ゲツセマネとは何なのでしょう?

このQ&Aのポイント
  • ゲツセマネとは、イエスが祈りに集まった場所であり、彼が苦しみの中で神に願いをささげた場所です。
  • ゲツセマネの祈りは、イエスが死に直面する悲しみと苦しみを抱えながらも、神の御心が成されるようにと祈る姿を示しています。
  • イエスのゲツセマネの祈りは、彼が十字架での死に向かう覚悟を固めるための重要な出来事であり、彼の信仰と従順さを示すものです。
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ゲツセマネとは

 ゲツセマネとは  何なのでしょう?  ▲ (マルコ福音14:32-42) ~~~~~~~~~~~   一同がゲツセマネという所に来ると、イエスは弟子たちに、「わたしが祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。   そして、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを伴われたが、イエスはひどく恐れてもだえ始め、彼らに言われた。    ――わたしは死ぬばかりに悲しい。      ここを離れず、目を覚ましていなさい。   少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。    ――アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。     この杯をわたしから取りのけてください。しかし、     わたしが願うことではなく、     御心に適うことが行われますように。   それから、戻って御覧になると、弟子たちは眠っていたので、ペトロに言われた。    ――シモン、眠っているのか。      わずか一時も目を覚ましていられなかったのか。      誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。      心は燃えても肉体は弱い。   更に、向こうへ行って、同じ言葉で祈られた。再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。彼らは、イエスにどう言えばよいのか、分からなかった。   イエスは三度目に戻って来て言われた。    ――あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。      もうこれでいい。時が来た。      人の子は罪人たちの手に引き渡される。      立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆  その後の十字架の死および復活は 推移としてそのかたちに関しては 割り合い 分かりやすいと思われます。その前に起こったこのゲツセマネの祈りにかんして ご教示をお願いします。  ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。     * 《自分から死ぬのだ》:     ▲ (ヨハネ福音書/ 10章 18節) ~~~~~~      だれもわたしから命を奪い取ることはできない。      わたしは自分でそれを捨てる。      わたしは命を捨てることもでき、      それを再び受けることもできる。      これは、わたしが父から受けた掟である。」      ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ▲ この杯を去らせてください。  ☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか?  あと思うことは このイケニエは もういっさい必要がないということ。これを示したものと思われますが いかがでしょう?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.2

こんばんは。 ~~~~~  1 ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  2 いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか? ~~~~~ 聖書を一貫したもの(予言とその成就)と考えれば、1でなければいけないのでしょう。 しかし、これでは運命論や決定論になってしまい、人には自由意志はない、となるのでしょう。すべては、神によって最初から決定されており、人はチェスや将棋の駒のように動いただけ。 自由意志を持っているように見えるけれど、それは錯覚や思い違いであり、我々の知性などが不完全で、神の計画を知りえないから、自由意志を持っているように見えるだけだ。 人間の機械論ですね。 対して、アダムとイブが神に背いたように、我々には神に背く自由すら与えられるのだ、と考えれば、 2でなければならない。 このことは、ヨハネ黙示録との関わりについてもよく言われますよね。 「我々は、黙示録に記されているような悲劇的な結末を向かえないようにすることも可能なのだ」 といったことを、キリスト教の宗教関係者は口にしたりしますし…。 わたしはクリスチャンでないのでよく知りませんが、キリスト教の中でも、予言についての考え方に相違があるのでしょう。 予言の決定論と非決定論ですね。 ただ、わたしは理系人なので、これについて少し違った考え方をすることができ、その根拠は統計力学とかになります。 たとえば、 粒子一つ一つはランダムな運動をしていても、大きな集団で考えると、その大きな集団はある種の規則的な振る舞いをすることがある。 温度の高い方から低い方へと、熱が流れるようにです。 これと同じように、自由意志と決定論は、かならずしも互いに矛盾するようなものではない、とか……。  ランダム運動をする粒子 → 自由意志を持つ人間  大きな集団 → 社会や集団 というアナロジー的な考え方をするのならば…。 そして、相互間に働く引力のようなものがあれば、この規則性のようなものは、さらにハッキリした形として現われるのであろう…。 あくまで知的お遊戯ですよ。 わたしが真剣にこのようなことを考えていると思わないでくださいよ。 ちなみに、わたしは2の立場をとります。 ですから、 ~~~~~~~ いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?   何故なら イエスは 自分勝手に(《自分から死ぬのだ》*) 磔の刑に――正当に抵抗しつつですが――就くために すべての心と体と人格とを決めたということが考えられるので。 ~~~~~~~ については、イエスの遺志であった。 ☆☆ についても おしえてください。むろんこれは イエスが人間であるということを表わすと見た上でです。要するに イエスも 泣いたということ。ほかに意味が 考えられますか? ◇だと思いますよ。 この部分に該当するルカの記す、イエスの様子はすごいものがありますね。 身悶えしている、地をのたうち回っている観があります。 そして、 天使(聖霊?)に励まされなければ、正常な状態を保てなかったかのように記されている。 また、 このような葛藤がなければ、イエスは我々とは無縁な存在となってしまうのでしょうね。

