日本人論の深みを問い求める

このQ&Aのポイント
  • 日本人論の深みを互いに問い求めるため、小説家の文章を紹介します。
  • 黄色い人という童話において、神さまは白人、黒人、黄色人という人間を作ります。
  • 司馬遼太郎によると、日本人は絶対という思想を持っておらず、相対的世界を楽しむ文化です。
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日本人は・・・

 小説家の文章をふたつかかげます。  これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。  自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。  なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。  ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)  ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html   近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。  日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。  神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。  山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。  いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。  (開高健への弔辞)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

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  • asisai888
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回答No.5

遠藤周作が言っていることは、日本人は肌の色が黄色いということ 司馬遼太郎が言っていることは、日本人は西洋人と異なる宗教を持っていること だと思います この二人に共通するのは日本人と外国人を分けることができるという前提を受け入れていることです 日本人が存在し、日本人と異なる外国人が存在する、この異なる両者を比べて 得られる差異が日本人の特徴であると言っている でも私はそういう比較する見方はピントがズレてるように思えます というのも日本人の内でもその差異は存在するからです 色白の人もいればキリスト教を信じてる人もいるはずで、彼らの見方をすれば そういう人達は日本人ではないという結論になってしまいます 日本人論に深みを持たせるには比較される内容ではなく、比較することができるという ことそのものに着目すべきです つまり我々は当たり前のように日本人と外国人を区別して考えることができる 日本人という共通の概念が存在し、我々はそれに帰属していると思ってる 比較におけるこの前提が成立することそのものが日本人の存在の証明になるでしょう ではどのようにして我々は日本人であると言えるようになったのでしょうか 私は日本人である、そしてあなたも日本人であると言わしめる「何か」 その「何か」が日本人論の最深部にあるものであると思います

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そして 別の質問――【Q:・・・言葉の凶器化・・・】――では たいへん失礼いたしました。みなさんにもお伝えしなければならなかったのが いま気がつきました。削除の理由は おそらく表題として提出している問いは 一般性を持つものであるが その問題が 特定の参加者の発言に色濃く(もろに)かかわっているので そこまで個人を特定した質問は ダメであるということだと考えます。  すでにやり取りが始まっていた論点を別の質問として分けて問うたのですが 焦点が絞られすぎたのかと思われます。  いづれにしましても みなさん せっかくのご回答がなくなってしまって たいへん申しわけありません。どうかおゆるしください。  気をつけてまいりたいと思います。  さて 全体としてまづは ずばり斬ってしまわれました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  遠藤周作が言っていることは、日本人は肌の色が黄色いということ  司馬遼太郎が言っていることは、日本人は西洋人と異なる宗教を持っていること  だと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 全体として そうなのでしょうね。違いがあるということを言おうとしている。のでしょうね。  言いかえると たとえば遠藤は いい意味でもよくない意味でも日本人は《あいまいの美学》を持つし重んじるようだという具体的な論点をも提示していると思われますし 司馬は 確かに《絶対》なる概念をめぐる扱いについて 細かくも触れている。  ところが 絶対は 必ずしも触れなくても 相対世界のことをちょうど《もののあはれを知る》と言ってのように相対性なる世界だと心得ているなら その絶対とわれとは 意識せずにすでに相い対している。ということはありうる。――だから 西欧の《絶対》好きと日本とは そうは変わらないとも言うべきだ。うんぬんと言えるかも知れないからです。  あるいは あいまいさは 中庸でもあり たとえばアリストテレスは――聞きかじりで言いますが―― 文字通り両極の中間という意味で しかも倫理の面としても中庸を説いているのだとか。うんぬん。  といったふうに議論を持つなら 何がどうなのか それほど明確に区別されるとも限らない。のかも知れません。  と言わずもがなのことをしゃべって さてご回答の内容がどのように展開されて行くのでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~  日本人が存在し、日本人と異なる外国人が存在する、この異なる両者を比べて  得られる差異が日本人の特徴であると言っている  でも私はそういう比較する見方はピントがズレてるように思えます  というのも日本人の内でもその差異は存在するからです  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そちらの方面からの例示ですね。クリスチアニスム文明の中にも 両極ないし反対物の一致を説く見解もあるようなことでしょうか。  ★ 日本人論に深みを持たせるには比較される内容ではなく、比較することができるという / ことそのものに着目すべきです  ☆ ふむ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり我々は当たり前のように日本人と外国人を区別して考えることができる  日本人という共通の概念が存在し、我々はそれに帰属していると思ってる  比較におけるこの前提が成立することそのものが日本人の存在の証明になるでしょう  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。分析する前に 違いがあるという前提で分析しようとしているそのことが 大きく問題となるかも知れないと。  日本人という括りが出来る。または 出来ると思っていること。このへんに注目点があるかも知れない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ではどのようにして我々は日本人であると言えるようになったのでしょうか  私は日本人である、そしてあなたも日本人であると言わしめる「何か」  その「何か」が日本人論の最深部にあるものであると思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 意味深ですね。  ううーん。  たとえばすでに出しましたが 《もののあはれを知る》と言います。英語で 《 Ah-ness of things 》と言うのだそうです。  《ああ。または あは》が ものがものたるそれ・もしくは世の中の世の中たる何か だと言うのでしょうか。  それとあたかも同じように   ★ 〔日本人が自分について〕日本人であると言わしめる「何か」  ☆ があって そこに目をこらして見るとよいのかも知れない。しかもそれは ひょっとして得も言われぬ何かであるのかも知れない。  何でしょうね。    ひとつ大胆に言ってみましょう。イエス・ノーをはっきり言わないという習性にかんがみて それは《ゆづりあひ》であるかも知れません。  ゆづり過ぎだというほどに 相手にゆづる。道をゆづる。順番をゆづる。最後に残ったすき焼きの肉をゆづる。・・・  お粗末でした。  あしさい888さんも みなさんも 自由に参加してください。

