• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図)

『スッタニパータ』五章「序」「結語」の編纂意図とは?

noname#195588の回答

noname#195588
noname#195588
回答No.3

調べてみました。 どうやら結語はニッデーサで注釈されているようです。 まず、こちらのpdfの16ページ うまくコピペできなかったのでそのまま。 http://repo.lib.ryukoku.ac.jp/jspui/bitstream/10519/2830/1/KJ00005242205.pdf まず、並川氏が参照を指示し ておられる中村元「ブッダのことば」p.410の注釈に書かれているのは、「パーラーヤナ・ヴァッガ」の序の部分が「の ちに附加されたものであるらしい」ということだけであって、結びの部分については後世の附加であるなどとは全 く書かれていない。それどころか次のような解説さえある。「パーラーヤナ」の「プロローグ{序}に関しては、「スツ タニパータ』の最古の注釈書である『ニッデーサ」がそれを無視している事実から、それがまちがいなく後世の附 加部分であることがわかっている。・・・・・・ところが、エピローグ[結び]に関しては、そうはいかない。『ニッデーサ』が きっちり取り上げているからだ」。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Niddesa (Pali Text) PTS Version 3 https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/niddesa.html Cullaniddesaを見たら エピローグ部分の注釈がありました。 ついでに、 Khaggavisāṇasuttaまでありました。 犀の角はCullaniddesaで注釈されていたのか。 ニッデーサは何が書いてあるのかさっぱりわからない。 ついでにスッタニパータ https://mywebspace.wisc.edu/jrblack/web/BU/DL/suttanipata.html あとこれ英語でなんか書いてあります。 http://www.accesstoinsight.org/lib/authors/thanissaro/parayanavagga.html サンユッタニカーヤとアングッタラニカーヤは何か関係あるんだろうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

baka-hage
質問者

お礼

 たびたびすみません。 >>どうやら結語はニッデーサで注釈されているようです。 本当だ!元ちゃんの註にも「結語」は『チュッラ・ニッデーサ』に合わせて章を分けたみたいなことが書いてありました。ちゃんと読んでないことが露見してしまった(笑) >>サンユッタニカーヤとアングッタラニカーヤは何か関係あるんだろうか。 たぶん『サンユッタニカーヤ』は、『スッタニパータ』1146で突然お釈迦様が現れて名前を挙げた「ヴァッカリ」について詳しく書いてあって、ピンキヤ尊者とヴァッカリ尊者の共通点なんかを指摘する学者さんもいますね。  で、『アングッタラ・ニカーヤ』はその序で、ナンダ尊者のママが毎朝『スッタニパータ』五章の「パーラーヤナ」を唱えてたってことがあるはずです。いわゆる我々ボーズが毎朝する朝のお勤めの原初形態ですな。 いろいろありがとうございます。助かりました。 合掌 南無阿弥陀佛