bragelonne
質問者

お礼

 ぜんぶ飲み込みました。と思って書こうとしたとき――おっと まづは ご回答をありがとうございます。こんばんはです―― 別の考えがさえぎりました。  別のと言っても くつがえすものではないのですが けっきょくねこさんが《知的お遊戯》としてだそうですけれど  ◇ これ(* 統計力学? 熱力学? の成果)と同じように、自由意志と決定論は、かならずしも互いに矛盾するようなものではない、とか……。  ☆ を言っているからには このことをふと思い浮かべました。  すなわち  ☆☆ ~~~~~~~~~~~~~~  1 ひとつには 何ごともなく 逮捕と裁判そしてはりつけへとつながって行くという見方があるようには思います。問題はないというひとつの見方です。  2 いまひとつには このゲツセマネにおいてむしろ その後の経過はすべて 決まったと考える場合があるのではないか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これら二つの見方も 互いに必ずしも矛盾するものではないのではないかと。  そう見るなら:  (1)は 神の子・キリスト(なる神)の立ち場であり  (2)は 人間イエスの立ち場であると。  こう言ってしまったあとでは なあんだと思いますが ここまでたどり着くのは なかなかの回り道をして来たかとも思うのです。  ヒラメキは たぶん人間どうしのカカハリのその過程から生まれるのかも知れません。  どうなんですかねぇ。ナゾがあったほうが おもしろい。ですね。

bragelonne
質問者

補足

 No.1におけるやり取りを経て ここでのひとつの結論に到ることが出来た模様です。

その他の回答 (1)