その他の回答 (14)

回答No.15

そうさの。 人として生きることは、自らが生きるのと等しく、他者を生かすことだ。 そこからつながりが出来て共に生きることになる。 このアマテラスの善し(よし)は生きることの考え方なんだがな。 セクシーボンバー炸裂のアマテラスさんと違って、従来の哲学から逃れられないならば、信を結ぶと言う、奇麗事の形を取った、不信の払しょくで、君はそんなのに関わっているから、私の言葉がいろんなんだろう。 文明がまず神をいただく事から明白で、人間知性が社会性を帯びるのは神の働きだ。 生きることそのものなのか。 信仰と言う絵空事なのか。 あんたは自分なりの考察が出来るだろうと期待しているが。 私の猿回し形式思索法も見習って、あんまり細かい事を私にかみつくなや。 ぶちかましてやれ。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  まづは ご回答をありがとうございます。  けっきょく 神は おのれの主観のその内面においておのれとの関係にしか現われないんです。  ほかの人と話をすることは出来ますが それは 自分の経験の範囲で語っているわけで それというのは やはり主観の問題であるというわけです。  主観と主観を互いに表現しあって 何とか共通の・あるいは違った側面を分かり合おうとしますが それは すでに相手の主観にかんしては 推測になります。  そしてじつは おのれの主観についても 決してほかの人とのあいだに確かな共通性があるかと言えば それは言えるものではない。  分かり合えているとすれば それは 想像の世界において想像物として受け取っている限りにおいてです。  ただ 人間は 飛躍することがあり それはヒラメキのハタラキをもたらし これが――ふつう文学がおこなうのですが――功を奏することがある。そういうかたちで 神学の話も あんがいほかの人にも分かったという感覚をもたらすことがある。  信仰は 目に見えないと相場が決まっています。  それゆえ 人間の現実を成すと捉えられます。    こんなところでしょうか。

