日本人論の深みを問い求める

このQ&Aのポイント
  • 日本人論の深みを互いに問い求めるため、小説家の文章を紹介します。
  • 黄色い人という童話において、神さまは白人、黒人、黄色人という人間を作ります。
  • 司馬遼太郎によると、日本人は絶対という思想を持っておらず、相対的世界を楽しむ文化です。
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日本人は・・・

 小説家の文章をふたつかかげます。  これらにわれわれが寄ってたかってツッコミを入れることをとおして 日本人論の深みを互いに問い求めることが出来れば さいわいです。  自由にご見解を述べてください。例によって質問者は自由に(つまり 互いに対等の立ち場で) 批判をも交じえて コメントを書き込みます。むろんそれに対して反論してください。  なお 次の遠藤周作における《黄色い人》は 特には われわれ日本人を指して言っているはずです。  ▲ (遠藤周作:黄色い人) ~~~~~~~~  神さまは宇宙にひとりでいられるのがとても淋しくなられたので人間を創ろうとお考えになりました。そこでパン粉を自分のお姿にかたどってこねられ竈(かまど)で焼かれました。  あまり待ちどおしいので 五分もたたぬうちに竈をおあけになりました。もちろんできあがったのは まだ生やけの真白な人間です。《仕方がない。わしはこれを白人とよぶことにしよう》と神さまはつぶやかれました。  こんどは失敗にこりて うんと時間をかけることになさいました。すこしウトウトとされているうち こげくさい臭いがします。あわてて蓋をおあけになると 真黒に焼けすぎた人間ができているではありませんか。《しまった。でも これは黒人とすることにしよう》。  最後に神さまはいい加減なところで竈をひらかれました。黄色くやけた人間が作られていました。《なにごとも中庸がよろしい》。神さまはうなずかれました。《これを黄色人とよぼう》。(童話より)    我 汝の業を知れり。即ち汝は冷ややかなるにも非らず 熱きにも非   らざるなり。寧(むし)ろ冷ややかに 或いは 熱くあらばや。然(しか)   れども汝は 冷ややかにも熱くも非ずして温(ぬる)きがゆえに 我は   汝を口より吐き出さんとす。(黙示録)    (遠藤周作:『黄色い人』 冒頭)  ▼ (司馬遼太郎:《絶対》なる概念と日本人)~~~~~  http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html   近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。  ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。  日本に存在しつづけてきたのは、すみずみまで相対的世界でした。  神道、山々や谷々の神々、あるいは仏教という相対的世界を最初から是認した思想。  山々や谷々の神々が神遊びをするように、神遊びとしての日本特有の私小説がうまれても、絶対という大うそを、つまり絶対という「神」---これは聖書の「神」のことですが---という思想、又は文学的思考----大文字のGodと同じ次元での大文字のFiction---を中心にすえるという習慣は、日本においてはカケラもありませんでした。  いうまでもありませんが、"あの部分はフィクションです〃という意味の虚構ではありません。神が絶対なる、ごとく、同じ意味における絶対の虚構のことであります。  むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。  しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。  絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。  ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。  (開高健への弔辞)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者が選んだベストアンサー

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  • asisai888
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回答No.5

遠藤周作が言っていることは、日本人は肌の色が黄色いということ 司馬遼太郎が言っていることは、日本人は西洋人と異なる宗教を持っていること だと思います この二人に共通するのは日本人と外国人を分けることができるという前提を受け入れていることです 日本人が存在し、日本人と異なる外国人が存在する、この異なる両者を比べて 得られる差異が日本人の特徴であると言っている でも私はそういう比較する見方はピントがズレてるように思えます というのも日本人の内でもその差異は存在するからです 色白の人もいればキリスト教を信じてる人もいるはずで、彼らの見方をすれば そういう人達は日本人ではないという結論になってしまいます 日本人論に深みを持たせるには比較される内容ではなく、比較することができるという ことそのものに着目すべきです つまり我々は当たり前のように日本人と外国人を区別して考えることができる 日本人という共通の概念が存在し、我々はそれに帰属していると思ってる 比較におけるこの前提が成立することそのものが日本人の存在の証明になるでしょう ではどのようにして我々は日本人であると言えるようになったのでしょうか 私は日本人である、そしてあなたも日本人であると言わしめる「何か」 その「何か」が日本人論の最深部にあるものであると思います