  • veradico
  • ベストアンサー率44% (11/25)
回答No.1

>このゲツセマネの祈りにかんしてご教示を ということですので, 一つは,ご指摘の通り,イエスは,自発的な意思で命をなげうつと,はっきり言っている点がありますよね。また,バプテスマのヨハネが「ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29 )と言っており,イエスが,神の備えた犠牲であるという観点を述べていますね。この点は,イエスが命を捨てる目的と密接な関係があります。それで,イエスは,神の重要な目的を十分理解しており,そのために,まったく自発的に命を捨てる決意をしていることは明らかです。 では,「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と願うのはなぜでしょう? 一つは,自発的に命を捨てる決意をしている証拠は明らかなので「この杯」は,死ぬことそのものを意味してはいないと考えるのは道理ではないでしょうか。「この杯」は比喩表現なので,何かを表わしています。それは,イエスが「取りのけるに値する」と判断しているものです。それは何でしょう。その一つのヒントは,「アバ,父よ」と呼びかけている点にあります。「アバ」というのは,父親に対する愛情のこもった表現です。そうすると,イエスは,このまま,自分が殺された場合,「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶことを考えて「この杯をわたしから取りのけてください」と願っている,と考えるのは妥当ではないでしょうか。ただし,イエスは,自分の価値判断が最重要ではなく,どうするかは父が決めることだと認めています。 もう一つは,聖書の言葉にある神の預言の成就に対する責任という点も関係しているのではないでしょうか。例えば,マタイ26:53 「…それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」と書かれているので,イエスは,聖書の言葉の成就に対する重大な責任を持っていることを自覚していましたから,それを確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすために,ゲッセマネにおける祈りを捧げて,神に助けと導きを求めたと考えられるのではないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~  では,「どうか、この杯をわたしから取りのけてください」と願うのはなぜでしょう?  一つは,自発的に命を捨てる決意をしている証拠は明らかなので「この杯」は,死ぬことそのものを意味してはいないと考えるのは道理ではないでしょうか。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしにはあたらしい見解かも分かりません。  ゑらでぃこさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ イエスは,このまま,自分が殺された場合,「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶことを考えて「この杯をわたしから取りのけてください」と願っている,と考えるのは妥当ではないでしょうか。  ☆ ですか。ここは ちょっとまだ飲み込めていません。  ★ 自分が殺された場合  ☆ と言いますが まさしく《ころされる――〈木に懸けられる〉――》場合という方法を いまこのゲッセマネで選んだのだし その覚悟を決めたのだとは 思っていたのですが?    そして物語としては 死者の中から 父なる神によって復活させられる。ということまでも すでに織り込まれた。のではなかったのでしょうか?  でも  ★「父」に何らかの望ましくない影響が及ぶこと  ☆ もあり得るのでしょうか?  ★ ただし,イエスは,自分の価値判断が最重要ではなく,どうするかは父が決めることだと認めています。  ☆ ということですね。そのように読めると思います。    ★ もう一つは,聖書の言葉にある神の預言の成就に対する責任という点も関係しているのではないでしょうか。  ☆ これは むつかしいですね。  ★ イエスは,聖書の言葉の成就に対する重大な責任を持っていることを自覚していましたから,それを確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすために,ゲッセマネにおける祈りを捧げて,神に助けと導きを求めたと考えられるのではないでしょうか。  ☆ 通俗的に言えば 念には念を入れて用意をし確認を怠らない。でしょうか?  これの裏付けとしては 《見よ、わたしを裏切る者が来た。》(マタイ福音26:46)とイエスが言ったあとのくだりからですね。  すでにイエスを捕らえようとしてやって来た大祭司の手下らに イエスと一緒にいた者が剣をもって打ちかかったので これに対してイエスが言ったことば:  ▼ (マタイ26:53-54) ~~~~~~~~~~   「…それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。すでにイエスは 心が決まっていますね。  ★ 確実に,しかも,神の是認される仕方で果たすため  ☆ の行動について決まったかたちになっていた。これが ゲッセマネですか。これは すんなりと腑に落ちるように思います。  ふうーう。こんな感じでしょうか。

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    キリスト教では,自殺した人は地獄に落ちることになっていると思います. 一方,聖書には 友のために命を捨てる行為を賞賛する記述があります. 「友のために自分の命を捨てること,これ以上に大きな愛は無い.」ヨハネ福音書15:13, 「イエスは私たちのために命を捨ててくださいました.そのことによって私たちは愛を知りました.だから,私たちも兄弟のために命を捨てるべきです.」ヨハネの手紙一3:16など この世での苦しみに耐えかねた二人が お互いのためを思いあって心中自殺した場合, 二人は天国に行くのでしょうか. それとも自殺の罪で地獄に落とされてしまうのでしょうか.

  • 《友のために自分の命を捨てる・・・愛》とは?