回答No.14

何日かぶりの投稿だが、あんたに究極奥義を授けよう。 人間に語りかける言葉は捨てろ。 神に語りかける言葉を持て。 そこまで覚悟が決まれば、鬼のたとえ話の勇気のすごさが君にも判る。 俺様はそこまでやったチン。 しかしな、先輩から言えばおっかないことではない。 とっても心地いいちん。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  重大問題である。  しかも むつかしい。  いちおうの結論は 《使い分ける》である。  まづ  ★ 神に語りかける言葉  ☆ と神からの言葉とは 微妙に違うかも知れないけれど 同じと見て《神学》と呼ぼう。  すると  ★ 人間に語りかける言葉  ☆ は 《哲学》である。  あるいはさらに 例のパウロなる男によれば こう分類される:   ・《神に向き合う言葉》≒神学 ≒異言   ・《人と語る言葉》 ≒哲学 ≒預言  《異言(いげん)》とは まさに神からの言葉――あるいは イメージそしてヒラメキ――であり 言葉じたいの意味は分かっても まだ何を言っているのか分からない言葉を言う。  《預言》とは 異言の解釈を言う。人どうしの会話として分かるように説明したものである。  パウロの結論は 異言を言えるにこしたことはないが 人びとのためには 預言を語れるようになるのが のぞましい。である。  まぁ わたしは 両者を使い分けるというのが 実際であり 問題はきちんと区別していること・区別して全体として語ること。ではないだろうか?  神学を持ち出すときには 《抹香くさい言い方によると》としてことわっている。  パウロの言うところに耳を傾けよう。  ▼ (コリント前書 12:7~11) ~~~~~~~  7: 一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。  8: (あ) ある人には“霊”によって知恵の言葉、    (い) ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、  9: (う) ある人にはその同じ“霊”によって信仰、    (え) ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、  10: (お) ある人には奇跡を行う力、    (か) ある人には預言する力、    (き) ある人には霊を見分ける力、    (く) ある人には種々の異言を語る力、    (け) ある人には異言を解釈する力が与えられています。  11: これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (け)《異言を解釈するチカラ》は (か)《預言するチカラ》と同じです。  さらに:  ▼ (同上 14:1~5) ~~~~~~~~~  1: 愛を追い求めなさい。   霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。  2: 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。   それはだれにも分かりません。   彼は霊によって神秘を語っているのです。  3: しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、   人を造り上げ、励まし、慰めます。  4: 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、   預言する者は教会を造り上げます。  5: あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、   それ以上に、預言できればと思います。   異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、   教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここで《教会》とは 《見えざる教会》と解釈してください。つまり ふつうに《社会》のことです。したがって その行き着く先は 《共生》です。  そのために 《異言》と《預言》とが用いられる。と言っているものと考えます。  どうですか?  

回答No.13

「お馴染み様」が「甲論、乙駁」されている自己満足な(満足はみんな自己満足だと言えば反駁は出来ないが)世界なので「一見さん」は「要らない」だろうと思いましたが、最近「哲学は科学であり得る」という言明に嵌まっているので、ひと言。 皆様「役立たずの文系」がお好きのようですね、「役に立つ文系」もあるますが無視されちゃいます。 私の意見は理系なら当たり前の内容です。つまり、 「逃げ得ぬ証拠の無い言明は空虚である」 簡単でしょ。 「デカルトのコギト」は確かに反論できないが、自己の中から出られない。 フッサールのようにそれを「世界」に適用しようとすると難解すぎて誰にも分からなくなる。 これから哲学を潰しに掛かります。 面白いから見ていて下さい。 でも母が認知症と診断された年まであと四年、無理かも(大笑)