bragelonne
質問者

お礼

 あしさい888さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  そして 別の質問――【Q:・・・言葉の凶器化・・・】――では たいへん失礼いたしました。みなさんにもお伝えしなければならなかったのが いま気がつきました。削除の理由は おそらく表題として提出している問いは 一般性を持つものであるが その問題が 特定の参加者の発言に色濃く(もろに)かかわっているので そこまで個人を特定した質問は ダメであるということだと考えます。  すでにやり取りが始まっていた論点を別の質問として分けて問うたのですが 焦点が絞られすぎたのかと思われます。  いづれにしましても みなさん せっかくのご回答がなくなってしまって たいへん申しわけありません。どうかおゆるしください。  気をつけてまいりたいと思います。  さて 全体としてまづは ずばり斬ってしまわれました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  遠藤周作が言っていることは、日本人は肌の色が黄色いということ  司馬遼太郎が言っていることは、日本人は西洋人と異なる宗教を持っていること  だと思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 全体として そうなのでしょうね。違いがあるということを言おうとしている。のでしょうね。  言いかえると たとえば遠藤は いい意味でもよくない意味でも日本人は《あいまいの美学》を持つし重んじるようだという具体的な論点をも提示していると思われますし 司馬は 確かに《絶対》なる概念をめぐる扱いについて 細かくも触れている。  ところが 絶対は 必ずしも触れなくても 相対世界のことをちょうど《もののあはれを知る》と言ってのように相対性なる世界だと心得ているなら その絶対とわれとは 意識せずにすでに相い対している。ということはありうる。――だから 西欧の《絶対》好きと日本とは そうは変わらないとも言うべきだ。うんぬんと言えるかも知れないからです。  あるいは あいまいさは 中庸でもあり たとえばアリストテレスは――聞きかじりで言いますが―― 文字通り両極の中間という意味で しかも倫理の面としても中庸を説いているのだとか。うんぬん。  といったふうに議論を持つなら 何がどうなのか それほど明確に区別されるとも限らない。のかも知れません。  と言わずもがなのことをしゃべって さてご回答の内容がどのように展開されて行くのでしょう?  ★ ~~~~~~~~~~~~~  日本人が存在し、日本人と異なる外国人が存在する、この異なる両者を比べて  得られる差異が日本人の特徴であると言っている  でも私はそういう比較する見方はピントがズレてるように思えます  というのも日本人の内でもその差異は存在するからです  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。そちらの方面からの例示ですね。クリスチアニスム文明の中にも 両極ないし反対物の一致を説く見解もあるようなことでしょうか。  ★ 日本人論に深みを持たせるには比較される内容ではなく、比較することができるという / ことそのものに着目すべきです  ☆ ふむ。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  つまり我々は当たり前のように日本人と外国人を区別して考えることができる  日本人という共通の概念が存在し、我々はそれに帰属していると思ってる  比較におけるこの前提が成立することそのものが日本人の存在の証明になるでしょう  ~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ なるほど。分析する前に 違いがあるという前提で分析しようとしているそのことが 大きく問題となるかも知れないと。  日本人という括りが出来る。または 出来ると思っていること。このへんに注目点があるかも知れない。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~  ではどのようにして我々は日本人であると言えるようになったのでしょうか  私は日本人である、そしてあなたも日本人であると言わしめる「何か」  その「何か」が日本人論の最深部にあるものであると思います  ~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ これは 意味深ですね。  ううーん。  たとえばすでに出しましたが 《もののあはれを知る》と言います。英語で 《 Ah-ness of things 》と言うのだそうです。  《ああ。または あは》が ものがものたるそれ・もしくは世の中の世の中たる何か だと言うのでしょうか。  それとあたかも同じように   ★ 〔日本人が自分について〕日本人であると言わしめる「何か」  ☆ があって そこに目をこらして見るとよいのかも知れない。しかもそれは ひょっとして得も言われぬ何かであるのかも知れない。  何でしょうね。    ひとつ大胆に言ってみましょう。イエス・ノーをはっきり言わないという習性にかんがみて それは《ゆづりあひ》であるかも知れません。  ゆづり過ぎだというほどに 相手にゆづる。道をゆづる。順番をゆづる。最後に残ったすき焼きの肉をゆづる。・・・  お粗末でした。  あしさい888さんも みなさんも 自由に参加してください。

その他の回答 (14)

