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前田利家が後15年生きていたら?
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私も皆さんの意見に賛同しますが、ひとつ提案させていただきたいと思います。 回答ではありませんが、この論議の中には、前田利家=豊臣擁護派、徳川家康=反豊臣派とすることが前提条件となっているような気がします。 そもそもその前提条件を疑って係ることもお勧めします。 前田利家が自分の行動の中でことさらに「律儀」を強調しはじめたのは、「余呉湖の敵前逃亡=裏切り」以後であること。徳川家康は、秀吉存命時までは、「律儀」をその「売り」としていたことを考えてみてはどうでしょう。 前田利家が擁護派とならざるを得なかったのは、領地力差が大きく開いていたからと考えることもできます。 もしも、家康と利家の領地をひっくり返していたら、利家は豊臣を擁護したのか、などなど。 当時としては、力を失った主家に取って代わるのはあたりまえの考え方があり、私としては、もしも、家康より長生きしたとしても、徳川との実力差から保身に走ったと思います。また、擁護派を貫き、徳川を滅亡に追いやったとしたら、最大の実力者として豊臣の滅亡か無力化に奔走するということとなったと考えます。
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- gokuh_
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利家に多くの大名・武将が頼ったのは確かに人望もありましょうが もうひとつ、彼の位置づけにもあると思います。 秀吉は五大老を設けましたが、家康はもとより上杉・毛利・宇喜多も皆、 結局は外様大名です。 豊臣政権の中核を成していた者たちは織田信長の家臣であった者 (若しくはその後継者)、近江時代からの秀吉子飼の者が占めています。 そんなもの達は豊臣政権が揺らいだとき、頼りにするのは、外様である 上杉・毛利よりもやはり身内意識の強い前田利家だったのでしょう。 前田利家より若輩の者・・・五奉行あたりになりあすと「信長の家臣の子」 「秀吉子飼」であったとしても力が歴然と違いますし、自らと同輩(場合に よっては各下)であるという意識もぬぐいきれず、心の底から身をゆだねる には抵抗があったかもしれません。 するとなおさら前田利家の存在は大きくなります。 五大老筆頭とよばれたり官位等から見ても家康の方が各は上ではあったでしょうが 一般の諸大名の心の拠り所は前田利家の方に集まりやすかったと思います。 当然、秀吉死後、家康に接近・従事していった大名も、利家が生きていれば 家康ではなく利家に従ったでしょうから政局は大きく変わった可能性はあります。 ただ、家康と利家とでは欲望・向上心に差がありましょう。 家康も利家が存命ならば存命なりの策略政略を謀ることでしょうから、 関が原の戦や大坂城の陣も形が変わったり避けられたかもしれませんが 似た様な展開(豊臣家滅亡・江戸開幕)になったであろうと推測いたします。
お礼
早速、ありがとうございます。やはり、時の流れも含め、政治力も含め家康の技量が上だったんでしょうね 私は関西出身ですので、どうしても秀吉、利家びいき になっちゃいます。(笑)
- sakapon
- ベストアンサー率27% (36/133)
利家は、石田三成の秀吉への思いに賛同し、病床の中で見舞いに来た家康を殺害し、自分も果てようと思ったそうです。しかし、家康は逆に利家に「他意はない、後のことは任せろ」と情で利家を籠絡し、利家は涙ながらに「お任せ申した」と言いました。 これで見ると高齢、病床中ということもありますが、利家は情に弱かったのかもしれません。しかし、家康にとって天下統一を目指すためには利家は「大きな存在」であったのは間違いないでしょう。しかし、15年生きていたとしても家康の力には屈してしまい、家康の補佐のような形で使えてたのではないでしょうか。
お礼
早速ありがとうございます。NO2が利家の技量でしょうか?
- sha-girl
- ベストアンサー率52% (430/816)
そりゃー大きく影響したでしょう。 というかそうなると夏の陣はなかったと思いますよ。 もちろん15年間元気にいればの話ですが・・・ しかし、関ヶ原がどうであれ豊臣家はやはり傾いたと思います。 俺的には黒田如水が天下をとったとみた(^^; #歴史は~だったらがタブーっていいますけど、そういう話は盛り上がりますよね
お礼
早速、ありがとうございます。私も黒田官兵衛は好きな武将です。
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お礼
前提条件を無視すればそうですね!又、やはり利家と家康の政治力を含む実力はかなり差があると考えるのが妥当でしょうか。