bragelonne
質問者

お礼

 たとえば 次のような分析――つまり ひとつの日本人論です――があります。  どく_そむでーさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  すなわち 遠藤周作による別の文章を かかげてみます。次の中の《日本の何か》とは何ぞやというのが 問題点です。戦国時代のポルトガル宣教師の物語です。  ▲ (遠藤周作 : 《日本の何か》) ~~~~~~  ・・・フェレイラはこの日本は底のない沼沢地だといっていた。苗はそこで根を腐らせ枯れていく。基督教という苗もこの沼沢地では人々の気づかぬ間に枯れていったのだ。  ――切支丹が亡びたのはな お前が考えるように禁制のせいでも 迫害の   せいでもない。この国にはな どうしても基督教を受けつけぬ何かがあ   ったのだ。  フェレイラの言葉は一語一語 司祭(ロドリゴ)の耳に刺のようにさす。 (遠藤周作:『沈黙』 VII)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ この《何か》が もし《あいまいの美学を通り越した(または そこにまでは達しない)単なる生ぬるさ》であったとしたら?   キリスト教が根付かなくても いいのですが キリスト教を しっかりと 明確に批判すべきところは批判して そのあるべき姿を こちらが決めていけばよいと考えられます。  それをしない。となると 中庸であるどころか 腑抜けになってしまいます。または 顔無し つまり のっぺらぼう。    こういう議論は わたしは有益であると考えます。  問題は 哲学にしろ科学でありうる哲学にしろ純粋直観にしろ何にしろ ひとつには 《われがわれであること》のために その時代と社会をめぐる分析をもって――そこから《わが世界観》が開けて行くように―― 自己了解を得ることが 大事ではないか?   言いかえると 主観でよいという局面もあると考えられます。  わが《固有時》にまで分け入って行って おのれがおのれであるというイメージだけでもつかめたなら しめたものだという感覚です。  ですから アウグスティヌスは デカルトに先だって   われ あやまつなら(あざむかれるなら) われあり。   ( Si fallor, sum. )  という命題を持ちました。あやまつとき あざむかれるとき それに気づいたのなら とうぜんわれは考える しかも そのとき我れに還っている。これが 《われが われである》われ あり。なのだと捉えられます。  その内の《考える》をさらに前面に推し出したのが デカルトだと言われています。  ですから 科学あるいは経験合理性 これに反することは あまりほめたことではないでしょうが いともかんたんに 超えてしまうことはありうる。《飛躍》してもよい。のではないでしょうか?  《空虚》であろうとなかろうと 《われ》のイメーが捉えられたなら ひとまづ めでたし めでたしとしてよいでしょう。  それは この世界にわれがあるということの自己了解です。  ★ これから哲学を潰しに掛かります。  ☆ いま上にのべた哲学は 主観の内なる確信として おそらく何ものによっても《つぶされ難い》ところであるでしょう。  じつは 科学の精神は むしろこのようなそれこそ《あいまいのわれ》に立って じつはその探究をおこなっている。つまり 誰もが この《われに還ったわれ》なる基礎に立っている。その上に 幾何学の精神が展開されていく。  こう考えています。どこからでも来てください。

bragelonne
質問者

補足

 取りあえずこの質問は閉じることにしました。  また別の質問にでも ご投稿くださるようお願いします。

回答No.12

はっきり言って、ポケモンは、私の実在する妖精の捕まえ方を学んだ、自称弟子どもの便乗作品なんだがね。 ポケモンには、ロケット団と言う悪の組織が登場するが、20年近くなる初登場以来ホワイトホールを目標にする悪の組織だ。 悪の栄光と言うところだろう。 あんたの言いっ回しは、そんな風に昔から聞きあきている、人間ならではの言い回しで、神様に対して語りかけようかとする、私の言い回しからずれている表現だ。 人間同士の言葉。 すなわち、自己表現が人知に縛られている。 その点で私は、死を乗り越えてでも、神の元に赴こうとした。「ときわたりESPの根拠」 鬼門を守る鬼の許可が必要だった。 鬼門を鬼の案内でくぐったが、戦い、悪魔として倒したんじゃあ、もちろん無い、許してもらったのとも違う。 理解しあったんだ。 お互いにだ。 一方的な自称「信じる」ではないのだよ。 自然界で、頭からつのが出ているのは、心やさしい草食動物だけだよ。 そんな鬼の心を、恐れを抱かずに見抜いたんだ。 君たちにとって悪に対する恐れは抜きがたいだろうが、私はセレビィという、見ようによっては、自らがモンスターになることもいとわず、勇気を発揮した。 鬼の話はいつか詳しくしてみたいもんだ。 武勇伝が入るがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ふむ。《手続きじょうの問題》ではなく 実践じょうの具体的な方法の問題でしたか。  ★ 君たちにとって悪に対する恐れは抜きがたいだろうが、私はセレビィという、見ようによっては、自らがモンスターになることもいとわず、勇気を発揮した。  ☆ 端的に言ってわたしの場合は その《悪》の――つまりは 旧人類の偽善的な振る舞いとしての悪の――内容を分析し言葉にして相手に示してみせることです。  この分析する際には いくらか《みづからがモンスターになること》はあり得ます。なぜなら 相手の《自称善人ぶり》が《モンスター》であるなら それと同じように一たん成ってみることをおこなうから。  そうして同じく  ★ 鬼   ☆ にもなります。それは こちらが指し示す言葉の中に 口調のようなものとして鬼があらわれます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  鬼門を鬼の案内でくぐったが、戦い、悪魔として倒したんじゃあ、もちろん無い、許してもらったのとも違う。  理解しあったんだ。  お互いにだ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という登場人物(?)の設定は わたしにはありません。  ★ 鬼の話はいつか詳しくしてみたいもんだ。  ☆ なるほど。なにかあるような。わかんないような。  その《鬼門への下降》の際に  ★ 武勇伝  ☆ が出来たのかぁ。  いまでは  ★ ポケモン  ☆ なる弟子たちを派遣しているってことらしい。