関連するQ&A

  • スッタニパータのゴータマ批判

     コーヒーブレイクになりますが 二件取り上げて論じ その是非を問います。  ▼ (スッタニパータ・中村 元訳) ~~~~~~    http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  【 第一 蛇の章 】        <1、蛇>  1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  2 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。 ──蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  (1) 勝手に捨て去ってくださいと言いたくなります。  (2) ほとんどすべては 先行していたブラフマニズムのオシエに対抗し――中で身分制に反対したことは 見上げたことですが――これを否定して 言わば駄々をこねた。に過ぎない。  (3) 主宰神ブラフマンあるいはその神の霊が ひとに生まれながらにそなわっているというその霊我なるアートマン これを否定しました。  いわく。アン-アートマン(無我・非我)と。  (4) ブラフマニズムの内容をアン‐インストールしようとしたわけです。  (5) 《この世》を望まず 《捨て去る》というのは 周知のように出家するというかたちです。自死をえらぶというわけではないようです。そのかわり 生活の糧は ほかの人びとの慈悲にすがっているということになっています。はたらくということをも捨て去ったわけです。  (6) 《かの世》を捨て去るというのは まづ例の身分制によって人びとの生活は その生まれの違いだけで よい暮らしが出来たりもすれば 悲惨な生活を送るしかない場合もあったりして そのように《思うようにならない》という《苦》を人生の前提に ゴータマ氏は 置いたようです。  (7) その結果として この《苦》から《解脱》することを 求めるべき・かつ実現すべき目標としたようで その意味は端的に言って もう低い身分の親の元には生まれて来ないという意味で《かの世を捨て去る》と表現したもののようです。   (8) すなわちこの世の《苦》からの解脱を得たあかつきには 悲惨な暮らしを余儀なくされる低い身分にはもう生まれて来ない。なぜなら われはこの世も かの世も ともに捨て去るのだからと。  (9) ものは言いよう。なのでしょうね。そもそも 輪廻転生などということは 遺伝子が同じ存在が過去にいたということがあり得ないからには ただのまやかしです。文学としての言葉のアヤであり そういうおとぎ話です。  (10) そう言えばいいものを わざわざ徹底していやな人生を送らねばならない身分を嫌って もうおれは 輪廻転生することはない。生命のともしびが 風に吹き消されるかのように――この世も かの世も ともに捨て去ることによって―― 消えてゆくのだ。つまり ニルワーナに到るのだ。と屋上屋を重ねるようにして 説教したようです。  (11) そりゃあ 何でも言えるわけです。ブラフマニズムのほうだってそうですが ゴータマ氏にしたって 生まれる前や死のあとのことなど 誰も知りませんから うまいことを言うのは言ったもん勝ちであるようなのです。  (12) その証拠に この《この世も かの世も ともに捨て去る》といった言い回しをも ひとつの命題として捉え ああだこうだと いまだに《学問も研究も一般市民の探究も》絶えることがありません。  (13) いったい世の中 どうなってるんでしょう?         *  ▼ (スッタニパータ 839 ) ~~~~~~~~  師は答えた、   「マーガンディヤよ。  【A】~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   『教義によって、学問によって、戒律や道徳によって清らかになることができる』とは、私は説かない。   『教義がなくても、学問がなくても、戒律や道徳を守らないでも、清らかになることができる』とも説かない。    ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【B】  それらを捨て去って、固執することなく、こだわることなく、平安であって、迷いの生存を願ってはならぬ。(これが内心の平安である。)」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  (14) これを批判しますが すなわち 次のように相い矛盾する発言をならべてみれば済むと考えます。  【A】 『教義によって・・・清らかになることができる』とは、私は説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* という教義によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (15) もしこの【B】が 《教義や道徳》ではないと言い張って来た場合には 次のように応答しましょう。  【A】 『教義がなくても、・・・清らかになることができる』とも説かない。  【B】 それ(教義)を捨て去って、・・・こだわることなく、・・・迷いの生存を願ってはならぬ。〔* というふうに教義ではない発言によって〕(これが内心の平安である。)〔* と説いた〕  (16) 《清らかになる》ことと《内心の平安という状態を得る》こととは別だと言って来た場合には・・・。

  • スッタニパータ § 5 彼岸にいたる道の章

     ▼ (スッタニパータ 第5 彼岸にいたる道の章) ~~~~~~  http://homepage3.nifty.com/hosai/dammapada-01/suttanipata-all-text.htm  <6、学生ドータカの質問>   ---------------------------------------------------  1061 ドーカンさんがたずねた、「先生! わたくしはあなたにおたずねします。このことをわたくしに説いてください。偉大な仙人さま。わたくしはあなたのおことばを頂きたいのです。あなたのお声を聞いて、自分の安らぎ(ニルヴァーナ)を学びましょう。」  1062 師(ブッダ)が答えた、「ドータカよ。では、この世でおいて賢明であり、よく気をつけて、熱心につとめよ。この(わたしの口)から出る声を聞いて、自己の安らぎを学べ。」  1063 「わたくしは、神々と人間との世界において何ものをも所有せずにふるまうバラモンを見ます。あまねく見る方よ。わたくしはあなたを礼拝いたします。シャカ族の方よ。わたくしを諸々の疑惑から解き放ちたまえ。」  1064 「ドータカよ。わたしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ得ないであろう。ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、そなたはこの煩悩を渡るであろう。」  1065 「バラモンさま。慈悲を垂れて、(この世の苦悩から)遠ざかり離れる理法を教えてください。わたくしはそれを認識したいのです。わたくしは、虚空のように、乱され濁ることなしに、この世において静まり、依りすがることなく行きましょう。」  1066 師は言われた、  「ドータカよ。伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎを、そなたに説き明かすであろう。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えよ。」  1067 「偉大な仙人さま。わたくしはその最上の安らぎを受けて歓喜します。それを知ってよく気をつけて行い、世の中の執著を乗り越えましょう。」  1068 師は答えた、  「ドータカよ。上と下と横と中央とにおいてそなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、──それは世の中における執著の対象であると知って、移りかわる生存への妄執をいだいてはならない」と。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  問い:このひとくだりにおいて どこか知性を感じるところはありますか?  という質問です。質問者の感想は めちゃくちゃでござります です。問題外の論外の外でしょう。  どうかご教授ください。

  • スッタニパータ340に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 340 戒律の規定を奉じて、五つの感覚を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。切に世を厭い嫌う者となれ。 「切に世を厭い嫌う者となれ。」の真意の解説を希望します。ブッダの思想に通じている方の教説を希望します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータの第一人者

    ご存命の方で、スッタニパータの第一人者っていますか?

  • スッタニパータ788、789の読み方は?