     ずばりお尋ねします。次の聖句は どういう意味でしょう?  ▲(ヨハネによる福音書 15:13) ~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=15&v=1&x=57&y=17#conc/13  ・(新共同訳) 友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。  ・(KJV) Greater love hath no man than this, that a man lay down his life for his friends.  ・μείζονα  ταύτης  ἀγάπην  οὐδεὶς  ἔχει  ἵνα  τις  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  θῇ  ὑπὲρ  τῶν φίλων  αὐτοῦ  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  問いの(1):《友のために》の《ために》がどういうことを 具体的なコトとしても・あるいはその両者の関係のあり方としても 言っているのか? これが分かりかねています。  (1‐1) たとえばその自分の死が《友のためになる》と 自分の心の中で思っていればよいのか?  (1‐2) あるいは具体的に自分は死ぬがそれによって友は生き残るといった事態を言っているのか?   (1‐3) ただしこの場合も じつは(1‐1)項と同じようにただおのれの内面における《思い》の問題であるのではないか? はっきりと友を生かすために自死をえらんだということが 誰から見てもみとめられるという事態はあるだろうか? あるとして言っているのか?  (1‐4) あるいはつまり 友がどう思おうと・また第三者が何と言おうと 自分は その自死によって友を生かすことにしたし その思いにかんするかぎり そのとおりに実行した。ということであればよいのであろうか?  (2) けれども そもそも人に《自死》はゆるされるのだろうか? このように聖句にあるからという理由によって《いのちを捨てる》ということをしてもそれは ゆるされないのではないか? (ゆるされないという公理があるのではないか?)  (3) 《命を捨てる》ということは 果たしてどういうことなのか?  (3‐1) この和訳は どうも手さぐりでしらべてみると 原文では《いのち(プシュケー)を置く(テーイ < ティテーミ》と言っているようである。  すなわち英訳が 《 lay down his life 》とあらわしているとおりであるらしい。  これは 何を意味するか? 慣れ親しむまでには原文に通じていませんのでおしえてください。  (3‐2) さらに調べてみると たしかにこの《いのち(プシュケー> たましい?)を置く》という表現のかたちが イエス自身の言葉としてその行為を示すときにも使われている。  ▲ ( ヨハネ福音 10:11) ~~~~   http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?t=KJV&b=Jhn&c=10&v=1&x=71&y=18#conc/11  ・わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。  ・ I am the good shepherd: the good shepherd giveth his life for the sheep.  ・ Ἐγώ  εἰμι  ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλός    ὁ  ποιμὴν  ὁ  καλὸς  τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  ὑπὲρ  τῶν  προβάτων  ~~~~~~~~  ☆ すなわち ここでは英訳が《 give one's life 》として少し変えてあるけれど  《プシュケー(命) とティテーミ(置く)》という二語の組み合わせ(τὴν  ψυχὴν  αὐτοῦ  τίθησιν  )で同じく表わされている。  よって――まさかであるのかどうか―― イエスと同じようにあたかも《はりつけ》になるようなかたちで 友のために 死に就くというのであろうか?  (3‐3) ちなみにパウロは 《イエスの死》を別の語で表わしている。  ▲(パウロ:ローマ書 5:6) ~~~  実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった〔 Christ died / Χριστὸς ἀπέθανεν(<ἀποθνῄσκω apothnēskō) 〕 。  ~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《アポトネスコー》つまり例のタナトスの語根を使った語を用いている。どういう違いが生じているのか?  (3‐4) ペテロが次のようにイエスから叱られる場合は 関係あるのかないのか?  ▲ (ヨハネ福音 13:38) ~~~~  イエスは答えられた。   「わたしのために命を捨てる( lay down thy life / Τὴν  ψυχήν  σου   θήσειςつまり プシュケーとティテーミの組み合わせ)  と言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」  (3‐5) けれども イエスの場合の《死ぬ》というのは 次の意味のもとに言われているのではないか?  ▲(ヨハネ福音 10:17) ~~~~  わたしは命を、再び受けるために、捨てる( lay down my life / τίθημι  τὴν  ψυχήν  μου  つまりプシュケー+ティテーミ)。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。  ▲(同上 10:18) ~~~~  だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる( lay it down / τίθημι  αὐτὴν つまり《それ》+ティテーミ)。わたしは命を捨てる( lay it down / θεῖναι  αὐτήν つまりやはり《それ》+ティテーミ)こともでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。  ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち《命をすてたあと それを再び受けることも出来る》つまりおそらく《復活》を言っているのだから 基本的に《命を捨てる》そのことが イエスとわれわれ人間とでは 違うようにも思われる。のではあるまいか?  (3‐6) それでも・さらにそれでも イエスの磔による死のあとの復活にあやかった再生をも人間もがあたえられるからには イエスと同じように《友のために命を捨て》ればよいのだとなるのでしょうか?  (4) 下司の勘繰りを 最後にひとこと。そこまでして命を捨てられた友は そのことを負い目や重荷に感じることはないだろうか? ありがた迷惑に思うことはないだろうか?  以上よろしくご教授ください。