満を持たいないよう、洗脳教育する意味も持ってきた、というか、こちらの方が重要だったようです。 そのなごりは、今でも「お上(かみ)意識」として残っていませんか?(笑)

yuurii
質問者

お礼

回答いただいてありがとうございます。 行政上ということでしたが、ということは、支配階級の人たちが庶民に教えていたということですか?寺子屋は裕福な町人や僧侶などが教えていたということですが、彼らは幕府など上の階級たちから命令されて教えていたということなんですかね?? 勉強不足なものですみませんっ(><)

その他の回答 (3)

  • kgu-2
  • ベストアンサー率49% (787/1592)
回答No.4

No3のnotnotさんに賛同します。 読み書きそろばんといいますが、読み書きに関しては、「識字率」という指標があります。識字率については、その国の経済水準(一人当たりのGNP)と正の相関があります。すなわち、経済状態が良くなると、識字率は上昇します。言い換えると、経済水準が良くならないと、教育投資はできない、ということです。  現代でも、発展途上国では、成人の識字率が20%程度の国もあります。私は世界国勢図絵のデータから、エクセルでグラフ化しました。  ちなみに、江戸の識字率は50%程度とか。グラフの回帰式からは、予想の倍くらいになります。子供が出来る仕事には、農村なら手伝いがありますが、靴磨きや車の窓拭きは不可能ですから、都市では「水売り」でしょうか。イラクのスラムで子供が20kgの水を運んでいるのを見たことがあります。私の小さいときも、井戸から水をくみ上げていました。ところが、江戸では水道があり、水売りは商売として成立しなかったと推定します。  そうすると、成人といっても小学校卒業程度でしょうか、お店に奉公、という場合に、読み書きそろばんは、付加価値として有用だった、とも考えられます。  成人の識字率は、江戸では50%でも、地方では20%以下だったでしょう。

yuurii
質問者

お礼

江戸の識字率が50%もあったなんて驚きです!!! 世界的にみてもかなり高い識字率ですよね。 ご返答ありがとうございましたm(。。)m

  • notnot
  • ベストアンサー率47% (4848/10262)
回答No.3

上からの要求と言うよりは、 子供を労働力として使う必要が無く、多少の月謝程度を払えるような富裕層が、農民・町民の中にでてきたからじゃないかと思います。身分制度が厳しいと言っても下層武士と農民町民の垣根は低かったと思います。同心(足軽)株の売買もされていたようだし。近藤勇も農民の息子だったのに武士の養子に入って、最後は直参旗本ですからね。 後は商工業の発展で、読み書き算盤の出来る人材へのニーズが高まったとか。 支配階層からすると、被支配者は学が無いほうが支配は楽でしょう。字が読めなくても命令は伝達できますし。

yuurii
質問者

お礼

私はヨーロッパの教育についても学んでいたのですが、 ヨーロッパのギルドたちの教育みたいだなあとふと思いました。 頭がガチガチになっていたので、子供を労働力として使う必要がなくなったために庶民に教育が広まったという発想がありませんでした☆ 考えが広がりました!ありがとうございました~!

  • myeyesonly
  • ベストアンサー率36% (3818/10368)
回答No.2

こんにちは。お尋ねのようで。m(__)m >命令され・・・る必要がないのが教育の恐い所かもしれません。 支配層は何も命令などしなくていいんです。 まあ、最初の頃、読み書きをとにかく普及するというレベルではそういう必要もあり、実態もあったと思いますが、一旦、そういうシステムが確立してしまえば、あとは、支配階級にとって都合の良い理論や思想を「最高レベルの教育」に祭りあげてしまえば、後は、教育に直接かかわる人たちが先を争って勝手にやってくれます。 もしそれに反するような教育を行ったらそれは異端物として取り締まるのは行政の仕事だし、実際それはやられていましたね。 キリシタン禁止などはその最たるものでしょう。

yuurii
質問者

お礼

きっかけがあったとしてもそのあと寺子屋は自然な流れで増えていったということですね。 そして幕府など支配階級に都合が悪いと切り捨てる・・・ なるほど、度々ありがとうございました!

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