    中村 元訳「ブッダのことば」 788 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。 789 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 此処で言う「見解」に対して、巻末に[註]があります。 ・諸々の英訳者は、viewと訳している。 ・ 諸宗教や哲学の「教義」を意味する。 さて、質問です。 質問1 788に該当する人をブッダは肯定しているのですか、否定しているのですか。ブッダが「見解」をどう評価しているのかが分かりません。 読解力のせいか、翻訳上の苦渋が原因で多少は表現に無理があるのか、私には790まで一連の文言が矛盾せず、かつ国語の上から不自然ではない解釈が思い浮かびません。肯定している場合は790と整合しないし、否定している場合は789が誤りとまでは言いませんが手を入れたくなる程度に不自然な文章だと感じてしまいます。 質問2 念のためにお訊きします。789の「人は智識によって苦しみを捨て得る」をブッダは肯定していますか、否定していますか。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ805に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 805 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである、と見て、在家にとどまっていてはならない。 これは誰に対する説教とも書いてありません。「在家にとどまっていてはならない。」、これは誰への呼びかけですか。四章六節「老い」の一部ですから、家督を子息に譲った後の隠居への呼び掛けかも知れません。しかし、ここばかりでなくスッタニパータ全体に流れる雰囲気から判断して、釈尊は年齢に関わらず出家に勝る修行はないと説いているとみてよいのだと思います。 しかし、これはねずみ講と同じ構造ですから、こんな矛盾した教説はありません。出家者が増えれば功徳を積む側の人間がいなくなってしまい乞食が成立しなくなり破綻してしまいます。こういう無茶な理論は必ず改良される筈です。ブッダの教えと大乗仏教との間に、在家のまま自らの修行によって解脱を計る道を説いた人なり教典があってよさそうに思いますが実際はどうなのでしょうか。ブッダの後は一気に大乗仏教に飛んでしまうのですか。門外漢の直感としては中間的な教説があると推測します。 よろしくお願いします。

  • スッタニパータ235に関して

    中村 元訳「ブッダのことば」 235 古い(業)はすでに尽き、新しい(業)はもはや生じない。その心は本来の生存に執著することなく、種子をほろぼし、それが成長することを欲しないそれらの賢者は、灯火のように滅びる。このすぐれた宝が〈つどい〉のうちに存する。この真理によって幸せであれ。 今日では結婚しても自らの意思によって子を成さない男女も、非婚の男女も珍しくないでしょう。私の観るところ、これらの男女はスッタニパータ235でいう賢者の条件の一つを満たしていると判断します。さて、この判断はブッダの考えに適っていますか。何処かに考え違いがありますか。ブッダの思想に通じている方の説教を希望します。 よろしくお願いします。

  • こんな付箋アプリ知りませんか?

    Windowsのフリーアプリで、下記条件を満たす付箋紙アプリを どなたか知りませんか? ・付箋内のテキストの一部だけフォント(色や太字指定)を変更できる   付箋内のテキスト全てに反映するのではなくて、強調したい一部分のみテキストの   色を変えたり、太字指定出来たりしたいです。 ・付箋内のテキストの一部だけを選択して、クリップボードにコピーできる   これは、編集画面等は開かず、直接付箋内のテキストを選択出来て、右クリック   なり、Ctrl+Cなりでクリップボードにコピーしたいのです。 ・出来れば現在もアップデートが続いているもの

  • イエスの「山上の説教」について

    新約聖書の「マタイによる福音書」に有名なイエスの「山上の説教」がありますね。 この冒頭で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という文にはじまって、同じ形式の文が8回繰り返されています。 最後の(8個目の)部分は、「義のために迫害される人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」という言葉です。仮に、この部分がカットされて、冒頭7つの「幸い」だけが書かれていたら、どんな印象を持ちますか? 実はあるテキストで、この8つめがカットされて、最初の7つの「幸い」だけが引用されているのを見つけました。クリスチャンではない編集者によるものです。深読みなのかも知れませんが、最後の「幸い」をカットすることで、テキスト全体の印象を変える意図があるのかしら、と考えました。 必ずしも専門的なお答えを期待しているわけではなく、この8個目の「幸い」がカットされていることで、どのようにテキスト全体の印象が変わってしまうか、などのご感想・ご意見をクリスチャンの方などにお答えして頂けると、大変嬉しいです。もちろん専門的なお答えがあれば、助かります。

  • 頭語と結語は何故あるの??

    お世話になっております。 仕事柄、社外、社内あて文書を作成する事が多く、知識もあまり今まで無かったのでその都度調べて作成しているような感じです。 色々調べていて、頭語と結語にルールがあるのは大体わかったのですが、 何故、こんなもの必要になったのでしょう?? あまり深く考えず暗記してしまったほうがいいんでしょうか?? 他社から送られてきた鑑は参考としてファイリングしてあるのですが、 書き方は実に様々で 謹啓   で始まり 結語が書いていなかったり 頭語も結語もなかったり、 拝啓ー敬具が一番多いでしょうか。 ちなみに今度作成する文書に私は 謹啓ー敬具としたのですが、間違いでは無いでしょうか? ビジネスなので決まり通りにやっていますが、なんだか腑に落ちない頭語と結語です。