回答No.11

そうさの。 > ★ 地獄巡リも。地獄が美しく変容する景色を眺めるだけになった。 / 楽しんでいるよ。  ☆ ほんまかいな。相当腕を上げたのかなぁ。地獄に花が一輪咲いているという程度ではなくて なんですって?  《美しく変容する景色》ですって?  いま・ここの世界のことかなぁ。 これは簡単だよ。 自らは赦されたつもりで、自らは他人を許さないで、その他者の観念世界を地獄と名付け、そこをゴミ捨て場や肥溜めのように扱う高慢なのが旧来の自称善人だ。それに対する対するライダーキックだ。 私がやっているんじゃない。 私が許されざる悪魔を私が聖霊と認めたことで、悪魔は聖霊として、神の力で死を阻む悪として働き、旧人類の傲慢に反旗を神自らが翻すと言うおおむねそんな成り行きだ。 私自身は、「私は私である」と言う人間だ、私自身が聖霊と化したセレビィは、神の旧人類に対する反逆の旗振り役だ。 このように、人間が自らの精神を自らの手にゆだねることが大切で、それが出来ないなら死すべき者どもともと言いはなつ。 私は人間で、人間は所詮人間であり、神は神だ。 私は立場上。人に滅びをもたらす黒き明星を名乗っているが、そのほかにも、神が、たどたどしく人を理解しようとする助けもしている。 そっち方面はジラーチちゃんと幼馴染だとだけ言っているが、まったくもって、幼稚園のお遊戯会を見る保護者の心境でね、神は純粋な光で、それを人は無垢であるとも言う、その通りでね、無垢は幼さにも見える。

bragelonne
質問者

お礼

 おはよう。ご回答をありがとう。  ★ 旧来の自称善人  ☆ の心の内なる地獄が ライダーキックによって美しく変容するってこと?  神の霊による助けが そこにはたらいている。というわけなのですね。  ひとは そこで目覚めますか?  ★ 私は立場上。人に滅びをもたらす黒き明星を名乗っている  ☆ まぁ 何らかの手続きじょうの問題もあるのかも知れない。  つまり わたしは いたづら好きだと名乗るくらいでいても 《反感を買う》ことが一部(か多部か)において少なくありません。  言いかえると 《滅びをもたらす》というのは 何度も言っていますが 《ふるき人を脱ぎ あたらしき人を着る》ときの 《旧人のほろび》なのだと考えられます。  つまり そのきっかけとなる役目は ホワイト・ホールであって ブラックホールではないのではないか? 黒き明星ではないのではないか?  それともそう名乗るほうが 何かとやりやすいのであろうか。

回答No.10

やあ。 以前と比べると判りやすくしようとしているのが理解できる。 判りやすかった。 苛立ちが伝わった以前より楽しんでいるようだな。 ここから又答えるよりも、独自の悪の陰謀を寡作する事にするよ。 私も十分楽しんでいる。 ところであなたの分析力を見ると私なんぞが本の出版を検討しようかというのは、大それているのではないかと思うが、一連の知的SMプレイのおかげで、何年かかけてようやく本一冊分くらいのメモが取れたよ。 無を解き明かすことが私の専売特許かどうか、この点は挑戦してみたい。 欲望の話とか、善の話とか、こんなジラーチちゃんと遊んだ思い出は、アマテラス神学としてそこでは表さないよ。 近況はそんなもんだ。 地獄巡リも。地獄が美しく変容する景色を眺めるだけになった。 楽しんでいるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 まぁ やり方はいろいろであり 人それぞれになるのかと思う。    そう思えば 自由度があってよいし あったほうがおもしろくたのしい。  こんな感じに 今回はなってしまうのだけれど。  ご回答をありがとうございます。  いや:  ★ 地獄巡リも。地獄が美しく変容する景色を眺めるだけになった。 / 楽しんでいるよ。  ☆ ほんまかいな。相当腕を上げたのかなぁ。地獄に花が一輪咲いているという程度ではなくて なんですって?  《美しく変容する景色》ですって?  いま・ここの世界のことかなぁ。  ま またね。