  • 0fool0
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回答No.4

>それを批判しつつ 何らかのかたちで日本人についての理解を深めて行きたい。こういう趣旨からのものです すいません、前言の「カテ違い」の発言を撤回致します。 確かに此れを「哲学」とする方々は、一定数存在します。 ただ、環境に左右される条件の物を、不変的な法則に収めようとする思考を哲学とは私には受け止められません。 要は、「対手に勝ちたい」の理論なので、変動性を持っている訳ですから、ジャンルは違うのですよね。 しかしまぁ、其処で戯れたい方々とわざわざ喧嘩をする事も無いかと・・・ すいません、お邪魔しました。 此れで終わります。

bragelonne
質問者

お礼

 おっしゃっていることが よく分からないでいます。  まづは ご回答をありがとうございます。    つまり この質問じたいが  ★ しかしまぁ、其処〔* 民族性の優劣を決めようとするかのような議論でしょうか〕で戯れたい方々とわざわざ喧嘩をする事も無いかと・・・  ☆ ええっとですね。この質問は 最近の《好戦的な》と見える質問とは別ですよ。   対話の問題として 日本人の性質やら特徴やらが どう関係しているかといった問い求めとして出て来たものです。  関係ないことはないと言われるかも知れませんが 出て来た筋としては 別です。  ですから  ★ 要は、「対手に勝ちたい」の理論なので、変動性を持っている訳ですから、ジャンルは違うのですよね。  ☆ とも見方は違うと思うのですが。・・・  ★ ただ、環境に左右される条件の物を、不変的な法則に収めようとする思考を哲学とは私には受け止められません。  ☆ そうですか。遠藤もしくは司馬あるいは質問者のわたくしが 《不変的な法則》を持っているということですか。  《普遍性》は求めますけれど。  そうですか。仕方ないでしょうか。  おつかれさまでした。  

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.3

日本人を他人種と区切って思考するのは、文化人類学などの分野です。 優劣を思考するのは勝手ですが、それは生物学の分野です。 唯のコンプレックスからの優劣論等に哲学の力はありません。 まぁ、其れを信じたいと言う事は、「優秀な人間であれば、幸せになれる」等と言う考えと同義なのですが、別に私は其れを否定して回るほどの暇人ではないと言うだけです。 スルメと天気予報のどちらが、より信号かという様なものです。 政治学・軍事学・統治学・法学・社会学等々の分野であれば、此のテーマを語るのも楽しいですが、カテが違います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。    ★ 日本人を他人種と区切って思考するのは、文化人類学などの分野です。  ☆ 《人種》ですか。まぁ この場合は 日本人とは何か? という主題のもとに 民族性というくらいの特徴を挙げて問い求めようとしているのだと考えます。    それに もし文化人類学つまり民族学ですね であっても それをも哲学は 欲張りですから いともかんたんに自分の分野に取り込んで人間論や社会論として展開するものと考えるのですが。  ★ 政治学・軍事学・統治学・法学・社会学等々の分野  ☆ もすべて 哲学の主題としますよ。あるいは 哲学からそれらの学問が分かれて行っただけですから。細分化は 専門化のための都合でしかないと考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  優劣を思考するのは勝手ですが、それは生物学の分野です。  唯のコンプレックスからの優劣論等に哲学の力はありません。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《優劣》を論じていると受け取られたのですね。しかも それも《コンプレックス》からの議論であると。  もしかすると 自虐的な見方ではないかと疑われるということなのでしょうか?  ならば むしろ小説の中からのひとつの日本人論を引っ張っておきましょう。  このわれわれの社会では 人を腐らせる《日本の何か》があると言い これは《日本と申す泥沼》という言い方で 例の踏み絵の時代のことを描いています。  ▲ (遠藤周作のひとつの日本人論) ~~~~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけでのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。     (遠藤週作:『沈黙』 IX)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ わたしは 遠藤のクリスチアニティにかんする信仰の姿勢を――ということは 信仰そのものではなくその説明書きを・つまりは思想としての見解を――嫌っていますが けっきょくこの《日本という・あるいは日本人という泥沼》について何も手をこまねいて傍観しているというわけではないはずです。  いい思想を仕立て上げようとしてはいると思います。  それを批判しつつ 何らかのかたちで日本人についての理解を深めて行きたい。こういう趣旨からのものです。

