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「無」とは
「無」状態と言う物は、端的に現せば、心が何モノにも動じない状態・または其の位置にいる事である。 しかしこの状態は命からも離れてしまうので、長時間続けると肉体を損なう。 つまりそもそもの苦しみを消す「秘法」等では無く、単なる精神統一や瞑想法の極地にあるものである。 ちなみに此れの究極型が「即身仏」になる。(別に即身仏自体を否定しているのではない、形としての「現れ」の事を言っている) 「無」状態は囚われから「自由自在」になるので、快楽(安堵・安定)を得る事には有効だ。 しかし「真理」とはイコールでは無い。 乱暴な言い方をすれば、脳内における化学物質とパルスのやり取りで生じる「活動」の一つでしかないからだ。 あらゆる事柄をあるがままに。 「無」に拘るのも、「有」に惑わされるのも、同じ迷いでしかない。 「空」も「色」も本質は同じである。
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