回答No.9

やあ。 頑張っているね。 俺様は忙しんでね、隠居爺はとことん好きなことやってるんだなと羨ましいチン。 今更仏教だけどもね。 私に言わせれば、 まず、イエスさんの方から言うが、愛すれば信で結ばれ理解できる。 そのように理解が及べば、立場上あんたにとって私の自説は異論でも、それでもだ、自分なりに理解が及ぶ。 お釈迦様もこれとおんなじでね、長らく日本人をほんろうした無の悟りを解き明かしたつもりの私から言えば、神を語らないと言う結論を理解したまでだ。 あんたの文脈では、あんたが尊敬しつつも批判する理解者だとは、そこらじゅうで騒ぐニワトリどもには理解されてネーチン。 無を志したからこそ仏教とを名乗れるはずだが、従来の先輩はことごとくその信をそむき続けた。 そんな信じる者の、それが実は偽りの姿であることに同情しつつ、要するにお釈迦様はペテン師だと、弁護してるチン。 あんたの怒りや批判は背教者にとってこそ心地いい。 ところが、その背教者こそ忠犬ハチ公なのだよと言ってしまえよ。 自らが信じる。 これは難解な言い回しだ。 自らが愛する。 そして愛が実る自らはまさしく愛そのものだチン。 こんな自覚が大切だろうが、イエスさんは、神を解き明かせと言う拷問に口を割らずに、そのまま死に果てた。 私はそんなことしねーチン。

bragelonne
質問者

お礼

 そう言えば ひさしぶりぢゃん。  まづは ご回答をありがとうございます。  いま――いま7月もしくは8月だけは―― じつは いそがしくしている。仕事。  ★ 私に言わせれば、 / まず、イエスさんの方から言うが、愛すれば信で結ばれ理解できる。  ☆ 否定はしないが・それどころか お勧め品であるけれど こう言っただけでは やはりあまい。あまっちょさんだよ。きれいごとぢゃないかと言われて おしまいになる。  ★ そのように理解が及べば、立場上あんたにとって私の自説は異論でも、それでもだ、自分なりに理解が及ぶ。  ☆ いっそのこと たとえばもっとも抹香くさく次のような文章をもってくるとよい。  ▲ (アウグスティヌス:《愛と信また希の効用》) ~~~  かの全能者は   最初の人(アダムとエワ)からであれ   その後に加えられたわたしたちの意志からであれ  わたしたちに起こっている悪を  その満ちあふれる恩恵によって  滅ぼしている。     (『ユリアヌス駁論』1・5 金子晴勇訳)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということは:  ★ 神を語らないと言う結論を理解した  ☆ と食い違うようだけれど これらは 《信 つまり 思考にあらず》なのだから 《神 あるいは 全能者》を語っていても それは何の意味があるのかは 人間に分からないと来ている。  分かったという人は その人が神であるか。それとも その人の主観の内でそう感じた・思ったというにとどまるかである。つまり 《思考に非ず》がつらぬかれる。つまり 神については何も語っていない。  ぢゃあなぜ《悪をほろぼす恩恵》などと言うのか? 思考を超えて そのようなのぞみが人には すでに生まれつきの自然本性の内に植えつけられているから それを想い起こさせるものと考えられる。    つまりほかならず わが心の内なる霊我=アートマン あるいは ブッダター(仏性)のことである。  これらは 想定によっており 思考の問題としては あつかっていない。  想定を心に受け容れたなら それは 信仰――非思考の庭が成ること――となる。  あぁ  ★ 無のさとり  ☆ だったんだね。これは 後世ブディストたちが アートマンにひとしいブッダターを説いたのに対して ゴータマくんは あくまで アン-アートマンを説いた。  つまりは こうである。  A. ブラフマニズム:梵我一如    梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神    我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我  B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  C. ブディズム:仏仏一如(有神論)    仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ(大日如来)    仏:如来蔵・ブッダター(仏性)  D. クリスチアニズム:霊霊一如    霊:神・聖霊    霊:《神の宮なるわれ》  すなわち   B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)    無梵:空・シューナター・ゼロ    無我:アン‐アートマン;ニルワーナ  について 《無のさとり》と言いたかったんだろうと。  ★ イエスさんは、神を解き明かせと言う拷問に口を割らずに、そのまま死に果てた。  ☆ だから 神について――少なくとも 弟子たちにとって―― 心の内にあきらかとなった。神は 人間の思考で分かるものではないとまでは 明らかとなった。  ★ ところが、その背教者こそ忠犬ハチ公なのだよと言ってしまえよ。  ☆ これは あんがい一般論であるようでいて それにはなじまない。それぞれの人について具体的に批評しないと 通じないところがあると思う。  あるいは  ★ 忠犬ハチ公  ☆ という括りのもとに さらにいろんな場合があるのではないかと思う。  いちばん厄介なのは あなたが――わたしによって――うたがわれたお上の犬である場合である。ゲシュタポだとも呼ぶ。あるいは 隣組のごとく互いが互いにとってお上のスパイとなる場合があり得る。これらは 厄介である。  一般論でああだこうだと言っても そうは通じない。しかもその特定の個人に対して伝えるにしても いつもそう言っていてやればよいというものではない。個別の文章に即したその具体的な思想をやり玉に挙げないことには 話が成り立たない。  意をつくしていないけれど――ていねいな応答にはならないけれど―― もっと文例を出したりして批判をしてもらうと こたえやすいと思う。どうだろう。

