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前田利長

前田利長は何故あっさり家康の加賀討伐の脅しに屈したのでしょうか? 確かに 父利家ほどの実力者ではありませんが加賀100万石の領主だし 利長が豊臣恩顧を掲げて打倒家康を宣言すれば 上杉などの周辺の諸大名は従ったと思うのですが

  • 歴史
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  • zep19
  • ベストアンサー率45% (138/306)
回答No.5

父利家は徳川を封じ込める方針で 後に徳川方となる加藤清正、浅野幸長などは利家に恩義があったため利家存命中は前田支持を鮮明にしていたため、家康も利家を警戒していました しかし利家が没すると一気に家康がね天下取りの行動を加速させます 利長はそれなりに戦功も内政経験もそこそこありましたが 長い治世も経験もある家康を父同様封じ込める事ができないことを悟ったことでしょう 恐らく母おまつの意も受け、利長が目指したのは前田の家名を残すことに専念します 弟利政が謎の変心で西軍方となりますが 恐らく利長と語って真田昌幸・幸村と信之同様、家を二つに割り、東軍、西軍どちらが勝っても家名を残すことにしたのでしょう 東軍勝利後も前田家の存続を磐石にするため 羽柴姓を持つ自分が隠居し、弟利光(利常)の養父となり、徳川と姻戚関係を持たせ 利光に内政経験を積ませるとともにそれを補佐させるため 家康の腹心であった本多正信の二男政重を破格の3万石で家臣として招きました (利長の弟で七日市藩祖の前田利孝が1万石の大名) この本多政重は宇喜多秀家、福島正則、直江兼続と徳川に改易された大名、重臣の家臣であったため 前田家の家臣の中に反対意見が多かったのを押し切り採用しました 結局、利長の思った通り本多政重は利常の筆頭家老として前田家を盛りたてました 一方で改易された弟利政や島流しになった義弟宇喜多秀家に対する援助は欠かしませんでした 利長に取り、無謀無策に徳川に反抗し三成のように自滅するよりは 偉大な父の残した遺領、家名を残すことが無き父や人質となった母や多くの家臣のためと考えたのではないでしょうか 利長の心残りは人質となった母と存命中に再会できなかったことと 昵懇であり前田家に功績のあった客将高山右近を泣く泣く追放せざるを得なかった事でしょう

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

その他の回答 (4)

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.4

>当時はまだ関ヶ原の前です そのとおりでした。私の事実誤認でした。申し訳ありません。 前田利長の判断というより、たぶんおまつさんが家康に味方した方がいいという判断をして、自分が人質になることで事を収めようとしたのでしょう。結果的にこの判断が正しかったことで前田氏は生き残ったのですね。

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.3

azuki-7さん、こんばんわ。 確かに利家の死後、利長は五大老として、家康に対抗する立場にありました。秀頼の傅役でもある彼は3年間大阪を離れるなという利家の遺言にもかかわらず、家康の勧めにあっさり帰国してしまいます。実はこれが罠だったのです。家康に利長謀反と密告する事件があり、討伐のうわさがあったのですが、この後利長は豊臣家に対して救援を求めたにもかかわらず、あっさり断られたようです。つまり、器量的にも利家に及ばないことを天下に見せてしまったのです。だから、実母の芳春院を人質に出す結果になったのです。 詳細は下記のURLを参照ください。 前田利長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7 芳春院 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%98%A5%E9%99%A2

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございました

  • 0fool0
  • ベストアンサー率18% (134/738)
回答No.2

これは利家がそうなのですが、大軍を率いての武功というのがほぼ全く無いのです。 当然息子の利長は、ありません。 他の大名家が指揮経験の無い人間を総大将に選んで、その号令に従うと言うのは、考えられません。 利家ならまだ兎も角、利長に総大将は不可能です。 もちろん兵力としては十分な脅威がありますので、だからこそ家康は真っ先に封じ込めに出た訳です。 利家は本能寺の変時も時勢を読み切り、非武装で秀吉を迎え、信頼を見事に勝ち取っています。 お家芸なのかもしれません。 豊臣恩顧と言いますが、実際には幕末の官軍に対するそれと、大差は無かったと思います。 しかも豊家の統治期間は短く、諸大名間の不満は幕末時の比ではありませんでしたし、未だ戦国の生き残りもいる時代です。 現代の通説は明治以降の加筆を考察に入れる必要もあると私は考えています。

azuki-7
質問者

お礼

りがとうございました

  • Willyt
  • ベストアンサー率25% (2858/11131)
回答No.1

加賀百万石と言ってもたかが百万石。徳川だけで600万石を超える石高です。しかも徳川の号令一下、加賀討伐の命令が下れば、これに背く大名は皆無です。その結果は明々白々で、これは秀吉に逆らった島津、長宗我部、北条を見れば一目瞭然でしょう。しかも加賀、能登、越中半国と言っても殆どが山地で、実際に百万石あったかどうかは極めて疑わしい地形です。それより九州大半を制した当時の島津の領土の方がきっと石高は勝っていたでしょう。これが秀吉の攻勢には全く歯が立たなかったのです。 また、当時、加藤、福島、脇坂、堀尾などの関ヶ原で功績のあった大大名が次々に取りつぶしにあっていましたから、利長は母を人質に差し出して恭順の意を表したのは極めて妥当な対策でした。

azuki-7
質問者

お礼

そうですか? 当時はまだ関ヶ原の前です 加藤や福島は健在 利家の遺とあらば豊臣に味方したはずです 別に戦場が加賀とも限りません それこそ関ヶ原でも良いわけですし

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