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

哲学の皮を被った、イデオロギー いや、まぁ、此れこそが哲学だと言うのであれば、それも人生ですが

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ですが ちょっと分からないでいます。何が  ★ 哲学の皮を被った、イデオロギー  ☆ なのですか?  ★ 此れこそが  ☆ の《此れ》とは 何を言うのでしょう?  著者はふたりいますから たたき台としての命題・思想は ふたつありますし。

bragelonne
質問者

補足

 そうですね。  文学の範疇での多少とも哲学にかかわる――もしくは 日本人論にかかわる――議論を提供しているのではないかと思って取り上げたのですが。  ひとつか二つの論点などをひろって 議論を展開するというわけにはまいりませんか?  それと 回答No.1へのお礼欄にて 具体的に質問をふたつかかげました。それについても よろしかったら考えてみてください。  思想は みな 志向性を有するかぎりで イデオロギーですよ。  観念体系として体系化されているかどうかに違いがあるでしょうが けっきょく何らかの世界観としてある(ありうる)のですから イデオロギーであり得ます。  ならば 哲学もそれらを取り扱うことはあり得ます。  《皮》でも 思想であり得ます。

回答No.1

両文章は結局、日本人は御都合主義をその本質としていることのあらわれにすぎない。

bragelonne
質問者

お礼

 ぶちきれ_まくりさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ 日本人は御都合主義をその本質としている  ☆ 《本質》ですか?  この点は 質問者は保留して われわれみんなの主題としたいと思います。  【Q-1】 日本人は《本質》においてご都合主義であると言えば すでに誰もが日本人であるならそうであり つねにそうであって もうほぼ永遠に変わらないという意味合いが出ます。果たして そうか?  ただし 細かいところについても こちらからさらに問うて行きたいと考えます。  なぜなら:  【Q-2】 ~~~~~~~~~~~~~~  ご都合主義というのは あっちに――迎合ではなくても――意見を合わせ じつはこっちにも別の意見に賛同しているといった事例だと考えますが おそらくそれが《中途半端という意味に近い中庸なる色――黄色――》によってそうなる。こういう見方だと思われます。  あるいは別様に 西欧・クリスチアニティの文明におけるように《絶対》を想定しないし扱おうとしないことにより 言わば《あいまいの美学》が堂々と横手を振って街を闊歩している。つまり イエスかノーかをはっきりさせない。時の流れや風向きによってイエスに就いたりあるいはノーに回ったりする。こういう見方なのだと思います。  けれども――ここから反論と言えば反論ですが―― そうは言っても イエスかノーかがきわめて明瞭であると思われる欧米の文明社会にあっても けっきょくは蝙蝠のごとく二股膏薬のごとく 二枚舌もダブルスタンダードも むしろ本家本元であると言わざるを得ないようなかたちで そういう事例にもでくわす。のではないでしょうか?  中東におけるユダヤとアラブの敵対も もとはと言えばイギリスの《三枚舌外交》(*)による影響も大きいらしい。  * 三枚舌外交: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9E%9A%E8%88%8C%E5%A4%96%E4%BA%A4  つまり――長くなりましたが―― ご都合主義は ひとり日本人に限らない。ではないのか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  アメリカが 日本と中国とに対して 二枚舌を使わないと誰が保証しましょうか。  むしろ欧米人は ダブルスタンダードを平気で使うように感じます。    いつもトリプル・スタンダードを用いる日本人であっても 恥づかしながら使っているかも知れません。かれらは それがバレても居直る。こちらは しおらしくなる。かも知れない。  

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    どのような考え方で どのような方向・方策が考えられるでしょうか。 どのように動機付けしていけばよいと思われるでしょうか。 むろん 導入の不要論や反対論も受け付けてまいります。 たとえば 司馬遼太郎の言うには:―― ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 近代以後の日本の文学者が、西洋の小説を読み、読みおえてから小説を書きはじめたことは、いうまでもありません。ただ日本には「絶対」という思想、慣習、あるいは日常の気分がなかったということが、決定的に不利でありました。・・・ むろん、絶対などは、この世にありはしません。宇宙にも、科学の中にも、存在しないのです。 しかしある、と西洋人は、千数百年をかけて自分に言いきかせつづけました。絶対、大宇宙の神は存在する、うそではない、ということを、哲学として、神学として、論理をきわめ、修辞をきわめ、思弁のかぎりをつくして説きに説きつづけてきたのです。ヨーロッパの荘厳さというべきものであります。(開高健への弔辞) http://www.asahi-net.or.jp/~pb5h-ootk/pages/S/sibaryotaro.html ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ちなみに わたしは 日本人のあいだでも 身分制のきびしき折り 愛し合った男女が 身分の違いで引き裂かれるというとき 道行きにみづからを追い込んでいったとき かれらは 絶対を見ようとしていたかも知れないと思います。死を覚悟の譴責を家来としておこなったりする場合も見られるように思います。 上の事例と同じように おこないとして どうかとも思うのですが 忠臣蔵も 絶対を見ようとしたのかも知れません。 とにかく 多岐にわたるでしょうが たとえばクリスチア二スムやイスラームとの付き合いでは わきまえておいたほうがよいと思ったりします。そして よかったら そのあたりでなりとも お考えを述べていただければさいわいです。 なおわたし自身は 絶対の概念について自分の見解を持っております。そして その導入ということについては いままでに特に考えたことはありません。