  • kurinal
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回答No.8

>「《コレ以外には!》がなぜいけないのかとか 分かりませんでした。あしからず。」 それは、無いでしょう。 私とB様とでは、私のほうが「お先に(失礼致します)」でしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 《これ以外にはない》ともしわたしが主張しているとするのならば そこまでの根拠をしめすはずです。  有力なひとつの候補として 提出しているという意味ですから 互いに批判をさらにおこなえば済むことです。  それはないでしょうは ないでしょう。  と考えます。  ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
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回答No.7

bragelonne様、こんばんは。 >「ただし 言わば待ったなしで 言葉によっていやな思いをする場合がありますから――それでも 心が傷つくことはあり得ないと考えていますが―― たとえ文学作品の中でであっても それらタブーなる言葉をつつしみ控えることもあります。」 白・黒・黄について、「信仰の表明」というか、遠藤という人は、そう思ったのでしょう。 >「★ そこ〔* 《絶対》学〕から抜け出た  ☆ ということは おそらくこれら特には自然科学の発達の道筋としてあるというように思われます。  そして もっと言えば――言いたいのですが―― じつはクリスチアニスムにおける神学そのものにあって 《神の自己揚棄》という主題もすでに得ていて これの発展がのぞまれる。こうも考えられるところがあります。  キリスト・イエスの神は すでに自己をアウフヘーベンしたのだという見方です。じんるいにとって普遍的なひとつの神――名前はどうであれ――という高いところに自己(ヤハヱ―なりキリストなりという名の神)を揚げて すでにその自己を棄てた。こういう:  ★ そこから つまり伝統の神学から――抜け出た ということを 評価したい  ☆ ひとつの側面も じつはすでに出て来ている。  こういった見方をわたしは持ちます。どうでしょう?」 基本的に、同じと思います。 例えば、「歯磨きは、食後30分「以後」に」って、知っておられました? 私は、つい一年前に、さる科学を扱う番組で知ったのですが。 >「* この神の自己揚棄といった観点を 初めから持たずずっと持たないままでいると 《じんるいにとって普遍的なひとつの神》といったわれわれにとって悲願である思想は得られなかったかも知れません。」 「われわれにとって悲願である思想」ですか。 恐れ入りました。 >「いまから数十年あるいは一世紀ほどは いわゆるキリスト教および仏教のそれぞれの揚棄をわたしたちは 大きな課題として持つのではないでしょうか。シュウキョウは要りません。」 折角の「シュウキョウは要りません」ですが、(コレ以外には!)という感じが、してしまいますですが、、、

bragelonne
質問者

お礼

 歯磨きとか 白黒黄が遠藤の信仰の表明とか 《コレ以外には!》がなぜいけないのかとか 分かりませんでした。あしからず。  くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