  • 日本教について

     ○  神(宇宙なる非経験の場:マクロコスモス)および信仰(わが心なる非思考の庭:ミクロコスモス)ならびに〔信仰の偽造物たる〕宗教にかんする一般理論    第五章 多神教は その一まとめとして一神教である  § 5‐b 日本教について  この項目では ヰキぺもまだ 書きかけである。短いので まづ ぜんぶをかかげます。  ▲ (ヰキぺ:日本教) ~~~~~~~~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99  (あ) 日本教(にほんきょう)とは、「日本人のうちに無意識に染み込んでいる宗教」という意味の概念を表す山本七平による造語である。    (い) 奥山実は日本教がすでに芥川龍之介によって語られていると指摘する。  (う) 山本七平は『日本人とユダヤ人』で日本人は自分が日本教徒であるという自覚を持っていないが、日本教という宗教が存在し、それは血肉として日本人自身も自覚しないほどになっているので、日本教徒の日本人を他の宗教に改宗させることが可能であると考えるのは「正気の沙汰ではない」という。  (え) 山本によれば日本教とは、神ではなく人間を中心とする和の思想である。  (お) 奥山実は芥川龍之介の作品である『神神の微笑』で老人が神父に語ったことば「我々の力というのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」に注目し、「日本は外来のすべてを日本化してしまう」と指摘する。また、『おぎん』・『おしの』といった作品にも日本教が現れているとする。  (か) 奥山によれば日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きており、日本教の最大の特徴は「相対化」であると述べる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この質問は 初めに還って 日本教をめぐるいろんな議論や実態をまづはあらためて集めてみたいというところから出発するものです。  その一端を たたき台にしてもらってもよいかたちで 提出します。  (き) まづ(あ)にかんして 次のように思われる。   おそらくオシエのない《宗教として われわれの意識下に潜んでいる》ということですが たぶんそれに対してただし これも同じく山本七平の言葉ですが 《空気》というかたちでなら そのクウキについて人びとはすでに意識するようになっており 自覚をもともなって来ていると考えられる。  KY はむしろ未来志向であるとすら考えられる。  (く) 《宗教として》というのは むろん 市民レベルのシントウか または国家レベルのシントウイズムかとしてだと考えられる。   【Q:§ 5 多神教は その一まとめとして一神教である】   【Q:男系による万世一系は 神武天皇以前は別となるのか】  (け) 奥山実の(い)や(お)に言う議論にくわしい方は おしえてください。  (こ) 芥川のほかにひとり思い浮かぶとすれば 遠藤周作の次のようなくだりです。   ▼ (遠藤周作:日本の精神的な土壌について) ~~~~~~~   ――パードレ(=ロドリゴ)は決して余(=イノウエ筑後守)に負けたの    ではない――筑後守は手あぶりの灰をじっと見つめながら――この日本    と申す泥沼に敗れたのだ。   ――いいえ私が闘ったのは――司祭(=ロドリゴ)は思わず声をあげた。    ――自分の心にある切支丹の教えでござりました。   ――そうかな。――筑後守は皮肉な笑いをうかべた。――そこもとは転ん    だあと フェレイラに 踏絵の中の基督が転べと言うたから転んだと申    したそうだが それは己が弱さを偽るための言葉ではないのか。その言    葉 まことの切支丹とは この井上には思えぬ。   ――奉行さまが どのようにお考えになられてもかまいませぬ。  司祭は両手を膝の上にのせてうつむいた。   ――他の者は欺けてもこの余は欺けぬぞ。――筑後守はつめたい声で言    った。――かつて余はそこもとと同じ切支丹パードレに訊ねたことが    ある。仏の慈悲と切支丹デウスの慈悲とはいかに違うかと。どうにもな    らぬ己の弱さに 衆生がすがる仏の慈悲 これを救いと日本では教えて    おる。だがそのパードレは はっきりと申した。切支丹の申す救いは     それと違うとな。切支丹の救いとはデウスにすがるだけのものではな    く 信徒が力の限り守る心の強さがそれに伴わねばならぬと。してみる    とそこもと やはり切支丹の教えを この日本と申す泥沼でいつしか曲    げてしまったのであろう。  基督教とはあなたの言うようなものではない と司祭は叫ぼうとした。しかし何を言っても誰も――この井上も通辞も自分の心を理解してくれまいという気持が 言いかけたことを咽喉に押しもどした。膝の上に手をおいて 彼は目をしばたたいたまま 奉行の話をだまって聞いていた。   ――パードレは知るまいが 五島や生月(いきつき)にはいまだに切支    丹の門徒宗と称する百姓どもがあまた残っておる。しかし奉行所では    もう捕える気もない。   ――なぜでございます――と通辞が聞くと   ――あれはもはや根が断たれておる。もし西方の国々からこのパードレ    のようなお方が まだまだ来られるなら 我々も信徒たちを捕えずば    なるまいが・・・――と奉行は笑った。――しかし その懸念もない。    根が断たれれば茎も葉も腐るが道理。それが証拠に 五島や生月の百    姓たちがひそかに奉じておるデウスは切支丹のデウスと次第に似ても    似つかぬものになっておる。  頭をあげて司祭は筑後守の顔を見た。微笑は顔と口との周りに作られていたが眼は笑っていなかった。   ――やがてパードレたちが運んだ切支丹は その元から離れて得体の知    れぬものとなっていこう。  そして筑後守は胸の底から吐き出すように溜息を洩らした。   ――日本とはこういう国だ。どうにもならぬ。なあ パードレ。  奉行の溜息には真実 苦しげな諦めの声があった。  菓子を賜わり 礼を申しのべて通辞と退出をした。      (遠藤週作:『沈黙』 IX)   cf. 【Q:日本人は生ぬるいですか】   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (さ) (え)でその《和の思想》は分かるのですが それが《神ではなく人間を中心とする》というのは 具体的にどういうことだと考えられますか?  (し) (か)の《相対化》は けっきょく《貌がなく・のっぺらぼう》だという意味に受け取りますが さらにはどうお考えになりますか?  (す) その事例になると思うのですが (お)の《日本は外来のすべてを日本化してしまう》については 宗教ということで けっきょく次のように《多神教のかたちを採った一神教》であると考えられまいか?    日本教・総本山     =シントウならびにシントウイズム     日本教・ブッダ派     日本教・キリスト派     日本教・マルクス派     日本教・新興宗教派(遺憾ながら)     ・・・・  (せ) 民衆レベルのシントウであるなら それはむしろ集団としての宗教ではなく 個人にとっての信仰としてあって その神は いづれの党派の個別の人間にとっても同じひとつの普遍的な神であると考えられる。という見方を提出して来ていますが どうか?  (そ) そのほか 自由にご見解をしめしてください。