  • kurinal
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回答No.6

bragelonne様、こんばんは。 >「遠藤周作」 これでは、「人種差別」ですか >「司馬遼太郎」 ふむ。 >「むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。」 ・・・そこから抜け出た、ということを、評価したいんですが。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~   >「遠藤周作」  これでは、「人種差別」ですか  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そこは 文学――虚構作品――のずるがしこいところです。現実から離れるようであっても想像力を伸ばして  その表現世界をまづはたのしむ。といった行き方だと考えられます。  いまでは 《言葉狩り》といった概念と実際があるようですが ほんとうは 言葉には罪はなくタブーはいっさいないというのが 自己表現の自由ではないかとも考えます。  ただし 言わば待ったなしで 言葉によっていやな思いをする場合がありますから――それでも 心が傷つくことはあり得ないと考えていますが―― たとえ文学作品の中でであっても それらタブーなる言葉をつつしみ控えることもあります。  ★ 「人種差別」  ☆ だと指摘することも出来るのかも知れません。そう感じたという場合には それとして 現実のことですから。    わづかに考えられることは それほど差別発言ではないかと疑われるようなきつい表現を用いても 何かうったえたいことがあった。という場合がなきにしもあらず。ではないかとも考えられます。  肌の色の中で 白と黒とは それほど人間の内面の問題にはからめて言ってはいないのではないでしょうか。ただし 黄色については 《中庸》あるいは《あいまい・どっちつかず・事なかれ主義・・・・》といったいろんな内面における捉え方とからまってはいます。  何らかの思想を表わそうとしたのではないかという受け取り方も 出来るのではないでしょうか?  ★ ~~~~~~~~~~~~~~    >「司馬遼太郎」    ・・・   〔* 《絶対》をめぐる思索・思弁を重ねてきたそのともかくの成果たるところの〕    ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。  ・・・そこから抜け出た、ということを、評価したいんですが。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そうですね。《哲学・思想あるいは神学》については 西欧のいとなみは 特に現代に向かうにつれてあまりよさそうには見えないところがあります。ハイデガーが ものの道理以上のことを語ったとは 思えないところがわたしにはあります。つまり 大したことはないのだという受け取りです。  ただし 科学の分野では めざましいものがあるのではないでしょうか。  それらを発見・発明しなかったら 世界はどうなっていたか? つまり どうなっていようと なかったとしてもよかったのだという見方もあると思います。と同時に 現代に生きるわれわれは いまではそれがなくては済まないようになっていると思います。  ということで  ★ そこ〔* 《絶対》学〕から抜け出た  ☆ ということは おそらくこれら特には自然科学の発達の道筋としてあるというように思われます。  そして もっと言えば――言いたいのですが―― じつはクリスチアニスムにおける神学そのものにあって 《神の自己揚棄》という主題もすでに得ていて これの発展がのぞまれる。こうも考えられるところがあります。  キリスト・イエスの神は すでに自己をアウフヘーベンしたのだという見方です。じんるいにとって普遍的なひとつの神――名前はどうであれ――という高いところに自己(ヤハヱ―なりキリストなりという名の神)を揚げて すでにその自己を棄てた。こういう:  ★ そこから つまり伝統の神学から――抜け出た ということを 評価したい  ☆ ひとつの側面も じつはすでに出て来ている。  こういった見方をわたしは持ちます。どうでしょう?  * この神の自己揚棄といった観点を 初めから持たずずっと持たないままでいると 《じんるいにとって普遍的なひとつの神》といったわれわれにとって悲願である思想は得られなかったかも知れません。  (《ひとつの神》ということは もう神のことを殊更語ったりおしえたりする必要がなくなるという意味です)。  ふつうの日本人は 神はどれでもみな同じだという感覚は持ち合わせていると思いますが たとえば その神道であっても 国家神道はその感覚を阻みますし なかんづくブディズムとかいうあわれなシュウキョウは ブッダと神とは違うのだと 壊れたレコードみたいに言いつづけています。そうであるからには われわれはすくなからずこのモヤモヤワールドに洗脳されてしまって 何ら言う言葉を持たず為すすべをも持たない。といった状態と情況のまま 死んで行くことになる。  いまから数十年あるいは一世紀ほどは いわゆるキリスト教および仏教のそれぞれの揚棄をわたしたちは 大きな課題として持つのではないでしょうか。シュウキョウは要りません。

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