  • オススメの小説を教えてください

    重たい内容の小説を探しています。 教えてください。 最近読んで良かったと思うものは 重松清/疾走 過去に読んだ小説 遠藤周作/海と毒薬 ドストエフスキー/罪と罰 太宰治/人間失格 カミュ/異邦人 国内 国外 問いません よろしくお願いします。

  • 神は信じるものではなく、感じるものである

      古来より神は信じるためのものとして人間によって作られた。 しかしいつの頃からか、人はこの神を信じさせようとするようになった。 信じるための神はこれを信じさせるために多くの人の命を要求した。 そのため世界各地で争いが起き、戦争が起き、多くの命が失われた。 それは今現在も同じである。 日本などはキリスト教国家によって2度も原爆を投下された。 ベトナムではこのキリスト教国家によって大量の枯葉剤が撒かれ多くの奇形児が生まれた。 また信じるための神イエス・キリストは多くの奇跡を用いた。 その結果この奇跡を求めて数限りないカルトが生まれた。 このようなカルトによって地下鉄でサリンが撒かれたりもした。   さらに聖書とキリスト教など信じるための神は終末思想を説いた。 この終末思想によって世界の倫理観は大きく傷つけられた。 結局のところ、信じるための神は多くの災いをもたらし、何一つ良いことはもたらさなかった。 信じるための神とこれを支える聖書とキリスト教および神学は偽りであることが分かってきた。 今や信じるための神は信じる必要はなくなった。 神は我々人間から隔たっているものではなく、常に接しているもの、信じる必要はないもの、感じることが出来るものでなければならない。 そしてその神が完全無欠であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限であるならば、それは唯一絶対なるもの宇宙の法則以外には有り得ない。 宇宙の法則を除いて如何なる神も存在しない。 これで良いのではないか。